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タイトル一覧
13772: 故人を偲ぶことの尊さを感じて
13773: 風の声に耳を傾けて/穏やかな夢の世界に浸って
13774: 言葉の奴隷と成り果て、力を失った現代人
13775: 現前立小物的な在り方を超えて/恋愛について
13776: 深淵な縁起の理
13777: コンディショニングを意識したトレーニング
13772. 故人を偲ぶことの尊さを感じて
時刻は午前5時半を迎えた。どうやら今は少し雨が降っているようだ。昨夜就寝前には一時強い雨が降っていた。実は激しい雨が降る日には、浴室の天井から少し雨が滴り落ちてくることがあって、それが心配だった。今朝方起床してみると、どうやらそれは杞憂に終わり、かつて雨漏れした時に、それが乾燥して雨漏れの通路をうまく防いでくれているようだった。雨漏れの問題については以前フレディさんに相談し、一緒に雨漏れの原因を探したが、外の屋根にはその箇所を見つけることができず、問題の様子を見ることにした。その日から今日にかけて、フレディさんはもうこの世にはいない。フレディさんとは一緒に排水管の問題を解決したことがあったし、その他の家の小さな問題についてよくお世話になっていた。そんなフレディさんがもうこの世にいないことは、今後小さな問題が家に起こるたびに思い出されるだろう。しかしひょっとしたら、フレディさんが自らの手で作ったこの家は、今後はもうほとんど問題が起こらないかもしれない。どうもフレディさんにこの家が見守られている感覚がするのである。フレディさんは元々はこの家をご自身のお母さんのために作られた。フレディさんのお母さんは別の町に住んでいて、今後介護が必要になりそうになったらこの家に引っ越してくることになっていて、フレディさんが生きている間にはその日はやって来なかった。静寂な周りの環境に包まれたこの素敵な家を長く自分に貸してくれているフレディさんとペイトラさんには今も感謝である。依然として月々の家賃はフレディさんの口座に振り込んでおり、毎月家賃の支払いの日になると、フレディさんのことを思い出し、彼に感謝しながら家賃を支払っている。どのような形であれ、故人を偲ぶことの尊さを思う。
今の気温は12度と暖かいが、今日はこれからどんどんと気温が下がっていく。早朝の時間帯に一番気温が高いのは雨のおかげであろう。確かに今日は午前中にも小雨が降るようだが、小雨の力よりも気温が下がる力の方が強く、日中は6度まで気温が下がる。今日はそのような気温の中でジムに行く。先日の月曜日にもジムに行くことは可能であったが、協働者の方とのミーティングを優先させ、自宅でトレーニングを行うことにした。なので今日がオランダに戻って来てから初めてのジムでのトレーニングとなる。自分にとって行きつけのジムは社交の場でもあり、たくさんの顔見知りがそこにいる。彼らと笑顔で挨拶を交わすだけでも心が温まり、心が安らかになる。そして彼らと会話を交わすと、エネルギーを交換し合うことを通じてお互いのエネルギーを高め合っている感覚がする。今日もそうした体験をすることができるだろう。フローニンゲン:2024/12/19(木)05:45
13773. 風の声に耳を傾けて/穏やかな夢の世界に浸って
時刻は午前6時を迎えた。昨日と同様に、今日も少し風がある。風の声が朝の深い闇の世界からそっと聞こえてくる。風の声に耳を澄ませてみることも、観想的な実践の1つになりうる。風の声には時間の持続性が含まれていて、時間が拡散し、溶解している現代社会の中で、それは大切な実践になる。どのような点で大事になるかというと、事物の時間が持つ持続性に触れることで、自らの命の時間が持つ持続性を確認することができる点である。命の運動には固有の時間的持続性があり、それを感じる時に生の喜びを感じる。それは私たちに生きる活力を与えてくれる。またそれは、創造性を含めた全ての源にもなる。まろやかな時の流れに身を任せ、自分は時の持続性の中で穏やかな踊りを踊りたい。そのようにして日々を過ごしていこうと思わせてくれる風の声だ。
今朝方は珍しく記憶に残る夢を見ていなかった。起床する時間は午前5時と定まっているが、夜に眠くなる時間が早く、午後8時半にはもう就寝している。確かにこれまでのオランダでの生活においても午後9時前には寝ていたので30分ほどのズレしかないのだが、その差が依然として体内時計が少し乱れていることを物語っている。オランダに戻って来てからは、入浴後にはもうパソコンの画面を見ないようにしており、そこからは唯識学に関する書籍を読んで就寝に向かうようにしている。日中に読書をしていても眠くなることは一切ないが、入浴後は読書が入眠導入剤になっているかのように働いている。確かに唯識学においては難解な日本語が多いこともあって、それがとりわけ入浴後の夜の時間において睡眠を誘っているのかもしれないが、パソコンの画面を通じて海外ドラマや映画を見るよりは視覚的な刺激も少なく、睡眠の質を高める意味でも引き続き寝る前は読書を少々行うことにしたい。そのような形で昨夜も眠ったところ、今朝方の夢の世界はとても穏やかであった。記憶に残るような場面は一切現れておらず、夢を見ない深い眠りの世界であるコーザルの意識状態が長く持続していた。視覚的なビジョンは何も見なかったが、感覚的にはとにかく平穏で安らぎのある夢の世界にプカリと浮かんでいた感じである。穏やかな夢の世界に浸った感覚をもとに、今日もまた平穏な心で自らの取り組みを前に進めていきたい。フローニンゲン:2024/12/19(木)06:27
13774. 言葉の奴隷と成り果て、力を失った現代人
私たちの可能性や潜在能力を抑圧し、改変する各種の規則や慣習。自分はそうしたものを徹底的に忌避しているということについて改めて考えていた。世の中に蔓延るそうした規則や慣習は、もはや社会を良き方向に導くことには機能しておらず、見せかけだけの社会風紀を表面上保つだけにしか機能していない。もちろん必要な規則や慣習は存在しており、そうしたものまで否定しているのではない。しかしながら、現代社会には本当に人々から力を奪う規則や慣習ばかりである。そもそも規則も慣習も言葉の産物である。それが働く時には言葉を媒介させず、目には見えない形で働く場合もあるが、元を正せば規則や慣習は言葉で成り立っている。確かに私たちは言葉を使うことによって様々な恩恵を得ている。例えば唯識学においても、言葉にならない真理の世界をあえて言葉にし、そうした言葉を智慧を通じて咀嚼していくことが求められる。ここでは、私たちが言葉に囚われてしまうという内在的な性質に自覚的になりながら、それでいて言葉を良薬として活用していく方向性が志向される。こうした言葉の活用は、私たちを囚われから解放し、自らの可能性や潜在能力を開くことを導く。ただ残念なことに、現代人の多くはこうした言葉の活用方法を知らない。彼らは言葉に囚われてばかりであり、言葉の奴隷になって言葉の家に執着して住み続けている。言葉の家の外に出てみること。それは大切な実践になるだろう。言葉を超えた世界に触れる実践は、世の中に様々なものがある。ひょっとしたら来月か再来月に知人がオランダに来るかもしれないとのことで、オランダでしか体験できないことを味わってもらおうと思い、アムステルダムのカンナビスショップについて調べていた。アムステルダムには、実にお洒落な雰囲気を持つカンナビスショップが多くあり、お洒落なカフェ風の店やお洒落なバー風の店などを見つけ、そこでカンナビスを吸うのではなく、カンナビス入りのチョコレートやマフィンなどのエディブルを体験してもらうかと考えていた。例えばこうしたカンナビスなども、それに含まれるTHCという成分は、私たちの言語優位な脳の働きを鎮め、より感覚に根差した世界へと誘ってくれる。古代より、人類はカンナビスを含めた向精神性の植物やマッシュルームを通じて、言葉を超えた世界と繋がり、そうした世界と交信していたのである。なるほど、現代人がまるで動物としての力を失い、骨抜きにされた亡骸のような存在になってしまっているのは、言葉を超えた世界との接触や交流を忘れてしまったからなのだろう。活力を失い、言葉の奴隷となってしまった大量の人々を見ると残念な気持ちにいつもなるが、彼らもまた無実の犠牲者なのであり、そんな彼らを大量生産した文明の構造的歪みに自分は切り込んでいかなければならない。彼らを憐れみがる時間があれば、哀れな彼らを生み出した文明の諸問題の解決に向けて尽力していこう。一杯の抹茶を注いだ時、そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/12/19(木)06:45
13775. 現前立小物的な在り方を超えて/恋愛について
私たちは言葉を通じて何かをわかった気になる。唯識では、そのような私たちの在り方を現前立小物として戒める。空や縁起の真理を私たちは頭でわかった気になるが、それは言葉を通じて対象化された真理なのであり、本来真理は言葉を超えており、対象化を逃れたものである。現前立小物としての在り方は何も空や縁起の真理に対して発揮されるだけではなく、日常のあらゆる場面で見られることだ。相手についての理解もまた、私たちは現前立小物として相手の気持ちをわかった気になってしまう。1つ前に書き留めた日記にあるように、言葉に囚われることの弊害をここでも見出すことができる。言葉を手放し、言葉を超えた世界とつながる実践をどれだけ豊かに積んでいくか。実践の種類も豊富であればあるだけ、言葉を離れて言葉を超越した世界と一つになることがより行いやすくなり、現前立小物的な在り方の治癒に役立つだろう。
先日協働者の知人とミーティングをしている時に、その方が重要な指摘をしていた。それは、人間関係に契約を持ち込むことや計算可能性を持ち込むことである。確かに結婚は法律的な契約関係ではあるが、円満な関係性を維持していくためには、人間関係に契約の概念を用いるのは注意深くあるべきだろう。契約もまた言葉の産物なのであり、それに縛られると関係性は一気に冷めてしまい、歪んだ関係性や病理的な関係性に堕してしまう危険性がある。世の中の多くの夫婦関係は、まさに契約に縛られる形の欺瞞的なものになってしまっているのではないかというその方の指摘に自分は同意している。結局そこでも人々は言葉に囚われ、本来言葉を超えた豊かさを持つはずの人間関係を言葉で縛るのである。人間関係を言葉で縛れば縛るほどに、その関係性は息苦しいものとなり、お互いを幸せにはしてくれない。むしろそうした関係性はお互いを不幸にする。少なくともそのような関係性の中では人は成長していかないし、幸福を享受することなどできないのだ。また、現代社会の恋愛市場や結婚市場では、計算可能性が強く発揮され、男女のスペックを基準にして相手を選ぶことが横行しているらしい。計算可能性もまた言葉に対する囚われの表れであり、計算可能性によって雁字搦めにされた恋愛には燃え上がるものや心がときめくものはないはずである。私たちを真に成長させてくれる恋愛があるとするならば、それは心が燃え上がり、心がときめくものだろう。心に情熱の炎が迸る時、私たちは自我の壁を溶解したり、煩悩の趣旨を滅却したりすることができる。もちろん恋愛は時に、あるいは往々にして私たちの未熟な側面を表に出させるが、それは成長にとって不可欠な点なのである。心がときめくこともまた、滞った心の筋肉を解きほぐし、心を自由にする運動として捉えることができる。現在ちょうど恋愛というものについて見つめ直しているが、恋愛は幾つになっても情熱的で、心をときめかすものであってほしいと思う。それは心の成長につながり、心に翼を与えて心を自由にさせてくれる。契約や計算可能性を超えた、すなわち言葉を超えていく形での恋愛は、心を解放する運動として位置付けることができるだろう。フローニンゲン:2024/12/19(木)07:19
13776. 深淵な縁起の理
風が吹き抜け、辺りが薄明るくなり始めてきた頃に、小鳥の美しい囀りが聞こえてきた。時刻は午前8時半を回ってようやく辺りが明るくなり始めてきた。それに呼応する形で朝の世界に鳴り響く小鳥たちの鳴き声は本当に美しい。その清澄な鳴き声に耳を傾けながら、縁起の理について考えていた。全てのものは縁によって存在している。関係性を通じて全てのものは生まれ、そして存在している。全ての現象が何かしらの縁によって起きるということを考えてみると、自分が体験する全ての経験や出会う人たち全てに対して感謝の念が自然と生じる。それがどんな出来事であったとしても、どんな人であったとしても、自分がこの世界で出会うそれは常に縁起の産物なのである。この世俗世界で生じる全ての事物は、縁起の理に貫かれている。それを常に意識しながら、毎日自分の心の世界に立ち現れる全ての事物に感謝し、その事物の背後にある縁起の理を敬いたいと思う。
この人生において、自分はこれをする学ぶために、これをするために生まれてきたのだと思う瞬間が何度かあった。それはインテグラル理論や成人発達理論との出会いの瞬間として、さらには唯識との出会いとして起こった。体験としてはサイケデリクスを摂取することになったこともまた、自分はその体験をすることをある種運命付けられていたのだと思うような出来事だった。人生においてこれだというものと出会うことがその人その自身を、そしてその人の人生を根底から強固に支える。また、そうしたものと出会えることは、人として生きていくことの妙味であり、最大の至福体験と言えるかもしれない。人生においてこれだと言えるものとの出会いは、小さな自我を超克させてくれる。そして自我を超えた無限大の大きさと深さを持つ世界に自己を誘ってくれる。このような出会いもまた縁起の理が生み出した事物なのである。そう考えると、縁起の理というものがいかに強力で偉大なものかが見えてくる。人智を超えた深淵な存在として縁起の理が横たわっている世界の中で、今日もまた自分は情熱を燃やしながら自らのライフワークに従事している。フローニンゲン:2024/12/19(木)08:45
13777. コンディショニングを意識したトレーニング
時刻は午後5時にゆっくり近づいている。もうこの時間帯は随分と薄暗く、夜の準備を始めている。先ほどまでジムに行ってきたのだが、街の中央の通りに差し掛かった時に、クリスマス用のイルミネーションが点灯していて、その美しさをしばし堪能していた。もう街はクリスマスの雰囲気となり、ここからクリスマスにかけてよりムードが上がって来るだろう。ジムでのトレーニングを終えていつものようにオーガニックスーパーに立ち寄った時に、チーズ売り場に人だかりができていた。クリスマスのコスプレをした若者の集団がいて、そこでクリスマスソングのアカペラを披露していた。彼らの歌声は見事なハーモニーを生み出していて、イルミネーションと同じくしばしその場に立ちすくんで彼らの歌声に耳を傾けていた。街がクリスマスの雰囲気に包まれると、人々もどこかいつも以上に幸せそうに見える。そうした様子を眺めてみると、あながち人為的に設けた祝祭日にも意味があることがわかる。ビョンチョル・ハンの言葉を用いれば、祝祭日の本来の機能と意義に立ち返ることができたら、人々はその時間を観想的に過ごすことができ、活力を取り戻すことができるのである。今日は久しぶりに午後から天気が回復し、夕方には青空が広がっていて、ジムから帰って来る時にはとても清々しい気分になった。気温は7度ほどと低かったが、それを相殺するぐらいに見事な空が広がっていて、晴れ渡る空を眺めながら晴れ渡る気持ちになっていた。ここでも世界と心の非二元的一致を見る。
さて、オランダに戻って来てから初めてのジムでのトレーニングについても振り返っておきたい。今日は最初のトレーニングということもあって無理をしないようにしたが、合計で80分ほどのしっかりとしたトレーニングを行なった。ラットプルダウンを最初に行った時に、1ヶ月以上マシンを使ったトレーニングをしていなかったにも関わらず、日本に一時帰国する前よりも軽々とこなせるような感覚があり、この1ヶ月の間において必要な刺激を与えたトレーニングがうまく行えていながら、気付かない形で蓄積されていた筋肉の疲労が取れていたのではないかと思った。そこからはこれまで通りのメニューをこなしていったが、一時帰国中に大分で知人の早田航さんから受けたパーソナルトレーニングの内容を思い出し、最後はコンディショニングに充てる時間を設けた。具体的には、ストレッチポールを用いながら背骨付近の筋肉を解していったり、肩や肩甲骨周りの筋肉を解していったりした。それがとても気持ち良く、終わりの頃には血の巡りが良くなって痒くなるような現象も発生した。今後もトレーニングの最初や終わりにこうしたコンディショニングの時間を設けたいし、月曜日と木曜日のうち、片方はもう少し時間を取ってコンディショニングに充ててもいいかもしれないと思った。そうした工夫をこれからのトレーニングでしていこうというまた新たな気づきをもたらしてくれるトレーニングだった。フローニンゲン:2024/12/19(木)16:52
Today’s Letter
Modern people are constrained and fragmented by being entrapped in words. While words are useful, people rely on them too heavily. They are unaware that they live in a house built by words. To restore their vitality, people must transcend the world constructed by language and connect with the transcendental realm, which lies beyond the reach of words. Groningen, December 19, 2024
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