top of page

11629-11635: フローニンゲンからの便り 2023年12月17日(日)



・カリンバ即興演奏曲はこちらからご視聴いただけます。

・8617個のピアノ曲・箏曲の全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

・アートギャラリーはこちらからご覧いただけます。


成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスやその他のテーマについてお話しさせていただくチャンネル「インテグラル・サイケデリックラジオ」はこちらからご視聴いただけます。

タイトル一覧

11629. 今朝方の夢

11630. クラシック音楽のある生活/今朝方の夢の続き

11631. 日々の地道な執筆活動/シロシビン・セッションにおける音楽選定について

11632. 観念主義の立場を採用するカストラップの汎心論批判に対して

11633. ワンユニバースとユニバースコンシャスネス/メタファーの創出に向けて

11634. オッカムの剃刀と芸術/中東の大学への想い

11635. 創造的な問題解決に関する退屈なサイケデリック研究/サイケデリクスは現実逃避の手段になり得るのか否かについて


11629. 今朝方の夢


時刻は午前5時を迎えた。どうやら今日は風が強いらしい。如何せん辺りが真っ暗で何も見えない状況だが、静けさを感じることはできる。


先ほど、シロシビン・マッシュルームの栽培キットを確認したところ、3周目の栽培もうまくいったらしく、キノコの頭がいくつかすでに出ていた。なので今日からは再び1日に数回ほど空気を入れ替えたり、霧吹きで保湿をしようと思う。2周目の栽培は驚いたことに1周目以上の収穫量があったのだが、3周目の栽培はどれほど収穫できるだろうか。収穫量が多くても少なくても学びとなる。収穫の時がまた楽しみである。


いつものように今朝方の夢について振り返っておきたい。夢の中で私は、見慣れない大学教室で講演をしていた。講演と言っても壇上の上から行うのではなく、聴衆と同じ席の一番後ろに座って、壇上にいる司会者の問いに答えていく形で講演をしていた。その形式はとても斬新で、最初は聴衆の人たちにとってどれだけ聴きやすいものになるのか心配が多少あったが、そんな心配もどこ吹く風で、その場にいた人たちは全員私の話に真剣に耳を傾けてくれていた。


講演のテーマは、前回の出版書籍から今にかけての自分の変化に関するものだった。振り返ってみると、年初に出版した書籍から今にかけて自分は本当に大きな変貌を遂げたように思う。前回の書籍は成人発達理論との友好的な卒業を示すものであり、卒業して独り立ちをして成人発達理論と別の関わり方をすることをもたらす分岐点のような書籍だった。晴れての卒業を受けて、しばらく学問的な彷徨があり、その結果として出会ったのがサイケデリクスであった旨を伝えた。すると、聴衆の中にいたある知人が大変素晴らしい質問をしてくださった。その質問に対して自分は、「私たちはみんな不完全ゆえに完全な存在なのです」と答え、そこからサイケデリクスとの出会いの瞬間に何が起こり、出会いの後に何が起こったのかを説明した。説明の最中にも感極まりそうになっている自分がいたのだが、話の中で喩えとして音楽の力に言及した時に涙を抑えることができなくなってしまった。少し言葉に詰まりながらも話を続けていく中で、音楽は過去の積み残しになっている発達段階に立ち返り、その段階を生き直すことを通じて新たな活動エネルギーを得ることができるという点について紹介した。それを受けてまた別の聴衆の方が大変素晴らしいコメントと質問をしてくださり、以後も非常に盛り上がる講演となった。講演の最中と講演後、自分の内側にはまた新たな活動エネルギーが漲って来ていて、自分の歩む道はこれなのだという強い確信をもとに、これからのサイケデリック研究とその実践に心底打ち込んでいこうと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/12/17(日)05:13


11630. クラシック音楽のある生活/今朝方の夢の続き


昨日より朝の書斎での探究活動中にはクラシック音楽をかけるようにした。日記の執筆最中の今も音楽が流れている。昨日はバッハの協奏曲集を聴いたので、今日はモーツァルトの協奏曲集を聴く。直感的に、次回の第22回のシロシビン・セッションではバッハの協奏曲集をかけることを優先し、モーツァルトの協奏曲はまた別のセッションの際にかけることによって、両者の音楽による知覚体験を比較したいと思った。さらには、セッション中にかけていたクラシック音楽を日常の覚醒意識の中で繰り返し聴くことを通じて、それらの音楽に対する認識がどのように深まっていくのかを観察したり、音楽をトリガーとしてシロシビン・マッシュルームを摂取した状態の再体験現象のようなことも起こったりしないだろうかと観察をしてみたい。音楽という変数についてはまだまだ色々と試行錯誤することができ、この変数もまた学びの宝庫のように思えてくる。選定する曲がクラシック音楽であればその深みゆえに尚のことである。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるのでそれらについても振り返っておこう。まず覚えているのは、自分の右足の親指に怪我があり、その怪我の治癒に専念していた場面である。自分には不思議な治癒力が宿っていて、まさにエネルギーヒーリングの方法を使って、怪我の箇所に触れるか触れないかの位置で手をかざすことをしばらく行い、そのまま就寝して翌日起きてみると、怪我がすっかり治っていたのである。 もちろん傷が全くないような状態になったというのではなく、傷の治りの速度が何倍にも上がっていて、傷跡が小さくなっていたのである。その状況を見て、今後も怪我をした際には手かざしを活用しようと思ったし、怪我をしていなくても、心臓や腸など、デリケートで重要な器官に対しても手をかざして日頃からヒーリングエネルギーを送ろうと思った。そのような場面があった。


その他には、見慣れない土地にいる場面があった。そこでは小中学校時代の友人が運転する車の助手席に座っていて、車の車窓から流れゆく景色を眺めていた。友人の彼と時折言葉を交わしていると、気がつけば目的地についていた。そこまで送ってくれた彼にお礼を告げ、私は目的地として設定していた研修施設の中に入って行った。すでに研修のオリエンテーションが始まっているようで、私はすぐさま会議室に入ろうとしたが、トイレに行きたくなったのでトイレに行くことを優先させた。すると不思議なことに、トイレにいても会議室の中で話されている内容が脳裏に浮かび、その情景もイメージできた。なのでトイレにいてもオリエンテーションについていくことが可能であり、焦ることなく用を足した。トイレを済ませて会議室に入ると、すでに参加者たちはそれぞれのアクティビティに向けて散りじりになっていた。私は一応主催者の方に挨拶をし、そこからは自分も自らのアクティビティに従事しようと思った。建物の外に一旦出ると、先ほどここまで送ってくれた友人がまたいて、彼の車に再び乗せてもらってこれから行うアクティビティの会場に移動しようと思った。道中、車が突然荷物を運ぶ二輪車となって驚いたが、それに乗って移動するのは開放的で気持ちが良かった。とは言えその日は日差しが強く、夏日だなと感じていたので、冷水で冷えたタオルを取り出し、それを顔に被せたりしていた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/12/17(日)05:50


11631. 日々の地道な執筆活動/シロシビン・セッションにおける音楽選定について


今日の読書は、オランダの哲学者バーナード・カストラップの書籍を読むことから始めることにした。数日前からカストラップの書籍を再読し始め、カストラップの思想と向き合う中で色々な閃きを受けたり、新たな考察ポイントを得たりしていて、英文でのリサーチノートに考えを断片的にでもいいので書き出し、立ち止まりながら再読を進めている。いつかこうして毎日書き溜めているリサーチノートの内容が学術論文や学術書の形になるだろう。これまでの自分の日本語での出版書籍も同じ形式を採用していて、毎日書き続けている日記がもとになっている。自分の出版スタイルは、日々の日記やリサーチノートの執筆に基づくものであり、日々小さく積み重ねていくことを心底好む自分にとってはそのスタイルが最良のものなのだろう。今のところはそう思う。


そのようなことを考えながらふと、今後のシロシビン・セッションにおける音楽選定についてまた考えていた。次回はバッハの音楽、次々回は神道の音楽、その次にはモーツァルトの音楽を予定している。それ以降はクラシック音楽に寄せていく形で、シベリウスやグリーグといった自然の力を感じさせてくれる作曲家の音楽を選定したり、ラヴェルやドビュッシーといった玉虫色の音色を奏でてくれる作曲家の音楽を聴くのもいいだろうと思った。その他には、数年前にエストニアに訪問する前に家のオーナーのフレディさんから教えてもらったエストニアの作曲家アルヴォ・ペルトの曲も魅力的である。一時期はずっと彼の曲ばかりを聴いていることがあった。とりわけペルトの「ティンティナブリ(鈴ならし)」技法には惹かれるものがあり、それはフローニンゲンの教会の鐘の音や、ヨーロッパの方々を旅行している時にその街で聞いた鐘の音を思い出させてくれる。確かペルトの曲集の合計時間はシロシビン・セッションの持続時間と同じぐらいの長さだったと思うので、ペルトの曲集をかけることも検討したい。その他にもまだまだ偉大な作曲家はたくさん存在していて、彼らの曲をかけながらシロシビン・セッションの体験がどのように変化するのか楽しみである。きっと多様なクラシック音楽は、セッションに無限の彩りをもたらしてくれるだろう。毎回のセッションに変化を加える意味でも、様々な作曲家の曲を積極的にかけていこうと思う。フローニンゲン:2023/12/17(日)07:05 


11632. 観念主義の立場を採用するカストラップの汎心論批判に対して   


オランダの哲学者バーナード・カストラップは、意識に関して物質主義を否定し、観念主義の立場を採用する。物質主義も観念主義も様々な種類や意味合いがあるのでそれらを精査する必要性があるが、カストラップの観念主義的な立場に与する部分もありながら、与しない部分もあることが見えて来ている。与する部分で言えば、カストラップ自身が意識の超越次元を認め、ワンコンシャスネスの存在を仮定し、全てはワンコンシャスの中で生起し、存在しているという考え方である。一方、カストラップは汎心論を否定しており、その論拠に関していくつか疑問がある。まずカストラップはどうも主観性というものを限定的に捉えているようなのだ。端的には岩や椅子には主観性は無いと捉えている。彼自身が主観性の定義を明確にしていないこともあり、主観性をどのように定義していくのかについては自分もこれから考察を深めていかなければならないが、少なくとも岩や椅子にも人間とは異なる形での主観性は存在しているのではないかというのが自分の考えである。端的には、主観性を内面領域とみなし、目には見えない内面世界での力や働きを知性と呼んだり、意識と呼んだりする考えを自分は採用している。なので岩や椅子にも、人間とは異なった形での知性的な何か、意識的な何かがあると自分は考えている。ただし、ここで悩ましいのが、それらの物質の内面領域をインテグラル理論で言うところの左上象限のものとして見なすのか、右上象限の内面、すなわちゾーン5と見なすのかという点である。カストラップが汎神論を批判するのは、それらの物質には左上象限的な意味での主観性が無いと述べているのであって、自分の立場はそれらにも左上象限的な意味での主観性もあり得るのでは無いかという立場を採用している。だが自分が例としてよく出すのが、原子や分子の運動を促す力であったり、素粒子や超ひも理論的な意味でのひもの運動を持ち出して来たりと、本来左上象限の主観性に触れたいところなのだが、それらの例えが右上象限のゾーン5的なものになっていることに気づかされる。カストラップは全ては意識の中にあり、物質には意識はないとする観念主義の立場を採用しているが、それであれば意識的なものが存在しない物質がどうやって運動をするのだろうか。物質にも意識的な何かがあるからワンコンシャスネスの中で運動をするのではないだろうか。単に外側からの力で運動を行っているのではなく、自律的な、自発的な力をそれらの物質も携えているのではないだろうか。外側の力と共鳴するための、あるいは受け皿となるような働きをする意識的な何かがあるから、ミクロな物質も運動するのではないだろうか。そのようなことを考えながら、ここから引き続きカストラップの汎心論批判を読み進め、汎心論に関する論文集も再読をまたどこかのタイミングで行おうと思う。フローニンゲン:2023/12/17(日)07:34


11633. ワンユニバースとユニバースコンシャスネス/メタファーの創出に向けて


1つの空を全ての人たち、全ての生きとし生けるものと共有しているというこの感じ。1つの地球を全ての人たち、全ての生きとし生けるものと共有しているというこの感じ。その感じが自分を満たしている。きっとこの感じの根幹にワンコンシャスネスがあるのではないかと思う。ワンコンシャスネスゆえにそのような感じが自発的に醸成されていくのではないだろうか。その感じは決して知的に生まれたものではない。1つの空、1つの地球と同じく、1つのコンシャスネスからその感じが発出しているのを感じる。本当に内面世界と外面世界が対応しているのであれば、ワンユニバースはワンコンシャスネスと対応するはずである。地球は1つであることから、少なくとも1つのアースコンシャスネスを私たち全ての存在は共有しているのではないだろうか。宇宙がどれだけ多元的であったとしても、宇宙がどれだけ複数存在していたとしても、宇宙もまた1つの全体を成しているゆえにワンユニバースであり、やはり1つのユニバースコンシャスネスを私たちは共有しているのではないだろうか。この仮説を支える絶対的な確信感覚は一体何なのだろう。やはりそれも1つのユニバースコンシャスネスとの繋がりからもたらされているものであるとしか考えられない。


メタファーを有効活用すること。それは哲学的な仕事を進めていく上で非常に重要に思える。これまでの人生で長い時間をかけて接して来たものをもとにメタファーを考えたり、目に映る自然からメタファーを考えていくことをとりわけ意識とリアリティの本質探究において行っていこう。特に自然は私たちの教師であり、自然は宇宙と人間の写し鏡の性質を持っているのだから、自然からメタファーを汲み取らせてもらう手を使わないというのは実にもったいない。書斎の窓からぼんやりと木々や空を眺めた時に浮かぶメタファーを大切にしたいし、外出する際にもとにかくメタファーの材料を汲み取り、メタファーの創出を意識しよう。それ以外に自分が愛し続けている芸術からもメタファーを汲み取りたいものだ。特にこれまでは絵画と音楽に親しみ続けて来たこともあり、それに従事して来たのはサイケデリック研究に活かすためだったのではないかと思えてくるほどである。今後は日本の伝統芸能を学ぶ中で、そこからも空性や絶対無に関する考察のヒントやメタファーを得たいと思う。全てがサイケデリクスという空と絶対無に修練し、そこから多様なものが生まれていく。フローニンゲン:2023/12/17(日)07:58


11634. オッカムの剃刀と芸術/中東の大学への想い  


その他の説明仮説が入り込む余地を最小化させる「オッカムの剃刀」は、科学の根幹となるヒューリスティックな発想である。それは事物の本質や現象説明において極めて強い力を発揮する。他の説明仮説よりも妥当性が高いであろう説明仮説を生み出すオッカムの剃刀を用いた思考を鍛錬していきながら、同時にそればかりを推し進めると、常に無限のニュアンスを持ったこのリアリティを捉え損ねることになる点に注意が必要だ。ニュアンスの世界に浸ること。とりわけ芸術の世界に浸ることはその有益な実践になるだろう。詩の世界や文学の世界にも豊かなニュアンスがある。宗教の世界を学問的に研究していく際にはオッカムの剃刀的な思考が必要になるが、宗教の世界は常に無限のニュアンスを内包している。人間の意識もリアリティも、常にオッカムの剃刀では説明しきれない無限の可能性を持っているということを忘れないようにしたいし、それを忘れないための実践として芸術に触れるということをこれからも続けていきたい。そのようなことを思った。


人生にはどのような出会いや運があるか分からないが、欧米での学術研究がひと段落したタイミングで、中東の大学で研究をしてみたいという思いが最近芽生えている。UAE、サウジアラビア、カタールのどこかの国でサイケデリック研究ができないだろうかと夢見ている。サイケデリック科学を専門としていればその可能性はかなり高まるだろうが、自分のようにサイケデリック科学よりもサイケデリック哲学や神学を専門としていると、その可能性は今のところ高くはないが、いつか中東の大学においてもサイケデリック哲学・神学を研究するプロジェクトやプログラムが立ち上がるのではないかと予感する。その時に自分に声が掛かるようにするためにも、これからはサイケデリック研究において形のある実績を残していこうと思う。分かりやすいのは学術論文を旺盛に執筆していくことである。それに加えて学会での発表も積極的に行っていきたい。仮に来年からHDSでの生活が始まれば、基本的には大学院での授業とサイケデリック読書会の運営を最優先させ、それらに並行して自主的に論文を執筆しき、何人かの教授の指導の下に査読付き論文を執筆していく。HDSに在籍している間には、積極的にサイケデリクスに関する学会で研究発表を行っていきたいと思う。それもまた着実に形のある実績を残していくことにつながる。アメリカでの研究後、再びオランダに戻ってくることも依然として希望する選択肢ではあるが、中東の大学も視野に入れて置き、自分の可能性を常に広げて置きたいと思う。フローニンゲン:2023/12/17(日)09:55


11635. 創造的な問題解決に関する退屈なサイケデリック研究/

サイケデリクスは現実逃避の手段になり得るのか否かについて     


気がつくと、日曜日もすでに夕方の時刻を迎えていた。今は午後3時半を過ぎたところであり、夕日が沈もうとしている。日没まであと30分ほどだろうか。


今日の探究活動も順調に進んでいた。午前中にはカストラップの哲学書を2冊読み返し、テクノロジー哲学に関する論文集を3冊ほど読み返していた。午後からはサイケデリクスに関する学術書を数冊ほど読み返しながらこの時間帯に至る。


先ほどふと考えていたのは、ジェイムズ・ファディマンたちが行っていたサイケデリクスが創造性に与える影響に関する研究についてである。そこでは古典的サイケデリクスのLSDが創造的な問題解決にどれだけの影響を与えるのかについての調査がなされていた。結論から述べると、LSDは創造的な問題解決を統計的に有意な形で向上させるのだが、この種の研究はあまり面白くない。と言うのも創造性と括られている構成概念が領域全般型過ぎるし――創造性があまりにも抽象的に括られている――、調査で用いられるタスクが現実的な課題ではないこともあり、仮に統計的に有意な結果を受けても、“So what?(それで?)”という言葉しか出てこない。また、サイケデリック実践を行っている身として、自らの研究領域や実践領域における創造的問題解決の効能があることは主観的体験として明らかであることも、領域全般型に括られる創造性研究の退屈さを助長している。また、サイケデリクスが創造的な問題解決と相関関係があったとしても、因果関係ではないことには注意が必要だ。それに加えて、サイケデリクスの摂取は、ある特定の領域の学習や実践を積み重ねて来た人間に領域固有・タスク固有で創造的な問題解決能力を高めることはあっても、何の学習も実践も積み重ねていない人間には創造的な問題解決能力など高めないであろうということである。例えば、数学について何も学んでいない人間にサイケデリクスを摂取させたところで数学の問題など創造的に解けるはずはないのである。日頃から学びや実践を積み重ねている人にご褒美として創造性を高めるきっかけを提供してくれるような存在がサイケデリクスだと言えるだろうか。いずれにせよ、現在はサイケデリクスに関する創造性研究は少し下火になっている印象で、今後は領域特定型・タスク固有型の創造性研究が待たれるところである。

もう1つ考えていたのは、サイケデリクスの摂取を現実逃避的に活用することに対する批判への批判的見解である。結論だけ述べると、現実逃避を目的としてサイケデリクスを摂取する人たちに待っているのは残念ながら現実逃避ではなく、より厳しく、よりリアルな現実直面だということである。逃避できるのは合意されたコンセンサスリアリティであって、体験中はそれを遥かに超えた現実性を持って迫ってくる自身の深部にあるリアリティを知覚し、超越的リアリティを知覚する。これのどこか現実逃避だろうか。そこでは、より厳しく、より現実味を帯びたリアリティとの対面・対決が余儀なくされるのである。


また、体験が終われば速やかにコンセンサスリアリティに引き戻されることから、サイケデリクスは最初から現実逃避の手段になどなり得ないのである。現実逃避の手段になり得るのは、継続的な使用で中毒症状を患い、心身が崩壊する一部のハードドラッグたちであろう。今後サイケデリクスが現実逃避の手段として活用されることへの批判に対しては上記のようなディスコースを紹介しようと思う。日曜日の暮れゆく空を眺めながらそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2023/12/17(日)15:55

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page