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11150-11156: フローニンゲンからの便り 2023年10月23日(月)



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成人発達理論とインテグラル理論を楽しく学んでいただける「成人発達コラボラジオ」を2023年7月14日より始めました。

タイトル一覧

11150. 今朝方の夢

11151. 光であったこと・光であることを思い出すこと

11152. 今朝方の夢の続き

11153. 無限の真理に投げ出された自己/常に今ここにあるメッセージ

11154. 永遠の哲学を学ぶ意味/多様な架け橋の創出に向かって

11155. サイケデリクスと道/大いなる学びの扉としてのサイケデリクス

11156. 充実したトレーニングを終えて


11150. 今朝方の夢


時刻は間も無く午前7時を迎える。天気予報を確認すると、どうやらこの時間帯は霧に包まれているようだが、真っ暗闇が世界を包んでいるので霧に包まれているかどうかはわからない。今の気温は6度とかなり低いが、ここから右肩上がりに気温が上がり、日中は13度まで気温が上がるようだ。今日は午後にジムに行く予定で、パーソナルトレーニングの前にはアニマルフローを通じてしっかりと体を温め、最近ハマっている全力疾走に近いシャトルランの往復を何度か行う。それによって心肺機能を高める楽しさにハマっている。実際にそのおかげでかなり心肺機能が強化され、ジークンドーのシャドースパーリングの際や実際にロビンさんとのパーソナルレッスンの最後のスパーリングの際に体力の向上が窺える。すぐに息切れすることなく動き続けれるような体ができていることを嬉しく思う。


昨日はロビンさんとのパーソナルトレーニングがあったからなのか、今朝方の夢にロビンさんが現れていた。夢の場面としては些細なもので、白い雰囲気に包まれた空間の中で2人でジークンドーの稽古をしていると、ふとその場所がいつもの道場ではなく、子供たちの遊び部屋のように思えたのである。実際に部屋の隅にはおもちゃが散乱していて、子供たちがかつて遊んでいたことがわかる部屋のようだった。今とはなってもう子供たちはその部屋では遊んでいないようだが、こうして今大人の2人がまるで遊びを楽しむかのように武術の稽古を楽しんでいることが面白く思えた。しばらく稽古をした後に、部屋の奥の方にあった机の上に1枚の紙が置いてあることに気づいた。それが何かをロビンさんに尋ねると、ロビンさんは何か思い出したかのように私をその紙のところに案内した。すると、その紙は今日の稽古の請求書だった。請求書を見ると、いつもとは違って、この部屋を新しく使ったことに伴う賃貸料まで請求金額の中に含まれていて、それは聞いていない話だったので驚いた。いつもよりもレッスン料が高くなっていて、4倍近くの金額になっていた。そこからこの部屋の賃貸料だけではなく、他にも新たに請求書に付け加えられた項目があったので、それらについての説明を聞き、必要であれば交渉してそれらはロビンさんの負担にしてもらおうと思った。そのような夢を見ていた。そう言えば昨日のレッスンで、ロビンさんはもうグループレッスンを提供することはやめ、プライベートレッスンの生徒も相当数を絞ったそうだった。今はわずか3人にしかプライベートレッスンを提供していないらしく、そのうちの1人に自分を選んでくれたことを有り難く思った。おそらく毎日楽しみながら熱心に稽古を続けてきた着実な進歩をロビンさんも気づいてくれたのだろう。また次回のレッスンが楽しみである。フローニンゲン:2023/10/23(月)07:08


11151. 光であったこと・光であることを思い出すこと


青空。どこまでも続く青空。エメラルドスカイブルーの青空。心を澄み渡してくれるような青空。そして全てを見透かしているかのような青空。そんな青空の前で、そんな青空の下で、自分は正直になる。


人は成長を望む一方で、成長を恐れる。人はまだ見ぬ自分を見てみたいと思う一方で、それを本当に見ることを恐れる。人は今よりも先にある一歩成長した自分になることを望む一方で、それを心底恐れる。自分もかつてはそうだった。今もそうしたある種成長に伴う実存的恐怖のようなものがあるかもしれない。しかしそのような恐怖はもはや途轍もなくちっぽけになっていて、今の自分はもうした恐怖を完全に乗り越えているように思える。そうした恐怖は自らが成長し続ける存在として、また自我の防衛反応という消すことのできない作用としていつまでも残るのだろう。だがもうそのような恐怖に飲まれることはなく、そのような恐怖に足踏みすることはない。そうした恐怖また成長し続ける自己の証なのであり、それはむしろさらなる成長の養分になっている。


自分はもう無限の可能性に恐れることはないのだと思う。かつては自分はそれを恐れていたかもしれないし、存在の奥底がすくみそうなこともあっただろう。よくよく考えてみると、自分の無限の可能性に恐れるというのはおかしなことである。それは無限の未知なる可能性ゆえに闇のように果てしなく広がっているのだが、その先には実は常に光があるのである。その光に気づけたとき、無限に広がる未知なる可能性の中に飛び込んでいくことやその世界を生きることに何の不安も恐れもなくなる。光になれという声が聞こえてくる。自己の本質にある光になれという声がどこからともなく聞こえてくる。全ての偉大な哲学者が、全ての偉大な思想家が、全ての偉大な宗教が述べている光としての世界と自己。究極的に無限に可能性に満ちた未知なる世界と自己は闇なのではなく、むしろ光でしかないのだ。光である自己が光の中に飛び込むと、それは闇に思える。2つの光がぶつかってしまうからだ。しかしそうした分断を乗り越え、世界と自己という本来光であったものの分離を乗り越えて、自己という光そのものになり、世界という光そのものになったとき、全ては光に包まれ、自らの可能性に絶えず開かれながら、天命を全うしつつ成長の道を果てしなく歩み続けることが可能になるだろう。自らも世界も本来光であったことを忘れるときに人は迷う。そして途方に暮れる。だがひとたび自己も世界も無限の可能性に満ちた光であることを思い出したときに、人は歩き始める。何も難しいことはない。ただそれを思い出すこと。自己も世界も本来最初から、そして未来永劫光であったことを思い出すこと。ただただそのことを思い出すことと、その真実を絶えず携えて生きることができればその人は自らの使命と天命を全うして生きることができるだろう。雲ひとつない晴れ渡る青空がそのようなことを述べていた。フローニンゲン:2023/10/23(月)08:20


11152. 今朝方の夢の続き


そよ風さえない本当に静かな世界が目の前に広がっている。外はもう凍てつく寒さに近くなっているが、こうした静謐さが深層的に体現された環境の中で毎日自分の命の火を灯し続けることができる幸せ。自分が何かを成したことが幸せの源泉なのではなく、自分の命の火を灯すことが幸せの源泉なのだ。その小さな火に見知らぬ人がふと立ち寄ってきて暖まってくれることがあればなお幸福感は増す。自分はもう何かを成すことから幸福感を得られることはない。何かを成すという根源に、自らの命の火を燃やすということが大前提にあることを知っている。何かの達成はその結果に過ぎないのである。もちろんその結果が誰かや世の役に立つことがあれば嬉しさの感情は芽生える。だが自分が心底に嬉しく思うのは、心底に幸せに思うのが、自分が自らの命の光を灯すことであり、他者がその人自身の命の光を灯す光景を見ることなのだ。それ以上のこともそれ以外のこともない。それが自らの幸福の源泉なのだ。


早朝最初の日記の中で今朝方の夢を1つ振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるのでそれについても振り返っておこう。こうした振り返りそのものが、自らの直接体験を己の言葉で綴ることそのものが自分の命の火を灯すことなのだから。


夢の中で私は、小中高時代のある女性友達と高校から一緒になったクラスメートの女性友達と教室で話をしていた。何やら2人が最近洋裁にハマっているらしく、今実際に洋服を作っているとのことだった。有り難いことに2人がそれぞれ自分のために洋服を作ってくれるとのことだったので、サイズを伝え、柄について話し合った。すると突然廊下が騒がしくなり、何事かと思ったら、ユニクロが冬の最新作を発表したらしく、店頭に並び始めたばかりの幾つもの最新作を荷車に乗せて走り回っている男子生徒がいた。ちょうど彼が荷車を引いて私たちの教室の横を通ったとき、ユニクロの最新作をチラッと見た。確かにそれらは魅力的に思えたが、今横にいる2人の女性友達に作ってもらった洋服の方が心の温かみがあると思ったので、2人と再び会話の続きを始め、廊下の騒々しさを忘れて話に戻った。そのような場面があった。


その他にも、東京の都心部とどこか外国の都市部が融合したような場所のコンビニに入ろうとしている場面があったことも覚えている。実際に私はコンビニに入り、そのコンビニのレジでコンビニの隣にあるホテルのチェックインができることになっていたので、チェックインをレジのアフリカ系のすらっとした男性にお願いした。彼は片言の英語しか話せないようだったが、対応は親切で笑顔を浮かべてチェックインの手続きをしてくれた。手続きの最中に彼にいろいろと話しかけてみると、彼は日本に行ったことが2回ほどあるらしく、また行ってみたいということを話していた。彼との何気ない会話が自分の心をスッと満たし、小さな幸福感を感じている自分がいた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/10/23(月)08:38


11153. 無限の真理に投げ出された自己/常に今ここにあるメッセージ


小鳥たちが喜びの歌声を上げる時間になった。彼らの鳴き声はただただ美しい。小鳥たちは別に美しい鳴き声を上げようと思って鳴いているわけではないのだ。あれは彼らの純粋無垢な思いと真正な自己表現ないしは自己顕現なのだ。そこには何の作為性もなく、彼らの鳴き声は彼らの命の輝きとして価値を持ち、それそのものが美しいのである。そんな彼らの鳴き声にゆったりとした気持ちで耳を澄ませてみるとき、自らの日常における姑息さや作為的な考えに気づかないだろうか。それに気づくことがまず一歩であり、その次にそうした己の姑息さや作為性を手放すことが必要になる。人は本当に己として軽やかに自由に生きたいと思っているのだろうか。それにしては様々なものでがんじがらめにされてはないだろうか。自己の本質や神聖さに気づくというのは、思い出すことである。思い出すこととはがんじがらめにさせているものを1つずつ手放すことである。手放すためには気づくこととちょっとした勇気が必要になる。気づくことや勇気がなかなか持てないときには全て1人で抱えて1人でやらないことである。だからこの世界の世界には他者がいるのである。そして自らという固有の存在がいるのもまた、自らの助けを待っている誰かがこの世界にいるからなのだろう。清澄なさえずりを朝の世界に響かせている小鳥たちがそのようなことを告げている。彼らの合唱の深層的な意味の1つはそれだった。このようにして世界は絶えず私たちに何かしらの真理を告げている。そう今もこの瞬間も、私たちは絶えず無限の真理に開かれていて、真理に投げ出されているのだ。ハイデガーが述べた「私たちは世界に投げ出されている」というのは、私たちが絶えず真理に投げ出されていることを暗に意味しているように思える。きっとそうした真理性がハイデガーの言葉に含まれているのだろう。


先ほど淹れたモーニングコーヒーの味がただただ美味い。先日知人かつ協働者の早田航さんがオランダに来られたときに、機能性とデザインに優れたケトルを贈り物として持ってきてくださった。そのケトルで淹れたコーヒーは心底く美味い。しかし残念なことが数日後に起こった。日本と欧州では電圧が異なり、電源プラグの形も異なる。後者については電源の変換器を用いて問題が解決したのだが、どうやら電圧の違い上、ケトルがうまく使えなくなってしまったのだ。ケトルの電源ランプや温度表示は引き続ききちんと機能しているのだが、温度が一向に上がらなくなってしまったのである。翌日と翌々日も試してみたが、問題は結局解決できずじまいだったので、ケトルを箱にしまった。日本の電圧は100V、ヨーロッパは230Vほどと、2倍以上の差がある。一方で、アメリカの電圧は120Vなので日米の電圧さはほとんどない。さらには日米の電源プラグの形は同じなので、ひょっとしたら航さんからいただいたこのケトルは、晴れて自分がアメリカに行ってから使いなさいというメッセージなのかと思った。今週の日曜日からは5年ぶりのボストン旅行が始まる。晴れてアメリカでの生活が始まるかどうかは今回の旅行が鍵を握るだろう。来年の夏から本当にアメリカでの生活が実現されたら、様々なメッセージがこれまでの人生、そして今この瞬間の人生の中にあったことに気づくだろう。大切なメッセージをその時まで取っておくかのように、ケトルを元の箱に大切にしまい、それを使わせてもらう時を静かに待とう。フローニンゲン:2023/10/23(月)09:03


11154. 永遠の哲学を学ぶ意味/多様な架け橋の創出に向かって


自分がなぜ神学、そして宗教学に導かれたのだろうか。そのようなことをここ数日ぼんやりと考えていた。今年自分はハーバード大学神学大学院(HDS)に出願し、そこでの学びを心底希求している自己がいる。神学と宗教学の中でも比較宗教学に惹かれたのは、サイケデリクスが関係していることは間違いない。サイケデリクスがもたらす直接体験は、神学や宗教が扱う世界に他ならない。とりわけ非二元の世界への言及、超越的な世界への言及は、神学や宗教学が本分にするところであり、これまでの神学と宗教学の学問的な叡智の堆積に与らせていただき、そこから自分自身がまた新たな言葉を紡ぎ出す形で非二元とこの現実世界の橋渡しをすることが使命の1つなのだと実感している。最初の問いに戻れば、自分がこれから神学と比較宗教学を学ぶ意味は、この世界に存在する叡智に溢れた様々な宗教思想の中にある非二元の世界にそれぞれの宗教の言葉で触れていき、そこから他の宗教との非二元の世界同士の架け橋を新たに作ったり、無宗教の人にもこの現実世界と非二元の世界への行き来ができるような架け橋を作るためなのだと思う。逆に言えば、様々な宗教に横たわる非二元の思想を学ばなければ、それぞれの宗教が見ている非二元の世界を繋ぐことはできないだろうし、無宗教の人へもうまく橋渡しができないと思われるのだ。全ての宗教に横たわる共通の真理は宗教を超え、「永遠の哲学(perennial philosophy)」と呼ばれる。哲学の元々の語源は、知ないしは智を愛することである。もっと言えば、私たちは非二元に愛され、非二元を愛する存在であるはずだ。その愛に気づき、愛として生きることを可能にするために永遠の哲学の探究に乗り出していく必要があると感じている。この感覚はある種の使命感のようなものである。


ではなぜHDSなのだろうか。様々な宗教を学ぶ前段階として、自分はまずは仏教の非二元の世界をより深く理解したいと思っている。しかもそれを日本語ではなく、学問の共通言語になりつつある英語を通してそれを学びたい。そうなってくると、例えばHDSよりもUCバークレーの方が仏教に特化した神学大学院がある。しかし、この世界で唯一HDSだけが宗教多元主義的な発想を深く体現させてプログラムを構築している。端的には、HDSでは全ての宗教の非二元の思想を学ぶ機会があり、全ての宗教に対する学びを如何様にでも深められる機会が存在しているのだ。これはHDSの関係者も述べていることであり、その他の欧米の大学院を調べると、キリスト教に偏っていたり、仏教に偏っていたりと、確かにHDS以上に宗教多元主義的な学校はないことがわかる。兎にも角にも自分は、ありとあらゆる分断を超えて架け橋を作ることに使命感と情熱を持っている。自らのサイケデリクス体験を自分だけの直接体験としてだけに留めるような愚行はしたくなく、全ての人にそれぞれの在り方と方法で非二元の世界に触れてもらうための手助けとしての橋渡しをしたいのだ。今年はHDSにしか出願する予定がないのは、そしてHDSに出願する思いにはそうした熱い使命感と情念が背後に、そして自分の奥底にあるからなのだ。フローニンゲン:2023/10/23(月)09:35


11155. サイケデリクスと道/大いなる学びの扉としてのサイケデリクス


本来非二元であれば、本来全ての存在の内側にある真実と価値を真に深く抱擁していれば、それぞれの道を批判することも排斥することもないはずである。そうなってくると、非二元に至る道として、そして非二元の世界を垣間見てその世界での学びをこちらの世界に持ち帰ってくる媒体としてのサイケデリクスを批判し、排斥することはやはりお門違いのように思えてくる。この建設的批判もまた何かを排斥することになっていないだろうかという相対主義的な物の見方が脳裏をかすめるが、より深い真実というものがあるという真実の階層性を見据えると、やはりサイケデリクスの存在を批判し、排斥しようとする機運や運動はどこかおかしい。


非二元を見る手段やそれに触れる手段として、ある宗教家はサイケデリクスの摂取を邪道だとみなすかもしれない。しかしそれは果たして本当に邪道と呼んでいいのだろうか。本当に非二元を体現した人がサイケデリクスを邪道と呼べるのだろうか。どの道も本来は全て神聖かつ真正の道として固有の価値と存在意義を持っているはずなのだ。仮にその道が邪道に転じるのであれば、それは結局その道に関わる人間のエゴや悪行によるのではないかと思う。そうしたことから、非二元への道として、あるいは治癒と変容の道としてのサイケデリクスを邪道とみなす考え方には賛同できない。サイケデリクスもまた1つの立派な非二元への道なのだ。そして今のところの自分が見つけた道の中で最も力強く、そして信頼に足る道だという思いがある。


時はゆっくりと、そして着実に流れている。気がつけば午前10時半を迎えた。午前中の読書と思索が小さく着実に進んでいる。サイケデリクスを通じた学びの根源には、あの大きな直接体験がある。そこには究極的な真実を開示させてくれるあの直接体験があるのだ。その直接体験が、その体験の先にあるさらに深く無限に広がる自己と世界を見させてくれる。サイケデリクスは自分にとっての大いなる学びの扉なのである。重要なことはその扉そのものへ敬意を持って接することであり、扉そのものを探究することであるのと同時に、さらに重要なことは扉の向こう側の世界についての探究を深め、扉の向こうと扉の手前の世界を行き来して生きることである。燦然と輝く朝日の光に抱かれながら、その光に導かれてそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2023/10/23(月)10:48


11156. 充実したトレーニングを終えて


時刻はたった今、午後5時を迎えた。先ほどジムから帰ってきてシャワーを浴びてさっぱりして今に至る。昨日はジークンドーのプライベートレッスンがあり、今日はジムでのパーソナルトレーニングがあった。このように他者からの支援を受けながら自分が着実に実践を深め、そこから大いに学びを得ているという実感と共に、その学びが自分の成長に確かにつながっているという実感もある。こうしたありありとした手触り感のある実感が自分の日々の充実感を支えている。


今日のトレーニングはなかなかにハードだった。ジムに到着してアニマルフローを準備運動がてら行い、そこからは昨日のロビンさんとのプライベートレッスンで習った技を何度か復習し、シャドースパリングをして、シャトルランで心拍数を上げるメニュをー2セット行った。それでかなり体が温まり良い準備運動になったところで今日のパーソナルトレーニングに入った。毎回トレーナーのエリーザは工夫をしてくれていて、一度たりとも完全に同じメニューだったことはない。使う器具や動きの工夫によって実に多様なメニューをいつも提供してくれていて、新しいものへのチャレンジを楽しむの自分の性格に合致したプログラムを毎回組んでくれていることは有り難い。だからこうして毎週1回パーソナルトレーニングを彼女から受けているのだろう。


トレーニングの合間にはいつも1週間の近況を話したり、その他様々な話題について話すことが良い息抜きになっている。ちょうど来週はボストンに滞在しているので来週のトレーニングは休みで、彼女もまたアムステルダムで大会に出場するようなのでそれに向けて追い込んだトレーニングをしているようだ。


今日のトレーニングでは大胸筋を鍛えるマシーンを使った直後にさらに腕立て伏せで追い込むことがかなり大胸筋に効いていて、今後このメニューを取り入れたいと思ったし、最後に行った4種類の複合メニューもまた心肺機能を高めるだけではなく、様々な筋肉を総動員させるメニューだったので面白く感じられた。もちろんそれはハードだったのだが、ハードさを超える効能を実感していた。


帰り際、ドイツ人のトレーナーのエレンと少し会話をした。彼女は今自分がかつてフローニンゲンの1年目で在籍していた創造性とタレントディベロップメントのプログラムに在籍していて、ちょうど来週に中間試験があるとのことだった。トレーナーの仕事をしながら大学院に通うというのは両立が難しい場合もあるあろうが、きっと彼女ならうまくやり遂げるだろう。自分もまた来年の大学院への出願に向けて出来る限りの準備をしたいと思う。フローニンゲン:2023/10/23(月)17:09

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