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タイトル一覧
11589. 今朝方の夢
11590. 今朝方の夢の続き
11591. 今朝方の夢のさらなる続き
11592. 原点回帰から始まる新たな円環運動/今朝方の夢の続き
11593. 構造的カップリングとデカップリング
11594. カオスの縁と発達
11595. 「エンシオジェニックトレーニング」としてのサイケデリクスの摂取/名前と科学
11596. 日本舞踊への関心の高まり
11597. 破壊と創造としてのサイケデリック哲学/形成的アセスメントとしての日記の執筆
11589. 今朝方の夢
時刻は午前4時を迎えた。昨日は午後9時前に早々と就寝し、今朝は午前4時前に起床した。幾分ゆったりとした起床だったが、その分十分な睡眠を確保していたように思う。起床してシャワーを浴びている最中に、するりするりと今朝方の夢が思い出されいったので、まずは最も印象に残っている夢から書き留めておこうと思う。
夢の中で私は見慣れないバスに乗っていた。バスそのものも見慣れないものだったが、走っている場所も見慣れなかった。乗客はみんな日本人で、どうやらバスが走っている場所も日本のようだった。しかも都市の郊外を走っていて、今から都市の中心に向かうようだった。バスの後部座席に座って景色を眺めていると、いつの間にか目的地に到着していた。すると、そもそもこのバスには母方の叔父と一緒に乗っていたことを思い出し、叔父がどこにいるのかを確認したら、到着したバスからもう外に降りていた。これから叔父と街を観光することになっていたことを思い出し、私もバスを降りようと思った。すると、家にスマホと財布の両方を置いてきてしまったことに気づいた。叔父が自宅まで迎えにきてくれたのはいいが、予定よりも早い時間だったので、焦って家を飛び出したところ、自分の部屋にスマホと財布は置きっぱなしだったのである。続々と降りていく乗客を眺めながら、迷惑がかからないように大半の客が降りた後に運転手の男性に事情を説明し、バスの外にいた叔父を呼んで、叔父にバスの料金を支払ってもらうことにした。「おじちゃ~ん!」と叫びながらバスの方に手招きすると、叔父がやって来た。叔父にもスマホと財布を家に置いてきたことを伝えると、叔父は苦笑いを浮かべながら、「そう言えば、この間も数万円奢ったよね」と述べながらも、スマホをかざして料金を支払ってくれた。料金を支払ってくれた叔父に多大な感謝を伝え、そこからは叔父がお勧めの書店に立ち寄った。
書店はかなり大きく、2階までは一緒に書籍を見て周り、そこからは各自好きな階で好きな書籍を吟味しようということになった。叔父は大の書籍好きで、非常に物知りであったから、本屋でも叔父の話を聞くのは面白かった。1つ印象に残っている話として、かつて一世を風靡した大物の女性歌手が、かつての曲調ではなくアニメソングに挑戦した時、多くのファンからは最初批判があったという話を聞いた。しかし一部の本当のファンたちはその歌手を応援し続け、結果としてその歌手はアニメソングで再び大活躍をしたのである。その時に応援し続けていた一部のファンのある男性が、離れていったファンたちに向けて、「本当に熱くなれるものをやり続ければこうゆうことが起こるんだよ!」と熱く語っていたらしい。その男性の言葉には続きがあって、「悔しかったら、おまえらも熱くなれるものをやる側に立て!」と述べていたらしく、その言葉には感銘を受けた。そのような話を聞いた後、叔父といったん別れて書店の中を自分の好きなようにくまなく見ていった。すると、ある本棚のところにアニメのキャラクターが2人、実際の人間の姿をして存在していた。それはある探偵物のアニメの小学生のキャラクターで、2人が何をしていたかというと、有名人の客が近くの本棚にいるらしく、その人の写真をこっそりと撮影していたのである。2人のキャラクターと少しだけ会話を交わしたが、彼らは写真撮影に没頭しているようだったので、邪魔をせず、再び私は何か良い本はないかと探して回った。しかし、今の自分は学者として生粋の学術書を読むことを習慣にしており、また言語も日本語ではなく英語ののものなので、学術書以外の書籍や日本語の書籍をわざわざ買って読む気にはなれず、立ち読みをするだけに留めた。そのような場面があった。フローニンゲン:2023/12/13(水)04:35
11590. 今朝方の夢の続き
夜明けまであと4時間弱ほどある。闇と静寂さに包まれた朝のこの時間帯は本当に素晴らしい。自分の内側に深く入っていくことが容易で、夢を思い出したり、大事な考えを言葉の形にしておくには大変素晴らしい環境だと思う。
先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、母方の叔父が登場した夢には続きがあり、それを含めて振り返りをしておきたい。バスを降りて大型書店に立ち寄った後、そもそも叔父とその日はバスケの試合を観戦することになっていた。バスケの試合と言ってもプロの試合ではなく、高校生の大会を観戦することになっていた。高校生の試合とは言え、強豪校同士の試合は相当にレベルが高いと叔父が述べていて、私は見る前からそうだろうと思っていた。体育館に到着すると、試合前にもかかわらず、観客席を含めて熱気がすごく、応援合戦が行われていた。私たちは2階の席に腰掛け、叔父が作ってきてくれたカレーを食べ始めた。カレーを一口食べると、そのあまりの美味しさに驚いてしまい、どうやって作ったのかを思わずに叔父に尋ねた。叔父は、「特に特別な作り方は何もしてないよ」と笑顔で答えた。そこからしばらくカレーをほうばり、カレーを食べ終えるか終えないかのところで試合が始まった。コートに立っていたのは高校生とは思えないような体格をした選手たちで、やはり強豪校の選手たちは違うなと思った。おそらく厳格な栄養管理と筋力トレーニングによってあのような身体になっているのだと思った。それは言わば天然のドーピングのようなものだと思ったが、こうしたナチュラルなヒューマンエンハンスメントを私たちは大なり小なり気づかないところで行っていて、ヒューマンエンハンスメントそのものを否定することはできないと思った。そのようなことを考えながら試合を見ていると、私たちが応援している強豪校はスタートに出遅れ、相手に随分とリードされてしまった。しかし、ベンチにはまだエースを座らせたままだったので、彼がコートに出てくると一気に流れが変わるだろうと思った。体育館は熱気に包まれながらも、幾分薄暗かったのが印象的である。
その他には、海外の大学で発達理論に関する書籍の内容をサイケデリクスと絡めて講義している場面があった。その講義は大学のクラスではなく、サイケデリクスに関心を持つ研究者の仲間たちとの間で行われていた勉強会での講義だった。勉強会に集まっている人たちはみんなサイケデリック研究に従事する研究者だったので、学生を相手にするクラスでの質問よりも高度な質問が続々と飛んできた。また彼らの意見は洞察に溢れるものばかりだったので、学生に対して授業をする良さはそれはそれでありながら、こうした研究者仲間での勉強会も継続していきたいと思った。自分は本当に素晴らしい学生たちと研究者仲間に恵まれているなと思って、感謝の念が溢れてきた。今後もこうした環境の中でサイケデリック研究に没頭し続ければ、きっと世の中の役に立つ研究成果が得られるだろうという確信があった。フローニンゲン:2023/12/13(水)05:00
11591. 今朝方の夢のさらなる続き
気がつけば時刻は午前5時を迎えていた。辺りはまだまだ暗く、2階の書斎には暖房が動く音だけが聞こえている。今日は一日中曇りのようだが、今の気温は7度と比較的暖かく、ここからは気温がずっと一定の形で夜まで時間が進行していくらしい。冬に入って確かに気温は低くなったが、雨の日は随分と減った印象で、それはとても嬉しいことである。
すでに今朝方の夢を随分と振り返ったように思えるが、まだ夢には続きがある。シロシビン・セッションを継続していくことによって、夢の世界がますます豊かなものになっているのか、それとも変わらないのかはまだわからない。夢の世界はそれだけ謎めいた性質を持っていて、絶えず何かしらの夢を新たに創出するというのは、やはりこの宇宙が絶えず新たなものを生み出す内在性質を持っているからなのかもしれない。
今朝方の夢の続きとしては、小中高時代の友人(AF)がボストンにすでに留学していて、彼に続く形で自分もボストンに留学することが決まった場面があった。彼は大学院ではなく、専門学校に留学していて、ボストンでの生活もすでに1年ほど過ぎたとのことだったので、ボストンでの生活について色々と話を伺っていた。ボストンはやはり家賃が高く、彼はそれが頭痛の種だと述べていた。自分がボストンでの生活を始めるに際して、それだったら一緒にルームシェアをしようかという話になった。彼とはとても仲が良かったこともあり、一緒に生活しても何も問題ないどころか、毎日彼と楽しく話ができるだろうと思った。彼はルームシェアに乗り気で、今使っている家具を新居に移すことを考えていたらしいが、自分は家具付きの家に住みたいと思っていたので、家具は処分してもらうことにした。しかし、彼が使っているマッサージ用のベッドについてはそれをそのまま持ってきてもらうことにした。背景として、彼が私にマッサージを時々してくれると述べたことがある。その申し出はとても嬉しかった。と言うのも彼はマッサージの副業をやっていて、そのマッサージが特殊なものだったので興味があったのである。深層筋に働きかけ、同時にエネルギワーク的な要素が入った彼のマッサージはぜひ一度受けてみたいと思っていた。だがここで1つ大きな問題に気づいた。私はこれから少なくとも2年間の期間をボストンで過ごし、その後も博士課程への進学や研究者として大学に残り続けることを考えていたのに対し、彼はあと半年したら専門学校を修了し、日本に帰ることになっていたのだ。彼の後のルームメイトをどうするかという問題があったし、仮にルームメイトがいない状態で広い家を1人で使うのも何か馬鹿げているように思えた。ただでさえ家賃の高いボストンで、大きな家を借りるとなると、家賃は馬鹿にならず、家賃の支払いに無駄にお金を費やすぐらいなら書籍の購入に充てるなり、もっと有効なカネの使い方があるだろうと思った。最初こそ私たちは乗り気でルームシェアの話をしていたが、彼が去った半年後のことを考えると、当初の予定通り、自分は自分で家を借りて生活をする方が良さそうだと思った。ちなみに彼が今住んでいる場所は、お世辞にも綺麗とは言えない集合アパートで、お金のない学生や給料の低い人たちばかりがそこで生活をしているようだった。ゴミがアパートの周りに散らばっていたり、夜になると話し声やパーティーの音などが聞こえてくるとのことで、静かな環境で早々と就寝し、朝早く起きる生活リズムを持っている自分としてはそうした場所には住みたくないなと思った。家賃は少々高くても、居住場所への投資は自分にとって非常に大事なもので、そこで快適さを買うことが、時間を買うことにも繋がり、さらには自分の日々の学習や実践の質を買うことにもつながっていると改めて思い、ボストンでこれから生活するに際しては、自分が望むような立地と設備を持つ快適なマンションで生活を営んでいこうと思った。フローニンゲン:2023/12/13(水)05:23
11592. 原点回帰から始まる新たな円環運動/今朝方の夢の続き
今日もまた午前中は旺盛に読書をしていく。毎日英語で執筆しているリサーチノートも随分と分量が溜まってきて、書籍の数に関しては430を超えた。論文と合わせると500弱となる。8月の中旬からつけ始めたこの英語でのリサーチノートもそれくらいに積み重なってきたことを嬉しく思う。今日は午後から「インテグラル・サイケデリックラジオ」の収録がある。収録後にはいつものように1階と2階に掃除機をかけて、トイレ掃除をしたい。そこから夕食の時間までまた読書に充てたい。ラジオもまたこの日記の執筆やその他の学習や実践と同じく、継続は力なりを感じる。ラジオを継続していく過程の中で、実に様々な恩恵を自分が得ていることに気づき、その恩恵をこれからさらに育んでいき、自分なりの方法で社会に自らの知見や能力を還元していくためにもラジオを緩やかに継続していこうと思う。
現在、成人発達理論の観点からサイケデリック体験を紐解くことに加え、今度はダイナミックネットワーク理論とダイナミックシステム理論から紐解いてみるという試みにも着手し始めている。関連書籍を大量に1階から引っ張り出してくることを行ったので、もう準備は整っている。ダイナミックネットワーク理論とダイナミックシステム理論を包摂する複雑性科学に関する理論書も再度読み返していくことを意識していて、それらの書籍と合わせると、随分と1階から2階に書籍を持って上がってきたなと思った。積み重なる段ボールを動かしたり、そこから書籍を2階に持ってくる一連の作業は、まるで筋力トレーニングのようである。実際にかつての引っ越しでは、段ボールの持ち運びや書籍の持ち運びによって随分と筋肉痛になっていたことを懐かしく思った。仮に来年の夏からアメリカでの生活が始まるのであれば、久しぶりの引っ越しがある。久しぶりと言っても、この間は3年前のフローニンゲン内での引っ越しなので、さほど期間は空いていないが、次回の引っ越しで筋肉痛になるのかならないのかも自分の身体の状態や筋力トレーニングの進捗を確認する優れた機会になるだろう。上述した成人発達理論、ダイナミックネットワーク理論、ダイナミックシステム理論、複雑性科学のそれらは全てジョン・エフ・ケネディ大学やフローニンゲン大学に在籍中に熱を上げていた探究テーマであり、ここでもまた原点回帰が起こっていることに気づかされる。そして原点から再びサイケデリクスというテーマで新たな円環運動がうねりを上げて起こっていることに深い喜びを感じる。
その喜びを受けて、今朝方見ていた夢の場面を再び思い出した。夢の中で私は、大きな沼で釣りをしている自分と同じぐらいの歳の日本人男性の様子を眺める者として存在していた。彼はルアーを使ってブラックバスを釣っているのかと思いきや、大蛇を釣ろうとしていたので驚いた。蛇が好むカエルのルアーを沼に投げ込んでしばらくすると当たりがあった。かなりの大物が引っ掛かったらしく、男性は必死にリールを巻き取り始めた。しばらくすると、大物の姿が水面下に見えてきたのだが、大蛇ではなく、巨大なドジョウだった。ドジョウを釣り上げたその男性はそれを地面に一度引き上げ、ルアーを外そうとした。するとその瞬間に、なんとドジョウがハリネズミのような生き物に姿を変えたので驚いた。ルアーを外した後に、そのハリネズミは地面の巣に戻っていき、最後にちょっと顔を出してこちらの様子を窺っていた。その様子は可愛らしく、心が和んだ。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/12/13(水)05:44
11593. 構造的カップリングとデカップリング
今日はまずフンベルト・マチュラーナとフランシスコ・ヴァレラの“The tree of knowledge: The biological roots of human understanding”という書籍の再読に取り掛かった。読書をしながらふと、自分自身が現在どのような構造的カップリング(structural coupling)を持っているのかを一度精査してみるのが良いかと思った。構造的カップリングとは、エージェンシーとしての私たちと環境との相互作用によって生まれる構造であったり、自分と他者との関係性の中で生じる相互作用によって生まれる構造である。わかりやすいところで言えば、今の自分はフローニンゲンという街との相互作用をしているし、今住んでいる自宅とも何かしらの形で相互作用して構造を生み出している。また対人関係で言えば、毎週末に運営しているゼミナールの受講生の方々との相互作用によって生み出される構造があるし、本日の午後に行われるラジオもまた早田航さんとの関係性やリスナーの方々との関係性の中で生まれる相互作用によって生じる構造がある。自分がどのような構造的カップリングを持って生きているかは成長・発達に決定的な影響を与える。ピアジェやヴィゴツキーの理論を含め、文化を含めた環境との相互作用によって人は成長・発達を遂げていくことを思うと、自分がどのような社会文化環境の中にいて、どのような相互作用を通じてどのような構造的カップリングに影響を受けて生きているのかを精査することは重要だろう。
そして個人的にさらに重要だと思うのは、特定された構造的カップリングを必要であればデカップリング(decoupling)することである。端的には既存の構造的カップリングを手放したり、壊したりする形で、自分を成長させてくれる新たな構造的カップリングに向けて関係性を開いていく試みをしていくということである。職業を変えたり、環境を変えたり、新たな実践活動に乗り出すなどは、デカップリングを促進する優れた行動になるだろう。まさに自分もサイケデリック研究とその実践に目覚め、生活拠点を大きく変えようとしているし、職業もまた正式に学術機関での研究者になろうとしている。それを受けて、既存の構造的カップリングから自己が脱皮し、一段成長した新たな自分が姿を現すように思える。そんな気づきがあった。フローニンゲン:2023/12/13(水)07:03
11594. カオスの縁と発達
時刻は午前7時半を迎え、今度はスチュアート・カウフマンの古典的名著"At home in the universe: The search for laws of self-organization and complexity”の再読を始めた。本書もまたサイケデリック研究につながる洞察に溢れており、サイケデリクスがもたらす脳内のカオス度合いに与える影響について調べてみようと思った。サイケデリクスがデフォルト・モード・ネットワークやセイリエンス・ネットワークの解体を通じてカオスを引き起こすのであれば、そしてそれが閾値を超えてくれば、分子が自己組織化を自発的に行うような形で、脳とマインドが新たな自己組織化に向かい、発達が促されるかもしれない。
カウフマンの非常に興味深い洞察として、なぜ複雑系はカオスの縁に存在するのかという理由に対して、進化が複雑系をそこに導いているからだとする見方を持っている。つまり宇宙の側がダイナミックシステムをカオスの縁に立たせているのである。私たちの発達はまさにカオスの縁から起こる。むしろそこを通過して行かない限りは発達は起こらない。これはすでに複雑性科学を用いた実証研究でも明らかになっていることである。抽象的な内省の観点としては、今の自分がカオスの縁にいるかどうか、カオスの縁を歩けているかを内省してみると良いだろう。果たして自分はカオスの縁を歩いているだろうか?そのように自問したところ、きっと自分は絶えずカオスの縁を歩けているのではないかという楽観的な直観かつ直感があった。そもそも定期的にシロシビン・マッシュルームを摂取することが自らをカオスの縁に立たせていることに他ならない。そうした実践を経て、自分の内側で新たな自己組織化が行われているのも確かな手応えとして感じることができる。こうしたことも自らがカオスの縁を歩けているという証拠になるのではないかと思った。また新たな生活環境で生活を始めることに対して大変前向きなことも、生活環境をガラリと変えて新たなカオスの縁に立つことを待ち望んでいる自分の現れかと思う。ここからの内省ポイントとして、カオスが挙げられ、カオスの縁を自分は歩けているだろうかと常に問いたい。フローニンゲン:2023/12/13(水)07:47
11595. 「エンシオジェニックトレーニング」としてのサイケデリクスの摂取/名前と科学
「エンシオジェニックトレーニング(entheogenic training)」としてのサイケデリクスの摂取は、間違いなくスピリチャルトレーニングにつながる。そのような確信が芽生えた。古典的サイケデリクス は、私たちの内側に存在する神聖さを顕現させるという意味で“entheogen”と呼ばれたりもする。まさにそうしたサイケデリクスを思慮深く、そして体系立ったプロトコルに沿って摂取すれば、その他の霊的実践に匹敵する、いやそれらを凌駕する霊的実践になると思ったのである。まさに自分が定期的にシロシビン・マッシュルームを摂取しているのは、それを霊的発達に向けたエンシオジェニックトレーニングとしての効果を実感しているからなのだと思った次第だ。エンシオジェニックトレーニングとしてサイケデリクス を活用するための各種注意点や思想をきちんと社会に共有していくこと。その試みにこれから少しずつ着手していく。
本日4冊目の書籍として手に取ったのは、グレゴリー・ベイトソンの書籍“Mind and nature: A necessary unity”だった。本書を読みながら、名前と名付けられたものの本質を混同してはならないと改めて思った。これはアルフレッド・コージブスキーが述べた地図と実際の土地の混同への戒めと似ている。私たちはとかく名前がつけられたその存在を名前から認知するが、そもそもそこで認知されたものは名付けられた存在の本質ではないことに注意が必要である。その本質に届くぐらいの深い認知を行う必要性も合わせて感じる。ベイトソンはいくつも興味深い指摘を本書の中で行っていて、科学は何も証明せず、科学は単に現象を説明するだけであるという指摘や、最も興味深いと思ったのは、「全ての経験は客観的なものではない」という指摘である。言い換えれば、全ての経験は主観的なものなのだ。これは科学における仮説の立案や方法論の選択、データの収集といった多岐にわたる活動にも当てはまり、それらは全て主観的なのである。その観点において、本質的に科学は客観的なものではなく主観的なものなのだ。そうした主観的なものの客観性を担保するための色々な工夫と枠組みがあるのが科学なのであり、それを通じて科学は一般化された知見を生み出すという相互主観的な営みと言えるのではないかと思う。科学を客観的なものだと盲目的に信じることは神話的な発想であり、科学における客観性とは何で、それはどのような手順で担保され、科学における主観性とは何かというところまで考察を展開させていかない限りは、科学の本質を見誤ったままとなる。今後サイケデリック科学の知見がどんどんと社会に共有されていく際に、そもそも多くの人たちが科学の本質を理解していない状況というのは大変危険なことのように思えてくる。それは種々の誤解を生んでしまうであろう。そのような事態を避けるためには、サイケデリックリテラシーに加えて、科学リテラシーと呼べるものについても社会規模で涵養していく必要があるし、サイケデリクスの社会実装に向けてはまだまだ無数のリテラシーを社会規模で高めていくことも必要であると絶えず自覚しておきたいと思う。フローニンゲン:2023/12/13(水)08:29
11596. 日本舞踊への関心の高まり
前回のシロシビン・セッションを受けて、神楽につながる日本舞踊に関心を持ち始めた。それは学問的な関心対象というよりも、実践対象であり、どこかのタイミングで日本舞踊を真剣に習いたいという思いがある。本来であれば神楽をそのまま習いたいのだが、神楽を習えるような場所はほとんどなく、オンラインレッスンのようなものはあまり存在していないようなので、オンラインレッスンが存在し、神楽に通じる日本舞踊を習うことを今後検討したい。前回のシロシビン・セッションでは、「踊りの王」であるシヴァ神が自らの守護神を超えて自らの存在に他ならないという権化性を感じたことと、宇宙遊戯としてのリラを人生に徹底的に体現していくことの重要性を悟ったことと合わせて、日本舞踊という自身のルーツにつながる踊りに関心を持った次第だ。以前よりこのオランダでの8年の生活の中で何度かダンスに関心を持つことがあった。その時は即興的なモダンダンスに関心を示していたが、結局それを習うこともなく時が流れた。その時にもダンスの中に何か重要なものがあると感じていており、その何かが今回のセッションにおける気づきに結実したのだと思う。
現在オランダで生活していることもあり、また来年からはアメリカでの生活が始まるかもしれず、日本舞踊のレッスンはオンラインのものにならざるを得ない。一時帰国する際に集中的にトレーニングを受けるという手段も今後検討したいと思う。日本舞踊も独学はほぼ不可能であり、その習得のためには伝統的な型を習う必要がある。能力の発揮において、技術内容や技術そのものの転用は可能であるが、型はさらに次元が高いところに存在しており―それはおそらく――形態形成場(morphic field)に存在していると思われる――、型の転用は非常に難しい。しっかりと型稽古をしていくことの大切さは武術でも痛感していることであるし、箏の演奏でも経験していることである。また学術研究においてもれっきとした型が存在している。こうした様々な型に触れてきた経験からすると、しっかりと日本舞踊の型をまずは身につけていきたいという思いがある。今すぐに日本舞踊を習うというわけではないが、絶えず日本舞踊にはアンテナを貼っておき、良き流派と良き先生との出会いがやって来るのを待ちたいと思う。フローニンゲン:2023/12/13(水)09:19
11597. 破壊と創造としてのサイケデリック哲学/形成的アセスメントとしての日記の執筆
自らが破壊と創造を司るシヴァの権化であるという気づき。それを得られたのは、第21回のシロシビン・セッションで得られた最大の収穫の1つだったわけだが、自分がこれからとりわけサイケデリック哲学者として活動していくというのはまさにシヴァ的な行為に従事していくことなのだと思わされた。とりわけサイケデリック科学がどんなパラダイムに依拠してその活動を行なっているのかを絶えずチェックすることや、サイケデリクスに関する社会の中でのディスコースをウォッチし、それらの前提を検証することは、全て破壊と創造の行為に他ならないのだと思う。端的には、前提やパラダイムに対して建設的な批判を加え、それらを壊して新たな前提条件やパラダイムを創造していく必要性を自分は強く感じていて、それを行なっていくことがサイケデリック哲学者としての自分に求められているのだと実感している。もちろんサイケデリック哲学が果たす役割は多岐に渡るが、中核にあるのは社会が当然だと思って疑いもしないような前提条件やパラダイムを検証することであり、必要であればそれらを破壊と創造によって脱構築していくことなのだと思う。
先ほどまで「インテグラル・サイケデリックラジオ」の第45回の収録があった。今日のラジオも刺激と洞察に満ちていて、これまで45回ラジオを積み重ねて来ることを通じて武術や芸事における型のようなものが形成されてきているように感じる。それは話の型というものではなく、新たな可能性と創造性に満ちたエネルギーが流れ込んでくるような、あるいは発生するような場のようなものである。それは形態形成場のような働きをしているとも言える。そうした可能性と創造性に満ちた場が醸成されてきているのを見ると、ラジオを継続してきて良かったと心底思う。これからも無理のないペースでラジオを続けていくことを通じて、今の場がより可能性と創造性に満ちた場に育っていくことを願う。
こうして毎日日記を綴っていることそのものが「総括的アセスメント(summative assessment)」ではなく、「形成的アセスメント(formative assessment)」になって自分の成長を後押ししてくれているのだと感じる。日々自分の学びや取り組みを内省し、それを書き出しておくという行為が自分の現状を教えてくれるアセスメントになっていて、次に何をアクションとして行えばいいのかの呼び水になっている。それはまさに期末に一括して行うような総括的アセスメントではなくて、日常の細かなアセスメントしての形成的アセスメントになっていると実感した次第だ。フローニンゲン:2023/12/13(水)16:05
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