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11422-11429: フローニンゲンからの便り 2023年11月27日(月)



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タイトル一覧

11422. シロシビン・マッシュルームの発育の速さに驚いて

11423. 哲学の仕事を好む自分

11424. 意識研究に関するパラダイム転換を起こしうるサイケデリック哲学

11425. 5-MeO-DMTを分泌するヒキガエルを食べる夢

11426. 夢とサイケデリクス/今朝方の夢の続き

11427. サイケデリック哲学と日本思想と神秘主義思想/意味の不在に対する不在化に向けて

11428. ブースターロケットの役割を果たす言語

11429. 素晴らしい汗をかいて


11422. シロシビン・マッシュルームの発育の速さに驚いて


時刻は午前4時半を迎えようとしている。今、真っ暗闇の世界の中で雨が滴る音が聞こえてくる。早朝4時台の今の気温は5度なのだが、何とこの温度が今日の最高気温で、ここから時間が経てば経つほどに気温が下がっていく。日中は3度までしか気温が上がらず、今夜の最低気温は0度とのことである。12月を目前に控え、フローニンゲンは随分と寒くなってきた。その証拠に明日から1週間は、最低気温が軒並みマイナスとなり、最高気温も2度前後となる。今年の寒さはいかほどだろうか。どれだけ寒かろうが、自分にはサイケデリクスの研究と実践があり、その情熱を持ってこの冬も乗り越えることができるだろうし、どんな冬でも乗り越えることができるはずだ。

起床してキッチンで水を飲んだ時に栽培中のシロシビン·マッシュルームの様子を確認した。起床してすぐの時間に栽培キットの空気の入れ替えをし、霧吹きで湿度を保つことが習慣になった。嬉しいことにマッシュルームはすくすくと育っている。一昨日よりも昨日、昨日よりも今日の着実な成長が見える。この分だと今週末を迎える前に週刊のタイミングがやってきそうだ。改めて説明書を読むと、傘が開く直前のタイミングが収穫にはベストらしいが、ずっと観察しているわけにもいかないので、実際のところは傘が開いたことを確認したらすぐに収穫するのが理想らしい。説明書だけではなく、各種Youtube動画でも軒並み同じことを説明していた。仮に今週末に収穫することができたら、その日のうちに乾燥させ、来週のどこかのタイミングで第20回のセルフセッションを自分で栽培した“Psilocybe Azurescens(別名「Golden Teacher」)”を用いて行いたい。きっとこれまでの市販で購入したシロシビン·トリュフとは異なった体験がもたらされるのではないかと思う。自分が愛情を持って育てたマッシュルームが自分にどのような知覚体験をもたらしてくれるのか。それは今からとても気になることである。ちょうど昨日にマッシュルームの品種ごとにどのような知覚体験がもたらされるかを自分の直接体験をベースにして分類していく案について思っていた。それについて書き留めておく。

シロシビン·マッシュルームは現在発見されている品種は200に及ぶと言われる。それらにはシロシビンだけではなく他の物質も含まれていて、それらの中にはシロシビンと相互作用したり、サイコアクティブに働くものもあるだろう。今のところはサイケデリック科学の発展期にあるため仕方ないが、200種類のシロシビン·マッシュルームが1つに括られてその体験が語られることが多い状況である。おそらくは、200種類ごとに本来は現象学的な体験には何らかの差異があるはずである。それらを詳細に比較することが難しくても、今後は品種ごとの現象学的な体験や医療効果についての差異を明らかにしていく研究の進展が望まれる。これまでシロシビン·トリュフであれば5種類ほど摂取してきたが、それらの摂取体験をもとにすると、やはりそれぞれの品種に個性があり、それらがもたらす現象学的体験を一括りにすることには無理があり、とても荒い分類方法だと思う。少なくともこれから自分が摂取するシロシビン·マッシュルームやトリュフについては品種ごとにその現象学的体験の差異を語れるように内省と研究を進めていこうと思う。

そのようなことを昨日考えていた。愛情を持って育てたマッシュルームがいきなり無意識の深くおどろおどろしい層を開示したらそれはそれで一興である。自分の闇の側面やシャドーが大量に放出され、それらを知覚したらそれはそれで面白いし、自分にとってはとても意味のあることである。どのような現象がもたらされるか予想がつかないところにも探求と呼ぶにふさわしい性質がある。ここからのマッシュルームの発育とセルフセッションが今から楽しみだ。フローニンゲン:2023/11/27(月)04:41


11423. 哲学の仕事を好む自分


早朝に降りしきる小雨の音と自動で運転している暖房の音を聞きながらふと、自分がなぜ哲学を好むのかについて、とりわけ自分がこれからサイケデリック哲学を主にした仕事に着手していこうと思っているのかについて閃くものがあった。哲学の意義についてはこれまでも様々な角度から書き留めてきたように思うが、自分が哲学を好み、そしてそれを仕事にしようと思っているのは、昨日の日記で書き留めていたように、仮説や理論を構築することを好む性質を持っているからなのではないかと思ったのである。科学ももちろん仮説や理論の構築に向けて仕事をしていくわけなので、抽象的な仮説や理論を構築することだけが哲学の仕事に自分の関心を向けさせているわけではないこともわかる。フローニンゲン大学時代までは発達科学者としての研究に従事しており、そこで得られた体験は本当に貴重なものだったが、また同じような科学的な研究がしたいかと言われるとそうではない。自分が科学的な仕事にはあまり向かないなと思うのは、データを集めるのが手間に思えたり、他の科学者と協働するのが面倒に思えたりすることなのかと思った。しかし、データを集めることに関して言えば、やはり自分の研究の熱量次第で、それが面白いものにも退屈なものにもなると思った時、これまでの自分の研究は自分が心底情熱を傾けられるものではなかった可能性があることを思った。もう少し述べると、数値化されたようなデータであればあるほどにつまらないと思う自分がいて、逆に味気ない数字ではなく、定性的なデータを集めることであればそれは大変だがデータ収集のプロセスさえも楽しいと感じていたことを思い出した。もちろん数字に関しても、そこから様々な意味や物語を汲み取れるわけだが、より直接的に意味や物語が開示されている定性的データの方を自分は好むのだと思った。これからサイケデリック研究をどのように進めていくかについては多様な道が目の前に広がっている。それはとても有り難く、嬉しいことでもある。仮に発達心理学を包摂した発達科学の観点から研究を進めていく場合には、定量的なデータよりも定性的なデータを扱うような研究をしていきたいと思う。発達測定の真骨頂である自由記述形式や文章完成テスト形式、はたまたインタビュー形式を採用した形でデータ収集をしたい。単なる質問表型のデータ収集はつまらないデータしか集まってこない可能性があるし、それであればもう別の研究者が着手しているので、自分が関与するべきものではない。仮に科学の観点からサイケデリクスを研究するのであれば、間違いなくこれまで長らく積み重ねてきた発達科学の知見を活用したものになるだろう。

そのようなことを考えながら、科学よりも哲学の仕事に着手したいと思う自分について考えていた。発達科学からのサイケデリクス研究は魅力的で意義のあることだと思うが、やはりデータの収集は大変であり、最大の懸念事項は発見事項から導き出される理論の抽象性を極度に上げることは難しそうだという点がある。自分が行いたいテーマは、サイケデリクス体験と絡めた実在·無·創造に関する研究で、これらを扱うのはやはり哲学的なアプローチからが望ましいように思える。哲学的にそれらを扱えば、そもそもそれらのトピックが最初から抽象性が高いので、どこまでも抽象的に思索を深めていくことができそうだという予感がする。それと自分は研究室や書斎の中での文献読解によって研究が完結するものの方が自分のライフスタイルに合っているとも思う。意外とこれが最大の理由かもしれない。現場が重要なのはわかるが、自分にとっての現場は自らのサイケデリック体験であり、それは十分に積むことができる。その体験を研究者としての仕事として扱っていく場合には、何か外に出かけてデータを集めたり、他の研究者と協働するのはほどほどにして(もちろん対話を通じて思索を深めてくれる研究パートナーは大事だが)、書斎や研究室で一心不乱に学術書や論文を読む形で自分の研究を進めていく方が性に合っているように思う。そう考えると、その姿はまさにケン·ウィルバーの仕事の仕方と多分に重なるものがあることに気づかされる。フローニンゲン:2023/11/27(月)04:59


11424. 意識研究に関するパラダイム転換を起こしうるサイケデリック哲学


朝の呼吸法とアニマルフローの実践を終え、朝のホットドリンクを作って今に至る。その間に、先ほどの哲学について書き留めていた日記についてさらに考え事をしていた。現在のサイケデリック研究においては、神経科学をリーダーとした形で科学的な研究が隆盛を迎えている。それに比べてサイケデリック哲学の存在感はまだまだ弱く、そこに参入している学者も世界的に見て少ない。世界を見渡してサイケデリック哲学と呼べるような研究をしているのは両手か片手で数えられるぐらいだ。そうした社会的な情勢も幸運にも重なって自分はこの分野に入っていこうとしているのかもしれない。サイケデリック哲学の分野にはまだまだ無限の可能性があり、研究者も少ないため仕事が難しい側面と仕事がしやすい側面の両方がありそうである。

サイケデリック科学者の全てがサイケデリクスを摂取したことがあるわけではないだろうし、定期的にサイケデリクスを自ら摂取している科学者の方がむしろ少数かもしれない。ひょっとしたらそれがネックになって、サイケデリクスを扱うサイケデリック科学者が実は旧態依然とした科学パラダイムに縛られている可能性がある。自分からすると、仮にサイケデリクスを摂取したことがあるのであれば、そして定期的に摂取しているのであれば、もう少し創造的な研究があってもいいのではないかと思うし、既存の科学パラダイムを超克するような主張や研究がサイケデリック科学者から出てきてもいいように思う。今のところそれはあまり見れず、彼らは既存の科学パラダイムの中に小さく閉じこもって科学研究をしている印象がある。それに比べて、世界に少数存在するサイケデリック哲学者はかなり大胆である。自ら積極的にサイケデリクスを摂取し、その体験をもとに自らの思索を深め、そして展開している。自分の研究の進め方として、旧態依然としたパラダイムや枠組みに縛られて仕事を進めることを極度に嫌い、それがあってサイケデリック科学の研究に直接従事するのではなく、それは間接的に従事しながら、主たる仕事はサイケデリック哲学、そしてサイケデリック神学に置こうとしているのかもしれない。サイケデリック神学はサイケデリック哲学とはまた意味合いも役割も違うので、またどこかの機会に書き留めておこう。いずれにせよ、サイケデリック哲学者に期待することと自らに期待することは、例えば既存の心の哲学の理論はほぼ全て、通常意識において知覚される意識についてしか扱っていないことに限界があるように思え、サイケデリクスの摂取を通じた変性意識や超越意識から意識の本質や機能を捉えていくことである。通常意識について研究するのと超越意識について研究するのとでは、ニュートン物理学と量子物理学ぐらいの差があるように思える。ニュートン物理学は今でも大事であるのと同じく、通常意識の研究もまた重要ではあるが、意識研究に関して何か大きなパラダイム転換がサイケデリック哲学を通じて起こるような気がしている。自分はそれを外から眺めるのではなく、パラダイム転換に貢献する1人になりたいと思うし、そのための研究と実践を日々積んでいきたいと思う。フローニンゲン:2023/11/27(月)05:34


11425. 5-MeO-DMTを分泌するヒキガエルを食べる夢


時刻は午前6時を迎えた。早朝より引き続きシトシトとした雨が降っている。夜明けまであと2時間ほどあるが、夜明けまでの静謐な時間は自分の探究を前に進めてくれるのに役立っている。今朝方はまだ夢について振り返っていなかったと思うので、今朝方見ていた夢について振り返っておきたい。今朝方は印象的な夢を見ていた。

夢の中で私は、おそらく日本と思われる国の大きなテーマパークにいた。そこはまるでディズニーランドのようであったが、ディズニーランドそのものではなく、別のテーマパークのようだった。偶然にもそこで小中高時代の親友(NK)と出会い、彼が興味深い話をしてくれた。というのもまずは私から話題を切り出したのだが、このテーマパークには5-MeO-DMTを分泌するヒキガエルが生息していて、それを捕まえて食べてみようと思うと彼に伝えた。実際にはそのヒキガエルを食べる必要などなく、それが分泌する液体だけ摂取すれば十分なのだが、自分はどういうわけかヒキガエルを丸ごと食べることに関心を持っていたようだ。それに対して親友は驚くことなく、むしろ笑顔を浮かべながら、「そのヒキガエルの良い食べ方を知ってるよ」と述べたので、それに対してこちらが驚いた。まさか彼がそのヒキガエルについて知っているだけではなく、その食べ方まで知っているとは思ってもいなかったのである。そこから私たちはヒキガエルがいる場所に向かった。ヒキガエルはそのテーマパークにランダムに生息しているのではなく、ある地点に集まって生息していた。しかも興味深いことに、テーマパークの地面に設置された高さ2mぐらいの石柱の上に1匹1匹生息していて、ひっそりと生息していたのである。その場所に辿り着くと、まるで石柱の上の置き物であるかのようにヒキガエルたちが静かに石柱の上でたたずんでいた。

私はまずその中から1匹を選んだ。不思議とヒキガエルは全く抵抗することなく、簡単に私に捕まえられた。私は親友の話を聞く前に、どういうわけか反射的にヒキガエルを丸呑みにした。実際にはそのヒキガエルは丸呑みにできるような小ささではなく、クリスマスに食べるような七面鳥ぐらいの大きさがあった。そんな大きさのヒキガエルを前にした時、私の口は巨大になり、ヒキガエルを丸呑みにすることができた。その様子はまるで大蛇のようであった。何も抵抗することなく丸呑みになったヒキガエルは静かに私の胃の中に収まっていった。しかし、ヒキガエルを丸呑みにしても特に意識の変化は起きず、どうしたのだろうかと思った。すると親友が口を開いて、下準備をしないとサイコアクティブな効果はないとのことだった。彼曰く、最初に捕まえるときに、特殊なフェロモンをヒキガエルに嗅がせることによって、ヒキガエルを興奮させ、それによって分泌液を分泌させることがポイントとのことだった。彼はどこでそのような知識を得たのだろうと思いながら、なるほどと思った。それでは2匹目はそのようにして捕獲してみようと思ったら、石柱の上の自分の左足を突く人がいたのでそちらをサッと見た。その時には相手の顔を見るのではなく、なんだろうと思って視線を足元に移しただけだったが、誰かがそこにいて自分に話しかけていた。顔を確認していない男性曰く、先日出版した寄稿文章を自分に読んで欲しいとのことで、その人はそれを自分に届けに来てくれたようだった。それは有り難いのだが、今は取り込み中で、ヒキガエルのことしか頭になかったので、適当に返事をしてその人には帰ってもらった。そこから、親友の彼に教えてもらった方法を試して2匹目のヒキガエルを無事に捕まえることができた。今度は丸呑みにするのではなく、分泌液がちゃんと分泌されてから食そうと思った。それを待っている間、先ほど足元にやってきた人のことを思い出した。その方はなんと、経営学に関する著名な教授で、その教授がわざわざ自分のところにやってきて寄稿文章を届けに来てくださったのに、随分と邪険に扱ってしまったなと思った。すると偶然にも、その先生のお弟子さんの博士課程の学生が近くにいたので、先生のところに連れて行ってもらい、謝罪しようと思った。先生もまだテーマパークにいるとのことだったので、先生のところにすぐに向かった。先生のところに行くと、先生は別に怒っているわけではなかったが、邪険に扱われたことに対してはあまり心地良いとは思っていなかったらしく、それはそうだなと思った。先生には深くお詫びをしたが、自分の心の奥底ではその先生のことを自分は別に尊敬していないと気づき、それは前々から思っていたことではあったが、今回の一件でそれが明確になったので、先生との付き合いはこれでおしまいにしようと思った。フローニンゲン:2023/11/27(月)06:24


11426. 夢とサイケデリクス/今朝方の夢の続き


夢を振り返り、夢日記をつけることは、サイケデリクスを摂取し、その体験について書き留めておくことと同じぐらいの意味があると思った。もちろんサイケデリクスでも無意識の奥深くに入っていくのだが、どうやらそれは夢が開示する無意識の層と異なる可能性が見えてきた。これは定かではなく、もしかしたら同じ階層なのかも知れないが、同じ無意識であったとしても夢のリアリティとサイケデリクスのリアリティはどこか違うように思える。アンドリュー·ガリモアーの言葉で言えば、それぞれ別のリアリティを開示する異なるリアリティスイッチなのではないかと思う。両者が開示するリアリティは同じものなのか、違うものなのかについても哲学的な主題としたい。意識の状態の観点からすると、夢を見ている最中もサイケデリクスの体験中も全ての意識状態を経験できる。だが夢に関しては、通常意識における鍛錬と夢の世界における意識鍛錬がないと、目撃者の意識状態を夢の中で保つことは難しく、夢の世界の中での非二元というのはどのような状態のことを指すのだろうかと分からなくなってしまう。夢を見ない深い眠りの状態はコーザルと言われるが、それと非二元の極地にある無の状態とは何が違うのかは今後の夢探究とサイケデリクス探究から明らかにしたいことである。理論的に言えば、前者は原型を司るような意識状態であり、事物の原型を生み出す意識状態である。一方後者は、無即有の意識状態であり、完全なる無なのだが、同時にそこから全てが発出するという意識状態でもある。サイケデリクスの体験中においてはある程度両者の見分け、ないしは感覚分け、あるいは体験分けは可能なのだが、夢の世界ではそれがまだ難しい自分がいる。いずれにせよ、自分にとって夢を見ることはサイケデリクスを摂取するぐらいに重要なことであり、夢について振り返ることはサイケデリクス体験を振り返るぐらいに大事なことだ。どちらも意識の本質について考えさせてくれる考察の宝庫であるし、両者について書き留める行為そのものが考察実践でもある。

つい先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがある。夢の中で私は、見慣れないオフィスの中にいた。そこはどうやら以前働いていたデロイトの韓国オフィスらしかった。そこで働いている人は基本的に大抵が韓国人で、数人ほど欧米からの駐在コンサルタントがいた。オフィスは太陽の光が降り注ぐ方向に面していて、オフィスの中は明るく、開放的な雰囲気があった。そんなオフィスの中で、人一倍やる気に満ち、活発なエネルギーを発している女性コンサルタントがいた。彼女はまだ若く、とても熱心に資料を眺めてはパソコンを打ちということを繰り返していた。クライアントに関する資料を全て印刷し、それを読む込む姿勢はどこか共感できるものがあり、私はずっと彼女の様子を眺めていた。すると、ある出来事が起こった。彼女があまりにも資料を印刷するので、彼女のパソコンと接続されているプリンターが故障してしまったのである。プリンターを故障させるぐらいに大量の資料を印刷し、それを全て読み込んでいく姿勢に共感できたのだが、まさかプリンターが壊れてしまうとは予想していないことで、むしろそれに思わず笑ってしまった。するとどういうわけか、彼女の近くのコンサルタントたちのパソコンから接続されているプリンターも同じく故障してしまったようだった。私の脳内には、それぞれのコンサルタントたちのパソコンに接続されているプリンターの見取り図が1枚のPDFとして思い浮かんでいて、そのPDFを脳内で見ると、赤く点灯して故障しているプリンターが続出していた。彼らコンサルタントたちはプリンターの故障を受けて一瞬驚いていたが、すぐに修復できるだろうと思っているようで、すぐに自分たちの仕事に戻り始めた。ふと私は、彼女のやる気がプリンターを上回り、彼女の熱意が周りのコンサルタントたちに伝播したのではないかと思った。そのような肯定的な感染現象を目撃してとても微笑ましく思った。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/11/27(月)06:41


11427. サイケデリック哲学と日本思想と神秘主義思想/

意味の不在に対する不在化に向けて


この日記を書き留めたら今日も本格的にサイケデリック研究を始めていこう。サイケデリック研究と言っても、これから読む書籍は直接的にサイケデリクスについて扱っているわけではなく、まず読み進めたいのはまだ読んでいない西谷啓治の“Religion and nothingness”という書籍と神秘主義の観点から意識を取り扱った書籍である。西田幾多郎に師事した西谷啓治の絶対無に関する思想は、相対的な夢の思想であるニヒリズムの超克の観点から重要であるなだけではなく、自分にとってはサイケデリクスのピーク体験中の究極的な無の状態の性質解明につながるものだと思っている。また、日本思想の見つめ直しを行っている今の自分にとっては、とりわけ京都学派の思想家と彼らの思想から学ぶことは多く、それらをサイケデリック哲学につなげていきたいと思っている。後者の神秘主義の観点から意識を扱っていくことの重要性は、心の哲学の分野における来るパラダイムシフトに備えての意味合いもある。そもそもサイケデリクス体験と究極的な意識は言語超越的であるがゆえに、哲学言語だけでそれらに迫っていくことには限界があって、神秘主義の言語体系を用いてそれらに迫っていくことの重要性については以前に書き留めた通りである。それに加えて、サイケデリック哲学の進展を通じて心の哲学に従事する哲学者自らがサイケデリクスの摂取を通じて変性意識状態に入り、究極的な意識を知覚する体験を通じて、心の哲学にこれまで蓄積されている仮説的理論にとって代わる斬新な理論が誕生することや、これまでの仮説的理論の検証が進むのではないかと考えている。その際には、哲学言語の限界を痛感した哲学者たちが神秘主義の言語体系の意義や価値を再び見つめ直すことが起こるのではないかと思っている。そうした来るべき時に向けて、今から神秘主義の言語体系に慣れ親しんでおき、心の哲学のパラダイムシフトを起こす後押しと共に、パラダイム転換後の仕事に向けての準備として後者の書籍を読み進めていこうと思った次第だ。

昨夜、仮に存在論的にスピリットの存在が証明できなかったとしても、そこに意味が存在することは確かであり、その意味を否定することはできず、むしろそこに意味があるからこそ様々な力が私たちに湧き上がるのだということについて考えていた。これは幻覚に対しても同じで、仮に物理的に存在しないものが見えたと主張したとしても、その主張に伴う意味が存在するのであるし、そこに伴う意味があり、その意味に伴う価値があるのだから、不在の幻覚であっても蔑ろにすることはできない。とりわけその幻覚がその人の心の治癒や変容につながるものであれば尚更それに付帯する意味まで見つめ、その意味の価値を認めていくことが大切だろう。現代社会における様々な分野や現象から意味が喪失しつつあるのは由々しき事態であり、この事態に対して早急に手を打たなければならない。短期的に見れば意味の重要性を声高に主張していき、長期的に見れば意味や価値に関する存在論を自分なりに打ち立てることに力を注いでいきたい。意味の不在が進む社会の中で、不在となってしまった意味を不在化させること、すなわち意味を顕現させることに全力をかけて取り組みたいと思う。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2023/11/27(月)07:05


11428. ブースターロケットの役割を果たす言語


—あなたは「それ」を知ることはできないが、「それ」になることはできる—老子道徳経

冷たい雨がパラパラと地上に降り注ぎ、そんな世界の中で小鳥がチュンチュンと鳴いている。気がつけば午前10時を迎えようとしている。早朝からここまでのところ読書が捗り、その過程の中でいくつもの考えが浮かび、それらをリサーチノートに記録していった。こうして日本語で日記を書いている最中は頭が日本語モードになるが、読書の最中とリサーチノートへの記録の最中は脳内は完全に英語モードであり、そこに日本語が入り込む余地はない。そうした2つのモードを使い分けながら、今後はそれらの差異化がさらに進み、いつの日か高度な次元での統合化が起きるだろう。差異化と統合化は絶えずセットに生じていることを考えると、今もそうした高度化に向けた運動が現在進行形で生じていると言えるかも知れない。

現在読み進めている神秘主義と意識に関する書籍の中で、著者が超越体験について言語で語ることに関する興味深い点を指摘していた。端的には、よく言われるように言語で超越体験の全てを詳細に語ることはできないが、言語はブースターロケットの役割を果たし、ロケット本体を無重力空間に勢いよく解き放つかのように、超越体験に伴う洞察や思考を解き放つことや、私たち自身の存在をさらに高い次元に解き放つことを可能にすると述べている。この言及には思わず唸ってしまい、自分がサイケデリックセッションを通じて体験したことを言葉にしたり、日々の何気ない超越体験に類似する体験的洞察を言葉にすることの意義を明瞭に説明してくれているように思えた。言葉は体験そのものでもなく、自己本体でもないが、言葉は体験そのものを深めたり、自己を深めたりするというのは、それがブースターロケットのような役割を果たしていたからなのだ。そのような気づきがあった。

そこから何気ないことについて考えていた。それは次回のシロシビンセッションに関するものだ。シロシビンセッションの日は1日のファスティングができるので、セッションを3週間や1ヶ月に1度行うと、胃腸を定期的に休め、デトックスできるので身体にもとても良い影響を与えそうだということを考えていた。以前からシロシビンセッションを行う際にはそれに合わせてファスティングを組み合わせていた。これは身体の調整を図る上でも非常に良い習慣だと思うので、このサイクルを大切にしよう。フローニンゲン:2023/11/27(月)09:51


11429. 素晴らしい汗をかいて


時刻は午後4時を迎えた。今日はだいぶ冷えていたが、先ほどのジムの帰りはポカポカした感じがあり、今日のトレーニングの充実さを実感していた。今日のトレーニングもまた後半に有酸素運動を取り入れ、それが酸素を十分に肺と脳に送ってくれ、今心身の活性化を感じる。前回のトレーニングから有酸素運動を本格的に取り入れてみたところ、週2回の本格的な有酸素運動と、ジムに行かない日のラクティブレストの日の自宅でのその場でジョギングをする運動は良い有酸素運動になっていて、その効果を実感する。1つには集中力の増大が挙げられる。有酸素運動を通じて単にリフレッシュができるということも大変魅力的である。フローニンゲンのこの季節に普通に生活をしていて汗をかくことなど決してないのだが、今日は合計で30分を超える有酸素運動をしたところ、後半からは汗が滲み始めてきて、有酸素運動を終えた時には大変清々しい気持ちになった。ジムからサウナが撤去されて以降、汗をかく機会を失っていたが、こうやって自ら体を動かして汗をかき、デトックスをしながら清々しさを味わえるのは大変素晴らしい。集中力の話に戻ると、今自分が行っているのはローイングマシンとランニングマシンでのジョギングで、そのどちらにおいてもまるで瞑想をするかのように意識をできるだけ集中させるようにしている。ローイングの際には目を閉じて身体の内側を感じることを行うなど、内観的なトレーニングをしている。ジョギングにおいては窓の外の運河をぼんやり眺めたり、フローニンゲンのシンボルであるマルティニ教会をぼんやり眺めたりしていた。ジムに行って体を鍛えている時以外は絶えず書物を向き合っていたり、何かしら考え事をしているので、ジムでの運動や頭を空っぽにするには最適である。ちょうど今日の読書の中で、イギリスの思想家のロイ·バスカーが「変化は不在からしか起こらない」と述べていたことを思い出す。頭を空っぽにするというのは、意図的に自らを不在の状態にさせることであり、思考を不在に刺せることを通じて新たな思考を生むことにつながるのだ。

それ以外に工夫したこととしては、ローイングマシンに関しては正しいフォームに関する事前に動画を見ておき、正しいフォームを心掛けたことである。ランニングマシンでは、傾斜角度を付けられる仕組みになっていたので、3度ほどの傾斜が屋外で走っている状態と同じぐらいの負荷量になるらしいと知ったので、まずは3度の傾斜をつけた。10分ほど経ってから速度を上げるのに加え、傾斜角度を3.5度まで増やした。今後は速度と傾斜角度の調整によって少しずつ負荷量を増していきたいと思う。ローイニングマシンに関しても同じく負荷量を調節していこう。これらの有酸素運動は脂肪を燃やすことが目的ではなく、あくまでも心肺機能の強化なので、心肺機能を強化する最善の負荷量がどれくらいなのかを色々と実験と工夫をしながらその都度判断していきたいと思う。良い汗をかき、最高の気分を感じている自分がここにいる。体を動かすことの素晴らしさを改めて実感し、身体を機械に置き換えるトランスヒューマニズムやポストヒューマニズムの思想については、しばらく身体次元では自分は導入しないだろうと思いながらジムから帰ってきた。フローニンゲン:2023/11/27(月)16:25

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