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タイトル一覧
13649: 【日本滞在記】今朝方の夢
13650: 【日本滞在記】山口市内の日帰り観光/多様な意識状態を通過した後の気づきと感覚
13651: 【日本滞在記】生成AIによる今朝方の夢の解釈
13652: 【日本滞在記】中原中也記念館・菜香亭・東京庵を訪れて
13653: 【日本滞在記】空を通じた詩的イマジネーション/喪失と記憶
13654: 【日本滞在記】死者の目を通して/言葉以前の言葉や感覚
13649. 【日本滞在記】今朝方の夢
時刻は午前6時を迎えた。今、大豆がミキサーにかけられている音が聞こえてきており、まもなく豆乳が完成する。毎朝父が作ってくれる豆乳は、市販のものに比べてはるかに濃厚であり、朝一番の栄養補給にはもってこいである。豆乳の完成を待ちながら今朝方の夢について振り返っている。
夢の中で私は、高校時代のクラスメートだった女性友達の家にいた。彼女の家は一見するとマンションの一室に思えたが、実際のところは旅館風の一軒家だった。彼女曰く、まさに家を旅館として客に提供しているようで、結構繁盛しているとのことだった。旅館の畳部屋や襖のある廊下が何とも言えない和の雰囲気を発していて、自分にとっては日本を感じる素晴らしい邸宅だと思った。せっかく彼女の家に招待してもらったので、その場で寛ぐだけでは悪いような気がしたので、旅館として貸し出している部分の掃除の手伝いをすることを彼女に伝えると、彼女はその申し出を有り難く思ったようだったが、私もまた客人として寛いでいて欲しいとのことだった。彼女のその言葉に甘える形で、引き続き和室の畳の上に座りながら寛ぐことにした。
その他に覚えているのは、小中高時代の2人の友人(SI & YU)と一緒にマリオカートのゲームの世界の中にいた場面である。最初は3人でゲーム機を手に取ってテレビ画面に向かってゲームをしていたところ、いつの間にか自分が選択したキャラクターと同じ視線になっていることに気づき、自分たちがゲームの世界の中にいることに気づいた。その臨場感はテレビ越しの時とは格段に違っていて、その圧倒的な臨場感に興奮しながらコースを走っていた。選択したコースはかなりの難所で、ジャンプをして大きく飛ばないといけない箇所があったり、水の上を走らないといけない箇所があったりと大変であった。ゴールの前はグランドキャニオンのような峡谷になっていて、最後はそこを駆け上がっていく必要があった。最初こそ友人たちと競って順位を気にしながら走っていたが、途中になってくると順位は全くに気にならなくなり、自分のペースでコースを走ることそのものを楽しむことにした。そのような夢を見ていた。光市:2024/11/27(水)06:11
ChatGPTによる夢の解釈と今後のアクション
1. 高校時代の友人の家(旅館風の邸宅)
解釈:
旅館のような家: 夢の中で、あなたが友人の家を訪れ、彼女がそれを旅館として貸し出しているという状況は、あなたが「もてなされる」ことや「他者との関わり」を重要視していることを示唆しています。旅館は、休息や安らぎを提供する場所として象徴されることが多いため、今のあなたが安らげる場所や状況を求めている可能性があります。
掃除を手伝う提案: 友人が「寛いでいて欲しい」と言ったことに甘え、そのままリラックスすることになった場面は、あなたが他者の期待に応えようとする一方で、自分自身の心地よさを優先する必要性を感じていることを示唆しているかもしれません。
今後のアクション:
もし、最近あなたが「休息」や「リラックス」が足りていないと感じているなら、自分の心と体を大切にする時間を意識的に作るようにしてみてください。過度に他人の期待に応えることに力を入れすぎず、まずは自分のペースを尊重することが大切です。
また、もし現在の人間関係において自分がどう振る舞うべきか迷っている場合、他者との関わり方や自分の立ち位置について、もう一度振り返ってみることが有益かもしれません。
2. マリオカートの世界でのゲーム
解釈:
ゲームの世界に入る: ゲームの中で実際に自分がキャラクターとして体験している状況は、現実世界の枠を超えた非現実的な興奮や冒険への欲求を反映しています。ゲームの臨場感やダイナミズムは、あなたが日常生活において退屈や単調さを感じている場合、その反動としてもっと刺激的なことを求めている可能性があります。
競争から楽しさへの転換: 最初は順位を気にしていたものの、途中から自分のペースで走ることに楽しみを見出すという展開は、過度に競争や外部からの評価に左右されず、自分のペースで物事を楽しむことの重要性を教えているように思えます。競争心から解放されて、自分自身の進みたい方向へ自由に進むことが心地よいと感じていることが現れています。
今後のアクション:
競争や他者との比較から解放され、自分のペースで物事を進めることが求められている時期かもしれません。過度に順位や結果にこだわらず、目の前のプロセスそのものを楽しむことが、今後の生活において良い影響を与えるでしょう。
ゲームの難所や冒険的なコースは、人生における困難や挑戦を象徴している可能性があります。これから直面する困難も、冷静に自分のペースで乗り越え、楽しむ余裕を持つことが大切です。
総括
この夢は、あなたが今、日常生活の中でどこかで「リラックス」や「自分のペースで進むこと」の重要性に気づき始めていることを示しています。社会的なプレッシャーや他人の期待に過度に応えようとするのではなく、自分自身のペースを大切にし、楽しむことを意識することが今後の良い方向へ繋がるでしょう。
Geminiによる夢の解釈と今後のアクション
夢の解釈
高校時代の友人との再会と変化: 高校時代の友人が経営する旅館は、彼女が成長し、新しい人生を歩んでいることを象徴しているかもしれません。また、一見マンションの一室に見えた家が、実は旅館という意外性は、彼女の中に秘められた可能性や、あなたが彼女に対して持っている新たな発見を暗示している可能性があります。
日本の文化への憧れ: 旅館の畳部屋や襖など、日本の伝統的な空間は、あなたが日本の文化に強い憧れを持っていることを示唆していると考えられます。
友情と協力: 友人に掃除の手伝いを申し出たという行為は、あなたが友情を大切にし、困っている人がいれば手を差し伸べたいという気持ちの表れかもしれません。
現実逃避と冒険心: マリオカートの世界は、現実から離れて自由に遊びたいという願望や、冒険心、そして達成感を表していると考えられます。
成長と変化: 難所を乗り越え、ゴールを目指すという行為は、あなたが現在、人生の転換期を迎えており、新しい自分へと成長しようとしていることを暗示しているかもしれません。
今後のアクション
夢の解釈を踏まえて、あなたにとって意味のある行動を考えてみましょう。
友人との関係を見直す: 高校時代の友人に連絡を取ってみて、近況を報告したり、一緒に過ごしてみてはいかがでしょうか。
日本の文化に触れる: 旅館に泊まってみたり、茶道や華道などの日本の伝統文化を体験してみたりするのも良いでしょう。
新しいことに挑戦する: マリオカートの世界のように、これまで経験したことのないことに挑戦してみることで、新たな発見や喜びを得られるかもしれません。
自分自身と向き合う: 夢を通して、自分自身の心の奥底にある感情や願望と向き合ってみる時間を持ちましょう。
まとめ
この夢は、あなたが成長し、変化しようとしていることを示唆しているように思えます。夢の中に出てきた友人や場所、そして体験した出来事を通して、自分自身を見つめ直し、今後の行動のヒントにしてみてください。
13650. 【日本滞在記】山口市内の日帰り観光/
多様な意識状態を通過した後の気づきと感覚
今のこの時間帯はどうやら雨は降っておらず、曇りのようである。しかし今日もまた昼前から雨が降り始める予報になっている。昨日は風も強かったのだが、今日はどうであろう。今日は午前中に両親と一緒に中原中也記念館に行き、山口市の菜香亭に足を運ぶ。そして昼食は東京庵というところで長州そばを食べて帰ってくる。先ほど豆乳をダイニングで父からもらった時に、母が寝室から出てきて、どうやら今日は体調が悪いとのことなので、父と一緒に日帰り旅行に出かけることになった。午前8時前に出発すれば、自宅から中原中也記念館まで1時間10分ぐらいとのことなので、ちょうど開館の時間を少し過ぎたあたりに到着できるだろう。中原中也記念館にせよ、菜香亭にせよ、それぞれをじっくり時間をかけて巡れば蕎麦屋の開店時間になるだろうか。少し早ければ、蕎麦屋の目の前にある瑠璃光寺を観光することを父に提案してみよう。瑠璃光寺にかつて訪れたのは大学時代で、その時は地元にいる親友と一緒に訪れた記憶がある。瑠璃光寺にはもう随分とご無沙汰なので、時間があれば訪れてみたい。
昨日ふと、目の前に見えるもの、聞こえるもの、香るもの、触れるもの、それら自己に知覚されるもの全てが自己に他ならないという気づきと感覚が芽生えた。それらは目撃者の意識を通過して、非二元の意識として立ち現れたものかと思う。まずは微細に五感を通じて感じられる感覚が鮮明となり、その基底に触れるコーザルの意識がやって来た。そこからそれをただただ味わう感覚がやって来て、それを通り越した時に上記の気づきと感覚がやって来た。瀬戸内海を目前にした実家に滞在することの良さは、都市部では得にくい意識状態にアクセスしやすいことであり、高次元の意識状態にアクセスすることによって、また新たな自己発見が訪れ、それが治癒と変容を後押ししてくれることだろう。注意点としては、こうした気づきや感覚の解釈もまた今の自分の意識段階、意識状態、シャドーが投影されたものであるという認識を持っておく必要があることだ。さらに、他者や世界がどういう風に見えているかというのは、それこそそれらの投影が非常に起こりやすい点をわきまえておく必要がある。自己や世界を眺める眺めは、自らの意識段階という構造的高みによって規定され、意識状態によってその内容物が変化し、そこにシャドーによる歪みが生じる。こうした諸々の変数があるからこそ、各人の眺めはユニークなのである。歪みを否定的に捉える必要はなく、それが他者や社会に害悪を及ばさない限りにおいて、歪みはむしろ肯定的に捉えられるべきなのではないかと思う。歪みに個別性が体現されており、個別個別の歪みが多様な世界を作っているのである。光市:2024/11/27(水)06:57
13651. 【日本滞在記】生成AIによる今朝方の夢の解釈
父との山口市内の日帰り旅行までまだ時間があるので、今朝方の夢に対する2つの生成AIの解釈をもとにした振り返りをしておきたい。まずは高校時代の女性のクラスメートが登場する夢であるが、旅館は自分が寛げる場所を象徴していて、今の自分が何らかの次元で安らぎを求めているのかもしれないことがわかる。あるいは今こうして実家に滞在していることもあり、すでに深く安らいでいることを示唆している可能性もある。安らぎにも質的な差異があり、それは身体の次元なのか、精神の次元なのか、様々な段階がある。ひょっとしたら今の自分は実存的な次元や霊的な次元での安らぎを求めているのかもしれない。この複雑で混沌とした現代社会の中で、自己の実存はそう容易く安らぎを得られないかもしれないが、以前に比べて安らぎを感じる状態が定着しつつある。2年前の一時帰国と比較して、日本社会の中でも観光客としてであれば十分に寛ぐことができ、安らぎを得ている自分に気づく。これが日本で生活をするとなるとそうもいかなくなることは容易に想像がつくが、いつか日本で生活ができるぐらいに、周りの環境がどうであれ、自己の実存が深く安らぐ境地に辿り着けるかもしれない。今はその道半ばである。
もう1つのマリオカートの夢は何を示唆しているのだろうか。そのゲームは、スタート地点は同じであるが、ゴールまで他者と競い合うことを要求する。そうした競い合いはもう自分にとって意味を成しておらず、夢の中の自分がそうであったように、自分のペースで車を走らせ、自分が望むコースを走り、その景色を堪能しながら車を走らせていくことの方に自分は関心があるのだろう。そもそもそうしたゲームから降りるという選択肢を今の自分は持っており、出世競争などを含めた数多くの社会的なゲームからはとうの昔に降りている。自分にとって不必要な社会的なゲームから引き続き降りていき、他者を苦しめているゲームのルールそのものを変容させたり、ゲームの土台そのものを変容させる形で他者の幸せに貢献できるような取り組みに従事したいものである。今行っている探究はそこに続くものであり、探究を通じて得られた知見の共有はその取り組みとして機能し始めている。競争から楽しさへ、競争から自由へ。楽しさと自由を常に感じられる個人が増えてくることが、当面の自分の叶えたい願いの1つだと言えるかもしれない。光市:2024/11/27(水)07:11
13652. 【日本滞在記】中原中也記念館・菜香亭・東京庵を訪れて
時刻は午後2時半を迎えた。今日の山口県は曇りがちな1日である。雨が降ったり止んだりを繰り返している。午前中に父と山口市内に出かけた時には、中原中也記念館では雨が止んでおらず、駐車場から記念館まで濡れずに済んだ。次の菜香亭ではパラパラと雨が降っており、昼食で立ち寄った東京庵の後は少し雨足が強かったが、実家のある光市に戻ってくる頃には雨が上がっていて、晴れ間が見えていた。
そんな形で雨を中心に今日訪れた場所を列挙してみてが、まず最初に訪れた中原中也記念館は想像を超える形で良かった。記念館自体はこじんまりしているが、外装も内装も綺麗であり、何より中原中也の足跡を辿るための工夫がテーマ展示でなさており、その工夫のおかげでじっくりと展示品を見て回りながら中原中也の作品世界に入っていくことができた。個人的に最も感銘を受けたのは、中原中也の宗教的・霊的発達が色濃く現れた一編の詩と出会えたことである。そこには彼の非二元への目覚めを読み取ることができ、彼の作品のインスピレーションは非二元の次元にあったことが理解された。中原中也は無宗教者であったそうだが、仏教やキリスト教を学んでおり、「空(くう)」という言葉や「神」という言葉も詩の中に随所に見られた。特に中原中也にとって「空(そら)」は大切なモチーフになっており、それと「空(くう)」を掛け合わせる形の詩も印象に残っている。中原中也の詩に共感するのは、自分が彼と同じ山口県に所縁のある同郷人であるということだけではなく、非二元に眼差しが向けられ、非二元の次元から言葉を紡ぎ出していたことによるのだと実感した次第だ。こうして日々綴っている日記の形式を詩的なものにすることや、実際に詩を書いてみることへの意欲を高めてくれるような体験をもたらしてくれる記念館だった。
記念館を後にすると、今度は菜香亭に向かった。今年は紅葉が遅れていることもあって、菜香亭の庭の紅葉は実に見事だった。それ以外にここの見どころは、歴代の首相や大臣たちの書画が飾ってある大広間だろう。100畳ほどの大広間自体も見事であり、そこでかつて政治家たちの宴会が行われていたことが写真からもわかり、大臣を務めた人たちの達筆な書には思わず息を呑んだ。2階にはかつて佐藤栄作が好んで使っていた部屋があり、そこで重要な政治的会議や決断が行われたようだった。その部屋から見える紅葉は見事で、しばし父と見入っていた。菜香亭を後にすると、ちょうど昼時になっていたので東京庵に移動し、そこで長州そばをいただいた。初めて蕎麦寿司というものを食べたが、非常に美味であった。蕎麦はタンパク質も豊富で、オランダにいる時には筋力トレーニングの日の昼に食べているのだが、やはり日本の蕎麦は味が違う。美味な蕎麦に舌鼓を打ちながら綺麗に食べ終え、ゆっくりと自宅に戻ってきた。今日は母が残念ながら体調が良くなかったが、明日は愛犬の月命日の供養に一緒に行ければと思う。光市:2024/11/27(水)14:55
13653. 【日本滞在記】空を通じた詩的イマジネーション/喪失と記憶
目に映る自然の風景をもとに言葉を紡ぎ出していくことは、これまでも自然と行なっていたことである。しかし、本日訪れた中原中也記念館で鑑賞したテーマ展示「空の歌」は、これまで以上に自然の情景をもとにした形で言葉を紡ぎ出してみようと思わせるのには十分であった。中原中也の詩の中には、「空(そら)」が多く登場する。自分はそれをこれまで知らなかった。なのでテーマ展示の説明書きや諸作品を興味深く読んでいた。表情豊かな空からインスピレーションを得て、空を通じて詩的イマジネーションを惜しみなく広げていった中原中也の作品群は、自分を啓発してくれる何かがる。自分にとっても空は絶えず自らを超えた崇高なる存在であり、空から得られる洞察や癒しは果てしない。今この瞬間は雨は降っていないが、空にはどんよりとした雨雲が覆っている。その雲の先にある汚れなき空は、勝義諦の世界である。空の下には世俗諦が広がり、その上空には常に勝義諦の世界がある。ここで注目するべきことは、本質的には空の下も上もなく、まさに真理がこの世界に遍満しているのと同じで、絶えず空は地上を貫いているということである。ここで空を「くう」と読めば、この世界の全てに空が体現されており、世界は空で満ち満ちていることがわかる。物理的な次元で空(そら)がこの世界を貫いているのと同じで、真理の次元で空(くう)がこの世界を貫いていることに改めて気づきの意識が向かい、それは気づきの意識を超えて、肉感のある直接体験として感じられる。中原中也が自然からインスピレーションを得て、とりわけ空を詩的イマジネーションの源泉にしていたのも納得がいく。
失われてしまったからこそ明白にそのことを思い出すことができるものがある。それは人かもしれないし、物かもしれないし、故郷かもしれないし、はたまた別のものでもあり得る。いずれにせよ、喪失して初めてその大切さに気づくということは度々あるが、喪失を経た後に想起されるその存在対象の鮮明さはひょっとすると、それが存在していた時以上に色濃いものなのではないかとふと思った。なるほどそれは、グロスの次元で存在が消えながらもサトル以上の次元でそれが残り続けていることの表れなのかもしれない。ある存在がこの物理世界から消えていくことは諸行無常の原理ゆえに必然だが、それよりも存在年数が長く残るのは人々の記憶であり、人々の記憶がある限りその存在は永遠に生き続ける。そしてそれはかつてそれがこの世界に存在していた以上に存在性を増す可能性があるのである。個人の記憶と集合の記憶の関係性についてまた考えさせられる。自分という存在を通じて得られた記憶を個人のものだけに留めないこと。秘匿な記憶もあっていいかもしれないが、社会に共有するべき記憶はできる限り共有していくこと。それを通じて集合規模の記憶を豊かにする試みに従事していきたいものである。こうして綴る日々の日記もまたその取り組みの1つである。光市:2024/11/27(水)15:23
13654. 【日本滞在記】死者の目を通して/言葉以前の言葉や感覚
時刻はまだ午後3時半だが、空を覆う雲のせいか、少し暗くなり始めている。日本も日の入りの時間が随分と早くなったものだ。今朝方ふとオランダの気温を確認したのだが、オランダはめっきり冬の様相を呈していて、最低気温は0度を下回る日が出ている。一方、日本もすっかり晩秋の感じがして、冬の入り口に立っているように感じられるが、まだまだ寒さは厳しいと言うほどでもない。
先ほど中原中也から得られた洞察について書き留めていたが、また別のインスピレーションがある。それは死んだ人の目を通じて世界を見るということである。言い換えれば、死んだ人の記憶世界からこの世界を眺め、言葉を紡ぎ出すことである。中原中也はわずか30歳で夭逝したが、幼い頃には弟を亡くし、死の直前には長男を失っている。そんな中原中也には幼い頃から死の直前まで絶えず死というものが人生に寄り添っていたのだとわかる。それゆえなのか、彼の作品のいくつかには死んだ人が生きている時の思い出を語るかのような詩がある。そこからインスピレーションを得て、仮に自分が実はもう死んでいて、死者の観点から今生きている世界を眺めてみるとどのようなことが考えられ、どのようなことを感じ、どのような言葉が紡ぎ出されるかに関心を持ったのである。これもまた実験的な取り組みとしてこれからの日記に反映させてみようと思う。
それに加えてもう1つ大事なインスピレーションは、中原中也が絶えず言葉にならない未規定なものに眼差しを向け、言葉が生まれてくるその瞬間の感覚を大切にしていたことだ。まさに言葉が生まれてくる基底こそ言語阿頼耶識と呼ばれるもので、それはコーザルの領域に該当する。そしてその領域から育まれる言葉や感覚は微細なものであり、それはサトル領域に浸透していく。中原中也の慧眼は、サトルな領域に芽生えた言葉や感覚を巧みに掴むことに意識を向けていたのではなく、言葉や感覚が育まれる土台としての言語阿頼耶識に意識が向けられていたことである。言葉以前の存在に眼差しを向け、言葉の基底に根差した言葉を紡ぎ出していったがゆえに、中原中也の詩は人の心を動かす力があるのだろう。自分もまた言葉になる前の感動を豊かに積み、言葉以前の言葉や感覚を大切に日々を生きたいという思いを新たにした。光市:2024/11/27(水)15:38
Today’s Letter
A series of gross, subtle, causal, witness, and non-dual awareness has arisen from the depth of my being. In particular, the non-dual awareness made me realize that I am all, and all are me. This realization contributed to my healing and transformation. Hikari, November 27, 2024
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