・カリンバ即興演奏曲はこちらからご視聴いただけます。
・8617個のピアノ曲・箏曲の全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。
・アートギャラリーはこちらからご覧いただけます。
成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスやその他のテーマについてお話しさせていただくチャンネル「インテグラル・サイケデリックラジオ」はこちらからご視聴いただけます。
タイトル一覧
11498. シロシビン·マッシュルームの2周目の栽培の進展
11499. 今朝方の夢
11500. ヤクザとサイケデリクス
11501. 曼荼羅的究極一致
11502. サイケデリック哲学とサイケデリック神学の目的と役割/ユングの形而上学思想より
11503. 鈴木大拙氏のサイケデリック学への貢献と限界/「一性」を通じて
11504. サイケデリクスへのレディネス/「サイケデリック」という言葉から
11505. サイケデリクスと真善美
11506. サイケデリック体験と時間の園について
11507. 全てはサイケデリック研究とサイケデリック実践のために:爽快な汗をジムでかいて
11508. ロッカールームでの誓い
11498. シロシビン·マッシュルームの2周目の栽培の進展
時刻は午前4時半を迎えた。シロシビン·セッションを終えて、今日からまた新たな週を迎える形となった。セッションを通じての生まれ変わりの後の最初の週。今週もまた学びで満ちた7日間になるだろう。今朝方もまたいつもの調子で随分と冷えていて、今の気温はマイナス1度であり、雪マークが付されている。外が真っ暗なのと、寒さを少しでも防ぐために窓にレースを張っているので外の様子は見えない。どうやら早朝のこの時間帯から数時間ほど雪がぱらつくようで、そこからは雪も止み、今日は曇りの形で1日が進行していくようだ。
先ほどキッチンのシロシビン·マッシュルームの栽培キットを確認したら驚いたことに、もういくつかマッシュルームの頭が出ていた。1周目の栽培においては、キットを開封してから2週間ほどしてようやく頭が出てくるようになったので、今回はかなり早い展開である。そもそも2周目の栽培を始めたのは前回のセッションの前日だったと思うので、まだ5日ぐらいしか経っていない。おそらく、1周目の栽培によって土に刺激が加えられていて、いったん収穫をしてもその刺激によってマッシュルームが発育しやすくなっていたのではないかと思う。いずれにせよもう頭が出て来たことから、ここからは毎日数回ほど新鮮な空気を栽培キットに入れることにし、霧吹きで湿度を保つようにする。正直なところ、ここ数日間は暖房が追いつかないほどに室温が栽培最適温度を下回っていたので大丈夫かなと思っていた。しかしその心配とは裏腹に、こうして新たな生命としてマッシュルームの頭が出て来てくれたことは本当に嬉しい。
今日もまたサイケデリック研究を進めていく。今日はまず最初に、バーナード·カストラップが執筆したユングの形而上学を紐解きながら意識とリアリティについて考察している書籍を読む。それは昨日届けられたばかりの書籍で、この書籍の初読を終えれば、カストラップの単著には全て目を通したことになる。カストラップの思想は非常にユニークで、2つの博士号を取得しているというユニークさと彼自身が30代から思索のためにサイケデリクスを積極的に摂取して来たというユニークさもあり、彼の書籍は何度も繰り返し読むことになるだろう。次回は精読し、徹底的に彼の書籍を読み込むことを通じて彼の思想と格闘し、自分なりの意識の哲学を構築していくことができたらと思う。自分もまた自らのサイケデリック体験をもとにしながら彼の書籍を思索の跳躍台とさせてもらい、意識とリアリティに関する新しいメタファーや考えを醸成できたらと思う。カストラップの書籍の初読を終えたら、そこからはサイケデリック哲学者のピーター·ショステッドが監修者を務める論文集の精読をしたい。こちらの書籍についてはもう3回目の読解になるので、今回は丁寧に1つ1つの論文を紐解いていこうと思う。おそらく今日もまだまだたくさんの書籍を読めるであろう。それ以降は自分の関心の赴くままにサイケデリクス関係の書籍でも読んでいこうと計画している。中でも、テレンス·マッケナのいくつかの書籍にはまた目を通しておきたいと思う。フローニンゲン:2023/12/4(月)04:52
11499. 今朝方の夢
ユングが提唱したアクティブイマジネーションとしての、そしてシャドーワークとしての、さらにはシロシビン·セッションに向けての準備としての夢日記を今日もまた綴っていきたい。
今朝方は夢の中で大きな洞察と存在に関する絶対的安心感が得られる場面があった。具体的な描写を今思い出しているが、なかなか思い出せない。そのようなことを書いたら不思議なことに場面の情景が脳裏に蘇って来た。夢の想起能力も高まりを見せているのは、これまでの夢日記の蓄積による浄化の進展のおかげかもしれないし、これまでのサイケデリックセッションが“psycholytic (shadow-dissolving)”なものであったがゆえの無意識層の浄化の進展のおかげかもしれない。いずれにせよ、夢の中で私はアジアのどこかのリゾート地の高級ホテルに宿泊していた。雰囲気としてはタイかインドネシアのようであった。そのホテルは穏やかで美しいビーチに面していた。その日は雲ひとつない晴れで、太陽の光で輝く海を眺めながらビーチとつながるホテルのプールサイドで寛いでいた。その時に、太陽が自分に深層的なエネルギーを与えてくれていることに気づき、身体エネルギーの充電のみならず、知的な次元や魂の次元におけるエネルギーまで充電されたかのような感覚があった。それを受けて私は直感的に、この状態であれば自分の能力を世界のどこでも遺憾無く発揮できると思った。その思いを受けて、自分がこの世界で存在することを認めてもらったかのような感覚となり、それが絶対的な安心感を生んだ。そのような場面があった。このように最初の夢について書き出してみたときに、この夢に付随してまた何か別の夢を連続的に見ていたような気がする。夢は連続的なのか非連続的なのか。夢は離散的なようにも思えて、そうでもないように思えてくる。いずれにせよ、夢もまた1つの究極的意識の表象なのであり、表象としての夢が連続的であろうがなかろうが、夢を生み出しているものは絶えず1つなのであり、自分はもうその1つと1つになっているのだ。
起床直前に見ていた夢は、サッカーJリーグのあるチームの大きな躍進を目の当たりにしているものだった。そのチームはもともとは弱小チームだったが、ある年から強豪にの仕上がり、今ではJリーグを代表する立派なチームの1つである。そんなチームは2つの世代にまたがる形でオリンピックに出場した選手たちがたくさん集まっていた。リーグの開幕は2つの世代のコンビネーションがイマイチで、世代が変わると世界観というかサッカー観が異なるので、息の合ったプレーをするのが難しそうであった。しかし、選手たちが自発的に選手同士で意見交換をすることによって連携プレーの質がみるみる上がり、あれよあれよという間に優勝を争う位置につけた。迎えたホームでの大一番の試合においても序盤から連携プレーが光り、立て続けに得点を決め、スタジアムは歓喜に包まれて大盛り上がりでった。私は日々の練習からその試合も含めて、ずっと選手のことを見て来たので、とても嬉しい気持ちになった。そのような夢を見ていた。
実は今朝方は深夜に1度目が目が覚めていた。しかしあまりにも早い時間だったので、2度寝をしようと思ったのだが、早朝に夢を見て目覚め、まだ起床するには早すぎると思った場合には、無意識を探求する最良の素材である夢を無駄にしないために、夢をメモ帳に書き留めてから2度寝しようと思う。これはこれから徹底していきたい。ついついメモ帳に書き留めるのが面倒でそのまま2度寝してしまうことが多いので。フローニンゲン:2023/12/4(月)05:07
11500. ヤクザとサイケデリクス
夜明けまではまだまだ遠い中、聞こえてくる音も暖房の音だけという世界の中で、昨日見ていたドキュメンタリーについて考えていた。昨日は、Netflixの“Twilight of the Yakuza (2013)”というドキュメンタリーを見ていた。タイトルにあるように、この作品はヤクザを取り上げたものである。現役のヤクザとヤクザをやめた人たちが作品の中で登場し、ヤクザを取り巻く世界を描く。この作品を見ながら、ヤクザとサイケデリクスは非常に似ている側面があると思った。とりわけ社会からの視線や扱いに共通点を見出したのである。端的には、人々は差異化をすることなく、ある特定の信念やイデオロギーの元にヤクザやサイケデリクスを見てしまっているという共通点がある。もちろんヤクザには様々な人がいるのだが、ヤクザを悪と等号で結んでしまう人がいかに多いことか。それはサイケデリクスを悪と等号で結んでしまう人がこの社会に無数に存在しているのと同じである。確かにヤクザにも様々な組や人間がいて、様々な犯罪が起こっていることは確かである。しかしそもそもこうした犯罪の背後には、暴力団対策法によってヤクザへの締め付けが過度に強化されてしまったことが1つ大きな要因としてあるように思う。ドキュメンタリーの中でも語られていたが、ヤクザの起源は江戸時代にまで遡り(ヤクザの前身「博徒」になると平安時代まで遡るらしい)、当時はもちろん賭け事まわりの仕事にも従事していたが、何よりも大事なこととしては警察に協力する形で町の治安を維持するという重要な機能を担っていた。その他にもヤクザが社会に対して果たしていた良薬としての側面は多々あったはずなのだが、ここでもまた政治的な理由によりヤクザを過度に取り締まる法律ができてしまった。こうした一連の流れはまさにサイケデリクスにそっくりそのまま当てはまる。結果としてどのようなことが起こったかというと、アンダーグラウンドに潜るということになり、そこに犯罪が付随するようになって来たのである。結局ここでも、ヤクザにせよサイケデリクスにせよ、その本質的な機能が何で、それが歴史的にどのような意味を持っていて、それが現代社会に対して果たす役割は何かを考えることなしに、純朴な思い込みや安直な政治的な意図によってそれに悪の烙印を押して過度に取り締まり、社会の周辺に追いやってアンダーグランドに追いやるという愚行が見える。
ヤクザへの風当たりが強くなることを恐れているのは、サイケデリクス関係で言うと、サイケデリクスとは似て非なるものであるハードドラッグが社会で蔓延することを助長することである。ドキュメンタリーの中でも述べられていたが、覚醒剤は利幅が取りやすく、その売買に加担してしまうヤクザも増えてしまうだろうし、また治安維持機能を担っていたヤクザが減少することによって、外国人が日本で危険なドラッグをどんどんと販売することを助長しかねないし、実際にもうその動きは以前から起こっているのである。治安維持の観点で言えば、外国マフィアがより日本で活動しやすくなってしまうという問題もある。日本は防衛費を増大する形で自衛力の強化に踏み切ったようだが、自衛の形はもっと多様であり、ヤクザを過度に締め付けないということが実は一般市民を外国からの危険ドラッグや海外マフィアから守る最良の自衛策の1つだったのではないかと思うほどである。
そのようなことを考えながらドキュメンタリーを見え終えると、やはり思い出されるのは中学校2年生の冬に手術で入院したときに同部屋になったヤクザの親分の思い出である。ドキュメンタリーの中でも語られていたように、ヤクザには今の日本社会が喪失してしまっているような精神性が本来あり、それは「仁義」「義理人情」などと言われる。中学校2年生のあの時の自分は、ヤクザの親分が自分の左のベッドに寝ていることを知って最初少し驚いたが、親分と組員とのやり取りや看護婦さんとのやりとりを見て、現代の利己的で徳もないような圧倒的多数の人間たちよりもずっと人間的で温かい人なのだと感じたのを子供心ながらに思ったのを今でも覚えている。こうして日本はまた無知と無能さによる意思決定によって、日本が歴史的·伝統的に持っていた大切なものをまた失うのだと思うと大変やるせない思いになる。少なくとも自分は自分の道を歩く過程で見えた真実を伝え、大切なものを守ることとそれを育む営みにこれからも邁進していく。そのようなことを改めて思った。フローニンゲン:2023/12/4(月)05:59
11501. 曼荼羅的究極一致
温かいモーニングコーヒーを自らの手で淹れ、それをすすりながらデジタル絵画の制作と即興的作曲実践をいつものように行っていた。昨日このことについて気づいたことがある。それは何かというと、自分は毎日、スタニスラフ·グロフが発明したホロトロピックブレスワークのセッションの最後に体験のインテグレーションとして行う曼荼羅を描くのと同じことを日々デジタル絵画の創作と即興作曲実践で行っていることに改めてはたと気づかされたのである。後者のカリンバでの作曲実践は、音を用いた音楽的曼荼羅の創造実践である。どちらも共に自分にとっては曼荼羅なのである。自分の魂から生み出される絵と音を通じた曼荼羅なのだ。自分という曼荼羅的存在は曼荼羅世界の中に生きている。どちらの曼荼羅も千変万化を一瞬一瞬の間に繰り広げていて、両者の曼荼羅は深層的には一なる存在である。曼荼羅的究極一致として日々を過ごしている自分が今ここにいる。そしてそれはもうずっと前からそうであったことを思う。
めっきり寒くなって来た冬のフローニンゲンにおいて、毎朝のコーヒーはホッと一息つかせてくれるし、温かさを感じさせてくれる。コーヒーの本質的性質は体を冷やす効果があるらしいが、コーヒーの温度と味によって心が温まっていることは間違いない。そろそろ今使っているコーヒー豆が切れて来そうなので、今日は午後にジムに行く前にコーヒー豆専門店に立ち寄って、コーヒー豆を2種類ほど購入しようかと思う。冬の季節は個人的には深煎りの豆が好きで、今日もまた深煎りの豆の中で過去に試したもの以外に新しく何か試してみようかと思う。とは言えもうその店にある豆は大半試しているので、摂取する頻度が低かった豆を意識的に選んで購入してみようと思う。それでは今から本格的に今日の研究活動に入っていく。研究活動においては大きな方向性だけを決めておいて、毎日の小さな方向性はその日に決めていくという方針を採用している。大きな方向性もまた日々内省する形で方向転換がなされていくわけだが、そうした方向性の柔軟性と無限拡張が自分の探究を広く深いものにしてくれていると実感する。今日の読書体験を通じて得られる事柄。それもまた曼荼羅であり、曼荼羅創造の一環である。フローニンゲン:2023/12/4(月)06:32
11502. サイケデリック哲学とサイケデリック神学の目的と役割/
ユングの形而上学思想より
サイケデリック体験の潤滑油として、さらには解釈の枠組みの提供を目的としているのがサイケデリック哲学である。またサイケデリック神学の目的はそれに連なりながら、ユング的に言えば、自身のサイケデリック体験を単に個人的なものに留めず、その解釈を個人の枠組みから社会や世界そのものに広げてくれる役割を果たすことを目的にしている。サイケデリック体験の中では原型と遭遇することがとりわけコーザル意識状態のフェーズにおいてはあるため、その解釈を促すのはサイケデリック哲学とサイケデリック神学の役割でもあり、特に後者は自身を取り巻く宗教文化的なものとの結びつきからそうした体験を解釈することを後押ししてくれる。これらの点はサイケデリック科学にはない良さであり、サイケデリック科学·哲学·神学の3つが共存共栄し、お互いの相互作用を通じてさらにそれぞれが発展していってくれればと願う。少なくとも自分はそれら3つの全てに関与し、自分の中でその三位一体を育んでいく。それを通じて他者や社会に対してサイケデリクスを通じて貢献をしていきたい。
ユングの形而上学思想は非常にシンプルだが、本質的なことを伝えてくれている。端的には、ユングはマインドと世界は本質的に一なるものであり、同じものだと捉えていた。そして、リアリティとは決して物質的なものではなく、本質的に経験的なものだと考えていた。肉体が魂を形成するのではなく、その逆で、魂が肉体を形成し、維持すると考えていたのである。非常に短くまとめると、ユングの形而上学思想はそのようになる。さて、自身のサイケデリック体験と紐づけてみると、非常に腑に落ちる箇所がいくつもある。ナイーブな観念論ではない形で、確かに自らの意識と世界は本質的に同一のものだという体験的知覚をすることがこれまでにも何度もあった。前回のシロシビン·セッションはまさにその最たるものだった。セッションの振り返りで何度も登場していた「宇宙」というのはユングでいう世界のことを指し、リアリティ全体のことを指す。それと自分のマインドが一なるものであるという確かな知覚体験をしていた。それは経験的なもので、ここからもユングが述べるリアリティとは経験的なものであるという言葉が腑に落ちてくる。また、確かに上方因果として、肉体がマインドや魂に与える影響は大きいが、ユングが述べるような下方因果の働きが本質として存在している。それは世界創造ないしは宇宙創造と関係するものであって、おそらく根源的には究極意識が内外の宇宙を創造し、今もなおそれらが生成を続けているのも物質的なものではなく、究極意識がそれを担っているのだと思われる。こうした仮説的考えを自分は持っているが、まさにそれはユングの思想に連なるものである。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2023/12/4(月)06:55
11503. 鈴木大拙氏のサイケデリック学への貢献と限界/「一性」を通じて
鈴木大拙氏のサイケデリック学への貢献として、サイケデリクスと宗教の連関を認め、その点を指摘したことと、サイケデリック体験において魔境体験を悟りと混同しないようにすることを指摘したことであった。当時はティモシー·リアリーなどがサイケデリクスの世界で旗振り役を務めて、LSDなどのサイケデリクスを通じて体験される状態を「ドラッグ誘引的悟り」と表現しており、それは実際のところは魔境的なものであったからとりわけ後者の指摘は重要である。端的には、大拙氏はサイケデリック体験における悟りへの階梯における差異化を行う貢献を果たしたのである。同様の批判をオルダス·ハクスリーのメスカリン体験に対しても行っている。しかしながら、大拙氏自身はサイケデリクス を批判し、批判しながらも関心を持っていたが摂取する機会がなく、結局のところサイケデリクスが実は魔境よりも先の意識状態や知覚体験を開示することについては考えが及んでいなかった。これは当時まだサイケデリクス研究の蓄積が少なかったことを思えば仕方のないことであるが、本来悟りの段階を体現していれば、サイケデリクスを摂取する道もまた肯定されるべきであり、そこに意義や価値を一切見出さない形での批判は決して悟りを通じた態度ではない。そもそも禅では日常性こそが重要視されていて、非日常性に価値を見出さない傾向がある。日常が重要だというのはわかるが、非日常を排斥するというのもまた二元論的·二分法的な在り方である。そうした在り方を超克して、日常性と非日常性の双方を大切にする在り方を通してのサイケデリクスを通じた悟りの道があることをこれから示していこうと思う。その道を体現した形での生き方をこれから貫く。そのようなことを夜明け目前に考えていた。
時刻は午前8時を迎え、辺りはようやく明るくなって来た。それに伴って、外の世界が白色がかっていることに気づく。車庫の屋根は白に染められ、地面もまた白に彩られている。こうした朝の世界もまた日常的であるのと同時に非日常的である。宇宙的に眺めれば、日常と非日常の区別などなく、全てが一の状態を絶えず保持しているのである。この「一性」こそ大切にするべきものであり、それを常に感じながら時間を超えて生きたいと思う。フローニンゲン:2023/12/4(月)08:07
11504. サイケデリクスへのレディネス/「サイケデリック」という言葉から
先日、サイケデリクスの摂取に関心はあるが、戻ってこれないのではないかという恐怖があると思う人が結構いると聞いた。確かにそれは自分も最初のアヤワスカの摂取体験において抱いていた恐怖なので共感できる。しかし、サイケデリクスを摂取しても自分が自分であることに変わりはなく、再び日常的リアリティに戻ってくる。それは否が応でも。ここで考えてみたいのは、その恐怖が何に対するものなのかということである。確かにサイケデリクスの摂取によっても再び日常世界に自分として戻ってくるのだが、仮に今の自分の延長にある新たな自己の側面を持ち帰ってくることに恐怖を感じているのであれば、それは無意識的に発達を拒絶するフォボス的な衝動の発露なのではないかと思う。端的には、サイケデリクスを摂取して以前のまま日常に戻ってくるのは何の意味もないことなのだ。重要なことは、サイケデリクスを摂取して自己と世界に新たに目覚めることであり、これまで見落としていた自己と世界の真実に1つでも気づくことであり、それを通じた成長を実現していく形で日常を生き直し、この社会に貢献していくことなのではないかと思う。ゆえに、サイケデリクスを摂取することに関して戻って来れられないのではないかという恐れを持つことは理解できるが、それも未分化の恐れであるから、その恐れを精査することがまず求められる。おそらくそうした身分化の恐怖心を持っている人たちはサイケデリクスに対するレディネスは低く、摂取しないのが賢明かと思う。サイケデリクスを摂取する前にまだまだやるべき内面探求があり、それをしてからサイケデリクスの摂取に向かうのが重要なプロセスの流れかと思う。
サイケデリック哲学者のピーター·ショステッドが指摘するように、“psychedelic(サイケデリック)”というのは名詞で使われるよりも形容詞で使われることが一般的だ。名詞で使われる場合には“psychedelics(サイケデリクス)”という複数形の表記を取る。自分が探究している学問分野をあえて「サイケデリック学」と呼んでいるかというと、それがサイケデリクスを対象にしながらも含んで超えていて、探究の在り方もアプローチもサイケデリクス的なものだからである。 「サイケデリクス的」というような超越意識と繋がりながら無限に様々なものが開示されてくるという意味を持っている。本来は、(形容詞+「学」)という形式を採用するのはおかしいが、上述の理由からあえて形容詞形の「サイケデリック」という言葉を使って、「サイケデリック学(サイケデリック哲学+サイケデリック科学+サイケデリック神学)」という分野を確立して探究していこうと思っている。この探究する自己そのものが宇宙的であり、サイケデリック的(サイケデリクス的)なのだから。フローニンゲン:2023/12/4(月)08:30
11505. サイケデリクスと真善美
一面白銀世界を目の当たりにしている自己は、その美しさに包まれる。気がつけば午前9時を迎え、もうすっかり夜は明けたが、世界は白一色に包まれている。このところは暗く冷たい世界の中で、絶対無について深く考えたいと希求する自分と、情熱で満ち満ちた状態で空性について深く考えたいと思う自分が存在感を増しているのに気づく。前者は世界と写し鏡的な探究姿勢であり、後者は自分の内面状態と対極性にあるように思えるような事柄だが、結局のところ満ち満ちているという状態と空が同一であることを絶対感覚的に認識した上での探究姿勢が見える。
サイケデリクスと美学のつながりで言えば、スタニスラフ·グロフが指摘するように、私たちはサイケデリクスの摂取を通じて4つの大きな経験世界を体験する。そのうちの1つが美的な世界である。とりわけグロスの意識状態の扉の向こうのサトル状態に入ると、そこには幾何学模様を含めた様々なビジュアル的イメージが知覚される。それらもまた美的対象となるが、さらに意識状態を深めていくと、そこで体験される美的体験は崇高さを増す。実はこうした点にいち早く気付いて論考を残していたのがアイルランド生まれのイギリスの政治思想家エドマンド·バーク(1729-1797)である。バークと言えば保守主義思想で有名だが、実はバークは“A Philosophical Enquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful”という書物の中で、サイコアクティブな物質とマインドの関係性、そしてそれらと美の関係性について論じている。バークは、サイコアクティブな物質は美的崇高さの持つ社会的な機能を吟味する上で有益なツールであると述べている。サイコアクティブな物質を通じて開示される美的世界の中で、崇高さに触れ、自らの美意識に目覚め、それを涵養するきっかけを得られることもあるだろうし、社会が私たちに押し付ける慣習的な美意識を見つめ直すことにもつながると自分は考えている。いずれにせよ、サイケデリクスの摂取体験は私たちの美意識を見つめ直す契機を与えてくれる意義と価値を持つことを改めて思うし、真善美の観点で言えば、サイケデリクスは自己とリアリティの真実を多様に開示してくれる。またサイケデリクスは、自らの善意識を見つめ直し、それを涵養する方向でも活用できるだろうし、そうであるべきだと思う。なるほどサイケデリクスは、今の自分の真善美の全てを開示し、それら全てを涵養するきっかけを与えてくれる役割と価値を有していたのだと気付かされる。これまでのサイケデリック·セッションではどちらかというと自分の内側と世界の真の探求に意識が向かっていたが、次回のセッションからは美と善をより意識してセッションに取り組んでいきたいと思う。フローニンゲン:2023/12/4(月)09:25
11506. サイケデリック体験と時間の園について
時の周期性。いや、時の円環性。こうして白銀世界に身を置いていると、毎年こうした季節がやって来て、長きにわたる冬の世界を抜けたらまた生命力溢れる輝かしい春がやって来ることを知っている自分がいる。一見するとそれは直線的な時の流れの上にあるように思えるかもしれないが、自分はそうは感じていない。それは決して直線的な時の流れの上にあるものなのではなく、円環的な時の流れの中にやって来るものとして感じている。それぞれの宗教を眺めていると時の概念が違う。例えばキリスト教は直線的な時間概念を持っていると言われる。終末論が示すように、確かにそうした時間の考え方がキリスト教にはあり、キリスト教神学に大きな影響を受けた現代の科学は直線的な時間概念を前提としていると言えるかもしれない。そしてそうした時間概念を持つ科学から生み出されたテクノロジーによって構築された社会の中で生きているのが現代の私たちなのだろう。そうした直線的な時間概念の中を生きることを私たちは迫られており、そこから完全に脱却することは難しい。むしろ直線的な時間の流れによってこの社会に秩序が保たれているとも言える。しかし、このリアリティにおいて完全であるものはなく、秩序だった世界にも必ずひび割れが入る瞬間がある。ひび割れもまたリアリティの遊戯なのである。この世界は破壊と創造を通じて運動していて、時に秩序を好み、時に秩序を嫌うのである。だから秩序だった一見完全に思える世界にも偶発的にひびが生じるのだ。直線的な時間の流れに辟易したら、円環的な時間の流れに身を置いてみるのはどうだろう。円環的な時間は多分に仏教的な時間感覚であり(円環的以外にも、時がこちらから向こうに流れる時間概念ではなく、向こうからこちらに流れて来る時間概念もある)、それに浸ることを通じて、直線的な時間の流れで退屈し、疲弊した自己は再び自己を取り戻す。また、直線的な時間の流れに亀裂が入ったその世界を修復する機能も持っていると言えるかもしれない。神道の時間の流れはどうだろうか。確か神道は時間超越的な発想を持っていたのではないかと思う。これもまた大変意義深い時間感覚で、サイケデリック的な時間感覚に近しい。キリスト教的な直線的時間概念も仏教的な円環的な時間概念も時間を前提としているが、神道のそれは時間をそもそも前提としていない。端的には時間を超えた世界に眼差しが向かっているように思える。まさに先般のサイケデリック体験で体験したのは、そして往々にしてサイケデリック体験で知覚するのは、時間超越的な感覚である。時間の外側に出る体験と言えばよりわかりやすいだろうか。時間の園の外側に出てみること。確かに私たちは時間の園の中で充実した日々を送ることは可能である。しかしその園に亀裂が生じたら、園から外に出て時間の外の世界を味わい、そこから時間の園の修復をして再びそこで生きるということをしてみてはどうだろうか。サイケデリクス体験と時間の園についてそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2023/12/4(月)10:37
11507. 全てはサイケデリック研究とサイケデリック実践のために:
爽快な汗をジムでかいて
時刻は午後4時を迎えた。つい先ほどジムから戻ってきて、シャワーを浴びてさっぱりしたところである。12月に入ってめっきり冷え込んできたフローニンゲンではあるが、寒さが厳しくなって来る季節は逆に秋よりも晴れの日が多くなるのでそれは嬉しいことである。個人的には凍てつく寒さは嫌いというよりもむしろ好きであり、逆にぐずついた天気の方が好まないので、実はフローニンゲンの秋よりも冬の方が好きなのだ。ただしフローニンゲンの秋は短く、冬がとても長い。ここから5月中旬までは冬だと毎年括って生活している。
天気予報では今日は曇りだったが、そんなことはなく、午後にジムに行く際にはエメルラルドグリーンに輝く空を見ながらジムに行くことができた。冬の空は本当に爽快である。ジムまでいつも準備運動がてら小走りで行くのだが、鼻から入って来る呼吸がとても冷たく、その心地良さを感じていた。途中の道には雪が残っている箇所が多く、雪景色を味わいながらのジョギングとなった。
月曜日はジムでの自主トレーニングの日であり、いつものようにアニマルフローを準備運動として行った後は主に上半身を中心に鍛えていった。最初は広背筋など上半身でも後ろ側の筋肉を鍛えることを意識したり、肩甲骨周りの小さな筋肉から鍛えていき、そこから大胸筋といった大きな筋肉を鍛えるようにしている。小さな筋肉から徐々に大きな筋肉に向かって鍛えていくことによって、上半身全体の疲弊を抑えながら徐々にエネルギー消費量を多くしていくことが狙いである。上半身を一旦全て鍛え終わったら、サンドバッグがある部屋に移動し、ジークンドーの稽古をする。この時になるべく硬いサンドバッグを叩くことによって拳を鍛えるようにしている。サンドバッグを相手に集中して打撃を何度か打ち込んだ後は、全力に近い形のシャトルランをすることによって無酸素運動による心肺機能の強化を図っている。それが終わったら再びトレーニング部屋に戻ってきて、大胸筋を鍛えたり、ハムストリングを鍛えたりしていった。40分から45分ぐらいでメインのトレーニングを終え、今日もまたローイングを12分、ランニングマシンを20分活用した。とにかく有酸素運動が気持ち良く、病みつきになってしまいそうである。サイケデリクスには中毒性がほぼないが、むしろランニングの方が中毒性があるぐらいである。今日はパーソナルトレーニングがない日だったのでローイングマシンの強度を8に設定し、12分間漕いだ。パーソナルトレーニングの日は結構きついメニューをこなすので、強度を7に設定し、10分は漕ぎたい。今日のランニングマシンではロードと同じ強度の傾斜角度を3度に設定し、最初はとてもゆっくりとジョギングのペースで時速9kmに設定し、そこから5分経ったら徐々に速度を上げていった。腸と同じぐらい自分は心臓を大切にしていて、ランニングマシンを使って心臓をより効果的に鍛えていく方法はないかと模索している。今のところの工夫としては、最初から最後までずっと同じ速度で走るのではなく、心臓に異なる刺激を入れるために、段階的に速度を上げていき、20分走り終えた後もいきなり歩き始めるのではなく、段階的に速度を落とすようにしている。この工夫は段階的な刺激によるリズムの変化を心臓にもたらすことを意識していて、今のところそれは効果的のように感じるがどうなのだろうか。このあたりも追加での調査が必要である。今日のランニングマシンの最中には、足の着地に合わせて「ワン·ツー」と英語でカウントをしていて、それが数える瞑想の一種として機能していた。そして窓ガラスから外を眺める際にもできるだけ一点を見つめ続けるようにしている。これについてはまだまだ工夫が必要で、道ゆく人や車に気を取られてしまうことがあり、今後は一点だけを見つめ続けることの持続時間を長くしていこうと思う。とにかくこれは集中力を高める訓練でもあり、瞑想実践でもある。だからあまり速度を速くしてはいけないのだ。しかし速度が一定過ぎても心肺機能の鍛錬にはならないので、その中庸を取るような工夫をしている。集中力を高めることも心肺機能を高めることも、全てはサイケデリック研究とサイケデリック実践のためであることは言うまでもない。今日も本当に良い汗をかいたので、後ほどの夕食はさぞかし美味いだろう。フローニンゲン:2023/12/4(月)16:30
11508. ロッカールームでの誓い
カネも時間も惜しまず、自分の全てを捧げること。自分の人生の全てを捧げること。それくらいの覚悟でサイケデリック研究とサイケデリック実践に日々打ち込んでいる。そんな環境を提供してくれているオランダという国に感謝しなければなるまいし、それを実現させてくれているフローニンゲンの落ち着いた自宅にも感謝しなければならない。今住んでいる家は本当に素晴らしい。通りから隔離された場所にある一軒家に1人で生活しているのだが、周りの環境が本当にすこぶる静かなのだ。この静けさが日々のサイケデリック研究とサイケデリック実践をこれ以上ないほどに後押ししている。自らの研究と実践を妨げる人や事物から一切の距離を取る。それは今後もとにかく徹底させていきたい。とりわけ煩わしいのは人間である。人付き合いという言葉は自分の辞書にはない。そのページはとうの昔に破り捨てているのである。本当に大切な人たちとだけ付き合いをしていく。それを徹底完徹させていかなければならない。それは自らの人生における規範である。損得で自分に集まって来る人たちにはとにかく気を付ける。それは蜜に集まる蜂のような存在である。そうした存在からとにかく距離を取ること。これについては何度強調してもし過ぎではない。
今日ジムでのトレーニングを終えてロッカールームに引き揚げようとしたとき、トレーナーかつフローニンゲン大学の修士課程に所属しているドイツ人のエレンと話をした。エレンはとても気さくな女性で、それでいてとても知的である。自分がかつて卒業したタレントディベロップメントと創造性の修士課程に在籍している彼女は、トレーナーの仕事と並行して修士号取得に向けて勉強している。大学院での勉強の様子を尋ねると、今学期は自分もかつて理由していた心理統計を用いたタレントアセスメントの授業を履修しているらしく、パートタイムでの修士課程なので、もう1つは修士論文の執筆に向けたコースを履修しているらしい。修士論文の内容について尋ねると、オランダのサッカー1部リーグのFCフローニンゲンの選手たちを対象にして、意思決定のプロセスについて心理統計手法を用いて研究しているらしい。そこから少し説明してもらい、とても面白い研究だと思った。エレンが履修しているコースは自分が今から6年前に履修していたもので、コースを担当していた2人の先生はかつてと同じで、今もそのコースを教えていることに感銘を受けた。大学教員としては当たり前のことなのかもしれないが、自分も色々なところで様々なコースを担当してきたが、6年間も同じ対象について教えたことは一度もない。しかしロッカールームに引き揚げてずっとそのことについて考えていて、今の自分であれば唯一サイケデリクスについてだけは長く大学でコースを担当することができるような気がした。それは確信めいたものでもあり、ようやく自分は大学に長く所属し、そこでコースを担当することに前向きになっているのだと思った。何よりも正式な大学院で高度な内容を優秀な学生たちと一緒に学びたいのである。しかもそれは母国語ではなく、英語で行いたいと切実に思っている。欧米での生活も12年を迎え、学術的な事柄であればもう日本語と同等の発話能力を獲得しつつあるように思う。もちろんまだまだ発話能力には磨きをかけ続けていかなければならないが、とにかく英語能力にせよ、自分の気持ちにせよ、欧米の大学に所属して、学部生や大学院生に授業を提供することに強いモチベーションを持っている自分がいることに気づいたのである。もう迷わずその実現に向かっていこうと誓いを立ててロッカールームを後にした。フローニンゲン:2023/12/4(月)16:46
Comments