【成人発達心遊記】13462-13465:2024年10月26日(土)
- yoheikatowwp
- 2024年10月28日
- 読了時間: 11分

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タイトル一覧
13462: 今朝方の夢
13463: 今朝方の夢の続き
13464: 今朝方の夢のさらなる続き/世俗化と都市化/映像作品を通じた学習
13465: ゼミナールの第103回目のクラスを終えて
13462. 今朝方の夢
時刻は午前8時を迎えた。ちょうど今、庭側の木に止まっている1羽の小鳥が鳴き声を上げた。どうやら深夜に霧が出ていたようで、木々の枝に露が付着している。今もまだ霧注意報が出ている状態だが、霧はほとんどなく、辺りは明るい。今日は気温が17度まで上がるようであり、明日からの気温の低下に向けた最後の暖かい日になるだろう。
いつものように今朝方の夢を振り返っておきたい。今日はいくつか印象に残る夢を見ていたので、覚えている順番にそれぞれの夢を振り返っていく。まず覚えているのは、広島には思えなかったが広島の中心地にいた場面である。時刻は夕方を迎えようとしていて、学校を終えた学生たちや帰宅するビジネスパーソンの姿をちらほら見かけた。広島大学に進学した小中高時代の友人(SN)が広島の中心部を案内してくれるとのことで、彼に色々と最近の広島の様子を聞いた。どうやら広島の中心地は移民法の改定によって随分と荒廃してしまったとのことだった。それは移民が悪いのではなく、法律の改変が劣悪であったことが原因だった。友人曰く、18歳以下の移民の子供達が広島の中心地で違法な職業に就いてお金を稼いでいるらしく、それによって中心部の風紀が乱れ、犯罪率も増加しているとのことだった。彼自身はそんな中心部には住めないとのことで、中心地から5駅ぐらい離れたところに住んでいるようだった。実際に彼に中心部を歩いて案内してもらうと、至る所に移民の子供達が溢れていて、こっそりと客引きをしている女の子の姿を見かけた。客引きをしていたのは女の子だけではなく、男の子も違法薬物の売買なのか、違う形での客引きをしていた。自分の目にはもうそこが広島だと信じることはできず、かつて訪れた広島の雰囲気はなかった。そうこうしていると辺りが一気に暗くなり、街灯が灯り始めた。友人がネオン街の方も案内してくれるとのことでそちらに向かってみると、見慣れた顔を見つけた。そこに小中高時代の友人(TK)がいて、彼はそこでカラオケができるホストクラブを経営しているとのことだった。彼もまた自分の店でホストとして働いており、髪を整え、少し化粧もしているように思えた。彼の店がどのような雰囲気なのか気になったし、彼にはネオン街の実態について色々と話を聞こうと思ったので店に案内してもらった。店に到着すると、そこは宿泊施設にもなっていて、細長いシングルベッドが3つ並んだ部屋に案内され、そこで彼から話を聞くことにした。彼の意見は先ほど中心部を案内してくれた友人と似ており、やはり近年広島の町はどんどんと荒廃しているとのことだった。そこから彼がなぜ今の仕事に就いたのかに就いての経緯を尋ねようとしたところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2024/10/26(土)08:31
13463. 今朝方の夢の続き
明日からは気温がグッと低くなり、来週末は最高気温が10度、最低気温が3度の日が出てくる。11月を目前にして本格的に冬の入り口に差し掛かったようである。紅葉していた木々の葉も随分と落ちてしまい、裸の木が庭に増えている。夏の時代に青々としていた葉の姿が今となってはとても懐かしい。そんな懐かしさに浸りながら、今朝方の夢の続きを思い出している。
夢の中で私は、株式投資と金融に関する勉強会に参加していた。会場は広くお洒落なシェアハウスで、意外な場所で勉強会が開かれるのだなと思った。韓国のある有名な俳優が勉強会を仕切っており、どうやらその方はあるファンドに参画して、ファンドマネジャーの仕事にも従事しているようだった。その方が配ってくれたPPTスライドの資料はとても見やすく、大変勉強になった。1枚の用紙に両面で4つのスライドが掲載されており、エコな印刷ながらも文字が読みにくいということはなく、頂いた資料をもとに勉強会が進んでいった。その方が所属しているファンドの収益率について尋ねたところ、なんと7%から30%の収益率とのことで、相当に優秀なファンドマネジャーがそこに在籍しているのだなと思った。隣で一緒に勉強会に参加していた父も熱心に話に耳を傾け、いくつか質問や意見を述べていた。勉強会の中で参加者同士が最後に自己紹介をする時間があり、最後になってようやくそこに集まっている人たちが同じ大学の出身者が多いことに気づいた。経済・金融に定評のある大学ゆえに、卒業生がそこに集まっているのもおかしなことではなかったが、それにしても同じ大学の出身者ばかりであることに驚いた。ふと時計を見ると、なんともう午前3:33とのことで、勉強会に没頭していて時が経つのを忘れているようだった。時刻はまだそれくらいの早さだったが、太陽がもうすでに顔を覗かせており、朝日が燦然と輝き始めていた。
この夢以外に覚えているものは、見慣れない学校の教室にいた場面である。そこで私は自分の教室ではなく、隣の教室の給食当番の仕事を手伝うことになっていた。隣の教室に行くと、そこの担任の先生はアメリカ人の女性で、先生に英語で事情を説明し、教室に入れてもらった。と言うのも、自分が教室に入る前に、先生は本来教室にいるべき人数を把握しており、それよりも数人ほど多いことに不満を持っていたからである。その数人もうちの教室から助っ人で給食当番の手伝いをしにやって来たのであった。どうやらその先生はそのことを知っていないようだったので、自分たちが手伝いにやってきたことを伝えると、ようやく教室に入ることを承諾してくれた。教室に入った瞬間に、私の心身はゲームの世界の中にいた。どうやら10個ほどのシナリオが選べるゲームの中の1つに入り込んでしまったらしく、そこでは海岸沿いの工場地帯に突如現れた巨大な猿を撃退することが最初のミッションになっているようだった。その猿は怪獣ほどの大きさをしており、まるでキングコングのように凶暴そうだった。その猿の倒し方を考えないままに数人の仲間と戦いに挑んだところ、呆気なくやられた。その猿は、口から火を吹いたり、吹雪を吹かせたり、雷を落としたりと、様々な属性の技を連続で繰り出し、私たちの生命エネルギーをすぐさま削り取り、最後は鉄拳を空から振り下ろす形で私たちを撃退した。そこでゲームの外の世界に出て、再び同じシナリオを選択するのか他のシナリオを選択するのか迷ったが、猿の撃退方法を事前に入念に練れば今度は猿を撃退することができると思って再び同じシナリオの世界の中に飛び込んでいった。フローニンゲン:2024/10/26(土)09:02
13464. 今朝方の夢のさらなる続き/世俗化と都市化/映像作品を通じた学習
時刻は午前9時半を迎え、辺りはすっかり明るくなった。どうやら今日も天気が良いようなので、ここからさらにくっきりと太陽の姿を拝むことができたらと思う。先ほどまでいくつか夢について振り返っていたが、あともう1つ覚えている夢として、実際に通っていた中学校を舞台にした場面があったことを覚えている。靴箱から部活のために体育館に向かっている最中に、午後の晴れ渡る空が美しく、太陽の光がとても眩しかった。普段は部活が始まるのは夕方からだったが、その日はどういうわけか昼下がりから部活が始まった。ちょうど期末テストが終わったばかりで、今日が最初の練習でもあったので久しぶりに体を動かすことがとても楽しみだった。体育館に表の扉から入らず、裏手に回ってそこで着替えてから裏から体育館に入った。すると、すでに部活のメンバーが準備運動を各人で行っており、彼らも久しぶりに体を動かすことを楽しみにしていたようであることが伝わってきた。後輩たちの人数も多く、今日は3学年を混ぜこぜにしての紅白戦に多くの時間を充てようと思った。その場にいた全員が久しぶりのバスケをとても楽しみにしていることが表情からわかり、今日の練習はとても充実したものになると予感し、それに嬉しくなって思わず笑みが溢れた。そのような夢を見ていた。
夢を思い出した後、昨日考えていたことをふと思い出した。ハーバード神学大学院の神学者であるハーヴィー・コックスは、世俗化と都市化は足並みを揃えて実現されたと指摘し、世俗化の定義として、人々が高次元にある世界やこれから訪れる世界に対して目を背けるようになることであるとしている。確かに現代人は、超越的な世界への眼差しを欠き、来るべき未来をより良いものにしていこうという意欲を欠く形で刹那的にこの世界を生きているという点で、社会はますます世俗化の一途を辿っているように思える。そうした世俗化が都市化と並行して進んでいった点が興味深い。都市化によって外見上は生活がより安全になり、より快適になり、より便利になっていったと思われるが、それらによっておそらく人々の身体も心も去勢化されてしまったのだろう。心身の去勢化によって、人々の知性はもはや自己を超えたような存在に向かうことがなくなり、眼差しも未来に向かわずに、その瞬間の生を消費するだけに堕してしまったのだろう。都市化の波を食い止めることは難しいであろうから、そうした中にあっていかに心身の本来の力を取り戻すかに焦点を当てていきたい。性・サイケデリクス・宗教は、進行する世俗化に対してどのような貢献を果たすだろうか。この点はまた1つ非常に重要なテーマになる。
それともう1つ考えていたのは、映画を学習教材とし、唯識の観点から映画を分析的に捉えることを通じて処方箋を提示していきたいという点についてである。成人発達理論やインテグラル理論の枠組みも参照しながら、映画を通じた社会分析と社会の治癒と変容に向けた処方箋を提示する試みもいつか本格的に乗り出したいと思う。映画をまた意識的に数多く視聴していく実践も近々再開させていこうと思う。書籍の形態となった活字から学ぶだけではなく、映像作品は非常に豊かな学習体験をもたらしてくれるため、視聴覚をとりわけ刺激してくれる映像作品を学びの材料として積極的に活用していこう。フローニンゲン:2024/10/26(土)09:50
13465. ゼミナールの第103回目のクラスを終えて
時刻はゆっくりと午後3時に近づいている。今、雲ひとつない青空がとても美しく、穏やかな太陽の光が地上に降り注いでいる。つい先ほどゼミナールの第103回目のクラスを終えたのだが、今日のクラスもまた非常に考えさせられることの多い回であった。ここ1ヶ月ぐらいクラスをお休みしておられた方がどうしているかなとここ最近思いを巡らせており、ゼミの前の正午に仮眠を取っていた時にもその方について考えていたことが影響してなのか、実際に今日のクラスからその方が復活してくださるという嬉しい出来事があった。その方は仕事が忙しくてこの1ヶ月間はクラスに出ることができなかったとのことであり、プロジェクトがひと段落した今日からまたクラスに顔を出してくださったことがとても嬉しかったのを覚えている。その方は唯識に関する理解が深く、いつも洞察の深いご意見を場に提供してくださるので、来週からのクラスもまた非常に楽しみである。今日のクラスの中では愛別離苦の話題が出てきて、愛する人や愛する何かとの別れは誰にとっても苦しいものである。しかしそこで諸行無常の真理を深く理解し、人や事物は全て永遠不変のものは存在しないという認識を深い次元で獲得していくことが、愛別離苦を乗り越えていく上で重要だと思う。またさらには、愛は人間が持つ非常に意義深い現象ないしは力だが、逆に愛を注ぐ対象を実体化させてしまい、それに執着してしまうことを通じて苦しみが生まれるという見方もできる。人を含めた生命や物に対して愛情を注ぐことは素晴らしいことであるが、愛情を注ぐ対象を実体化し、それに執着することは避けなければならない。これは言うは易し行うは難しであるが、それをしなければ愛別離苦は一生付きまとう苦しみとなる。その他にも唯識の外界否定についての議論も印象に残っている。この点は最初はなかなか理解がしづらい。唯識では、外界の事物を全くもって無と述べているのではなく、外界の事物は私たちが思っているようには存在せず、全て心(8つの識)を通じて認識すると説く。例えば何か物体を見た時にも、その物体の存在そのものを全て無として否定するのではなく、どこまでいっても私たちはその事物をありのままに全て把握することはできないと説明する。その物体を触ろうが、匂いを嗅ごうが、科学的に分析しようが、それらは全て部分情報なのである。それらの部分情報を寄せ集めても、その物体の全てをありのままに全体として把握することはできない。私たちにできるのは、その物体を心を通して認識することだけなのだ。その点を唯識では、「外界に事物は存在しない」というその言葉だけを見ると誤解を与えてしまうような表現で述べる。また、どんな外界の事物も諸行無常の真理に貫かれていて、絶えず変化しているものであり、固定不変の存在でなく、心が映し出した幻影であるという説明をする。それもまた「外界に事物は存在しない」という言葉に包摂される内容である。最後に今日のクラスでは、自分の阿頼耶識や阿頼耶識に薫習された種子を理解する意味で最近見た夢を取り上げた。夢分析はまさに自分が毎日行っていることなので、夢を取り上げることは心の理解を促進させてくれることもあり、ぜひまた次回以降のクラスで可能な範囲で夢を取り上げていければと思う。フローニンゲン:2024/10/26(土)15:04
Today’s Letter
Am I living in truth? Do I completely surrender myself to reality and continually make efforts to cultivate myself? If I can answer yes, then I am living as a Bodhisattva. Groningen, October 26 2024
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