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タイトル一覧
11580. 今朝方の夢
11581. 夢のメッセージ/今朝方の夢の続き
11582. 「変性意識恐怖症」を患う現代人
11583. スピノザ全集を読みながら:汎神主義者かつ汎心主義者の自分
11584. 因果の「因」の探究/思考のモードとしての時間
11585. 変性意識状態を活用する道
11586. 継続/サイケデリック美学/無数の理論仮説を内包した宗教思想/意識の起源と宇宙の起源
11587. ウィルヘルム・ライヒの「筋肉の鎧」「オルゴンエネルギー」とサイケデリクス
11588. 宇宙と自我/第3層の意識段階を待ってくれていた存在
11580. 今朝方の夢
時刻は午前4時半を向けた。今の気温は2度だが、今日の日中は7度まで気温が上がる。これくらいの気温であれば室内では寒さを感じることはなく、快適に過ごせる。部屋の暖房のおかげで確かにいつも暖かくして過ごすことが可能ではあるが、気温がマイナスの日は暖房でも追いつかないほどに寒くなる。週間予報を見ると、少なくともここから1週間はマイナスまで気温が下がる日がないようなので快適に過ごせそうである。最高気温が5度を超え、最低気温がマイナスにいかなければ温かいと感じる自分がいる。
今日もまた断片的な夢をいくつか見ていた。それらについて早速振り返りをしておきたい。第21回のシロシビン・セッションが教えてくれたように、 夢の世界は物理的現実世界に溶け出し始めているので、夢の世界をどれだけ豊かにするかが物理的現実世界での豊かさにつながっている。それを実現するのが夢日記の執筆である。夢の世界と物理的現実世界を架橋させるために、そしてそれらが溶け合い合一することを後押しするのが夢日記の執筆なのだ。
夢の中で私は、大学時代のサークルの後輩と出会い、話をしていた。彼から相談を受けたのは留学に関することで、彼は大学1年生の時から留学に関心があって、今真剣に留学を検討しているとのことである。うちの大学に来る学生で英語の基礎体力のない人はいないので、英語に関しては彼はもうほとんど問題なく、留学に必要な英語の試験も本腰を入れて短い期間集中して勉強すれば突破できるだろうと思った。彼は帰国子女ではないので英語の試験については対策を必要としたが、それでも彼の英語の基礎体力と留学にかける思いから何の問題もないだろうと思った。英語に関する話を終えた後は、実際に現地での生活についての話をシェアした。彼は欧州よりも北米のどこかの大学に留学しようと思っているらしく、自分のアメリカ留学体験の話が少しでも参考になればと思ってそれをシェアした。
その夢を受けて、実際に通っていた中学校のグラウンドでサッカーをしている場面があった。何人かの友人たちと楽しくフルコートでサッカーを楽しんでいた。フルコートで試合をするには少ない人数だったが、たまにはこうして開放的に少人数でのフルコートのサッカーも面白いものだと思った。ある友人からボールを受けたとき、目の前に2人の友人が自分のドリブルを防ごうとした。彼らは自分のドリブルを相当に警戒しているようで、実際に自分はドリブルが得意だったので彼らの気持ちが理解できた。ところがボールを受けた瞬間に自分の体の重心が上に上がってしまい、うまくドリブルができず、簡単に取られてしまいそうだと思ったので、近くにいた友人にパスをした。そこからもやたらと自分の重心が上に上がっているように感じられたので、どうしたものかと思ったら、試合を終えた後に1人の友人が下半身の強化と丹田の強化をすることを勧めてくれた。確かにそれらのトレーニングをすれば地に足がつけられそうだと思ったし、それはサッカーだけではなく日常生活全般においても重要だと思った。フローニンゲン:2023/12/12(火)04:49
11581. 夢のメッセージ/今朝方の夢の続き
先ほど振り返っていた夢は今の自分にとって大切なメッセージを発しているように思えた。夢の内容として印象的だったのは、自分の重心が上に上がっていて、下半身や丹田を鍛えていくことを通じて地に足をつけることの大切さを伝えていたことである。それは今こうしてシロシビン・セッションの頻度を上げて定期的にセッションを行っている自分に対する最良のメッセージかと思う。シロシビン・セッションはもちろん無意識の深い層にアクセスし、トラウマの治癒にも活用できるが、そうした下方向への意識作用よりも、今の自分に対しては上方向への意識作用として働くことが多い。とりわけ最近は宇宙規模にまで意識が拡張していることもあり、この地上に地に足をつけることは本当に重要だ。破壊と創造を司るシヴァとしての自分が宇宙遊戯というリラをこの地上で行うためにも、地に足をつける実践を持つことは重要かと思う。昨日は偶然ながらジムでバランスボードを用いて大腿四頭筋を鍛えることや、アブローラーを使って腹筋を鍛えることをしていた。おそらく今後はそうした下半身や腹部を鍛えることが重要で、単に筋肉を鍛えるというよりも、筋肉の向こう側にあるチャクラを鍛える必要があるのだろう。下腹部は下丹田と対応しており、 そうしたサトルエネルギーの重要ポイントをこれから意識的に鍛えていくことを行いたい。
今朝方はその他にも、人間の言葉を話せる動物の精霊と昆虫の精霊が登場する夢を見ていた。動物の精霊の方は、小さくて狐のような雰囲気をした犬だった。その精霊が部屋の中を駆け回り、昆虫の精霊を発見した。どちらも人間の言葉を話すことができ、動物の精霊は私に昆虫の精霊を見つけたと教えてくれた。両者は仲良くするのかなと思っていたら、なんと動物の精霊がその昆虫の精霊を口の中に入れて食べてしまったのである。私は冗談だと思って、きっと単に口に入れただけだろうと思ったのだが、数秒ほどして動物の精霊が昆虫の精霊を吐き出すと、昆虫の精霊の姿はもうなく、骨格の塊が吐き出された。それを見て、本当に動物の精霊は昆虫の精霊を食べてしまったのだと思った。何と残酷なと思ったが、精霊の世界にも食物連鎖のようなものがあり、それは人間が生きる世界と同じなのだろうと思った。動物の精霊の方を見ると、何を驚いた顔をしているのと不思議そうにこちらを眺めていて、どちらの世界においても破壊と創造があるのだなと思ったところで夢の場面が変わった。
その他に断片的あと2つほど覚えている場面がある。1つは日本と外国が混ざり合った国にある街のモダンな駅構内にいた場面である。辺りはもうだいぶ薄暗くなっていて、これから自宅に帰ろうと思っていた。その駅は巨大で、自分が乗るべき列車のプラットホームがどこにあるのかを探すのに一苦労した。無事にプラットホームの場所がわかった時、誰かに後ろをつけられているような気がしたので、私は小走りをし、途中からさらに速度を上げて全力疾走に近い形で走った。そして後ろを振り返るともう自分を追ってくる気配を感じなくなったので、そこから歩いてプラットホームに向かうことにした。
最後に見ていたのは、以前協働していた知人の女性の方を含め、大人数で打ち上げをしていた場面である。すでに乾杯の音頭は取られていたが、自分のテーブルの話が盛り上がったので、改めて乾杯をしたいと思った。自分が乾杯の音頭を小声で叫ぼうと思ったら、周りのテーブルの人たちがそれを察知して、再び全体で盛大な乾杯をすることになった。その瞬間の場の雰囲気はとても楽しげだった。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/12/12(火)05:22
11582. 「変性意識恐怖症」を患う現代人
きっと人々は「変性意識恐怖症」を患っているのだろうという考えが突如やってきた。ロナルド・シーゲルの研究成果が明らかにしているように、私たちには本来、変性意識を求める酩酊欲求がある。リチャード・ドイルの研究成果をさらに組み合わせれば、私たちが変性意識を求めるのは動物としてごく自然のことなのだ。それは進化の過程で組み込まれている遺伝子レベルの欲求や衝動なのである。現在、人間たちはますます機械と融合していくトランスヒューマンの方向に向かっている。しかもそれは今の人間よりも何か優れた形での新たな人種ではなく、機械に飼い慣らされた劣化した形での新たな人種として誕生しつつある。端的には、現代人は本来動物として自然な欲求である酩酊欲求を押し殺すという非常に非自然な形で生きており、退化の方向に向かっているのである。
文化的には、「変性意識恐怖症」とでも呼べる病理を現代人の大半が患っている。彼らはなぜ変性意識が怖いのだろうか。1つ明確なものとして挙げられるであろうことは、彼らは今の自分が信じるリアリティをなんとしても保持したいと無意識で思っているということである。彼らは表層的には今の自分を変えたいと思っていても、深層的には変わりたいとは思っていないのである。単に今の自分の世界観と信念を保持し、このままのリアリティの中で生きたいと無意識では思っているのだ。そう、変性意識状態はそうはしてくれないのである。とりわけ深い変性意識状態は、自分がこれまで信奉していた価値観や世界観を打ち壊し、リアリティも変容させる。逆に言えばそれこそが変性意識状態の価値でもあるのだ。人は自分を超えた価値観や世界観に憧れを抱くこともあるが、それらが変性意識状態からもたらされる超越的なものであればあるだけ恐れる。人は自分のリアリティを超えたリアリティを恐れ、それを受け入れようとはせずに頑なに拒む。日本を含め、依然として深い変性意識を引き起こす物質が規制対象になっていることの背後には、酩酊欲求を恥ずべきものや悪としてみなす文化的価値観に加えて、「変性意識恐怖症」と呼べるであろう病理を広く現代人が患っていることと関係しているように思える。サイケデリクスが社会の中で健全に普及していくためには、これらの問題を解決していかなければならない。フローニンゲン:2023/12/12(火)05:59
11583. スピノザ全集を読みながら:汎神主義者かつ汎心主義者の自分
今日の読書はスピノザ全集の読解から始まった。1000ページほどの“Spinoza: Complete works”という大著の再読に取り掛かっているのだが、もちろん隅から隅までを再読しているわけではなく、あくまでもサイケデリック哲学の研究における自分の関心テーマに沿った形で読書をしている。最初にスピノザの形而上学に関する箇所を読み、書籍の後半に掲載されているライプニッツとの往復書簡を読んだ。今の自分の関心はスピノザの形而上学思想にあり、本書を読み進めているとやはり色々と発見があった。スピノザにおける神の概念は、人格神的な神話合理性段階のそれを当然ながら超えていて、トランスパーソナル段階のそれとしての概念であった。遍く存在を生み出している因としての存在をスピノザは神と捉えていた。自身のサイケデリック体験に紐付けると、スピノザの神概念には大変共感する。遍く存在を生み出している一者としてのそれを神と呼ぶのは自分のサイケデリック体験における知覚現象と完全に合致する。全ての事物を生み出している存在が神なのであれば、神は至るところに存在し、全ての存在に内在しているとする汎神論の考え方は非常に納得のいくものである。スピノザから多大な影響を受けたライプニッツが後にモナドの考え方を拡張させて汎心論を唱えるが、自分はライプニッツの汎心論にも共感するところである。端的には、全ての存在には神的な何かと心的な何かの双方が内在しているという認識を今の自分は持っているようで、それであれば自分は汎神主義者かつ汎心主義者でもあるのだろう。どちらかではなくて、その双方なのだ。なぜ後者の汎心主義だけに留まらないかというと、事物に内在する心のようなもの、あるいは意識のようなものを生み出しているさらに次元の高い何かがなければそれらは存在しないであろうから、そうした超越的な存在を認めざる得ず、それはスピノザ風に言えば神として括っておくという立場を採用しているからだ。そこに自分の文化的出自である神道的な八百万の神の発想が加わっていることも大きな影響を与えているだろう。
スピノザの心身論もまた興味深く、スピノザはボディもマインドも等しく“substance”と見做していた。これは“material”とは違う意味での「物質」である。その違いを理解することができれば、確かにボディもマインドも「モノ」としての性質を持っていることが見えてくる。モノとしての性質があるから私たちの思考対象になるのであるし、そうした性質がなければそもそも認識すらできないはずである。その観点において、ボディもマインドも等しく“substance”であるとする考え方は理解できる。またそれらは次元の異なる階層に存在するモノであるから、ボディが存在しなくてもマインドは存在し、マインドが存在しなくてもボディが存在するというスピノザの発想は興味深く思える。しかし、モノとしての両者の関係性についてはさらに突っ込んで考えてみなければならない。存在の入れ子の考え方を採用すれば、ボディというモノが消失するとマインドも消失すると考えざるを得ず、ひょっとしたら存在の入れ子の考え方そのものを手放して、新しいパラダイムでボディとマインドを考えていく必要があるのかもしれない。フローニンゲン:2023/12/12(火)07:06
11584. 因果の「因」の探究/思考のモードとしての時間
スピノザ的に神を、超越的な存在を因果の「因」として捉えるならば、因について深く学ばなければならない。それについては本当に偶然で、昨日1階の段ボールから取り出してきたシステム理論家・ディーブエコロジスト・仏教徒のジョアンナ・メイシーの“Mutual causality in Buddhism and general systems theory: The dharma of nature systems”という書籍を再読することが有益であろう。この書籍もかつて何回読んだのかわからないが、本日スピノザの書籍を読み終えた後に着手したい。システム理論と仏教の観点から因果の因の性質を紐解いていく。次回のシロシビン・セッションでは是非とも仏教で言うところの縁起性について何か洞察を得たいと思う。そのための跳躍台として、ダイナミックネットワーク理論とダイナミックシステム理論を含めた複雑性科学の知見を総復習しておこうと思う。
今日はその他にも、ベルグソンの古典的な名著“Time and free will: An essay on the immediate data of consciousness”と“Mind-energy: Lectures & essays”を読み返す。それらは今から100年以上も前に出版されたもので、実際に今手元にある両者のハードカバーは味わいのあるカビが書籍のページに付着しているほど古い。前者の書籍は時間と自由意志に関するもので、前回と前々回のシロシビン・セッションにおいては時間と自由意志についてはあまり洞察を得ていなかったように思う。しかし、今後おそらくそれらに関する洞察が紐解かれていく知覚体験をする明瞭な予感があるので、その時に向けて通常意識において学習を進めておく。先ほど読み進めていたスピノザの書籍のある箇所において、スピノザは時間とは思考のモードに過ぎないと見做していた。時間を思考のある形態とみなす考え方もまた自身のサイケデリック体験と紐づければ腑に落ちる箇所がいくつもある。変性意識状態の中では時間に関する思考形態もまた変性されるため、時間感覚が異なった形で現れるという説明も可能であろう。現代人のように画一的なクロノス時間に縛られて生きている状態から、自らのカイロス時間を取り戻し、固有の時間感覚をさらに豊かに育むための手段として、言い換えれば時間を司る思考のモードを変容させる形で異なる時間感覚(本来の自分の内在的な時間感覚)を生きることを可能にする手段としてのサイケデリクスの活用の道があることも今後伝えていきたいことだ。フローニンゲン:2023/12/12(火)07:30
11585. 変性意識状態を活用する道
科学も哲学も神学も、さらには芸術も教育も政治経済も、それら人間が行う営みは全てある特定の意識状態に基づいて行われるのであるから、変性意識状態を活用しない道をこれまでずっと採用してきた近現代人は相当に間抜けな存在だったのではないかと思う。それら人間が従事する営みの全ては特定のイデオロギーやパラダイムに縛られていて、それによって行き詰まりを感じているのであれば、それを突破するために変性意識状態を活用するというのは当たり前の道なのではないだろうか。民主主義や民主政治の行き詰まりを抱えているのであれば、「変性意識主義」「変性意識政治」を掲げてみるというのは一案だろう。資本主義経済で行き詰まっているのであれば、「変性意識主義経済」に舵を切ってみるのも一案だろう。現代人が従事する営みの全てにおいて腐敗が見られる現状、それらの腐敗を治癒し、超克するための手段としての変性意識状態の活用は本当に真剣に検討されるべきだと思う。とりわけサイケデリクスを活用した変性意識状態の有効活用の道は、ありとあらゆる人間活動において十分に検討されるべきである。夜明けを迎えた朝の世界に鳴り響く1羽の小鳥の鳴き声を聞きながらそのようなことを考えていた。
学問、芸術、教育、政治経済、スポーツも、病理的なイデオロギーとパラダイムの上に乗っかり続ける形での営みは全て、病理を拡大再生産するだけである。現代を取り巻く病理的なイデオロギーとパラダイムそのものを変性させていくこと。その手段として本当に変性意識状態を有効活用して欲しいという誠実な願いがある。変性意識状態に対するアレルギーや拒絶症・恐怖症を患っている圧倒的大多数の人たちの矮小な思考の枠組みや価値観をどのように変性させていくか。しかもそれを彼らが毛嫌う変性意識を用いずにどのように行っていくか。それは非常に難しいことだが、変性意識状態は有無を言わせぬ形で意識の同調現象を引き起こすので、自分が変性意識状態を絶えず維持するような形でメッセージを述べていくことが重要になるだろうか。きっとそれが1つの道だろう。フローニンゲン:2023/12/12(火)08:26
11586. 継続/サイケデリック美学/無数の理論仮説を内包した宗教思想/
意識の起源と宇宙の起源
継続。一にも二にも継続である。自分は継続で出来ている。とにかくシロシビン・マッシュルームを中核に据えたサイケデリクスの摂取という実践道を継続させなければならない。思慮深い継続的な実践を通じてでしか見えてこないもの、獲得しえぬものが常にある。得られた洞察やビジョンを多くの人に共有していくこと。それがサイケデリック実践道を歩む自分に課せられている事柄である。実践をしない者には何も見えてこないものがある、継続をしない者には何も見えてこないものがあるのである。とにかく継続あるのみ。そんな自己克己の言葉が自分に投げかけられた。
無限に広がりを見せていくサイケデリック探究。先ほどは、全ての人が自分の固有の主観性に目覚め、それを大切にしながら育んでいくための美学の重要性を思った。哲学分野として“psychedelic aesthetics(サイケデリック美学)”という分野を確立させたいという思いが芽生えた。サイケデリクスは多種多様な力を私たちに授けてくれる。その1つに各人の固有の美意識・美的感覚を育みうる力を見出したい。
昨日、ヴェーダーンタ思想において、マインドは常に身体の再組織化を伴って発達していくという洞察を持っていることに驚いた。それはまさにカート・フィッシャー教授がマインドの発達と脳の発達の関係性を解き明かした研究からも実証されていることであり、おそらくヴェーダーンタ思想を含め、各種宗教思想の奥深い叡知には、現代の科学ではまだ解明されていない理論仮説がたくさん眠っているように思える。神学大学院に進学することができたら、様々な宗教の思想を学んでいこうと思っているが、それを行う目的はまさにそこにある。とりわけ意識やリアリティ、さらには宇宙に関してまだ現代の科学では解明できていない諸問題の解決に向けた理論仮説を探すことを目的にして世界の宗教思想に触れていくことをしていきたい。
スウェーデンの毒物学者カール・ジョハン・カルメン教授の思想を改めて思い出している。それを通じて、意識の起源は宇宙の誕生まで遡ることを思った。意識はやはりあるとかないとかではなく、常に宇宙と共にあり続けるものなのだ。そもそも地球という惑星は恒星が爆発したことによって生じた星屑が集まってできたのであり、私たちの肉体は星屑であり、元々は恒星だったのだ。私たちの意識の起源は宇宙そのものの始源にあり、意識を探究するというのは宇宙を探究することに他ならず、意識がどのように発生するのかという意識のハードプロブレムは、宇宙はどのように発生したのかというコスモロジカルな問いでもあるのだ。静謐な朝の時間が続く。今からライプニッツの書籍“The monadology and other philosophical writings”を読もう。フローニンゲン:2023/12/12(火)09:14
11587. ウィルヘルム・ライヒの「筋肉の鎧」「オルゴンエネルギー」とサイケデリクス
小鳥たちのさえずりを聞きながら、午前中の読書はすこぶる捗っている。先ほどから、ウィルヘルム・ライヒの“Ether, god and devil: Cosmic superimposition”という書籍を再読している。ライヒが提唱した「筋肉の鎧」を溶解させる力を持つサイケデリクスという観点で思考を進めていくことも面白いが、今回はライヒが提唱したさらにユニークな概念である「オルゴンエネルギー」に着目してあれこれと思考を展開させていた。端的にはそれは生命エネルギーであり、コスミックエネルギーでもある。ライヒは性体験がもたらすオーガニズムのメカニズムと効能に注目した研究もしており、色々と興味深い学者である。オーガニズムもまたオルゴンエネルギーの現れであり、それが凝縮した形で発生される現象がオーガニズムという生体現象かと思う。サイケデリクスとオルゴンエネルギーを絡めてみれば、それは上述の筋肉の鎧の溶解を通じてオルゴンエネルギーが高まり、肉体的なオーガニズムと同じような現象がマインド以上の階層構造で発生する可能性がある。実際のところは肉体的なオーガニズムもボディに留まるものではなく、マインド、ソウル、スピリットの次元にまで展開されていくものである。サイケデリック体験におけるピーク体験と性行為を通じたオーガニズムの違いと共通点についても今後探究をしていきたいと思う。
現在、エネルギーワークとサイケデリクスを探究している知人がいて、その方の話を伺った時に、両者は親和性が深く、大変素晴らしい着眼点かと思った。自分もまた臼井霊気のマスター資格を保有し、クラニオセイクラルバイオダイナミクスというエネルギーワークを実践してきたことからも、エネルギーワークとサイケデリクスに関する研究と実践はこれからの探究の焦点の1つにしたい。次回のシロシビン・セッションでは、「エネルギー」という概念および事象もまた探究項目にしたい。自らのエネルギー認識や自身のエネルギーの質や量がどのように変化するのか、コスミックエネルギーとのつながりなどの観点から次回のセッションを実施したい。フローニンゲン:2023/12/12(火)10:57
11588. 宇宙と自我/第3層の意識段階を待ってくれていた存在
時刻は午後3時を迎えた。始まりを持たぬ時間が永遠としての時間として知覚される形で時が存在している。自己と宇宙の始源は同じものだが、どちらも実は始源を持たない永遠の存在であるということ。それが触知される。
なぜ宇宙は二分法的な性質を持つ自我を生み出したのだろうか。そんな問いと少しばかり向き合っていた。おそらくそれは、最初から宇宙と一体となっていると私たちが宇宙の多様な表情を見ることができないからだったのかもしれない。そのような状態だと宇宙が進化しないからだったのかもしれない。私たちは宇宙に仕える存在であり、同時に宇宙そのものでもある。私たちの自我が宇宙との一体化に向けて進化するのは、それを通じて宇宙がさらに進化するためなのだろう。また宇宙が進化すれば、私たち自身がさらなる進化を遂げられるためなのだろう。差異化と統合化のプロセスをゆっくり経ながら宇宙の様々な表情を見て、様々な経験を積んでいくことが宇宙の進化に寄与すると宇宙は思ったからこそ、二分法的な性質を持つ自我を生み出したのではないだろうか。また自我の成長プロセスそのものを宇宙は楽しんで見たがっているのかもしれない。宇宙を自己と置き換えてみれば、そう言えないだろうか。自分という宇宙は自我のそんな姿を見たいし、自我には是非とも宇宙としての自己の多様な可能性を見て欲しいし、それらを紐解いて欲しいと思う。
サイケデリック研究とその実践に突如として目覚めたのは、第3層の意識段階に自らの足がかかるまで待たないといけなかったからなのだと明確に気づかされた。その段階に足をかけるまでは、自己の本質が求める研究も実践もできないと自己を超えた存在は思っていたのだろう。そうして自分を長らく待ってくれていたことに深々と感謝をしたい。第2層から第3層の意識段階へ緩やかに移行してくると、第2層と第3層の意識段階で決定的に違うのは、全体性の把握もトランスパーソナル体験も知的把握に留まるのではなく、直接体験を通じてなされる点であることに気づく。サイケデリック体験はまさに豊かなトランスパーソナル的直接体験を積む多大なる機会を提供してくれている。これからの自分に求められるのは、そうした体験をとりわけシロシビン・マッシュルームを通じて十全に積みながら、学術探究やその他の実践を通じて地に足をつけていくことである。くれぐれもトランスパーソナル中毒に陥ることなく、そしてここからの段階的成長を急ぐことなく、自らの成長速度で一歩一歩の歩みを大切に日々を過ごしていく。フローニンゲン:2023/12/12(火)15:20
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