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【成人発達心遊記】13225-13230:2024年9月6日(金)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した成人発達唯識ラジオの配信をしています。


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タイトル一覧

13225. やって来る秋/平等性智を求めて

13226. 今朝方の夢

13227. 今朝方の夢の続き

13228. 研究計画書のドラフトを完成させて

13229. 何者でもない者として生きること

13230. 秋を感じて


13225. やって来る秋/平等性智を求めて


時刻は間もなく午前6時を迎えようとしている。辺りは依然として真っ暗だが、そろそろ空がダークブルーに変わり始めてくる頃である。気が付けば日の出の時間がめっきり遅くなり、日の入りの時間も早くなった。ようやく就寝時間の午後9時前にはかなり暗くなっている状態を迎えた。ここから日照時間は着実に短くなっていくだろう。今の気温は19度と比較的涼しい。少し肌寒さがあるぐらいの気温だが、今日は日中の最高気温が28度まで上がる。午後には雲ひとつない快晴が広がるそうなので、それであれば予報よりも1度か2度ぐらい気温が上がりそうである。今日は夏日となる。明日と明後日も26度まで気温が上がるようなので、程よい気候である。ところがやはりそれ以降から急に秋らしくなってくるようだ。特に来週に入ると火曜日からは最高気温がいよいよ20度を下回ってくる。火曜日は18度、水曜日は16度、木曜日は17度までしか気温が上がらない。これまでは20度を超える時には半袖半ズボンでジムに出掛けていたが、来週の木曜日からはもうそのような格好では外出できなさそうである。今日から3日間の夏日を最後に、いよいよ本格的に秋に突入する形となる。こうした気候の変化を楽しみながら日々を過ごしていきたいと思う。確かにフローニンゲンの秋は短く、すぐに冬になるような印象だが、短い秋も風情があり、それを今年は意識的に味わいたいと思う。こうした心のゆとりは唯識学を学ことを通じてますます涵養されている。不思議なもので、新たな季節がやっくるたびに、それに呼応するかのようにして自分の心も育まれているのを実感する。ここからはさらなる慈悲の心を育んでいきたい。さらなる優しさを求めての学びと実践が続く。優しい人でありたいと深々と思ったのは、一連のシロシビン・セッションの最後の回かその前の回だったかと思う。今の自分はそれだけ優しさを求めている。自分にではなく、人に対する優しさに飢えていると言えるぐらいである。それから自らの名前にある「平」の文字が入った平等性智の獲得に向けた試みにも力を入れたい。それは自我執着心を司る末那識が変化したものであり、自らの我執を克服していった先にその智が得られる。昔から人の個性としての区別は認めながらも、人を差別することなく生きることが自然と染み付いていたが、今はそれをさらに深めていく時期かと思う。もちろんそれはいくらでも深めることができ、最終的には平等性智のような全ての諸存在との垣根を超えて1つになれるような智慧にまで昇華させていくことができるため、道はまだまだ長い。長き道のりを歩むことを楽しみながら、そこでの種々の出会いを楽しみ、その結果として平等性智が得られたら幸いである。フローニンゲン:2024/9/5(木)06:07


13226. 今朝方の夢     


真っ暗な闇の中、遠くの方でカラスが鳴く声がした。それはもうどこかに飛び立ってしまい、今はまた静寂な時間がやって来た。二重窓の外側は開けていないのだが、内側を開けているためどうも冷たい空気が室内に入ってくる。これから秋が深まってくると、もはや内側の扉を開けることはできなくなって来るだろう。程よい肌寒さを感じながら今朝方の夢について振り返っている。


夢の中で私は、小中高時代のある親友(SI)の白く綺麗なマンションを訪れていた。そこは4階建の比較的こじんまりとしたマンションだったが、内装と外装の綺麗さからとても良い印象を受けていた。中に住む人たちもセンスのある方たちばかりのようで、なかなか良いマンションを選んだなとその親友を心の中で褒めた。その他にも2、3人ほどの親友が後から彼の家にやって来て、みんなで懐かしのテレビゲームをして楽しんだ。ゲームをしている最中にふと、そう言えば大学時代の女性友達とこれから食事に行くことを思い出し、彼女から連絡が来ていないかを携帯で確認したところ、どうやら彼女が待ち合わせ場所の近くまでやって来ているようで、その近くの写真だけを送ってきた。それを見て、そろそろ自分も出発して待ち合わせ場所に向かわなければならないと思った。親友たちとはまだまだ遊んでいたいと思ったが、彼の家を出ることにした。身支度をサッと済ませて家を出ると、家の中でその親友が何か大きな声を出して自分を呼び止めていた。どうやら持参したコップを忘れているらしかった。彼の声は耳に入っていたが、もう階段を降り始めていたので、彼にコップを下まで持って来て欲しいと述べたところ、彼はどういうわけか「それは合理的ではない」というようなことを述べたので、自分が再び階段を上がってコップを取りに行くことにした。待ち合わせ場所までは比較的近いとたかを括っていたが、意外と時間がかかることがわかり、友達の女性を待たせてしまうことになると思って少し焦り始めた。無事に彼からコップを受け取り、また近々遊ぼうと述べて別れた。そこから少し早足で待ち合わせ場所に向かおうとしたら、自分の格好が上下ジャージ姿であることに気づいた。今から高級寿司屋に行くのにその格好はまずいだろうと思ったので、自宅に戻って着替えることにした。親友の家に持っていたったリュックサックもいらないと思ったので、荷物も置いていくことにした。現実世界と同じオランダの一軒家に戻り、サッと着替えて待ち合わせ場所に向かった。その時に彼女には今向かっていることを連絡し、心配させないようにした。なんとか目的地に到着すると、彼女はどうやらちょうど同じタイミングで到着したようで、彼女を待たせていなくて良かったと思った。そこからは2人で会話を楽しみながら寿司屋に向かった。寿司屋に到着して席に案内されると、さすが高級店とだけあって雰囲気がとても良かった。服装をきちんとしたものに替えて来て正解だったと思った。まず最初に席を担当してくれる中年の男性から4種類の岩塩の案内を受けた。どうやら寿司を醤油で楽しむだけではなく、岩塩で楽しむことができるらしかった。しかし、その岩塩がなんと小さな受け皿に少し振り返るだけで1杯1000円した。仮に4種類の岩塩を選んだら、それだけで4000円になる形だった。その金額を考えると少し考えたが、しかし新しい体験に勝る喜びはないので、体験への投資として自分は4000円分の岩塩を使ってみようと思った。そこで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2024/9/5(木)06:27


13227. 今朝方の夢の続き     


時刻はゆっくりと午前7時に近づいている。今、ようやく辺りが随分と明るくなってきた。今日は午後から雲ひとつない快晴という予報が出ているが、この瞬間の空は雲で覆われている。そのため、朝焼けを見ることはできず、朝日も見ることができないだろうと思われる。小鳥の囀りが聞こえ始め、それに耳を傾けながら今朝方の夢の続きを振り返っている。


覚えている場面として、小学校時代に所属していたサッカーチームの練習場でサッカーをして楽しんでいた場面があった。そこにいたのは小中高の友人たちで、随分と幅広い友人たちがそこにいた。大人数だったこともあり、11対11のゲームをすることができ、久しぶりの草サッカーを大いに楽しんだ。ゲームの中で印象的だったのは、自分は特定のポジションを務めるのではなく、自由にコートを行き来することができたことである。本当の試合であればそのようなプレーをすることは難しいだろうが、守備もし、攻撃もしという形で神出鬼没にコート中のどこにでも顔を出していた。そうしてボールに触れる機会が増えれば増えるだけ自分の気持ちも良くなり、ますます好プレーが出て来るようになった。それを見て自分はフォワードのポジションにスッと移動した。そのタイミングである友人(YU)が自分に絶妙なスルーパスを出してくれた。そのパスをこれまた絶妙なボールコントロールで受けることによって走る勢いを殺さずに一気にゴール前に抜け出た。目の前にはあと1人ストッパーがいるだけで、彼を巧みなドリブルで交わし、キーパーも交わした形で無人のゴールに優しくボールを流し込んだ。そのゴールでさらに自分に勢いが出てきて、ここからさらに得点を重ねていくことができるだろうという予感があった。


この夢以外にも、日本人の見知らぬ美人の女性からマッサージの研修を受けていた場面があったことを覚えている。その女性は女性専用の癒しのマッサージの仕事に就いていて、心身を深く癒す特殊なマッサージ技法を習得していた。特殊なマッサージと言っても何か突飛なものではなく、触れ方や言葉掛けが非常に洗練されているものだった。技術的に複雑なものでなかったゆえに、自分もその日に学んだら早速誰かに試せるものだった。その女性から親身な指導を受けることを通じて、自分はそのマッサージ技法を1日で習得し、早速誰かにマッサージを受けてもらいたいと思った。そのような場面があったのを覚えている。フローニンゲン:2024/9/5(木)06:54


13228. 研究計画書のドラフトを完成させて   


時刻は午前10時半を迎えようとしている。早朝に見えていた雲は雲散霧消し、今、穏やかな朝日が地上に降り注いでいる。朝日の雰囲気は、やはりもう秋のそれである。ここから気温が上がり、日中の最高気温は夏日のそれに到達するが、今はまだ肌寒く、室内では長袖長ズボンを着用して過ごしている。見事な秋晴れを感じながら、ここまでのところ昨日の続きとして、研究計画書の執筆を行なっていた。やはり書くことは自分の天職なのだろうか、それは日本語であっても英語であっても変わりなく、没頭没入状態で英文の計画書の続きを執筆していた。おそらく今日1日で残りの執筆を完成させることは難しいかもしれないと思っていたが、早朝からの集中状態のおかげもあって、先ほど無事にドラフトの全体の執筆が終わった。続きとしては、良遍の紹介、彼の最高傑作である『観心覚夢鈔』の3つの特徴とその意義に触れていき、研究方法についての言及と、最後にこの研究の学問的意義と実務的な意義について触れた。学問的意義については明確であり、そもそも日本法相唯識学の教えは欧米の仏教研究者の中でもほとんど知られていない。お膝元の日本でも法相宗そのものがマイナーな宗派ゆえに日本の仏教研究コミュニティの中でも研究はそれほど活発ではない。そうした事情ゆえに、日本法相唯識学の概要書かつ奥義書でもある『観心覚夢鈔』の重要な側面を紹介する今回の自分の研究には重要な意義があるかと思う。『観心覚夢鈔』を単に翻訳するだけでは欧米の大学院で博士号を取得することは難しいだろうが、解釈・解説付きの翻訳であれば十分に博士論文として提出できるのではないかと思う。なので今回の研究は、博士課程での研究につながるものとしての大切な意味がある。その他の意義について言えば、チベットや中国の唯識を研究している研究者にとっても日本法相唯識学が開拓・洗練させていった哲学的な側面は非常に参考になるだろう。こうした形で、まずは今回の研究が欧米の仏教研究者にとって意義があることがわかるが、それだけにとどまらず、一般の人にとっても今回の研究で浮き彫りにある実践的側面は有益かと思う。マインドフルネスが日本や欧米社会で流行して久しいが、それは基本的には上座部仏教の瞑想技法に基づいており、大乗仏教瑜伽行唯識派には上座部仏教にはない数々の瞑想法がある。法相宗にはさらに独自な観法行があることからも、そうした技法を一般の人に知ってもらうことには大きな意味があるかと思う。ゆえに今回の研究は、単に欧米の仏教研究を発展させていくだけではなく、個人・コミュニティ・社会の変容に資する実践的なインプリケーションがあると信じている。先ほど執筆し終えたドラフトはしばらく寝かせ、またどこかのタイミングで最終版にして、それを元に実際の論文の執筆に取り掛かっていきたいと思う。フローニンゲン:2024/9/5(木)10:37


13229. 何者でもない者として生きること    


つい先ほど昼食を食べ終えた。今日はジムに行く日なので、いつものように蕎麦を食べた。毎週の月曜日と木曜日は午後にジムに行き、その前のトレーニング飯として蕎麦をいつも美味しく食べている。その他の日はオートミールに水を加えてレンジで蒸したものに玄米味噌を加える料理を食べている。それと蕎麦であってもオートミールであっても共通してアーモンドとクルミを少々頂いている。それで夕食まで十分に持ち、トレーニングにおいてもエネルギーが切れることはない。トレーニング中には蕎麦湯に蜂蜜とレモン汁を加えたものを飲んでおり、それが栄養補給にもなっている。プロテインのようにトレーニング中に消化が悪くなってしまうものを摂取するのではなく、蕎麦湯に含まれている豊富なミネラルを摂取することによって、トレーニング後の疲労回復も促進されている。蕎麦を食べて体が温かくなってきたことに加えて、気温も上がってきたのでようやく長袖を脱いで半袖になった。今は雲ひとつない快晴に恵まれているので、ここから気温がもう少し上昇するようだが、午後の太陽の日差しもまた秋のそれの雰囲気を醸し出しており、気持ち良くジムに行けるだろう。

先ほど昼食を摂っているときにふと、何者でもないことの喜びと解放感を深く味わっている自分の姿に気づいた。人は生まれた瞬間にはまだ何者にも染まっておらず、無垢な状態で誕生する。しかしそこから社会の中に組み込まれていく形で、何者かになっていくし、なろうとする動機付けがなされる。多くの現代人を見ていると、成人以降から長らく、あるいは下手をすると一生を費やして、何者かになろうとすることに絶えず躍起になっているように思えてくる。それが盲目的なプロジェクトとして遂行されている場合も不幸であり、意識的にそのプロジェクトに従事している場合も不幸である。いずれの場合においても、結局それは自己を社会に適合する形で改変する形で実現されるものだからである。本質的な自己実現とはそのようなものではない。それは本来、私たちの自己の本質である何者でもない喜びと解放感を得ることにあるはずだ。ところが現代の自己実現とは、自己をうまく社会に適合させる形で成し遂げられるものだと考えられている風潮がある。それは窮屈さを生み、心を病ませる引き金にもなっている。社会に適合する形で何者かになろうとする衝動を緩め、それを手放し、真の意味でその人の個性が輝く社会を見てみたい。自分はこれからも何者でもなき者として自由と解放を体現して生きていく。フローニンゲン:2024/9/5(木)12:44


13230. 秋を感じて 


時刻は午後4時半を迎えた。今日もジムで思いっきり体を動かし、良い汗をかいてきた。先ほど自宅に戻ってきて、シャワーを浴びてさっぱりして今に至る。今日は28度まで気温が上がっていたが、自宅を出発した午後2時過ぎの太陽はもう秋のそれを感じさせた。夏のような力強さはなく、優しさがそこにあった。もう秋に入ったことを実感させるのはそれに加えて、雲ひとつない日の気温の上昇が限定的になったことである。真夏の時期であれば、雲ひとつない日の場合は予報よりも2度ぐらい気温が高くなることがざらにあった。しかしもうこうして秋に入ってみると、予報通りの気温に落ち着くことが有り難い。今日から3日間は最後の暖かさを感じることができる日になるだろう。それを見越してか、ノーダープラントソン公園の芝生には寛ぐ人たちの姿をたくさん見かけた。こうしてオランダ人やこの国やって来ている心にゆとりのある外国人たちは、晴れの日は外に出かけてゆっくりと寛ぐ。そうして得られる心の余裕が人々の表情や行動に現れている。


ジムの帰り際に近所のオーガニックスーパーに立ち寄って買い物をして帰っている最中に、自転車で転倒してしまった中年男性の姿を見かけた。自分から少し距離が遠く、その男性が転けた後の姿がまず目に飛び込んできて、次の瞬間には近くにいた中年の女性がその男性に手を差し伸べ、近くにいた若者の男性が自転車を起こしていた。その助け合いの様子に心が温かくなった。もちろん自分がその場にいたらきっと手を差し出したと思うが、こうして他の人が誰かを助けている姿を見るのは気持ちがいいものだ。見知らぬ人が困っていたら救いの手を差し出すこと。これが出来なくなったら人間として終わりであるし、それが自然となされない社会はもはや終わった社会である。今年の一時帰国では、その点に関する日本の様子を観察して来たいと思う。


今日のジムでのトレーニングは明日からの実質上の中3日間の休息日を見越して、できるだけ追い込んでトレーニングをしていった。最近はジムの翌日にも自宅でジムであまり鍛えることができなかった部位を鍛えているので厳密には中2日間の休息かもしれないが、自宅でのトレーニングは極度に追い込むことはそれほどしていない。腹筋に関してはできるだけ限界まで追い込むようにしているが、その他の部位を自宅で鍛える際にはある程度の刺激を入れるようにして、前日のトレーニングの回復に務めている。今日もまた充実したトレーニングを行うことができたので、後ほどの夕食はさぞかし美味しくいただけるだろう。フローニンゲン:2024/9/5(木)16:43


Today’s Letter

I finished writing the draft of my research proposal on the study of the Japanese Hosso school of Buddhism. I plan to begin this study at a graduate school in the near future. I believe that this research will help fill a knowledge gap in Buddhist studies and contribute to the development of individuals, communities, and society. Groningen, September 5, 2024

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