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【成人発達心遊記】13135-13138:2024年8月18日(土)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した成人発達唯識ラジオの配信をしています。


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タイトル一覧

13135. 新たな季節と人生の資糧位

13136. 今朝方の夢

13137. 今朝方の夢の続き

13138. 第93回のクラスを振り返って


13135. 新たな季節と人生の資糧位       

 

時刻は午前5時半を迎えた。この時間帯はまだ随分と暗い。季節が着実に進行し、朝起床した時にはほとんど明るさのないような状態になってきた。ここから日の出の時間はますます遅くなり、基本的に真っ暗の世界の中で起床することになるだろう。8月はまだ半ばを迎えたばかりだが、もう秋の入り口にいることを感じる。それは日の出の遅さだけではなく、日の入りの速さにも表れている。夏の間で最も日照時間が長い頃には、10時半ぐらいまで明るいことがあったが、今はもう午後9時を迎えると随分と薄暗くなって来ている。ここから日の入りもますます早くなり、午後5時を迎える頃には真っ暗となる冬の時代に向かっていく。日の出と日の入りに加えて、気温に関しても顕著に秋の入り口を感じ始めている。今の気温は14度と非常に肌寒く、朝の時間帯は長袖長ズボンを着用する必要があるようになって来ている。最低気温が12度ぐらいの日がちらほら出て来ており、10度を下回るのも時間の問題かと思う。ここからの1週間においては、最高気温が25度に到達するような日はなく、20度前半の日が続く中で、いよいよ20度を下回る日が出てきた。やはり先日の真夏日をもって夏が終わりを告げたのだろう。ここからは部屋の二重窓の内側もしっかりと閉めて、冷たい空気が外から漏れて来ないようにしなければならなくなってくる。本格的な秋の到来は間近に迫っていて、短い秋を超えて冬がやって来るのももうすぐである。


今年の秋と冬の期間は、とりわけ力を蓄える時期かと思う。唯識学の修行の階梯で言えば、資糧位に該当するかのように、これからの人生における探究的蓄えをしておきたいと思う。そのための取り組みは今と大して変わらないが、今後に向けた準備という側面をより意識したい。具体的には、欧米の大学院に戻って唯識学を含めた仏教について研究を進めていく準備をしていきたいと思う。さらにその先を見越して、大学に残って研究者や教授として仕事をするための準備をしていきたいと思う。そのための蓄えは知的なものであり、少なくとも唯識学については深い知識を獲得しておきたいと思う。唯識学は、インド、中国、チベット、日本のものに細分することができるが、とりわけ日本の法相唯識学について専門とする形で、それを欧米の大学院で教えることや欧米社会で宣揚することに向けた準備を今から着々と進めていきたいと思う。それはきっと良き結果として実るだろう。それは自利利他のものとして広く社会に役に立つ形で良き果実をもたらしてくれるに違いない。そこには因果の理が貫かれているはずだ。フローニンゲン:2024/8/17(土)06:01


13136. 今朝方の夢


時刻は午前6時を迎えたが、辺りはまだまだ薄暗い。遠くの空にぼんやりと朝日の姿が見え始めているが、空には雲がちらほら見えており、それが朝日を遮っているようである。今日の天気予報を見ると、午前中から雲ひとつない晴天に恵まれるようだが、それにも関わらず最高気温が22度までしか上がらないところを見ると、本当に夏の命は秋にバトンを渡したようである。短く儚い夏のひと時に感謝しながら、常に今この瞬間を大切に生きていきたいと思う。今を味わい尽くす過程の中で、人生はますます充実さと幸福さを増していくだろう。


今朝方はいくつかの断片的な夢を見ていた。まず覚えているのは、見慣れない玩具屋の中でゴムボールを使ってサッカーをしていたことである。そこではサッカーの試合のようなことはしておらず、PKのゲームをしていた。自分がゴールキーパーを務めており、店にはサッカーゴールなどなかったので、2つの棚の端と端をゴールポストに見立ててPKをしていた。キッカーを務めていたのは若い男女で、そのほとんどが自分の知り合いだった。とりわけ小中学校時代の友人が多く、彼が1人1人自分に向かってボールを蹴り、それをことごとく防いでいる自分がいた。自分の直感能力は冴え渡っていて、キッカーがボールを蹴る瞬間にはどこに蹴るかが分かっていた。にも関わらず派手に横っ飛びをしながらキックをことごとく止めていき、見ていた人たちを楽しませることをしていた。


この場面の前にも運動に関する夢を見ていた。そこでは小中高時代の友人(HY)とタッグを組んで、小中学校時代の別の2人の友人のコンビと体を動かすゲームをしていた。そのゲームはこれまで行ったことのないような内容で、広い部屋の中に様々な障害物が置かれていて、制限時間内にその部屋の中に隠されているゼリー状の物体を多く集めた方が勝ちというゲームだった。いざゲームを始めると、相手のチームの片方が運動神経があまりない友人だったこともあり、序盤からこちらはゲームを有利に進めることができた。3ラウンドの制限時間の中でどれだけ目当ての物体を多く集めることができるかを競うものなのだが、相手の様子を見ていると、こちらはもう2ラウンド動くだけで十分に勝てるような気がした。ここからさらに上のトーナメントでの試合に向けて、体力を温存しておく意味でも2ラウンドの途中から手を抜き始め、最後のラウンドは完全に寛ぎながらゲームを進めようと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/8/17(土)06:18


13137. 今朝方の夢の続き


時刻は間もなく午前7時を迎える。辺りはもうすっかり明るくなり、早朝に見えていた雲はどこかに消えた。遠くの空に薄オレンジ色に色づき始めた朝焼けが見える。小鳥たちもようやく活動し始め、彼らの囀りが聞こえてくる。気温は低く、今はもう長袖長ズボンを着用するようにしている。ほんの数日前までは半袖半ズボンで過ごすことができたが、季節の相転移が生じ、もうそのような格好では寒い状態となった。ここからは季節の変化を楽しみながら、自らの内面の成長を合わせて楽しんでいく。そうした楽しみが毎日の生活の中にある。

先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢の続きとして、あるまだ若い有名な女優の方が俳優を引退するとのことで、その祝福をしている場面があった。彼女と自分は知り合いで、引退の理由について尋ねるのは野暮のように思えたので、そのことには触れず、久しぶりの再会を祝いながら会話を楽しんでいた。彼女との話を終えた後に、彼女が出演していた作品を改めて見てみようと思い、帰りにDVDを3本ほど借りることにした。そのような場面があったのを覚えている。ここ最近は日常生活の中でふと過去に見た夢について思い出す頻度が増している。まるでフラッシュバックするかのように、過去の夢の情景が突然脳裏にかすめる。過去の夢は着実に自分の阿頼耶識の中に記憶として格納されており、記憶としての種子が現行する形でそのような現象が起こるのだろう。また、夢の種子が醸し出す習気のようなものも存在しており、それに触れるとフラッシュバック現象が生じると言えるかもしれない。いずれにせよ、かつてないほどに過去の夢を思い出す頻度が増えてきた。それはこれまでほぼ毎日夢日記を綴ってきたことの効果がある閾値を超えて生まれ始めたのか、あるいは体系立てて行ってきたシロシビン・セッションの効果なのか定かではないが、両者が間違いなく影響し合って過去の夢が自然と想起される現象が生じているのではないかと思う。それが心の治癒や発達にどのような影響をもたらすのかは今のところ定かではない。ただし、自分の想像力の下支えになっているような気がする。自分は日々、深層意識に蓄えられた夢に記憶に基づいて物事を考え、意思決定をしているような気がする。夢を通じて思考し、感じ、何かを判断すること。まさに夢を通じて生きているかのようである。それもまた夢の如しこの人生の本質なのだろうか。そうかもしれない。フローニンゲン:2024/8/17(土)07:04


13138. 第93回のクラスを振り返って 


時刻は午後3時半を迎えた。今日は朝からとても涼しく、夕方に向かおうとしている今も太陽の光は穏やかで、秋のそれを感じさせる。空には雲は全くない状態だが、それでも大して気温が上がっていない状況を見ると、やはり季節はもう秋の入り口の中にすっぽり入ったようだ。


そのようなことを思いながら、先ほどまで行われていた第93回のゼミナールのクラスを振り返っている。今日のクラスはある受講生の方が事前に考えてくださっていた2つのテーマを主に取り上げ、その話に盛り上がり、100分ほどの時間があっという間に過ぎた。まず重要なテーマとして恐れというものが話題に上がり、恐れの種類や質的な差異について理解を深めた。8つの識それぞれのどこに由来する恐れなのかによって恐れの深さや度合いについて意見交換をする中で、恐れの根元にはどうやら言葉にならないおどろおどろしいものが存在している可能性が見えてきた。本来私たちは自分の存在があると思っているし、肉体や命があると思っている。しかしそれらは現象的に仮に存在しているだけであり、肉体もまた刹那に生滅を本来繰り返している。私たちはそうした存在を実体し、固定化し、有ることに執着して生きているがゆえに、それが無くなることへの恐怖を根底に持っているのかもしれない。またそもそも真如は存在として虚空なのだが、無に帰することに対しても、無というものが全くもって何もないというある意味悪取空的に無を捉える傾向があり、虚空に還ることを恐れる気持ちが生じるのではないかとも思う。詰まるところ私たちは、有ることに安心を感じ、それが命であろうが地位であろうがつながりであろうが、有ると思っているものが無くなることに対して大きな恐れを抱く傾向にあるようだ。私たちはきっと、生死輪廻を脱却して、もう2度生まれ変わらなくていい涅槃の状態でさえも、何か物寂しさを感じてしまうほどに生きることに執着するのだろう。その根底には、阿頼耶識が持つ生命維持の根元的な働きがあり、肉体的なものにせよ、精神的なものにせよ、手放すことに伴う死への恐怖はそれだけ根が深いのである。また仮に、過去世において阿頼耶識に薫習されている記憶や集合的な記憶の影響から、各種の恐怖はそれらに縁取られているので、根は非常に深い。


それ以外に話題に上がったのは修行の長さに関するものである。唯識においては、修行の期間は三大阿僧祇劫かかると言われている。これは非常に長大な時間で、1人の一生の間には修行は完成しないほどの長さである。しかしそうした長大な時間の概念の反対側の極に、「摂在刹那」という概念がある。それが意味するのは、三大阿僧祇劫は一刹那の中にあるということである。唯識においては時間は今しかなく、過去や未来はないのである。そうなってくると三大阿僧祇劫という時間もまた、一刹那の今にあり、悟りは一瞬で開かれる可能性を私たちは内包している。もちろんそのためには多くの学びと修行を積み重ねていく必要があるが、三大阿僧祇劫というのもまたジャータカとしての物語的時間感覚なのである。もちろん私たちは短期的な狭い視野で物事を考えがちであり、すぐに結果を求めようとするような時代の風潮の中にいるために、こうした長大な時間軸を設定して自分の心を見つめ、命尽きるまで自利利他の行に取り組み続ける動機付けとして、物語的な久遠の時間を設定したことには意味があるだろう。来週もまたきっと充実した意見交換がクラスの中で行われるだろう。それに期待しながら来週のクラスに向けて、また自分や地道に探究活動を続けていこう。フローニンゲン:2024/8/17(土)15:45


Today's Letter

I lead a life guided by my dreams. The seeds of my past dreams are stored in my unconscious mind. I may have opened a Pandora's box to a profound dream world, a rich source of my imagination and creativity. Groningen, August 17, 2024

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