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タイトル一覧
13152. 変化の楽しみ
13153. あるがままの認識を通じて心と一つになること
13154. 今朝方の夢
13155. 阿頼耶識が生み出す世界の中で
13152. 変化の楽しみ
時刻は午前6時半を迎えた。今、小鳥の囀りが聞こえて来た。やって来た囀りはまたどこかに消えた。ここ最近は日の出の時間が遅くなる一方であり、今はまだ薄暗い。遠くの空にようやく朝焼けが見え始めているぐらいである。今の気温は13度と低く、今日の日中は18度までしか気温が上がらない。まさに秋のそれを思わせる。こうして気付かない間に完全に秋に入り、涼しさが常態化しつつある。ここから1週間の天気を見ると、もはや25度を超えるような日は1日もなく、全て20度前半の気温が続いている。ここからも完全に秋に入ったことがわかる。今年は例年以上に早い秋入りだったように思う。それがここからの秋の様子や冬の様子にどのような影響を与えるのか、その変化がまた楽しみである。
変化を楽しむ心。それは物心ついた時から自分に備わっていたかもしれないが、特に最近はそれが増している。人間は慣れ親しんだことから離れることや未知なものへ恐怖を感じる生き物であり、確かに自分にもそれらの特性が内在していることには自覚的であるが、やはりそれ以上に変化を好む傾向が自分の中にあるように思う。それは唯識学を学ぶことを通じて、仏教が大切にする1つの真理である諸行無常への理解を深める中で、ますます変化を愛するようになっているように思う。先ほどまで朝焼けが見えていたところ、今こうして突発的に雨が降ることもまた一興として楽しむことができているのもまた、変化を愛する証拠だと思われる。いずれにせよ、変化を恐れずに変化を愛することが心のさらなる発達を実現させてくれる。そもそも発達とは変化を不可避に伴うものなのだ。変化を避けていては発達など起きない。変化を愛し、変わっていく自己を受け止めながら日々進むこと。それをこれからも心掛けたい。また今の自分が慣れ親しんでいることや恐れを感じる未知なるものについて常に検証し、自分の心の成長に繋がるものについては積極的に慣れ親しんでいる世界から未知の世界へ飛び込んでいき、未知なるものに直面していきたいと思う。一度きりの諸行無常の人生において、そうした心持ちは人生を楽しく充実したものにしてくれることに不可欠なはずである。そのようなことを考えながら夜明けが完全にやって来ることを待っていた。フローニンゲン:2024/8/21(水)06:42
13153. あるがままの認識を通じて心と一つになること
先ほどの日記では変化について思うことをつらつらと綴っていた。いつも日記ではその瞬間に湧いてきた考えを吐き出すようにして取り留めもなく文章を書き連ねている。その時にわざわざ正確な用語や理論を調べたりすることはなく、自分の頭の中にあるものだけを頼りに書くようにしている。もちろん必要であれば、忘れている言葉などについては思い出そうとして、思い出せなければ文献やインターネットを通じて調べるようにしているが、基本的には自分の頭の中にあるものだけを用いて、頭の中に湧き上がったことだけを書き綴るようにしている。興味深いことに、毎回の日記はそれがどれだけ日常の些細なことであっても毎回書く内容が違う。まさに変化に富んでいるのだ。それは心と心が映し出す世界がそもそも変化に富んでいるからだろう。心と心が映し出す世界は常に千変万化している。そうしたことからも毎日の日記は必然的に変化に富むのである。一連の日記は、自らの心と心が映し出す世界がもたらしてくれた贈り物としての変化の克明な記録なのである。この記録は今後も一生続けていきたいと思う。1人の人間の人生を貫く変化の総体を捉えてみたい。もちろんそれを完全に全て捉えることはできないとしても、絶え間ない日記の執筆によって、その部分はわかるであろう。そしてその部分の把握によって、全貌の把握がある程度可能になるはずである。変化に富む心と心が映し出す世界を相手にした日記の執筆そのものが変化に富んでいるがゆえに日記の執筆は面白いものなのかもしれない。変化を目の当たりにし、変化に触れ、変化そのものになることに伴う喜び。それは変化する世界と一体化する喜びだと言えるかもしれない。対象とする世界は結局自分の心が映し出すものであり、心の世界である。そうなってくると、自分は毎日心を相手にして日記を綴り、自らの心と一つになることを楽しんでいるのだということがわかってくる。幸福の源泉。それは外側には決してなく、自らの心の中にある。否、自らの心と一つになることが幸福感を醸成するのである。そのようなことを考えていると、先ほど降り始めた雨が止み、また静けさがやって来た。倉庫の上に溜まった水たまりに木々や家が映し出されている。その影像をぼんやりと眺めている。それが影像だとはっきり認識された時、ふと顔を上げて、像を生み出している真正の対象を見た。そしてそれらをぼんやりと眺め続けた。するとどうだろう。それらと一つになった感覚が現れた。まさに唯識学で言うところの現量によるあるがままの対象把握である。あるがままの対象認識は、心の浄化に繋がる。世界をあるがままに見るというのはつまるところ、自分の心をあるがままに見ることなのだ。だからこそそれを通じて心の浄化が起こるのだ。普段私たちは、事物をあるがままには決して見ていない。過去の体験記憶と言語のフィルターを通じて影像を見ているに過ぎないのである。それに対して自覚を持った時、真正なる対象が現れ、それをあるがままに把握することが可能になる。そしてそれは自らの心を癒す。認識上の塵を除去し、対象と一つになることを通じて自らの心と一つになること。それを多くの人にも推奨したいし、自らもそれをできるだけ常に心掛けたいと思う。フローニンゲン:2024/8/21(水)06:58
13154. 今朝方の夢
先ほどまで突発的な雨が降っていたが、今は雨が止み、朝日の姿が見えている。今日は1日を通して天気が良いという予報にもかかわらず先ほどの雨の訪れがあった。空を見るともう雲はないようなので、ここからは雨が降ることはないだろう。早朝の2つの日記は立て続けに変化に関することを綴っていた。変化で言えば、まさに毎晩見る夢もまた変化に富んでいて、1つたりとも同じ夢を見ない。変化に富む心が見せる夢についても毎日記録をし、心の世界の理解に少しでも繋げていこうとしている。
今朝方の夢の場面として覚えているのは、外国のホテルに宿泊し、ホテルに滞在しながら大学の期末のレポートを執筆していたことである。どうやら自分は再び大学院に入り直したらしく、再度学生としての生活を楽しんでいた。ホテルに滞在していた小中高時代の友人(AF)も同じ大学に在籍しているようで、彼もホテルに籠ってレポートの執筆に取り掛かっていた。休憩がてらロビーで少し彼と話をすることにしてホテルの部屋を出ると、偶然にもホテルの従業員のアメリカ人の女性が目の前に立っていた。彼女は自分の部屋に何か用事があったようだが、単に「何か飲み物はいかがですか?」と笑顔で尋ねてきた。それに対して私は反射的にブラックコーヒーを頼んでしまった。すでにコーヒーを飲むことをやめていたので本当は紅茶か何かを注文するべきところをこれまでの習慣によってブラックコーヒーと注文してしまったのである。すると彼女はすぐに注文したブラックコーヒーを持って来てくれ、部屋の机の上に置いてくれた。せっかく持って来てもらったものなのでそれを有り難くいただくことにしたが、今後は反射的にコーヒーと言わないようにしようと誓った。これまでの自分に薫習されたコーヒーを飲むという習慣からは顕在意識上は脱却できているが、潜在意識下にはまだその習慣が抜けきれていないようだった。
その他に覚えている場面としては、外国の町の高層ビルを舞台にしたものがあった。自分は夢を目撃する存在であり、夢の中にいたわけではない。何を目撃していたかというと、あるアニメのキャラクターが長い刃物のような鼻を持つ獣の姿をした強敵と戦っている姿である。そのアニメのキャラクターはビルの屋上を走り回りながらその強敵と戦っていた。しかし相手の持つ刃物のような鼻が厄介で、そのキャラクターが持っている剣よりも圧倒的に射程範囲が広く、戦況は目に見えて劣勢であった。そんな中、そのキャラクターがビルの屋上の淵を走っているときに、自分の意識がそのキャラクターの中に入り込み、そこからは自分がその強敵と戦うことになった。先ほどまで状況を目撃していた時に思い浮かんだ戦術を試してみようと思ったところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2024/8/21(水)07:43
13155. 阿頼耶識が生み出す世界の中で
時刻は午前11時を迎えた。今日は天気予報の精度があまり高くなく、先ほどもまた雨雲がやって来て、通り雨を降らせていた。今は雨が止んで穏やかな午前中の世界を現している。風の音が心地良く、それに乗って小鳥たちの鳴き声が運ばれてくる。今、再び神々しく輝く朝日が姿を現し始めた。それが朝の世界に豊穣な光をもたらしている。
私たちはこの世界をあるがままに把握しているのではなく、自らの心で、すなわち8つの識を通じてフィルターをかけながら把握している。私たちはまるで、五感覚と言葉で出来た夢の世界の中に生きているのである。五感覚と言葉をもたらすものが深層的な阿頼耶識であり、それは私たちには直接認識することができないことから、私たちは自らには認識できない存在によって生み出された世界の中を生きていることがわかる。もちろん阿頼耶識もまた個別性があり、自らの阿頼耶識は自己に関わるものが、仏教においては自分という存在や自分のものという発想を否定することから、私たちは自分だと思っている存在が自分ではない何かによって生み出された世界の中にいるという奇妙な構造世界の中に生きていることが見えてくる。誰か全く別の人ではないが、仮なる我としての自分に関係する形で存在している阿頼耶識が生み出す夢の世界、あるいはヴァーチャルリアリティの世界の中に私たちは生きているのだ。そうした自覚を持てば持つだけ目覚めに繋がってくる。逆に言えば、そうした自覚が持てない限りは、私たちはずっと悩みと苦しみの世界に居続けることになる。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/8/21(水)11:23
Today’s Letter
Change is inevitable in our lives and serves as a catalyst for growth. Although we tend to stay within our comfort zones, stepping outside them is essential for personal development. I am someone who embraces positive change. Groningen, August 21, 2024
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