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成人発達理論とインテグラル理論を楽しく学んでいただける「成人発達コラボラジオ」を2023年7月14日より始めました。
タイトル一覧
11353. 栽培中のシロシビン ·マッシュルームの様子
11354. 今朝方の夢
11355. 学術研究上の果てしない旅へ
11356. 芸術鑑賞や旅と類似するサイケデリック体験
11357. 「インテグラル·サイケデリックラジオ」の第55回の収録を終えて
11358. サイケデリック研究上のセンターピンとしての意識のハードプロブレム
11353. 栽培中のシロシビン ·マッシュルームの様子
時刻は午前3時半を迎えた。今の気温は12度あり、今日はこの時間にもかかわらず意外と外は暖かい。本日の気温は不思議な変化を見せる。朝3時半の今の気温が最高気温でここから正午にかけて1度だけ気温が下がり、そこからまた1度気温が上がって夜を迎えてまだ気温が2度ほど下がる。明日の早朝も今日と同じぐらいの気温で、明日もまた変化に乏しい気温となる。今日と明日は雨が降るようなので、雨がそのような気温変化をもたらしているのかもしれない。いずれにせよ、今日と明日は寒さに悩まされることはなさそうだ。
早朝に起床して2階に上がってくると、キッチンに置かれているシロシビン·マッシュルームの「マッシュ(そのような名前をつけた)」の様子を確認した。ちょうど今日が栽培キットを開封してから9日目となり、説明書に書かれていた10日まであと少しである。10日から20日ほどで地中からマッシュルームの頭が顔を出すそうであり、それを受けたら毎日数回ほどキットを開けて新鮮な空気を入れ、霧吹きで保湿する必要がある。早く頭が出てきて欲しいと願うばかりだが、マッシュにはマッシュなりの成長速度があるだろうから、彼の成長速度に合わせて彼なりのペースで姿を現して欲しいと思う。
乾燥させたシロシビン ·マッシュルームは、質が低下しないように冷凍保存することが推奨されている。冷凍保存すれば、シロシビン の効力は4ヶ月から最大1年ぐらいは維持することができるそうだ。乾燥方法に関してはオーブンを活用する方法を先日見つけたのでそれを保つ。この時期のフローニンゲンは、天日干しをしようにも如何せん日照時間が短い。日の出が午前8時、日の入りが午後4時半の今の時期には天日干しは望ましくない。そもそも晴れの日も少ないので、オーブンを活用する方法が一番懸命である。オーブンを活用する際には温度を間違えないようにしなければならない。さもなくばマッシュルームに含まれる成分のシロシビンが破壊されてしまう。今回の栽培体験は教育効果が抜群で、やはりなんでも経験してみることが重要だということがわかる。一度栽培を経験すれば、それが実践知となり、次回以降の栽培をしやすくさせてくれる。今回得られる学びを常に最大化することを意識しながら、これからも継続的にシロシビン·マッシュルームを育てていこう。もちろん法規制に則りながらで、シロシビン·マッシュルームの栽培できる場所を選んで生活拠点としていきたい。生活の中心にシロシビン·マッシュルームがあることをおかしく思うが、それはそれくらいに自分にとって大切な存在である。自らの学びにとって、そして治癒·変容にとって、さらには研究と実践において、これ以上にない存在なのだ。
今朝は午前3時半を迎える前に起床したこともあり、ここから正午まで十分な読書時間がある。今日も書籍の再読が大いに捗るだろう。英文での研究ノートを付け始めてから、学術書の読解の濃度がこれまで以上に高まり、研究アイデアがどんどん湧き出し、それに加えて知識体系の拡張が着実に見られることは嬉しいことだ。今日も新しい知識をどんどん蓄えていきながら、それに並行して自らの新しい考えをどんどん生み出していく。そんな楽しみの中で今日の時間が過ぎていくだろう。フローニンゲン:2023/11/19(日)04:01
11354. 今朝方の夢
夜明けまであと4時間ある。この4時間の間に、自分また小さく成長を遂げるであろう。それを促してくれるのは書物であり、書物と向き合いながら自分の内側から上がる思考や閃きを形に留めておくことで小さな成長が実現される。インプットとアウトプットの絶え間ないサイクルの中で日々が進行し、それはいつか豊作をもたらすだろう。それに向けて無数の種を撒き、それらに毎日少しずつ養分を与えている。個人も文化もまた本質的にはこのようにして培養されていく。まさに文化を表す“culture”の語源の“cultivate”は「~を培養する」「~を栽培する」という意味なのだから。
今朝方はいくつかの断片的な夢を見ていた。まず覚えているのは、ベッドの上に赤い蟹のようなクモが現れてこちらに向かってきた場面である。最初ベッドの上にそれが現れた時、その生物が何か一瞬では分からず思考が停止した。するとその瞬間にはもうそのクモはこちらに向かって歩き始めており、見た目としては毒はなさそうだったが、噛まれたら痛そうに思えたのでとっさに体を反転させて、クモに噛まれることを防いだ。しかし、首元あたりをひっかかれたような感覚があったので首元を触ってみると、何もなく、自分の気のせいだったことが分かった。首元を触った後にクモの方を見ると、赤い蟹のようなクモはもうどこかに消えていた。
次に覚えているのは、高校時代のあるヨット部の友人と小中高時代のサッカー部の友人(HY)と一緒に部屋の一角で筋力トレーニングをしていたことである。私はすでにトレーニングを終えていたので、2人と話しながら、彼らのトレーニングの様子を眺めていた。サッカー部の友人が部屋に一台の機械を取り付けた。それは腹筋を鍛えるマシーンで、鍛えた後に前方に立ち幅跳びをすることを求められる器具だった。ヨット部の友人が早速それを試してみたところ、最初から重さのメーターを上げてしまったことにより、腹筋を痛めてしまうぐらいの強度になっていた。彼は一度それを使った後、腹筋をさすりながら相当に痛そうにしていたが、マシーンの強度に驚きを通り越して笑いが生まれていた。そこからしばらくトレーニングに励むと、ヨット部の友人はいなくなり、サッカー部の友人だけとなった。彼は英語のライティングに最近力を入れているらしく、使っている参考書を見せてくれた。それはなかなか高度なことが書かれている参考書で、それを繰り返し使っていけばライティングの実力は十分つくだろうと思った。しかし、それを使いこなせるようになるためにはある程度の基礎がなければならず、彼にその基礎があるかどうかは疑わしかった。そのようなことを思っていると、部屋の外のベランダで何やら音が聞こえたのでそちらに向かった。するとそこに母がいて、ベランダでガーデニングをしているようだった。母は土をいじっている最中で、ベランダの手前を見ると、そこに英文ライティングの分厚い書籍が置かれていて驚いた。どうやら母も友人と同じく英文ライティングの勉強をしているようだったのだ。母が使っている書籍はIELTSのような英語の試験対策本で相当に分厚かった。内容としてはノウハウを伝えるようなもので、読み物として読む分には面白いかと思ったが、この本だけでは英文ライティングの力は高まらないのではないかと思った。理想は友人が使っている書籍と母が使っている書籍の両方を活用することで、両方活用できれば英文ライティングの力はメキメキと増し、高度な力が養われるだろうと思った。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/11/19(日)04:25
11355. 学術研究上の果てしない旅へ
時刻は午前5時半を迎えたところで、また妙な気づきが降ってきた。しかし、それは大事な気づきのように思える。大きな気づきとしてやって来たのは、自分の探究意識が遥か昔の古代の思想に向かっていることだ。そこから出発し、今を見つめようとしている自分がいる。例えばソクラテスやプラントンの時代の思想、ヒンドゥー教や仏教の原始的な古典に遡ろうとしている自分がいる。前者で言えば、それは「エレウシスの秘儀」が残っていた時代の思想であり、そこでは現在のサイケデリクスの原型とも言えるサイコアクティブな物質を活用した「キキオン(カイキオン: kykeon)」という飲料を通じて共同思索実践が展開されていた。また後者においても、「ソーマ」と呼ばれるLSDの原材料の麦角菌かシロシビン·マッシュルームかが原材料とであっただろうと言われている飲料を活用する形で思索が深められていた。そこでは共通して世界の成り立ち、すなわちリアリティとは何かや事物の根元について議論がなされ、自我や自己とは何かが深く探究された。今行われている科学も哲学も、それらの営みはいずれも、サイコアクティブな物質を活用していた時代の思想が伝えていることの単なる言い換えか確認に過ぎないように思えてくる。それほどまでに古代の思想は深い洞察を有していて、汲み取るべきものが多い。やはりかつてアルフレッド·ノース·ホワイトヘッドが、「西洋思想は全てプラトンの思想の脚注に過ぎない」と言い放ったことが頷ける。
プラトンやプロティノスはキキオンの摂取を通じて神秘主義的な思想を展開したが、同じくキキオンを摂取していたと言われるアリストテレスにはあまり神秘主義的な思想は見られず、逆にそこから西洋は神秘主義を秘教的な教えと抑圧する形で、理性一辺倒の思想を展開することになったとされる。サイケデリック哲学の中で、アリストテレスはキキオンの力を十分に汲み取れなかった存在としてみなされることが多いーー個人的にはアリストテレスの形而上学思想には重要な観点がいくつもあるように思えるし、宗教的な意味を含めない形で"God"の概念を展開したことの重要性などもあるように思えるーー。いずれにせよ、現在においてもプラトンの思想が親しまれるのにはやはりそれなりの理由があるように思う。そこには多分に神秘主義的な要素が内包されているというのは1つの大きな理由であろう。そして、それに注目する形で、サイケデリック体験で開示されるような洞察を持っていた哲学者(ホワイトヘッドやベルグソンはその筆頭)たちはこぞってアリストテレスよりもプラトンを参照しているように思える。ひるがえって、ヒンドゥー教や仏教の聖典に目を向けてみると、こちらもまたプラトンの書物と同じぐらいの洞察を価値を有していることが見えてくる。東洋思想もまたこれらの聖典の脚注に過ぎないのかもしれない。今、こうした源流·原点とも言えるような思想に立ち返っているのは、そこにサイケデリック体験を紐解く豊かな洞察が眠っているであろうという予感があるからだろうか。それはほぼほぼ確信めいたものである。ここから自らのサイケデリック体験を紐解いていく際には、それらの古典を大切にし、とりわけ日本人としての自分の無意識が深層的に影響を受けている日本思想を古代まで遡って探究していこう。それは自分にとって、学術研究上の果てしない旅になるだろう。フローニンゲン:2023/11/19(日)05:38
11356. 芸術鑑賞や旅と類似するサイケデリック体験
サイケデリック体験というのは多分に芸術鑑賞に似ているのではないかという考えがやって来た。またそれは旅を行うことにも多分に類似している。
サイケデリック体験が芸術鑑賞に似ているというのは、サイケデリック体験がそもそも究極的に主観的な体験であり、同時にそこには組み尽くせないほどの深みがあることだ。この点はまさに芸術鑑賞と全く同じなのではないだろうか。自分自身が成長すればするだけ、つまり内面が深まれば深まるだけ、芸術作品から汲み取れるものが増すのと同じく、サイケデリック体験もまた、自己の深まりの度合いに応じて新たなものを開示してくれるのである。
旅に出かけることもまたそこにある未知性を考えてみると、サイケデリック体験と似ている。現代の旅は残念ながら商業的にパッケージ化され過ぎてしまい未知との遭遇は難しくなっているが、本来旅はその予見不可能性と混沌さに溢れているものであり、予見不可能なものとの出会いを混沌を通過することを通じて自己発見や気づきを旅の土産として持ち帰るということを本義にしていたように思える。サイケデリック体験もまた旅の本義に則るものである。ここからサイケデリクスが社会に広く普及してくるようになると、旅が陥った過ちと同じ轍を踏まないようにする必要があるだろう。すなわち、商業的にパッケージ化された旅のように予測不可能性や混沌さを排斥せず、一般化しない形でその人固有の体験をしてもらう意識が重要になるのではないかということである。芸術鑑賞においても、最近では芸術鑑賞マニュアルのような意味合いを持つ書籍や言説が広く社会に出回るようになり、芸術鑑賞からも究極的な主観性が骨抜きにされている点は危惧するし、それと同様のことがサイケデリクスの摂取に関して起きてはならないと考える。
それでは芸術鑑賞としての旅としてのサイケデリック体験をどのように実り大きものにしていくかというと、逆説的に響くかもしれないが、やはり多様な学問分野を動員した形で確立される無限に広く深い見取り図を提供することかと思う。それはあくまでも見取り図であり、羅針盤であり、解説書ではない。あくまでもそれは体験者が無限に広く深い世界を己の足で歩むことを可能にしてくれる地図なのだ。もちろん時には地図などなくていいし、参照などしなくていい。体験世界で迷うことを通じて得られることも多分にあるのだ。しかし常に迷いながら歩くことには不安が付き纏うだろうし、それでは学びが深まらないという性質がある。つまり、地図をもたない形で旅に出かけると、同じ場所をグルグル回って一生過ごすことも考えられるのである。地図があるからこそ、自分がどこを開拓していて、どこがまだ未開拓なのかが分かるのだ。そうした意味でも無限に広く深い地図を制作することの意味とそれを提供する社会的な意味は非常に大きいように思う。自分は地図の製作者なのである。そして自ら作った地図を携えて、絶えずその体験世界を旅する存在なのだ。自らの学術研究とサイケデリック体験をもとに日々更新されていく地図を他者に共有し、他者の体験話を聞くことを通じて、地図がまた進化していく。そこで体験された景色や感覚をお互いに共有することの楽しさ、喜び、素晴らしさ。他者と共に生きているという深い実感。他者と共に世界創作という巨大な営みに従事しているという実感。そのような感覚に満たされている自分がいる。自分は地図の製作者であり、無限に広い超越的世界を旅する人。そして絶えず満たされた人である。フローニンゲン:2023/11/19(日)06:14
11357. 「インテグラル·サイケデリックラジオ」の第55回の収録を終えて
時刻は午後3時半を迎えた。今朝は午前3時半に起床し、それが午後になった形で今を迎える。ここまでのところ、今日は本当に充実した日曜日だった。毎日がこのように最大の充実感として過ぎていくことに感謝の念が尽きない。早朝から正午前にかけての読書はすこぶる捗り、非常に高い集中力を持って行われていた。午前3時半に起床したとしても、午前中に眠くなることは一切なく、むしろ鋭敏な集中力で活字世界の中に入ることができていた。それはここ最近この時間帯に起床したときに全て共通している。やはり午後9時半頃に就寝して、質の高い睡眠が取れているからこのようなことが起こるのかもしれない。もちろん睡眠時間はその時の心身の求めによって変化していくだろうが、今後も朝3時半頃に目覚めたら、その目覚めのすっきりさを見て起床し、学術研究に打ち込んでいこうと思う。
午後から先ほどまでは、「インテグラル·サイケデリックラジオ」の第55回の収録を終えた。今日はゼミナールの受講生である廣野秀一さんにゲストにお越しいただき、早田航さんと3人で対話をして大変有意義な時間を過ごすことができた。ラジオの中で廣野さんが語ってくださったことに対して多大なる共感の念が随所に生まれて来て、自分のこれまでの人生を振り返るきっかけにもなったし、これからの人生を展望する上でも啓発を与えてもらったように思う。とりわけ今日ラジオで話した3人が共通してサイケデリクスに関心を持ちながら、サイケデリクスとの関わり方や関心が異なるところが理想的だと思った。サイケデリクスについて探究をし、それを健全な形で社会実装していくという意味での「サイケデリック·クエスト」を行っていくためには、仲間が必要であり、パーティーを形成していく必要がある。そのようなことを以前から思っていて、今少しずつではあるが仲間が見つかり始めていることを本当に嬉しく思う。自分にしかできない貢献の仕方がある一方で、自分にはできないことがたくさんある。とりわけサイケデリクスの研究と実践を包括的に、まさにインテグラルに行っていこうとすればするほど、自分だけでは実現できないことがたくさん出てくるのである。それを自覚しながら、チームを形成して事に当たること。それをこれからより一層意識していきたいし、引き続き仲間となる人との出会いに開かれていたいと思う。
ラジオの振り返りセッションの最後で述べたように、どこかこのラジオの時間と場そのものがサイケデリック·セッション的だと思った。時間の流れもそうだし、そこで得られる学びや洞察の量を考えてみた時に、とっさにそのようなことを思ったのである。まさにラジオのタイトル通りのことが実現されていることに驚きを隠せない。これもまた言霊現象なのかもしれない。引き続き言葉を大切にし、言霊の恩恵を生きながら、日々自分にできる研究と実践を行っていく形で社会に関与し、毎日を充実感と幸福感を持って生きていきたいと思う。フローニンゲン:2023/11/19(日)15:52
11358. サイケデリック研究上のセンターピンとしての意識のハードプロブレム
時刻は午後4時を迎えた。もうそろそろ日の入りの時間である。小鳥たちが日の入り前の最後の鳴き声を上げたようだ。
今日の午前中の研究では、サイケデリクスを通じた意識のハードプロブレムの解決に向けた試みについて考えていた。意識のハードプロブレムとは端的には、主観性、クオリア、意識というものがなぜ、そしてどのように立ち現れるのかについての問いである。その問いに挑むためには哲学的なアプローチだけではなく、自身のサイケデリクス体験を思考の導き手及び閃きの源泉として、宗教学的なアプローチ、とりわけ神秘主義の言語体系を用いてその問題の解決に向かって取り組んでいくことを試みてみたいと思った。意識のソフトプロブレムは右上象限の問題であり、神経科学や認知科学で解決できるが、ハードプロブレムは左上象限の問題であり、そもそもこの問題自体が心の哲学という哲学領域から生まれたものであるが、今朝方改めてこの問題について扱った生粋の学術書を読んでいると、どうやら哲学の用語体系と思考方法だけではこの問題を解決できなさそうだと思ったのである。哲学的な思索の蓄積とアプローチを活用しながらも、それに加えて宗教的な叡智と神秘主義の用語体系と思考方法を総動員する形で問題の解決に向けて取り組みたいという思いを強めた。
意識のハードプロブレムは実に知的興奮に満ちた問いである。それは非常に難問で、これまでも幾多の学者がこの問題の解決に乗り出し、現在も多くの学者がこの難題に取り掛かっている。この解決不能と思えるような問いと自分もまた向き合っていきたいという思いが沸々と湧いている。繰り返しになるが、その際にはサイケデリクスの摂取体験が不可欠となり、宗教·神秘主義の用語体系と思考方法が不可欠となる。
そのようなことを考えながらふと、ハードプロブレムが難問に思えるのは、そもそも問いの前提や枠組みそのものに問題があるのではないかと思った。端的には、その前提条件や問いの枠組みを変えてみると良い突破口が見えるかもしれないと思ったのである。ハードプロブレムでは、主観性、クオリア、意識がどう立ち現れるかという問いを立てているが、そもそもこのリアリティが主観性、クオリア、意識に満ちているという前提を置いてみてはどうだろうか。そもそも最初からリアリティがそれらに満ちているという前提に立ってみると、また違った着眼点が見えて来そうである。なぜ主観性が存在し、なぜクオリアが存在するのかというに対して神秘主義はどう答えるだろうか。それは宇宙そのものにも主観性やクオリアがあり、人間は宇宙のフラクタルであるから主観性やクオリアを備えているのは自然なことで、宇宙は自身の多様な主観性やクオリアに私たちに気付いてもらいたがっているのかもしれない。そして宇宙の主観性とクオリアをより豊かなものにするために、それらを私たちに提示してくれているのかもしれない。私たちに主観的な意識が備わった背後にはそのような物語があるかもしれない。こうしたナラティブを構築することもまた自分の主観性の現れであり、尊重するべきものに思えてくる。このナラティブをどのように哲学の俎上に乗せていくかは哲学の作法を学び、哲学的な仕事に従事する中でその道を見つけていきたい。少なくとも今は、ハードプロブレムに関する自分なりの解答しての、あるいは仮説としての物語を何も気にすることなく大量に生み出したいと思う。その過程の中で、哲学や科学を参照しながら、ナラティブにより説得力や妥当性を持たせていくことを試みたい。こうした主観的な思いが立ち現れるのもまた宇宙からの贈り物としか言いようのない気持ちになって来る。主観性には客観性にはない無限の解釈の余地や意味の展開の余地があり、宇宙はそもそもそうした無限の可能性に満ちていて、絶えず新たなものを生み出している。人間の主観的な意識というのもまた無限の可能性を持っていて、絶えず新たなものを生み出す性質を持っているところが完全に重なる。ここからも日々意識のハードプロブレムとサイケデリクス体験を絡めた考察と振り返りを行っていきたい。サイケデリック研究上のセンターピンに意識のハードプロブレムを見出したことは今日の最大の収穫だった。フローニンゲン:2023/11/19(日)16:44
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