top of page

11598-11608: フローニンゲンからの便り 2023年12月14日(木)



・カリンバ即興演奏曲はこちらからご視聴いただけます。

・8617個のピアノ曲・箏曲の全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

・アートギャラリーはこちらからご覧いただけます。


成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスやその他のテーマについてお話しさせていただくチャンネル「インテグラル・サイケデリックラジオ」はこちらからご視聴いただけます。

タイトル一覧

11598. シロシビン・マッシュルームの2周目の収穫を完全に終えて

11599. 今朝方の夢

11600. 今朝方の夢の続き

11601. サイケデリクスに関する呼び名/ここ最近のシロシビン・セッションでの知覚体験/虚構性・幻想性・絶対性への目覚め

11602. 超心理学的な実験の機会としての・学術研究の機会としてのサイケデリクスの摂取

11603. マルクスとマークーゼのテクノロジー思想のサイケデリクスへの適用/サイケデリクスの知覚拡張・アクション拡張/ポスト現象学の枠組みを適用したサイケデリック観

11604. サイケデリック・セッションにおける感情/サイケデリック体験を豊かにするための包括的な地図の重要性

11605. 地図を読み解くリテラシーと地図を活用するリテラシー/「トランスパーソナル中毒」を超えて

11606. 意識状態と洞察の深さ/何ものにも囚われない宇宙遊戯としての自己として

11607. 移ろいながら絶えず変化するこの素晴らしき1つの巨大な宇宙映画

11608. 充実したパーソナルトレーニングを終えて


11598. シロシビン・マッシュルームの2周目の収穫を完全に終えて 


時刻は午前3時半を迎えた。今日はいつもより少し早く、午前3時前に起床した。起床してシャワーを浴びて2階に上がってきたら、水を飲む前に朝の呼吸法を行った。昨日ふと気づいたこととして、胃に水すらも入っていない状態で火の呼吸を行う方が望ましいように思えたのでそれを試してみたところ、おそらくその方がいいように思ったので、今後は呼吸法を起床直後の実践としたい。そこから水を飲んで、昨日の段階でそろそろまたシロシビン・マッシュルームの収穫だろうと考えていたので、栽培キットを覗いてみた。すると収穫するのに十分な大きさに育っていたので、収穫をし、先ほどオーブンにかけて乾燥を始めた。栽培キットについては3周目の準備に向けてまた準備をした。栽培キットの中の土を一度ぬるま湯に浸してしばらく待ち、水を捨ててビニール袋の中に入れて待つというシンプルなプロセスである。さて、3周目の栽培でどれだけ収穫があるのか楽しみである。


先ほどの収穫はフレッシュな状態で19.7gほどだった。ここから13時間のオーブンでの乾燥を経たらおよそ10分の1の重さになることがこれまでのデータから分かっているので、およそ2gほどになる。これは高服用量のセッションには満たない重さである。2gでも十分に知覚変容を感じることができる重さだし、シロシビンとシロシンの含有量が多い今の品種で2gであれば、初心者だったら十分な量かもしれない。しかし自分は高服用量でのセッションを心掛けているので、前回と前々回の収穫量が多く、完全に乾燥せても6g強ほど得られていたので、それぞれから1g強ずつ持ってくる形で、今回完全乾燥させたものと合わせて5g弱ほどにしたい。そうすれば、2周目の栽培からは3回分のセッションに活用できる量が収穫できたことになる。今日から3周目の栽培を始めるが、3周目にもそれなりの収穫量があれば、元を取るどころかそれを遥かに上回る費用対効果があったように思う。自分で栽培することによってマッシュルームへの愛着が湧くし、生命が育つプロセスに寄り添うこともできるし、学びも多いしで、栽培キットでのシロシビン・マッシュルームの栽培を多くの人に勧めたいものである。フローニンゲン:2023/12/14(木)03:50


11599. 今朝方の夢     


時刻は午前4時を迎えた。今の気温は4度で、ここからもう1度ほど気温が下がり、日中の最高気温も4度までしか上がらないようだ。幸いにも今日は雨も雪も降らないようなので、午後にジムに行く際には煩わしさを感じることはないだろう。今日もまた午後からのジムでのトレーニングでは良い汗を流してきたいと思う。


今朝方の夢をいつものように振り返っておきたい。夢の中で私は、小中高時代の友人(YU)と高校時代のサッカー部の友人(YK)と一緒に組んで、3対3のフットサルの試合をしていた。相手のチームにはセルビア人の大柄な選手がいた。彼は体格がとても良く、ポストプレーに強かったので警戒をする必要があった。いざ試合が始まってみると、やはり相手はなかなかに手強く、かなり苦戦を強いられる展開となった。一進一退の攻防が続き、途中で水分補給休憩となった。その時に私は卑怯にも相手の選手たちに水分補給をさせないような計らいをし、彼らはほとんど水を飲まない形でピッチに戻ってきた。しかし、相手はそれでも強そうに思えたところ場面が変わった。


次の場面でもまたフットサルコートにいたセルビア人の男性が現れた。そこで初めて分かったのは、彼はフットサルを専門としているのではなく水泳を専門としているということだった。ちょうど目の間に競技用のプールがあり、セルビア代表と日本代表がリレーで対決することになっていた。先ほどまで一緒にフットサルをしていたセルビア人の男性は水泳の代表ではエースらしく、準備運動としての泳ぎが見事かつ迫力があって驚かされた。がたいの良いその選手のバタフライは本当に迫力があり、プールサイドで見ているこちらにも彼の泳ぎのエネルギーが伝わってくるかのようであった。これは日本の水泳チームに勝ち目はなさそうだなと思ったところで場面が変わった。


もう1つ覚えているのは、外国のリゾート地の海岸沿いにある港にいた場面である。そのリゾート地は金持ちたちの旅行の拠点や別荘を構える拠点になっていて、港には大きく高級なクルーザーがたくさん停泊してあった。私はちょうど湾になっている箇所で高級クルーザーたちが港に戻ってくる様子を眺めていた。乗っている人たちはとても気持ち良さそうで、幸せそうな表情を浮かべていた。湾の脇には一軒家があって、一軒家の庭で3人のアメリカ人と思われる学生が日光浴をしながら読書をしていた。彼らが着ている服には「H」の文字が刻まれていて、どうやらハーバード大学の学生らしいということがわかった。彼らはしばらく思い思いに本を読んだ後、本の内容をもとに議論を始め、課題レポートの執筆に取り掛かった。その様子がどこかとても微笑ましく映った。フローニンゲン:2023/12/14(木)04:18


11600. 今朝方の夢の続き


朝の活動の最良の友であるモーニングコーヒーを淹れたところで午前5時を迎えた。コーヒーを淹れながら、その豊かな香りに誘われる形で今朝方の夢の続きを思い出した。


夢の中で私は、サッカー元日本代表ですでに現役を辞めている元プロサッカー選手と見慣れないキッチンのような場所で話をしていた。その方は現役中は熱血漢のあるディフェンダーで、情熱のあるプレーがとても印象的で、好感を持てる選手だった。現役を辞めてからもYoutube等で活躍をしていて、歳も近かったこともあり、その場での話は弾んだ。しばらく話をしていると、その方が自分の体つきを褒めてくれた。よく鍛えられていて、無駄な脂肪がないと褒めてくれたのである。最近はトレーニングの後だけではなくて、朝にもソイプロテインを飲むようにしていて、それが着実に筋肉量の増加につながっている実感していたので、他の人から見ても筋肉の増強がわかるのだと思って嬉しくなった。するとその方は笑みを浮かべて、突然私の尾骶骨を右手で持ち上げてそのまま私の身体を上に上げた。その腕力に驚き、まさか自分の体重を片手でひょいと上げてしまうとは思ってみなかったことだった。その方は引き続きにこやかな笑みを浮かべていて、筋肉が増え、体重も増加したはずの自分をこれほどまでに簡単に上げてしまう姿を見て、やはりすごい方だなと思った。その一部始終を小中高時代の女性友達(KE)が眺めていて、彼女も笑顔を浮かべていた。


そのほかに見ていた夢としては、母が病院の定期検診を終えて、病気などが何もなく安心した場面である。母が病院から帰ってくるとすぐに検診の結果を尋ね、何もなかったとのことだったのでとてもホッとした。そこからは、父が今晩どのような料理を作ってくれるか楽しみだねという話をして盛り上がり、それに続く形で母の最近のピアノの練習の成果の話を聞いた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/12/14(木)05:21


11601. サイケデリクスに関する呼び名/ここ最近のシロシビン・セッションでの知覚体験/虚構性・ 幻想性・絶対性への目覚め

     

「サイケデリクス」「聖なるメディスン」「エンシオジェン」等々、サイケデリクスを指す言葉は多数存在する。今の自分は「サイケデリクス」という言葉に付帯する否定的なイメージから解放され、「マインドを顕現させる」あるいは「魂を顕現させる」というその中立的な意味からその言葉を用いている。だが人によって言葉から想起されるイメージや感覚が異なることを思うと、まずはその人が最もしっくりくる呼び方で呼ぶのが良いのではないかと考えていた。メディアで取り上げられる際や自分が講演をする時などにおいては呼び方を統一するだろうが、言葉が想起するものが人それぞれ違うことを考えると、当面は各人がしっくり来る言葉を選び取ってもらい、少しずつ最も一般的に使われている「サイケデリクス」という言葉を用いながら、サイケデリクスが持つ意味や機能、そして歴史などについて啓蒙活動をしていければと思う。


昨日改めて、ここ数回のシロシビン・セッションを振り返っていた。その中で気づいたのは、ここ最近は人の形やシンボルを伴ったサトル的なビジョンを知覚することはほとんどなく、コーザル的な形無きビジョンを知覚することが多いということだった。さらには目撃者的な形無きビジョンを目撃している体験をすることも多いことにも気づいた。これは今の自分の自我や霊性の領域の発達段階を投影しているのだろうか。はたまたセットとセッティングと自分の心身の状態との相互作用の影響でそのようになっているのだろうか。いずれの可能性もありうるが、確証的なことは不明である。今後もセッションを重ねていく中で、この謎について徐々に解明していきたいと思う。


自我もリアリティも虚構であり、幻想であるとよく言われる。確かにその側面が自我にもリアリティにもある。しかしそこで述べている虚構や幻想というのは、あくまでもそれらが儚きものであるという意味であって、ロイ・バスカーやクォンタン・メイヤスーらの実在論を支持する自分としては、それらもまたある側面においてはリアルであることを見逃してはならないように思う。自我もリアリティも虚構や幻想だとみなしてしまうだけだと、それは虚無主義に陥りかねない。そもそもサイケデリック体験の本質には、自我やリアリティが儚きものであるという虚構性と幻想性に目覚めながらも、さらに一歩深く洞察を進め、それらがまた同時にありありとリアルなものであると感じられることにあると考えている。それが感じられなければ、自己の存在認識は不安定のものとなる。逆にそれが感じられれば、この世界に存在することに対する絶対的な安心感が得られるだろう。端的には、相対的で移ろいゆく儚きものを認識することを超えて、絶対的なものが実在していると感じられるかどうかが、サイケデリック体験が本質的な治癒や変容をもたらすかどうかの分水嶺だと思う。究極的なアートマンの存在に気づくこと、自己の深層的な基盤に気づくこと、絶対無と空性に目覚めることなど、色々な表現が可能であるが、いずれにしてもそのような絶対性に目覚めることが非常に重要であるし、サイケデリクスの本質的な効能の1つにはそれがある。フローニンゲン:2023/12/14(木)05:39


11602. 超心理学的な実験の機会としての・学術研究の機会としてのサイケデリクスの摂取


サイケデリック研究を進めれば進めるだけ、サイケデリック実践を積めば積むだけ、サイケデリクスという存在が無限の可能性を持っていることに気づかされ、研究対象としても実践対象としてもこれ以上に興味深いものは存在していないと実感する。毎回のサイケデリック・セッションでは汲み尽くすことのできない自己洞察・世界洞察が得られ、同時に様々な課題も受ける。洞察と課題を咀嚼していくことに時間を充てていると、次回のセッションに向けて考察を深めたい事柄や試してみたいことなどが湯水のように溢れてくる。


先ほどはふと、次回のセッションにおいては念力をテーマに取り上げてみようと思った。人には念じる力がある。サイケデリック体験中の変性意識状態下においては念じる力が増幅され、それが治癒や変容につながっていく。同時に、その力を誤って活用すると思わぬ否定的な帰結をもたらしかねないことには注意である。次回のセッションにおいては念力とは何かという点について改めて考えるような機会にしたいし、実際に自分の念力を何かしらの肯定的な現象が自己や世界にもたらされるように活用してみたいと思う。元来巫女やシャーマンは、自らの念力を変性意識下でそのように自他的に使っていたはずである。今の自分は「自他的」を超えて、宇宙のためにそれを活用するという意味で「自宇的」に念力を発揮したいと思う。


サイケデリクスの摂取そのものが自らを用いた超心理学的な実験の機会になるだけではなく、学問的にも様々な洞察を得ることができる。トランスパーソナル的な表現を用いれば、超越的な叡智に触れ、それを降ろしてくることも可能であるから、サイケデリクスの摂取を通じた学問への貢献というのも見逃せない点である。歴代のノーベル賞受賞者を眺めていると、とりわけ1960年代から70年代にかけての受賞者の中に何人もサイケデリクス摂取者を見つけることができる。くれぐれも注意しなければならないのは、サイケデリクスを摂取したからといって学問的に重要な発見が得られるというわけではなく、日々の地道な研究と思索が土台となり、サイケデリクスの摂取が創造性の跳躍台として機能したからこそノーベル賞に値する研究成果が得られたと解釈するべきであるということだ。この点に関する因果関係の誤謬には注意を要する。いずれにせよ、自分もまた定期的なサイケデリクスの摂取を通じて、学問的に種々の新たな発見をしていきたいし、自分の関心テーマについて洞察をどんどんと深めていきたい。毎回のセッションの目的設定の際には、学術研究上のテーマのリストアップと実践上のテーマのリストアップをしっかりと行っていくことを意識する。少なくとも次回の学術研究上のテーマとしては、大きな項目としてテクノロジーとサイケデリクス、人間発達とサイケデリクス、念力とサイケデリクス、エネルギーとサイケデリクスを想定しており、さらに細分化させたトピック設定をしたいと思う。フローニンゲン:2023/12/14(木)06:12


11603. マルクスとマークーゼのテクノロジー思想のサイケデリクスへの適用/

サイケデリクスの知覚拡張・アクション拡張/

ポスト現象学の枠組みを適用したサイケデリック観


マルクスはかつて、テクノロジーを支配の道具ではなく、解放のための道具として捉えていた。この発想は後にフランクフルト学派のハーバート・マークーゼに引き継がれていくわけだが、適切な条件下においてテクノロジーは私たちに解放をもたらすという指摘は見逃すことができない。当然ながら、「適切な条件(right conditions)」がどのようなものなのかを吟味することが必要であり、このロジックはサイケデリクスにも等しく当てはまるだろう。サイケデリクスもまた支配や抑圧のための道具に成り下がってしまうことが考えられるが、同時に、適切なパラメーター設定をしていけば、それは私たちの解放の道具になりえる。マークーゼがサイケデリクスをそのような存在とみなしていたのはそうした事情によるのだろう。こうした観点において、テクノロジーがどのような条件を満たしていけば私たちの解放につながるのかの議論をしているテクノロジー哲学は非常に参考になり、それを応用する形でサイケデリクスが解放の道具になりえるための条件設定を見出していきたい。この条件設定というのもまた時代の産物であるから、時代の変化と共に絶えず変化するものであるという認識を持っておかなければならない。おそらくパラメーターの適宜の見直しと検証を怠ってきたことが、依然としてテクノロジーもサイケデリクスも解放の道具に成り得ていない大きな理由なのではないかと思えてくる。


テクノロジーが私たちの知覚やアクションを拡張させるという性質は、ほぼそっくりそのままサイケデリクスにも当てはまるのではないかと思う。もちろんここでも上述の適切な条件設定がある程度整っていることが前提になるが、サイケデリクスを摂取すると、その体験中の中で変性意識による知覚とアクションの拡張がもたらさられるだけではなく――体験中においては何か具体的な行動を取ることはできないので、「アクションの可能性の拡張」とするのが正確だろう――、体験後においては世界を眺めるレンズが変わっているので、世界認識が拡張され、それを通じてこれまでにはないアクションに乗り出していくことも可能になってくる。テクノロジーがもたらす知覚拡張とアクション拡張の性質と同じく、サイケデリクスが持つ知覚拡張のみならず、アクション拡張についてもここからさらに考察を深めていきたいと思う。


サイケデリック体験を現象学的に紐解く際には、古典的な現象学の枠組みだけではなく、ポスト現象学の枠組みを採用したい。その時にテクノロジーを絡めた形でポスト現象学思想を展開しているドン・アイディの仕事は参考になるだろう。彼の書籍についてもほぼ全て購入しており、すでに初読を終えているが、改めてサイケデリクスの観点でそれらの書籍を読み返していくと大きな気づきがいくつも得られるだろう。備忘録がてらアイディのモデルにおいてテクノロジーの要素をサイケデリクスに置き換えてみると、私たちとサイケデリクスと世界の関係性を考える際に、「体現的関係:(I-psychedelics)-world」「解釈学的関係:I-(psychedelics-world)」「他者的関係:I-psychedelics-(world)」「背景的関係」の4つに分類することができる。これからそれぞれをより具体的に紐解いていこう。フローニンゲン:2023/12/14(木)06:45


11604. サイケデリック・セッションにおける感情/

サイケデリック体験を豊かにするための包括的な 地図の重要性


サイケデリック・セッションにおける環境設定としてどのような音楽をかけるのかは非常に重要になる。音楽は特定の感情を引き起こすことを促し、その感情が特定の体験を生み出していく。そこで改めて、感情とは何なのかについて関心を持った。感情に関する哲学的な考察をしている「感情の哲学」という分野における文献を調べてみたところ、オックスフォード大学出版とルートリッジ出版がやはり秀逸な論文集を出版していることに気づいた。目次をざっと眺めてみて、それらの書籍を購入するか検討したい。いずれにせよ、感情とは何で、それはどこに存在していて、そこからどのようにしてやって来るのか。そして感情はサイケデリック体験とどのような関係性を持っているのかについての考察を深めたい。既存の哲学研究の蓄積を参照しながらも、ここからのシロシビン・セッションを通じて直接体験をもとに感情に関するそれらのトピックについて考察を深めていきたいと思う。感情は文字通り、エネルギーの運動(e(nergy)-motion)であるから、サイケデリック体験の質と流れを決定する要因として非常に重要な役割を果たしている。5時間ほどのシロシビン・セッション中で生起する感情をタイプ分けし、それらが時間の展開の中でどのように紐解かれていくのかという細かな時系列データ分析をするつもりはないが、その図式は念頭に入れておき、振り返りの際にその図式をベースに感情の時系列展開について記録と考察を残しておきたい。とりわけ深い目撃者の意識状態に参入する際の感情はどのようなものなのか、非二元の意識状態に参入する際の感情はどのようなものなのかについては観察のフックをかけておこう。


そこからサイケデリック体験を豊かにするための包括的な地図の重要性について考えていた。そもそも概念的な地図の役割として、地図は体験のためのコンテクストを提供するという役割を担う。地図を持つことや提供することもまた1つのセッティングの条件に加えていいだろう。さらに地図は、これまで体験したことのない情報を私たちに与えてくれる。それに加えて地図は、体験のまだ見ぬ側面に気付かせてくれる手段にもなる。これら3つの事柄を考えてみるだけでも、サイケデリック体験を積む際に包括的な概念マップを持つことがどれだけ大切かが見えて来る。自分の日々のサイケデリック研究はそうした地図の制作を行っていることなのであり、定期的なサイケデリック実践は地図を実際に歩いてみるという検証作業なのだ。それら双方をこれからより意識して取り組んでいきたい。フローニンゲン:2023/12/14(木)10:03


11605. 地図を読み解くリテラシーと地図を活用するリテラシー/

「トランスパーソナル中毒」を超えて


先ほど、サイケデリック体験を豊かに積んでいくための、そして自身の治癒や成長につなげていくための地図の重要性について書き留めていたが、そもそも地図を読み解き、地図を活用するリテラシーが必要な点も付け加えておく必要があると思った。サイケデリック体験についてどれだけ包括的で信頼に足る地図を提供したとしても、地図の受け手側に地図を読み解くリテラシーと地図を活用するリテラシーがなければ意味がないと思ったのである。それではそうしたリテラシーを獲得してもらうにはどうのようにすればいいのだろうか。もちろんまずは地図を提供するというフェーズがあり、そこで一度地図の細部ではなく概観を眺めてもらうということが必要だろうか。そこからは対話を通じて徐々に細部に入っていき、できればサイケデリック体験を実際に積みながら少しずつ地図の細部の領域を探索していくという実践が有益だろう。他の実践同様に、サイケデリック探究もまた実際の直接体験がないとにっちもさっちもいかない側面があるので、どこかのタイミングで必ずサイケデリック体験を積んでもらう必要がある。理想としては地図を知的に参照する勉強を日々行っていきながら、定期的に実践をするというプロセスの中に居続けることだろう。少なくとも今の自分はそうしたプロセスの中に絶えず身を置くようにしている。サイケデリック体験を有意義なものにするための統合的な地図の提供、そしてその地図を読み解き、活用するためのリテラシーを高める方法についてこれからさらなる探究と実践に励んでいきたい。


とりわけここからの発達に関して、ウィルバーが述べる「トランスパーソナル中毒」には注意しなければならない。それはトランスパーソナル体験やその認識が深まる第3層の意識段階だけに当てはまる症状ではもちろんなく、どの段階においてもトランスパーソナルな意識状態は体験できるゆえにあらゆる段階で生じる症状ではある。しかし今の自分が足をかけているであろうと思われる段階に関して言えば、その段階に固有の体験や意味や価値などに執着しないようにすることが重要だと思った。より広く深いトランスパーソナルな認識と体験を獲得していくためには、そうした執着を手放し続ける必要がある。それを肝に銘じておこう。フローニンゲン:2023/12/14(木)10:21


11606. 意識状態と洞察の深さ/何ものにも囚われない宇宙遊戯としての自己として  

 

時刻は午後1時を迎えようとしている。つい今し方仮眠から目覚めたところである。今朝方は午前3時前に起床したので、昼食を少し早めに摂った。これからもう1時間半ほど読書をしたらジムに行って汗を流してこようと思う。今日はパーソナルトレーニングの日で、今日もまたどのような創意工夫に満ちた新しいトレーニングに出会えるのか楽しみである。

先ほど仮眠を取っている最中に少し不思議な感覚があった。同時に、何か特別な洞察を得ていた。それらは覚醒中の意識状態では得られないもので、今それらが何であったかを思い出している。特に後者の洞察の方が気になっている。自己に関する洞察だったか、リアリティに関する洞察だったか、そのどちらかだったように思う。何か学術的な洞察だったとは感じられない。体験としては夢を見ない深い眠りの意識、すなわちコーザルの意識状態にあったことを覚えている。コーザルからサトルに戻って来るのではなく、目撃者の意識状態に入る瞬間があり、そこで洞察がやって来た。全ての意識状態で状態に応じた固有の洞察が得られるのだと思うが、非二元の状態を除けば、目撃者の意識状態で得られる洞察が最も深く鋭い洞察のように思える。それぞれの意識状態ごとの洞察の深さと鋭さについても今後の観察ポイントにしてみよう。結局ここまで書き綴っても先ほど得られた洞察が何だったか思い出すことができず、ここから読書をしている最中やジムで体を鍛えている最中に思い出したらまた書き留めておくことにする。


宇宙遊戯を活動の根源として破壊と創造を司るシヴァとしての自己は、絶えず固着を手放していく。固着を手放すだけではなく、そもそも何ものにも囚われない在り方を絶えず体現させて生きていく。自分の価値観、考え、感覚、そして信念でさえもが移ろいゆくものなのであり、体験もまた儚く消えていくものなのだ。それら全て移ろいゆくものに固着することなく、絶えずそれらを手放しながら、常に新たな可能性と創造性に開かれた存在であり続けたい。さすれば、ここからの発達の歩みも紆余曲折を経ながらも着実なものとして進行していくだろう。常に自由であること。社会から与えられるものに対してだけではなく、自分自身の内側にあるものに対しても、自分の内側から生まれるものに対しても、全てに対して自由であること。何ものにも囚われない宇宙遊戯としての自己として日々の瞬間瞬間を生きていこう。フローニンゲン:2023/12/14(木)12:57


11607. 移ろいながら絶えず変化するこの素晴らしき1つの巨大な宇宙映画


先ほどの午後の仮眠中に得られていた気づき、ないしはビジョンは、私たちは実は世界のどこにいても絶えず1枚の巨大な宇宙絵画を見ているのではないかというものだったように思う。私たちの脳はその受信機であり、宇宙は絶えず千変万化する形での巨大な絵画、あるいはそれはリアルタイムで変化しているものなので上映される映画として見なすことができ、私たちの脳はそれを映し出しているのではないだろうか。寝ていようが起きていようが関係なく、勉強している事柄や従事している活動の内容に関係なく、私たちは絶えず同じ巨大な映画を等しく見ているのである。しかし、人によって見える角度や高度が違うゆえに違うものを見ているように錯覚するのである。人それぞれに固有の脳という固有の受信機があり、宇宙が生み出す映画はそれぞれの受信機ごとの性質によって違った角度や高度でその映画を映し出させるのである。この地球上にいる人たち、そして生きとし生けるもの全てが、実は同一の宇宙映画を単に違った内容として知覚しているのだという気づきを得ていたのだと思う。何だかこの気づきはとても大きなものに思える。宇宙は巨大な1つの映画を生み出していて、私たちは常に等しく同じものを見ていたのだ。人それぞれに違った角度や高さから。

私たちが実は絶えず1つの巨大な同一の映画を見ているのであれば、見えた映画の話を共有したいものだ。何を見て、それに対して何を感じたのか。それらをシェアすることが宇宙映画を紐解く唯一の道かと思う。またその宇宙映画の見取り図を制作していくときにもそうしたシェアが不可欠となる。宇宙映画の感想の共有と見取り図の協働創作。それに自分は深く従事していきたい。自らのサイケデリック体験を語ることも、それに対する学びを深めていくことも、宇宙映画に関するそうした試みに連なっていくものなのだ。とにかく自分はこの絶えず移ろいながら変化していく素晴らしき宇宙映画を最大の広さと深さで鑑賞したいと思っている。実は自らもまたこの宇宙映画の作り手なのだという自覚のもとに、この宇宙映画をさらにより良いものにしたいと心底望んでいる自分がいるようだ。フローニンゲン:2023/12/14(木)13:26


11608. 充実したパーソナルトレーニングを終えて    


時刻は午後7時を迎えた。つい今し方夕食を食べ終えたところである。今日の夕食もまた一際美味しく頂けたのは、夕方にジムに行って体を十分に動かしてきたからだろう。ジムでの鍛錬は体に活力を与え、身体が本来持っている生命力を大いに活性化させてくれる。今日はパーソナルトレーニングの日で、今日もまたハードなメニューであったが、非常にやりがいがあり、学びも多かった。毎回パーソナルトレーナーのエリーザが事前にメニューをある程度考えてきてくれているのだが、いつも最初にこちらの要望を聞いてくれ、そこからその日のメニューを一緒に作っていく形を採用している。こうした自己裁量権と自分の創意工夫も発揮できる点が彼女とのトレーニングの面白さだろう。


今日はまず最初にこちらからリクエストした大臀筋のメニューを行っていった。ストレッチバンドを使ってさらに負荷量を上げる形でそのメニューをこなしていった。これと似た動きをするメニューのコツについて先々週ぐらいに聞いていたのだが、その時はあまりピンときていなかった。しかし今回はエリーザのデモンストレーションが分かりやすく、口頭でコツの説明を受けるよりも実際に実演してもらった方が理解が進むということを改めて実感した。そこからは場所を少し移動して、ワイヤー器具とバランスボードを活用した形での腕立て伏せを行った。これは地面に足をつけるのではなく、両足をワイヤーの輪の中に通す形で、腕はバランスボードの上に置くのでバランスを取るのが難しく、バランスを取ろうとする動きによって様々なインナーマッスルが大いに活性化されているのを感じた。単に重さを上げていく形のでトレーニングよりも、武術をやっていると身としてはこうした形でのインナーマッスルを鍛えたり、筋肉に様々な刺激を加えるメニューが有り難い。もう1年ほどエリーザとはトレーニングをしているし、自分がジークンドーという武術をしていることも彼女は知っているので、それを意識したメニューを提供してくれているのだろう。そう言えば、1時間のパーソナルトレーニングを終えた後にローイングマシンを使い、そのトレーニングを終えた時に、中年の男性に声を掛けられたのを思い出した。その男性は自分の着ていたトレーニング着を見てブルース・リーが創始したジークンドーだとすぐに分かったらしく、自分に声をかけてきたのである。その男性は今は67歳で、昔は空手をしていたようだった。今は年齢を重ねたので空手から離れ、太極拳を習っているとのことだった。そこから少しジークンドーの話をし、ジークンドーはボクシングとフェンシングに起源があることを伝えると、興味深そうに話を聞いていたので、いくつかの動きをその場で披露することにした。そんなコミュニケーションがあったのを覚えている。こうした見ず知らずの人とすぐに交流が行えるのはジムの良さであり、自分は結構人から話しかけられやすいオーラを持っているのかもしれないと思う。


さて、今日のトレーニングではその他にも肩甲骨周りの筋肉を鍛えるワイヤーを用いたメニューが新しかった。また、数週間前に行ったハードな腹筋トレーニングにリベンジを果たすべく、今日はそれを行い、無事に3セットこなせたのだが、明日以降の筋肉痛の様子がどうなるかが楽しみである。今日も本当に充実したトレーニングを行えたことに感謝したい。来週の月曜日には今日のトレーニングメニューをいくつか繰り返してみようと思う。フローニンゲン:2023/12/14(木)19:13

Commentaires


過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page