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【成人発達心遊記】13537-13542:2024年11月8日(金)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した成人発達コラボラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

13537: 死と葬式の意義の再考

13538: フレディさんの葬式を再度振り返って

13539: 今朝方の夢

13540: 老いと精神的な成熟について

13541: ダーマペンの2回目の施術を受けて

13542: 生成AIによる今朝方の夢の解釈


13537. 死と葬式の意義の再考   


時刻は午前7時を迎えた。フレディさんの葬式から一夜が明け、ダークブルーに変わり始めた朝空を眺めながら、昨日の葬式について振り返っている。誰かの葬式に参加するのは実に25年振りぐらいのことであり、最後に葬式に参加したのは中学生の頃だった。同級生の父が亡くなったことに際して、学級委員長として葬式に参加したのが最後である。それだけ久しぶりの葬式だったわけだが、フレディさん自身が望んだスタイルで執り行われた葬式は、自分の中で死と葬式の意味の再考を促した。現在は人間の心の探究の一貫として性の研究に従事しているが、おそらくどこかのタイミングで死の研究にも本格的に取り組み始めるだろう。人間を構成する不可欠の要素として心と性があり、それと同じぐらいに死というものがある。性から死への探究のシフトがどのタイミングで行われるのかは定かではないが、かつてから死への関心があり、死に関する研究書もいくらか手元にある。そもそも心の発達においても現在の段階を死ぬことを通じて次の段階に向かっていくのであるし、性的交わりによる自我の境界線の溶解現象などもまたある種死に近い現象であるから、これまでの自分はすでに死に関する研究に触れていたわけである。日々の探究の先に、死のより本格的な探究が始まる予感がしている。そのためには今の発達段階の自分を死ぬ必要があり、新たな再生が必要となる。


フレディさんが教えてくれた葬式の意義について言えば、それは絆を深める場としての意義があることに気付かされた。そこでは故人を思い出し、参加者同士が故人との思い出を語り合いながら絆を深める場として機能していることを実感した。故人の思い出に立ち帰ることは、その故人に関する記憶を絶やさないことだけではなく、故人との関係性として存在している自己を思い出すことにも繋がるのである。私たちは関係性によって成り立つ存在であるというのが仏教の重要な教えの1つである。葬式に参加し、故人を偲ぶことは、その故人との関係性として成り立っていた自己を再度思い起こし、自分の存在を関係性を通じて捉え直すことだったのだ。昨日の葬儀には180人ほどの人たちが駆けつけ、葬式の後の懇親会では参加者同士の話に花が咲いている様子がとても印象的だった。立食形式で飲み物や軽食が振る舞われ、参加者たちは誰1人として悲嘆に暮れているものはおらず、みんな明るく会話を楽しんでいた。フレディさんの同僚だったマドリード在住のバスさんに挨拶をしたり、ペイトラさんの実のお兄さんに挨拶をしたりした後に、隣人たちの話の輪の中に入っていった。そこにはサハル、サブリーナ、マーク、ゴヤ、ロクシーがいて、みんなでフレディさんに関する話やフレディさんとは全く関係のない話をして楽しんだ。結局葬式会場には3時間ほどいた形になる。確かに自分はある側面においてトランスヒューマニズムの思想を肯定しているが、不老不死の実現については、仮にそれが実現したとしても果たして人間の心が豊かになり、より幸せになるのかは今のところ懐疑的である。それは誰かの死を受け止める体験の価値を実感しているからだ。死があるからこそ深められる人間の絆があるのではないだろうか。誰かの死によって、その人との関係性を通じて成り立つ自己を思い出し、故人を今後も思い出すことを続けることを通じて、自分という存在がその人との関係性によってより明瞭豊かに姿を現してくる。仮に死という現象がないと、こうした自己反省は起こり得ないのではないだろうか。人間関係が希薄になる現代社会だからこそ、改めて死の意義を捉え直し、葬式の意義を考え直すことの大切さを思う。フローニンゲン:2024/11/8(金)07:27


13538. フレディさんの葬式を再度振り返って  


室内では暖房がせっせと働いてくれている音がして、外に意識をやると、小鳥の囀りが聞こえてくる。自分と同じくフレディさんも小鳥を愛する人だった。フレディさんとペイトラさんの家の前には小鳥が休めるカゴがあり、そこには餌もあって、2人の小鳥たちへの愛を感じさせる。昨日の葬式の中で、フレディさんは豊かな人間関係のハブになるような人だったというスピーチがなされていたが、人を集めるハブとしての存在だっただけではなく、小鳥などの他の生き物を集める存在でもあったのだと思う。フレディさんは、人や他の生き物へ生命エネルギーを分け与える形で優れたコミュニティを形成するような人だった。


昨日の葬式でその他の印象に残っていることを振り返っている。自分は落ち着いた色のスーツを着ていったのだが、スーツ姿は自分だけだった。もちろんシャツにジャケットを羽織って小綺麗な格好をしている人が多かったが、同じジムに通っていて、敷地内の車庫を借りている中年の男性はジムに来るような格好で式に参加していたことには驚いた。その他に印象に残っているのは、追悼をしている参加者たちの式後の表情はどこか輝いていたことである。死の内省を通じた生の輝きという現象が間違いなくある。死があるおかげで生が輝く。自らの死があることの意義は、己の生を輝かせることだけではなく、他者の生を輝かせることにあるのだと思った。フレディさんの死は、自分にとって死が何かを見つめるきっかけとなり、自分の命を輝かせる最良のきっかけになった。死を通じた内省の重要さについて私たちは見落としていないだろうか。日々の生活でそれをどこまで体現していくかは難しいかもしれないが、今回の葬式に参加したことをきっかけに、自分の死があるからこそ自らの命と他者の命が輝きうるということと、他者の死があるからこそ自らの命が輝きうることがあることを学ばされた次第である。


懇親会の場で印象に残っているのは、そこではビールやワインなどのアルコールが盛大に振る舞われていたことだ。自分はお酒を飲むことはせず、好きなルイボスティーを2杯飲むことにした。振る舞われた軽食には、オランダの伝統料理かつ国民食であるビターバレン(Bitterballen)を初めて食べた。それは、一口サイズのまん丸のボール状にしたコロッケのようなもので、元来は肉が入っているそうだが、自分が食べたのはベジタリアンとヴィーガン用のビターバレンである。一口齧ると、中からトロトロかつ熱々のチーズや具材が溢れてきて、とても美味だった。懇親会の場で現在とかつての隣人たちと輪を囲んで話をしている時に、インド人のサハルが住んでいた家にこの6月からやって来たゴヤがふと、「自分がこの世を去った後の葬式の場で、どのように人から思い出してもらえるのかを大切にして今を生きたいと思ったよ」と述べたことが印象的だった。フレディさんは、人に活力を与え、人を結び付けて共同体精神を吹き込むことに秀でた人だったというスピーチが多く、果たして自分は自らの葬儀の場でどのような言葉を与えてもらえるのだろうかと考えさせられた。葬式に参加してスピーチを聞くことや自らの葬儀について想像することは、今を生きることを自他にとってより有意義なものにしてくれる可能性を思った。


フレディさんの死の知らせを聞いたのは、日本に一時帰国する2週間前のことだった。そして昨日の葬式は、帰国に向けて1週間を切ったところで執り行われた。日本に一時帰国している期間ではなく、オランダにいる間にフレディさんの葬式に参加して、きちんとフレディさんを送り出せたことを嬉しく思う。フローニンゲン:2024/11/8(金)07:55


13539. 今朝方の夢     


時刻は午前8時を迎えた。今の気温は4度で、今日の日中の最高気温は5度までしか上がらないようだ。今日は午前中に美容クリニックに足を運んで、ダーマペンの2回目の施術を受けてくる。どうやら今日は曇りがちのようで、朝日を浴びることは期待できそうにない。朝のこの気温を見る限りだと、マフラーをちゃんと巻いていく必要がありそうである。来週からの一時帰国に際して最初の滞在地である大阪は、最高気温がまだまだ20度を超えるほどに暖かい。日本には暖かさを感じに出かけていくかのようである。


フレディさんの昨日の葬式を受けて、今朝方もいくつか夢を見ていたのだが、今のところ覚えているのは次の夢である。夢の中で私は、外の世界と境目のないだだっ広い畳の広がる部屋にいた。外の世界と境目がないというのは、外側に関して壁がなく、吹き抜けになっていたという意味である。外は海岸と繋がっていて、初夏を思わせるような太陽の光がとても眩しかった。その部屋ではどうやらこれから何かレクチャーが行われるようで、私は海岸に繋がる右端の席に座っていた。実際にはそこには椅子はなく、畳の上にござを敷き、長机だけがあった。私は最初正座をして長机の前に座ったが、太陽の光が部屋に差し込んできて暑さを感じたので、カーテンレースを閉めることにした。すると、小中学校時代のある友人(KF)が、私のお気に入りのスーツの1つである薄いピンクのストライプが入ったスーツをハンガーにかけて持って来てくれた。私は彼にお礼を述べようとしたが、ハンガーに掛かったスーツが少し崩れていたので、それが気になってしまい、お礼を述べるのが一瞬遅れた。スーツを受け取って、それを足元に置いたところでレクチャーが始まった。私が座っている長机の左斜め前の長机にはある著名な社会学者の先生が座っていて、さらに左斜め前の長机には尊敬するジャーナリストの方が座っていた。いざレクチャーが始まると、顔と姿の見えない講師の男性が、先日学内で起きた違法賭け事の問題を取り上げた。その首謀者が「加藤」という名前であり、その名前が出てきた瞬間に、左斜め前に座っていた社会学者の先生は、私の方を振り返りながらその部屋に響き渡るような声で加藤という首謀者を汚い口調で中傷した。その先生はどうやら違法賭け事の首謀者が完全に私だと思っているようで、実際にはその首謀者は私ではなく、先生の罵詈雑言は自分にとって名誉毀損に該当すると思った。その点を私は大きな声で主張したが、その先生は全く聞く耳を持たなかったので、これでは埒が明かないと思い、即座に武力行使に出た。私は一瞬でその先生のところに飛びかかって、ジークンドーの数種の蹴り技で完膚なきまでに叩きのめした。それを見ていたジャーナリストの方は少し怯えているようだった。というのも、その方も私のことを首謀者だと思っていたからであり、「加藤」という名前を出して批判する主張を私の方を見ながらしていたからである。ジャーナリストの端くれであれば、名前と顔を完全に一致させてからコメントをするべきだろうとその方に大声で伝え、彼に対しては暴行を加えることはやめようと思った。というのも、その社会学者の先生を叩きのめすことでもう十分に見せしめになったと思ったからである。今朝方は自分の攻撃性や何か大切にしている信条を表すそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/11/8(金)08:17


ChatGPTによる夢の解釈と今後のアクション

解釈

広がる畳の部屋と海岸の光景: 壁がない畳の部屋は、守られた空間である自分の内面と、外界(ここでは海岸や初夏の日差し)との境界が曖昧であることを象徴しています。これは、現在の自己と外部環境との関係や、自分の内的な安定性を保ちつつ、外界に対する開放感を意識していることを示唆しているかもしれません。


小中学校時代の友人とスーツ: 薄いピンクのスーツという特定の衣装は、あなたが自分のキャリアや立場で大切にしている何か(信頼、誠実さ、もしくは独自の表現)を象徴しているように思われます。また、旧友の登場は、過去の記憶や人間関係が現在のあなたにどのように影響を及ぼしているかについて、再評価する必要があることを示唆しています。


無実の罪と自己防衛: 賭け事の首謀者として無実の罪をかけられる場面は、社会的な誤解や他者からの偏見に対する不安や苛立ちを表している可能性があります。あなたが大切にしている「信条」や「名誉」に対する攻撃に対して、自己防衛と自己主張が反映されているようです。


攻撃性と制御: ジークンドーの蹴り技で反撃した行為は、内なる攻撃性を象徴しつつも、その制御に関するテーマを示唆しています。社会学者を叩きのめす行為は、自己を守るための強い反発を意味する一方で、ジャーナリストへの態度からは、暴力に頼らず自分の主張を伝える冷静さも持ち合わせていることが表れています。


今後の行動

内面の安定を再確認する: 境界のない部屋であっても安定した心を保つため、自己の感情を観察し、外界の影響に過剰に反応しないような自己管理法(瞑想、セルフリフレクション、自己観察)を意識すると良いでしょう。


攻撃性と自己主張のバランス: 今回の夢では、攻撃性を発揮しつつも抑制する場面がありました。これは、自己主張と自己防衛のバランスを意識する良いタイミングを示しています。今後も誤解や偏見に直面する可能性がある場合、自分の信念を冷静かつしっかりと伝える方法を探ることで、周囲との対立を減らし、意見を聞き入れやすくするでしょう。


旧友との関係や過去の影響の見直し: 旧友や過去の記憶が夢に登場したことで、過去の経験が現在のあなたにどのように影響しているかを再評価するきっかけになるかもしれません。過去の出来事や人間関係が今の自分にどのように影響を与えているのか、内省してみることが、現在の自己の成長に寄与するでしょう。


この夢は、自己防衛のあり方や過去の関係が今のあなたにどう影響しているかについて洞察を深める機会を提供しています。


Geminiによる夢の解釈と今後のアクション

夢の詳細な内容をありがとうございます。夢は、無意識のうちに心に溜まった感情や思考を象徴的に表現したものと考えられています。この夢は、フレディさんのご逝去という出来事と、それに伴う様々な感情が複雑に絡み合っているように思われます。


夢の各要素の解釈

だだっ広い畳の部屋と海岸: 広々とした空間は、あなたの心の広がりや開放感を象徴しているのかもしれません。また、海岸は、新しい始まりや変化を暗示している可能性があります。


太陽の光: 眩しい太陽の光は、ポジティブなエネルギーや希望を表しています。しかし、同時に、現実に目を背けたいという願望も示唆しているかもしれません。


レクチャー: レクチャーは、あなたの人生における学びや成長の過程を象徴していると考えられます。


スーツ: スーツは、社会的な地位や役割、あるいは自己表現の手段を象徴している可能性があります。ピンクのストライプは、あなたの繊細な一面や女性らしさを表しているかもしれません。


社会学者とジャーナリスト: これらの人物は、社会に対するあなたの考えや、メディアに対する不信感を象徴していると考えられます。


違法賭け事: 違法賭け事は、あなたの中に抑えつけられている欲求や、あるいは過去の失敗を象徴している可能性があります。


武力行使: 武力行使は、あなたの怒りや不満、あるいは自己防衛の意識を表しています。


全体的な解釈

この夢は、フレディさんのご逝去という出来事によって、あなたの心の奥底に隠されていた感情や葛藤が浮き彫りになったことを示唆していると考えられます。特に、社会に対する不信感や、自分の価値観を否定されたと感じていることなどが顕著に現れています。また、武力行使という行為は、これらの感情が抑えきれなくなって爆発寸前であることを示しているのかもしれません。


今後のアクション

この夢が示唆していることを踏まえ、以下のアクションを検討してみてはいかがでしょうか。

感情の整理: フレディさんのご逝去という出来事に対する悲しみや怒り、そして社会に対する不信感など、様々な感情を整理する時間を持ちましょう。日記を書いたり、信頼できる人に話を聞いてもらったりすることが有効です。


自己肯定感の回復: あなたの価値観を否定されたと感じているのであれば、自己肯定感を高める努力をしましょう。自分の長所や実績を振り返り、自己肯定的な言葉をかけるように心がけましょう。


コミュニケーション: 周りの人と積極的にコミュニケーションを取り、あなたの気持ちを共有しましょう。誤解を解いたり、新たな視点を得ることで、心が軽くなるかもしれません。


専門家の相談: どうしても心の状態が落ち着かない場合は、カウンセラーや精神科医に相談することも検討しましょう。


13540. 老いと精神的な成熟について  


時刻は午前11時を迎えるところである。先ほど4週間ぶりに町の中心部の美容クリニックに行き、2回目のダーマペンの施術を受けてきた。午前9時過ぎに自宅を出発すると、携帯の天気予報が示唆するように、体感温度はマイナス2度という表示通りの寒さだった。マフラーのみならず、手袋をして出かけて大正解だった。自宅から美容クリニックまではノーダープラントソン公園を通り抜けていく必要があり、早朝の犬の散歩を楽しむ人たちやランニングを楽しむ人たちの姿をいつも通り見かけた。そんな中、吐く息を白くしながら散歩を楽しんでクリニックに到着した。散歩の中でふと、今こうして自分がダーマペンの治療を通じて肌の再生を促進しようとすることと、自分が懐疑的な不老不死の実現についての関係性について考えていた。今の自分は死の意義や価値を認めながらも、老いの意義や価値についてはまだ明確な考えを持てていないような気がしている。これまでの既存のパラダイムでは、老いの先に死があるという関係性があるはずであり、死を肯定するのであれば本来は老いも肯定して然るべきのように思える。しかし今の自分の欲望として、いつまでも健康で若々しくいたいという思いがあるようで、それは死の肯定と若干矛盾するように思うのだ。かつて知人の鈴木規夫さんとの対談イベントの中で、老いと発達について対話をしたことがあった。確かに私たちは年齢を重ねると肉体的に老いていき、これまでできていたことができなくなってくるが、逆にそれゆえに奥深い精神的な叡智を獲得していく現象もある。現在アンチエイジングの研究が日進月歩で進む中で、今後注目するべきは、肉体的な老化を止めたり、老化の時計の針を逆戻りさせるようなことができた場合にも、同様の精神的な叡智の深みを獲得できるのかどうかという点である。すなわち今の自分が関心を持っているのは、ひょっとしたら肉体的な老いは精神的な成熟の必要条件ではない可能性があるのではないかという点である。これまではそれが十分条件ではないがある種の必要条件として見なされていた節があり、果たしてそれが本当かという眼差しを向けている。精神的な成熟は何も肉体的な衰えを伴わなくても、時間をかけた深い内省を通じても得られるのではないかと考えている。実際に、肉体的な衰えを経験する人の全てが精神的な成熟を迎えているわけではない現象を見ると、肉体的な衰えは精神的な成熟とは意外と関係なく、重要なことは精神的な成熟を実現させる内省を伴った学びや実践なのではないかと思うのである。そうであれば、こと個人の内的成長に関して見れば、老いは克服の方向に向かっていいかもしれないと思えてくる。もちろん老化を止める技術や若返りの技術が誕生したての頃は、経済的に恵まれた人しかそれらの技術の恩恵を被ることはできないかもしれないが、それはまた別途考えるべき社会課題である。その問題も別途考えながら、今度は老いが仮に亡くなった場合にも死はあり得るのかということも考えたい。生物学的な老いが止まったり、若返りの技術が実現すれば、加齢に伴う身体障害的な死は克服される。そのような形で死が克服されてしまうと、あとは事故死や自らの意思に基づく死などしか存在しなくなるかもしれない。いや、前者の事故死についてもひょっとしたら再生医療の進化によって近い将来克服されてしまう可能性もある。このようにして科学とテクノロジーの進歩を受けて、死がどんどんと遠ざかっていくことになった場合、今朝方考えていたような死の意義や価値はどのように変化するのだろうか。考察するべきトピックはまだまだたくさんある。フローニンゲン:2024/11/8(金)11:13


13541. ダーマペンの2回目の施術を受けて 


今日は午前中に、町の中心部の美容クリニックでダーマペンの2回目の施術を受けてきた。これは肌が本来持っている再生能力を活性化させる施術であり、前回の初回の施術を受けてすぐにその効果を実感し、継続して施術を受けるようにしている。前回から今回にかけては4週間ほど間隔を空けて、皮膚の再生が落ち着いたところで今日の施術を受けた。前回の施術はマリエールという女性に担当してもらい、今回はコンサルテーションを最初にしてもらったダフニーという女性に施術をしてもらった。コンサルテーションのセッションの際に、ダフニーは長期の休暇を取ると述べていたので、今日の施術の時に休暇をどのように過ごしたのかを尋ねた。すると、4週間ほどインドネシアのバリに行ってバカンスを過ごしていたそうだった。この時期のインドネシアはまだまだ熱く、なんと気温は30度に到達するとのことだった。毎日それくらいの気温で、ちょうど12月から2月頃まで雨季に入るらしく、その前にまるで夏のような日々をリラックスして楽しんだとのことである。今日のフローニンゲンの朝は体感としてマイナスの世界だったので、インドネシアの暖かさを羨ましく思ったが、来週からの日本も自分にとってはまだまだ暖かく感じられるぐらいの秋の気温なので、日本では暖かを感じながら英気を養ってきたいと思う。話を再び今日の施術に戻すと、今日の施術は前回の施術を受けて、ダーマペンの針の深さを前回よりも少しばかり深くし、より深層的な部分から肌の自然治癒力を高めていくことになった。ニキビ跡のところは他の箇所よりもさらに深い皮膚の層を狙った治療となり、若干痛みを感じたが、前回すでに治療を受けて痛みの感覚を知っているので、今日は深さの割に痛みを感じることは少なかった。施術後、肌に赤みが残る部分があるが、明日にはもう赤みはほぼ完全に引いているだろう。施術を担当してもらったダフニーから、ここからの数日間の肌のケアについてもう一度リマインダーをしてもらった。日本に一時帰国する来週の火曜日には、もうすっかり肌の赤みも消え、通常通りのスキンケアを開始できるまでに回復しているだろう。次回以降の施術は6週間の間隔が良いとのことであり、肌の自然治癒力をさらに継続的に高めていくことを実現したいと思う。こうした形で自らが最先端の美容科学や美容テクノロジーを実際に体験することを通じて、不老不死のテーマを含め、トランスヒューマニズムに対する考察をより一層深めていきたいと思う。フローニンゲン:2024/11/8(金)11:28


13542. 生成AIによる今朝方の夢の解釈

     

今日もまた2つの生成AIの力を借りて、今朝方の夢の解釈をさらに深め、今後のアクションプランを考えている。今朝方の夢の舞台は、広い畳の部屋で、その部屋は海岸に開かれて砂浜と繋がっていた。先日ドイツの思想家のビョンチョル・ハンの書籍を読み返している時に、内と外の境界線が曖昧な日本家屋に対する考察の文章を読んでいたことが印象に残っている。今朝方の夢の舞台もまさに内と外の境界線が曖昧で、それはひょっとしたら今の自分が自我の境界線をより透明化する方向に向かっているのではないかと思ったのである。発達心理学者のロバート・キーガンの理論モデルに従えば、まさにそれは透明な自己認識に向かう自己を示唆しているように思う。しかし内側の世界の中では自分を防衛するようなやり取りがなされていたことも印象的である。ただし、自分の内側の世界で行われていた口論は、謂れのない罪から自分の名誉を守るために必要なものであったことも思う。もちろん名誉なるものも空化していけば、謂れのない罪をかけられても何もしないということもあり得るかもしれないが、それは虚無主義的な態度のように思える。空化を進めた先に獲得されるべき認識は、自己の存在が仮の存在であるということなのであって、自己が無であることの認識ではない。ゆえに社会的に闘わなければならない時には正当な手段を通じて闘わなければならないのである。歴史を眺めてみれば、平和を希求する仏教徒が武器を取って蜂起した例をいくつも見出すことができ、それは同様の理由からだろう。また、自己の攻撃性を夢の中で表出する際には、決まって護身術としてのジークンドーの技であることが興味深い。つまりそこでは相手を殺傷するようなことは意図しておらず、また何も理由なしにこちらから危害を加えるわけではない。あくまでも護身術を必要なコンテクストの中で発動しているに過ぎないのである。ジークンドーの先生であるロビンさんが首を痛めて以来、ロビンさんとのパーソナルトレーニングは行えていないが、週に2回ジムに行く際にはいつも必ずサンドバックを叩いてジークンドーの稽古をしている。これからもジークンドーの稽古は単なる身体上の護身術として有益なだけではなく、精神上の護身術としても有益なように思う。必要であれば寝技を含む柔術などを学んでみたいし、クラヴマガなどの他の護身術も機会を見つけて習ってみたいと思う。そうした今後のアクションプランが思い付く。最後に、自分の夢の中で時折現れる海岸は、母なる地球の象徴であり、同時に変化の象徴であることを思う。海は常に鼓動をし、変化し続けている。そんな海が夢に出てくる時には、きっと自分の継続的な変化を象徴しているのだろうし、母なる地球が持つ可能性を自分も内包しながらその可能性を花開く方向に向かって進んでいることを暗示させる。フローニンゲン:2024/11/8(金)11:54


Today’s Letter

I attended my neighbor's funeral yesterday. It was a touching and magnificent ceremony. It made me reflect on my own mortality, which I felt could lead to enhancing the quality of my current life. The deaths and funerals of others can enrich our lives, and our own deaths can do the same for others. Groningen, November 8 2024

 
 
 

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