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11489-11497: フローニンゲンからの便り 2023年12月3日(日)



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タイトル一覧

11489. 腸と宇宙/クリストファー·ベイシュ教授の話を思い出して

11490. 今朝方の夢

11491. 最近の生活リズムの変化より/ 問うことと余白

11492. 夜明け前の考え事

11493. ここからの読書の方向性

11494. 脳内の活動と主観的経験の度合い/量子物理学の哲学と意識

11495. サイケデリックセッションの最善の実践書と最良のスーパーバイザーを見つけて

11496. 今後のシロシビン·セッションに向けたアクティブイマジネーションの実践としての夢日記の意義

11497. 深層的な邂逅の遥か彼方から遥か彼方へ


11489. 腸と宇宙/クリストファー·ベイシュ教授の話を思い出して


時刻は午前2時半を迎えた。今朝は午前2時に起床し、いつもより早い起床となった。そもそも昨夜は午後9時前に就寝しており、最近は就寝がますます早くなって、起床時間も早くなっている印象だ。とりわけ昨日はシロシビン·セッションの翌日ということもあって無理をせず、早めの就寝に自然と誘われる形となったので、その生理的な衝動に身を任せて早く寝ることにした。こうして午後9時に寝て午前2時に起床してみると、十分な睡眠が取れていることが実感する。目覚めも非常にスッキリしていて、2度寝をする必要は全くないと感じる。昨日の就寝時間だけ見れば小学校低学年のそれであり、起床時間は彼らよりも早いのではないかと思う。

今の気温はマイナス2度で、辺りは深い闇に包まれている。昨夜スマホで天気予報を見たら、昨夜から今日にかけては雪と寒さの警報が出ていた。それくらいの今日もまた冷え込んでいる。暖房が自動で入る音が聞こえてこず、この時間帯の外気の寒さから2階の室温も下がっている。今日もまた湯たんぽにお世話になる形で、お腹、背中、足元を温める形で1日を過ごしていこう。湯たんぽで思い出したが、今回のシロシビン·セッションの最中には湯たんぽをお腹の上に置いていて、腸を温めながらセッションをしていた。これが本当に功を奏して、腸を通じて宇宙と繋がることができたように思える。腸にもまた宇宙が宿っている。腸にミクロコスモスがあり、腸はマクロコスモスへの入り口でもあるのだ。現代においては、腸を労ることと腸の涵養をしていないことが直感を鈍らせ、直観できなくさせているのではないかと思う。腸を労る食実践や生活実践については昨日のゼミナールのクラスの中でも話題に挙がり、色々と偶然が重なる。偶然で言えば、昨日のクラスの中ではまるでシンクロニシティが起きたかのように、受講生の皆さんの発言がことごとく自分がシロシビン·セッションで得られた直観的洞察と似ていたので驚いた。真剣なLSDを20年以上にわたり繰り返していたクリストファー·ベイシュ教授の話を思い出す。ベイシュ教授はLSDをプライベートにおける霊的実践の核に据えていて、大学の学生たちにはその話は一切しなかったという。ところがクラスの中でシンクロニシティと言えるような現象がたびたび起こり、クラスの場が形成する集合意識の深まりを見た話が書籍に書かれていたことが印象に残っている。実際にベイシュ教授とはジョン·エフ·ケネディ大学の「変性意識」というクラスの中でスカイプを通じて話をさせてもらったことがある。ゲストスピーカーで登壇してくださったベイシュ教授からは不思議な抱擁力を感じ、それもまたLSDを通じた霊的実践によるものだったのかもしれないと気づいたのは随分と後になってからだった。ベイシュ教授の話で興味深かったのは、LSDの継続的な摂取を通じて、自分自身が無意識の深い層とつながり、クラスルームの集合意識が醸成されただけではない。学年が変わり、学生が変わっても、担当するクラスが以前のクラスの集合意識を引き継ぐ形でどんどんと深まりを見せたらしいのだ。これはルパート·シュルドレイクでいうところの「形態形成場」が形成され、集合記憶がどんどんと目には見えない集合意識の次元に蓄積されていったことを示唆しているように思える。そのようなことを思い出しながら、今日は午前2時に起床できたので、正午まで旺盛な読書を行い、その過程の中で様々に考察を深められそうだという期待と喜びに包まれる。フローニンゲン:2023/12/3(日)02:55


11490. 今朝方の夢


時刻は間も無く午前3時を迎える。1日の疲労が溜まる前に就寝してしまうこと。そして早めの就寝を通じて質の高い睡眠を取ることによって早く起床すること。そこからの旺盛な探究活動に精を出すこと。今、そのサイクルが十全に回っている。「精」という漢字を改めて眺めてみると、そこに「青」という字が入っており、それはシヴァ神の青さを想起させ、それはまたシロシビン·マッシュルームのシロシビンの酸化による青色を思い出させた。そこには何か深層的なつながりがあるように思えてならない。

今朝方の夢をいつものように振り返り、身体を温めるための呼吸法とアニマルフローの実践に取り掛かろう。

夢の中で私は、見慣れない薄暗い部屋にいた。その部屋には自分の書籍が大量に山積みになっており、その高さは10mぐらいあった。山の数は5つか6つほどだったように思う。私は宙に浮いていて、本の山よりも少し高い場所にいた。部屋の下には小中学校時代の友人(MS)がいて、その他にも数人誰かがいると思ったが、彼らが誰かはわからなかった。私は本の上の部分を持ち上げ、サッカーのリフティングをするかのようにももの上で本を跳ねらせた。そしてそれを下に優しく落下させる形で、下にいる友人に受け渡すことをしていた。丸いサッカーボールではなく、四角い本でありながらもうまく自分はリフィティングをしていて、少しパフォーマンス的に下にいる人たちにその様子を見せてから書籍を下に渡していった。不思議なことに、書籍が下に向かっていく速度はとてもゆっくりとしたもので、そこには地球上の重力よりも随分弱い重力が働いていた。何回か書籍の受け渡しをしたら、突然場面が変わって、今度は本当に上空でサッカーボールをリフティングしていた。そこでは先ほどよりもさらに高度を上げていて、眼下にはテーマパークが見えた。テーマパークで遊ぶ人たちを眺めながらリフティングをしていると、地上の様子をより注意深く観察しようと思って地上に降りた。すると何やらもう閉まる時間らしく、高校時代のクラスメートの女子が警備員としてバイトをしていて、彼女がテーマパーク内を見て回っていた。彼女は私に気づき、話しかけてくれたのでそこで少しだけ立ち話をし、なんとなく彼女の見回りについていった方がいいと思ったのでそうすることにした。彼女から少し離れ、後ろから見守る形で私もテーマパークの見回りをした。そのような夢を見ていた。

最初の場面はひょっとしたら、自分の学術的探究をこの地上世界に役立てることを示唆しているのではないかと思った。自分の関心は以前からずっと超越世界に眼差しが向かうものであり、特に最近はサイケデリクスを通じてその世界を哲学·神学の観点から探究している。そこで得られた知識·叡智·実践知を地上世界に届けていくことがこれからますます求められるようになるだろう。それを示唆しているような夢に受け取れた。それを行う自分はとても楽しそうで、高度な知識を何の工夫もなしに地上にいる人たちに届けるのではなく、パフォーマンス的な要素を絡めながら楽しく届け、楽しく学び、楽しく実践してもらえるようにすることを心掛けているような自分が夢の中にすでに現れていた。フローニンゲン:2023/12/3(日)03:12


11491. 最近の生活リズムの変化より/ 問うことと余白


日曜日の朝4時はとても静かである。今、暖房がせっせと活動してくれている音と洗濯機が回る音が聞こえている。それ以外の音は何もない。静かな無音世界がここにある。

最近の自分の生活リズムはとても素晴らしい。これもきっとボストン旅行の贈り物なのだろう。ボストンで体調を少し崩したことも恩寵的出来事のように思えてくる。体調を崩したことによって、また時差ぼけもあって、普段の午後10時前の就寝よりもさらに就寝時間を早めたことによって、諸々と良いことが起こることに気付いてからは、就寝時間をさらに早め、起床時間を早めることにした。今はこのリズムが最も賢明なものだと思う。午後9時や9時半に就寝し、午前3時ごろに起きるというのは地球の何かしらのリズム、宇宙の何かしらのリズムに合致しているのかもしれない。宇宙物理学の発見事象として何かそのヒントになるものはないかと探してみたいし、シュタイナーの宇宙論の中にもヒントを見つけてみたい。宇宙のリズムとサイクルの観点からその調査をしてみよう。

昨日のゼミナールのクラスの中で、空白や余白を作ることの大切さの話題が挙がった。答えることではなく問うことは自分の内側に余白を作ってくれる。答えようとすることは切迫感を生んでしまい、さらなる不安感を醸成する可能性がある。なので答えようとするのではなく、単に問うこと。問うて問いを温めることが大切なのだ。カンナビスやシロシビン·マッシュルームを育てた経験がここでも活きている。問いもまた生命なのであり、現代人は問いを育てることができていないのだ。そもそもその種すら巻いていないのかもしれない。自分の内的宇宙空間に問いという種を撒くこと。そしてその収穫を急ぐのではなく、種から芽が出るのを静かに待って過ごすこと。そんな内面生活を営むことの大切さを伝えたい。

問うことに関する付け加えとしては、それを“questioning”としてではなく、自己の深層から“inquiring”することが重要である。前者は理性先行であり、後者は直感先行である。後者をするためにはひょっとしたら早朝に書き留めていた腸を労ることが重要になってくるだろう。直感は“gut feeling”と言うのだから。

問いには空間性があり、それは知的空間に何でも入る空の容器となる。現代人は何でもかんでも雑多な情報を自分の内的空間に取り込もうとするが、それではダメなのだ。それでは疲弊するばかりであり、成長の抑圧にしかならない。自分の問いという種が芽を出すスペースが潰れてしまうのである。そしてそれが心や魂を潰すのだ。空の容器としての問いを自分の内側に作り出すこと。それはきっと自分の存在の拠り所になるだろうし、その問いに結果として様々な必要な情報·知識が集まってくるし、そこに人も集まってくるのだ。フローニンゲン:2023/12/3(日)04:16


11492. 夜明け前の考え事


こうして足元から寒さを感じるような季節になってくると、フローニンゲンには少ないが、外にいるホームレスの人たちや猫が心配になってくる。ふと数年前の年末に訪れたフィンランドのラップランド地方にあるロヴァニエミの一面の深い雪景色を思い出した。そこでの生活、フローニンゲンでの生活、来年からもしかしたら始まるかもしれないボストンでの生活、いつかオランダにまた戻ってきたら今度はライデンに住みたいと思っていて、ライデンでの生活に思いを巡らせてみると、それらの地域はいずれも冬が寒い。仮に暖房が止まり、電力供給がなされなくなり、修理工も来てくれなかったら、いやこの世から他の人間が全て消えてしまったら、果たして自分はそれらの地域で生きられるのか、この世界で生きられるのかを考えさせられた。かろうじて生きていけるかもしれないが、それは心身共に多大な負担を強いられるものになるだろう。生活力の弱さを補う形で私たちはお互いを支え合って社会を営んでいるのである。現代社会は種々の病理を抱えているが、本来社会には非常に重要な力と働きがあるのだ。

オランダで極右政権が発足した件について、世界は右に傾く流れにあるのかもしれない。オランダだけではなく、イタリア、ドイツ、スペイン、オーストリア、フランス、スウェーデン、フィンランド 、エストニア、ポーランド、ハンガリー、ギリシャ、スロヴェニアなど、スロヴェニアを除いて過去に足を訪れことのあるいずれの国も右翼化している。自国の伝統を大切にし、博打に等しいような馬鹿げた革命を目指さない保守主義ならいいかもしれないが、それらの国には幾分排外主義的な政策や動きが見え隠れしているのが気になる。結局人類は未だ民族中心主義に意識の重心があるのであって、決して地球中心主義ではないし、合理的知性段階にあれば有無を言わさぬ排外主義が得策ではないことはわかるはずだが、それもあまり見据えていないようなので、合理的段階にさえ到達していないように思える。政治を似合う一応のエリート層でさえその低脳ぶりであり、一般人はそれ以下である。

昨夜Netflixで宇宙に関するドキュメンタリーを見ていた。そこで未だに戦争を行う野蛮で利己的な地球人がどのようにすれば結託できるのかと考えたときに、黒船効果ならぬ、地球外生命体効果を期待して、地球外生命体の早期発見が求められると思った。しかし問題は、現状の地球人は仮に大きな身体で知性を持った地球外生命体を攻撃したり、彼らがいる惑星に攻め行ったりする愚行を犯すのではないかと思った。その際にいっときは地球人は結託するかもしれないが、それは単に地球外生命体の排斥と惑星の占拠というプロジェクトの遂行のためだけであって、結局また地球人は争いの連鎖を繰り返すであろう。そのようなことを考えながら、人類という低脳で脆弱な生物種が本当の意味で進化するのは気の遠くなるほどに先のことかと思ったし、その頃はもう地球は存在していないかもしれないと思った。低脳な人類のせいで。

自らもまたそんな人類の1人であることを考えたときに、2日前のシロシビン·セッションで得られたメッセージを思い出す。あのセッションは宇宙に始まり、宇宙で終わり、また宇宙として始まることをもたらすものだった。この宇宙が自分に何を求めているのだろうか。宇宙という自分として生きること以外に、他者の宇宙と宇宙全体に対して何をなすべきだと自分は求められているのだろうか。自分は宇宙から何を問われているのだろうか。まだ来ない夜明け前にそんなことを延々と考えていた。フローニンゲン:2023/12/3(日)04:42


11493. ここからの読書の方向性


科学でわかることではなく、科学ではわからないことへの関心から哲学と神学を学んでいる。とりわけサイケデリック体験で開示される現象を科学的にアプローチすることには限界がある。科学はいつも表象対象を扱っているのだ。表象対象の内側や奥にある存在については科学は語れない。またそもそもそれを明らかにする方法論を持っていないのだから、それを科学に期待することが最初からお門違いなのである。科学は哲学と神学にはできないことをしてくれる。逆もまた然り。哲学と神学の固有の方法論を通じて、科学ではアクセスできないサイケデリック体験とその現象に切り込んでいくことを試みたい。そんな思いから毎日哲学書と神学書を紐解いている。ここで述べている神学書とは、キリスト教神学に関するものではなく、仏教においては神という言葉を使わないが、仏教と神道における神学書である。あと1冊ほどになった未読のバーナード·カストラップの書籍の初読を終えたら、サイケデリクスと無意識を絡めた良書の“Confrontation with the unconscious: Jungian depth psychology and psychedelic experience”の精読を始める。この書籍ではユングの深層心理学のアプローチを採用してサイケデリック体験を紐解いていく。最近はユング、ショーペンハウアー、ニーチェに立ち返る形で、彼らの思想がいかに深いものであったかに感銘を受け、また彼らの思想がいかにサイケデリック体験を紐解く上で重要かつ役に立つかに心を踊らせている。今日は上記の書籍の再読を始め、その精読を終えたら、カストラップの全ての書籍を精読しながら再読していく。それが終わる頃には、西洋の重要な思想的枠組みからサイケデリック体験について随分と語れるようになっているだろう。それを受けて今度は、日本思想の枠組みから同様の状態にまで持っていきたい。とりわけ京都学派の個別の思想家のそれぞれの書籍を精読していく。日本語で読んでいてもよくわからないので、これまで及び最近購入した英文書籍を通じて彼らの思想を理解していく。その際には絶えず自らのこれまでのサイケデリック体験を反芻しながら、それと照らし合わせて彼らの思想的枠組みを自分の内側に体現させていくことを実現させる。日本思想の理解が進んだら、思弁的実在論とオブジェクト指向存在論に立ち返る。それらに関する書籍は既に重要なものに関してはもう全て所有しており、初読済みであるから、再読を通じてさらなる理解の強化に努めたい。このように、サイケデリクスを哲学的に扱うためには、西洋思想と東洋思想を総動員する必要がある。できればここまでのプロセスを夏前までには終わらせておきたい。これはあくまでも最初の一巡目なので、今後一生を掛けてこのプロセスを延々と何回も繰り返していく必要があるのだと思う。そうして初めて、徐々に意識の何たるかが、リアリティの何たるかが、宇宙の何たるかが明らかになってくるであろう。フローニンゲン:2023/12/3(日)05:39


11494. 脳内の活動と主観的経験の度合い/量子物理学の哲学と意識


サイケデリック科学を牽引する神経科学者のロビン·カーハート·ハリスの一連の研究で大変興味深いのは、LSDやシロシビンといった古典的サイケデリクスは脳の活動を活性化させるのではなく、逆に活動を抑制させるのである。とりわけ自我の機能を司る部位の活動を大きく減退させるという大変興味深い現象が発見されている。2012年のカーハート·ハリスの論文を読むと、とりわけデフォルトモードネットワークを司る脳内の部位の活動の大幅な減退と夢を見ている時の脳の活動部位を活性化させることによって、主観的経験の度合いが大幅に強まるということが明らかになっている。まさにそれはこれまでの自分のサイケデリック体験で起きていたことである。この一連の研究結果が示すのは、私たちは普段雑念まみれのモンキーマインド状態で生きていて、それを抑制することによって思考ではなく、自分の深層とつながるような主観的な体験をより積めるということが1つ挙げられるだろう。座禅も瞑想も最初に目指すところはまさにそれなのだ。自我を司る該当部位の活動を緩めていくことを通じて主観性を取り戻し、自己の深層と繋がることがまず目指されているのだ。

現代はスマホやインターネットなどの普及によって、現代人は日夜自分の脳内を外部情報で埋め尽くし、自我を強化させる形で過活動的に生きている。そうした過活動性を緩め、自我の機能を和らげていきながら自己の深い部分とつながり、主観的体験を回復させていくことが急務に求められているように思える。座禅も瞑想も呼吸法も、そしてサイケデリクスもその1つの手段であり、道は他にもたくさんある。無数の道の中でも他にはない度合いで非常に強力な働きかけをするサイケデクスの社会的な意義についてこの点以外にも色々と考えていきたいと思う。

間も無くバーナード·カストラップの未読の書籍の初読が終わる。カストラップが述べるように、私たちの意識は現象的意識を超え、メタ認知を超えたものである。それらはあくまでも意識の表出現象かつ機能に過ぎず、意識そのものではない。無意識もまた意識そのものではないのである。意識の本質は表出する意識と表出していない潜在意識や無意識を超えたものなのだ。意識は実に奥深い。今後時間を見つけて、カストラップが行っているように、量子物理学の哲学思想と意識を絡めた探究にも着手しよう。今すぐにそこに手を広げるのではなく、今後そこに手を広げていくことを意識しておく。すにで1冊ほどオックスフォード大学出版から出版されている意識と量子物理学の哲学に関する論文集が近年出版されているのを知り、それを購入リストに加えておいた。量子物理学の発見事項と意識を絡めて論じていくこと。それを既に行っているカストラップの仕事の進め方を引き続き参考にしていく。フローニンゲン:2023/12/3(日)07:05


11495. サイケデリックセッションの最善の実践書と最良のスーパーバイザーを見つけて


旅の案内人を必要とする自己。とりわけここまでの、そしてこれからのサイケデリック体験の道案内をしてくれる存在を求める自己。そんな自己の思いに応えてくれたのは、やはりケン·ウィルバーだった。ウィルバーその人そのものというよりも、今のところはウィルバーの書籍“The religion of tomorrow: A vision for the future of the great traditions—More inclusive, more comprehensive more complete”が最良の道先案内人の役割を果たしてくれるだろうと実感する。その役割を終えたと感じるまで、この書籍は書斎の机の上に絶えず置いておこうと思う。ウィルバーの他の書籍を最近改めて色々と再読をし、もちろん毎回ウィルバーの書籍から得られることは多いのだが、基本的にウィルバーの書籍は自己探求のために活用するというスタンスで、学術研究のヒントにはなれど、なかなか生粋の査読付き論文に引用することは難しいので、上記の書籍以外は再び書籍の山に戻した。今のところ上記の書籍は、査読付き論文に引用するとかしないとかという問題ではなく、とにかくサイケデリクスを活用した自己探求とリアリティ探求に最良の見取り図を提供してくれているという確信がある。この確信が残存うる限りは机の上に絶えず置いておいて、折を見て参照する。とりわけ毎回のシロシビン·セッションの前後に参照すると非常に良いのではないかと思う。この書籍の何が優れているかというと、サイケデリック体験で通過することになる種々の意識状態の特徴やその状態での現象が細かく描写されていること、それぞれの意識状態で陥りやすい病理とそこからの脱出方法についての言及があること、さらには第二層を超えて、第三層以上の意識段階の病理と治癒に向けた方法を提示していることである。本書の索引を見てわかるように、本書には一度もサイケデリクスという単語は出てこないのだが、サイケデリクスの探究者·実践者は本書を必ず携帯し、何度も参照するべきだと思うぐらいに重要な書籍である。マイクロドーシングの方法やサイケデリックセッションの仕方について解説した実践書は既に何冊かあるが、それらはあくまでも実践の手順を解説しているだけで、サイケデリックセッションを自身の治癒は変容にどのようにつなげるかの具体的な記述はほとんどない。一方、現在出版されている書籍に関して自分が知る限り、ウィルバーのこの書籍は今のところ最善のサイケデリックセッションの実践書である。

自分はある種本書をサイケデリクスの実践におけるスーパーバイザーとして活用する。セッションの前と後にどのような過ごし方をするかはセッションから何を得られるか、セッションから得られたものをどのように消化していくかにおいて決定的に重要である。今後は毎回のセッションの前後にウィルバーのこの書籍を必ず参照することを習慣づけたい。本書は自分にとって、サイケデリックセッションの最良のガイダンスになる。ここからのセッションの前後では、スーパーバイザーである本書に相談し、話を聞いてもらうような形で本書と付き合う。この付き合いは長くなりそうであり、本書から卒業できた時、自分はまた別の境地に至っているであろう。 フローニンゲン:2023/12/3(日)08:22


11496. 今後のシロシビン·セッションに向けたアクティブイマジネーションの実践としての夢日記の意義


サイケデリック科学を前に推し進める大きな貢献を果たしている神経学者のロビン·カーハート·ハリスの研究結果で興味深いのは、サイケデリック体験中の脳の活動が夢を見ている時の脳の活動と似ているという点である。どちらも自我の居所と言われるデフォルトモードネットワークの機能を緩め、いずれの体験中も通常意識では知覚されない様々な知覚体験をする。今読み返しているユングの思想とサイケデリックセラピーに関する書籍の中で、ユング自身もその共通性を認めている。ここでもユングの慧眼に驚く。ユングはサイケデリクスへ関心を持ちながらも、それを活用することを通じて開示される無意識の内容物があまりにも多いことを危惧し、サイケデリクスをサイコセラピーに活用することに対しては否定的だった。そうした態度をユングが持っていたのはとても納得できる。ユング(1875-1961)はサイケデリクスに関する研究が本格的に始まる前にこの世を去っていたので、実証研究の蓄積が無い状態でそうした批判的な意見を持つのはむしろ健全かと思う。またかつての師匠で喧嘩別れをしたフロイトが逆にコカインを含めたドラッグに対してのめり込んで研究していたことへの反発もあったのかもしれない。いずれにせよ、サイケデリック体験と夢の体験は非常に近しいことは脳神経科学の研究から明らかになっているのは興味深いことである。もちろん、それらはあくまでも脳の神経活動を見ての共通事項であって、実際の体験は共通している部分もあれば、異なる部分もたくさんあることに注意が必要である。サイケデリック体験で通過するサトル次元の体験は似通っているところが多分にあるし、夢の中でアーキタイプを知覚することもあるので、コーザル次元に関しても似ている。しかしながら夢の中ではなかなか目撃者の意識状態や非二元の意識状態を体験するのは難しい。そのような違いがざっと思いつく。

そこから考えていたのは、ここからしばらくは2週間に1度のシロシビン·セッションを実践していこうと思っているが、その間の期間においてはこれまで以上に夢日記を執筆することの重要さを意識したいと思った。というのも、ユングのアクティブイマジネーションは、まさに自分にとっては夢日記の執筆の実践に他ならず、それを通じて無意識の内容物に好奇心を持って新たな発見を求めてそれらを意識化していくことを通じて、無意識内に抑圧されている、そしてさらなる浄化を求めるサトルとコーザル次元の内容物を治癒していくことができると考えたからである。それはシロシビン·セッションに向けた最良の準備となり、サトルとコーザルの領域が明瞭になればなるだけ、浄化されればされるだけ、目撃者や非二元の意識状態に入りやすくなり、高次元の叡智を得たり、高次元の治癒と変容の効果を享受できると思ったのである。そうした考えから、今後もユングのアクティブイマジネーションを意識して、日々の夢日記の執筆に精を出したいと思う。フローニンゲン:2023/12/3(日)10:50


11497. 深層的な邂逅の遥か彼方から遥か彼方へ


今日は午前2時に起床して、気づけば午後1時半を迎えた。先ほどいつもより少し長い仮眠を取っていた。仮眠から目覚めてみると、今日の天気の良さを改めて実感した。気温については改めて低さを感じ、足元から冷えるのだが、冬の穏やかな太陽の光が地上に降り注いでいる姿は心を優しくさせてくれる。

こうして毎日サイケデリクスについて多様な学問領域の観点から様々な書籍を読んでいると、サイケデリクスを中心にして様々な知識や洞察が得られるだけではなく、自分自身や自分の人生について色々と気づかされることがある。自分はこれまで、サイケデリック研究にこの8月から突然目覚めたと思っていたが、それはこの12年、あるいはこれまでの人生全てをかけてゆっくりと自分に近づいてきていたのである。それは自分の成長を待ってくれていて、然るべきタイミングがこの8月だったのである。8月に巡り合わせるかのように深層的な邂逅を果たしたサイケデリクスは、実は前々から自分にゆっくりと接近していたのである。そもそもアヤワスカを最初に摂取したのは今からやく11年前のことであるし、その摂取のきっかけを作ったのは間違いなくトランスパーソナル心理学とインテグラル理論だった。それらに出会ったのは何かと遡っていくと、人生の起点にまで遡れる。そしてそれは自分の人生の始点に遡って終わりではなく、始点を生んでくれた両親の人生や祖父母の人生と延々とそれを遡ることができるのだ。そのようなことを考えながら、欧米での12年間の学術研究の旅路の中で、時折既にサイケデリクス関係の研究書をひっそりと購入していた自分が過去に年を分けて何回か存在していた。そうした自分を見たときに、やはり自分は潜在的にサイケデリクスについてどこか気になるものがあって、これまでは自分の知識不足や経験不足もあって、それに気づかなかったのだが、諸々と成熟を経て、満を持してこの夏にサイケデリクスと深く握手を交わす形になったのだと思う。こうして固く握手を交わしたサイケデリクスと、自分はこれからできるだけ遠くに行ってみようと思う。先日のシロシビン·セッションを通じて、自分として生きるのではなく、宇宙という自分としての宇宙として生きることを誓った。宇宙として宇宙に向かっていく覚悟を持って、ここからのサイケデリック研究に全身全霊で打ち込みたい。サイケデリクス との深層的な邂逅に感謝し、それは遥か彼方からやって来たもので、ここから遥か彼方へ向かっていこう。フローニンゲン:2023/12/3(日)13:53

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