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タイトル一覧
13105. 今朝方の夢
13106. 海辺のカゲロウの儚き命から/今日のゼミナールのクラスに向けて
13107. 今朝方の夢の続き
13108. 未来の自分との繋がり
13109. 第92回のゼミナールのクラスを振り返って
13105. 今朝方の夢
時刻は間もなく午前6時半を迎えようとしている。今日もまたこの時間帯は空にうっすらとした雲がかかっており、朝日を拝むことはできない。遠くの空がわずかに色づいているのが見えるが、今日は幾分雲が多い。天気予報を見る限りでは雲はほとんどないはずなので、これから晴れ間が見えてきて、朝日の輝きに浴することができるだろう。今の気温は16度と肌寒く、今日の日中は23度までしか気温が上がらない。昨日と同じく涼しい世界の中で自らの取り組みに従事できるだろう。
今朝方の夢でまず印象に残っているのは、真理の言葉が降りてきたことである。自分はまるで受信機のように、流れてくる真理の言葉をただただ受け取っていた。外に向けてその言葉を発信することはなく、文字通り受信機としてただただその言葉を受け取っていただけだったのだ。どこからともなく降りてくる真理の言葉はいずれも言葉を超越したものだったが、なんとか言葉の形になったものが自分を通して地上に降りてきていた。いや、真理の言葉は天から降ってくるというよりも、この宇宙の至る所に遍満しているものであるから、全方向から真理の言葉が自分に向かって集まってくるような体験だったと行った方が正確だろう。私はただ静かに真理の言葉を浴び続けており、もはや自己認識はなくなり、自分が真理と一体化している時間が続いた。そのような場面があった。
それ以外に覚えているのは、高校時代の野球部の友人が教室で熱心に漢文の問題を解いていたことである。それは別に宿題として出されていたものではなく、彼は自主的に問題を懸命に解いていた。入試に向けた対策ではなく、まるで漢文を使った研究者にでもなるかのように本当に真剣に問題を解いていたのである。彼は野球の練習も熱心に取り組むタイプで、自主練を怠らないような人間だった。そんな彼にとってみれば、漢文の学習もまた野球の自主練と同じようなものなのかもしれないと思った。彼の勉強を邪魔してはならないと思いながらも、彼がなぜこうも一生懸命に漢文の勉強をしているのか気になったので話しかけてみることにした。そこで夢の場面が変わった。彼がなぜ漢文を学習していたのかについての真理は謎である。1つ前に真理の言葉を受け取る夢を見ていたが、それとは対象的に真理が隠れたままの夢であった。確かに夢で出てきたのは自分とは別人の友人だったが、彼もまた自分の心の何かを具現化した象徴として現れていた可能性を考えると、唯識学の探究に向けて漢文を真剣に学ぶ必要性を感じている自分を表していると考えることができるかもしれない。フローニンゲン:2024/8/10(土)06:37
13106. 海辺のカゲロウの儚き命から/今日のゼミナールのクラスに向けて
起床直後に空を覆っていた雲は随分と消え去って、今優しげな朝日の姿が見え始めている。空は薄オレンジ色に色づいており、地上の生命たちも優しい朝日を浴びながら楽しげにしている様子を感じられる。そんな中でふと、先ほど朝の温かい飲み物を作っている最中に聴いていたポッドキャストの中で語られていた生き物について考えていた。そのポッドキャストの中で、海辺に生息する蚊が紹介されていた。それはおそらくカゲロウの一種だと思われるが、なんと2時間の命しかないとのことだった。生まれてから2時間後に死んでしまう蚊について色々と思うことがあった。何やらその蚊は誕生してから死ぬまでのわずか2時間の間に交尾相手を見つけ、交尾をして次の命にバトンを渡していくとのことだった。わずか2時間の中にどれほど多くのドラマが詰まっていることか。また、彼らの存在はきっとこの宇宙の中で意味を持っていて、他との関係性の中でその意味は輝いているのだと思わされた次第だ。彼らの命が短いように感じるのは、人間側の勝手な解釈なのだろう。彼らからしてみれば、その命が短いなどとは全く思っていないはずなのだ。ただ命があって、それをあるがままに全うしているだけなのだろう。それで言えば、昨日の夕方に休憩がてらキッチン側の窓辺に腰掛けて、窓の外の木々にやって来る小鳥や虫たちの様子をしばらく眺めていたことを思い出す。とりわけ小さな虫にとっては、それらの木々が天まで届くような大木に映っているに違いないと思った。虫を人間に置き換えると、木と虫の大きさの比はまさにそのように言えるかと思う。虫や小鳥たちの世界を想像しながら、彼らが目にするものや聞くものに思いを馳せている時間があったことを思い出す。人間以外の生き物を観察し、彼らの生きる姿を眺めることは、人間として生きることへの反省と自覚を促してくれる。また新たな気持ちで自らの人生を生き切ることを促してくれる何かがそこにある。自然は自分にとってつくづく偉大な教師であると改めて思う。
今日は午後に第92回のゼミナールのクラスが行われる。今日もまた前回と同様に、Zoomに搭載されているAI Companionのミーティングサマリー機能を活用しようと思う。この機能はなかなか便利で、クラスの内容の要点を見事にまとめてくれるだけではなく、クラスの中で話された次回に向けたアクションプランまでまとめてくれる。誤字があるのは致し方なく、むしろ誤字が笑いを誘い、思わぬ観点を与えてくれることも多々あるので、誤字を楽しんでいる自分がいる。今日のクラスではどのような対話がなされ、それをAIがどのように要約してくれるのかとても楽しみである。ゼミナールの運営にまた新しい楽しみが増えた感じである。ここからも先端的なテクノロジーには絶えず注目をし、教育効果を高めてくれるものがあれば積極的に活用していきたい。フローニンゲン:2024/8/10(土)07:05
13107. 今朝方の夢の続き
時刻は午前7時を迎えた。今、燦然と輝く朝日を眺めている。遠くの方から鳩の鳴き声が聞こえて来ており、近くでは小鳥が囀っている。土曜日の涼しげで穏やかな朝の世界に身を浸しながら、その心地良さを全身で感じている。
午前中の活動に本格的に取り掛かる前にふと、今朝方の夢の続きを思い出した。その夢の場面は、大学時代のサークルの先輩たちと合宿に出かけている内容だった。合宿場は旅館のようでいて、小さなアパートのようでもあった。全ての部屋が1つの廊下で全てつながっており、それぞれの先輩たちが宿泊している部屋を訪れ、1人1人の先輩と話をしていた。まず最初に話をしたのは1学年上の先輩で、その先輩は名門商社に内定をしていたが、卒業後は予備校で英語の講師になることにしたと話をしてくれた。先輩が名門商社の内定を蹴って、まさか予備校の講師になるとは思ってもいなかったし、選んだ科目が英語であることも意外であった。てっきり得意な数学か社会かを選択するものと思っていたが、英語を選んだことについてその理由を聞いてみたいと思った。その理由を聞こうとしたところで次の先輩から脳内に呼び出しの連絡を受けたので、次の先輩の部屋に向かうことにした。廊下を歩いていると、どこからともなく良い香りが漂ってきた。どうやら誰かが朝食を作っているらしく、その良い香りが廊下中に充満していたのである。自分に声を掛けてきた先輩も思わず廊下に出て、その先輩と一緒に良い香りが漂ってくる方に向かうことにした。すると廊下の突き当たりがキッチンになっていて、そこで別の先輩が朝食を作っていたのである。それは私たちのために作ってくれていた朝食らしく、もう直ぐ完成なので一緒に朝食を食べようということになった。その先輩はなんと朝5時からカレーを作り始めていたらいく、カレーの良い香りが廊下に漂っていたのだった。先輩は自分が肉を食べないことを考慮して、チキンカレーだけではなく魚介カレーを作ってくれていた。本当はヴィーガンなので魚介類も普段食べないのだが、せっかくなのでその日だけは魚介類を食べるペスカトリアンになろうと思った。朝食が完成する少しの間を、キッチンにやってきた数人の先輩たちと引き続き勉強のことや仕事のことについて話をしていた。フローニンゲン:2024/8/10(土)07:27
13108. 未来の自分との繋がり
時刻は午前9時半を迎えた。若干まだ肌寒さはあるが、長袖を脱いで半袖になった。相変わらず足元は冷たく涼しいので長ズボンを履いているが、午後には半ズボンで過ごせるかもしれない。朝から優しい朝日が照っていて、世界はとても平穏に映る。自分の心が平穏ゆえに、心が世界を平穏に映している。ここにも唯識学の教えの妥当性を見る。心の有り様が世界の有り様を決めるということ。世界は心に映る外境なのであり、平穏な心が平穏な外面世界を生み出す。これは別に唯心論的な発想ではなく、外部の世界の存在を認めながらも、それを心の中に取り込んだ瞬間にそれは自分の心が色付けた存在世界になるということだ。端的には、外界の世界は私たちの心と独立して存在しているのではなく、自分の認識する世界は常に自分の心の中にあるということである。
今の自分の取り組みが未来の自分に繋がっているという明確な感覚。それが先ほどやってきた。今日も朝から唯識学の書物を読み返しながら解説の音声ファイルを作成しているのだが、この取り組みがいつか必ず未来の自分を導くものになるという確信がある。この取り組みは糧を蓄えている行為でもあり、阿頼耶識に良き種子を薫習する行為でもある。この取り組みは必ずや、いつか欧米の大学で唯識学の研究をし、教鞭をとることに繋がっていると確信する。日々の地道なその取り組みはいつかきっと大きな実りを自他と社会に対してもたらしてくれるはずである。当面は、唯識学に関する日本語の文献に対して解説の音声ファイルを作っていく。まずは一般書や実践書を中心にして音声解説を進めていき、のちには生粋の専門書を扱っていく。すでに随分と専門的な内容を紹介した文献についても解説音声を作っているのだが、基本的な方針はまずは基礎的な文献としてわかりやすいものを中心にして解説していく。若干変化を加える形で、時折専門度合いの高い文献を扱っていきながら、手持ちの文献の中で重要だと思うもの、解説が必要だと思うものについては全て解説の音声ファイルを作成していきたいと思う。手持ちの日本語文献への解説を終えたら、唯識関連の日本語の論文を解説することや、洋書の解説へと移っていこうと思う。このように日々楽しみながら膨大な解説音声を作成していくことを通じて、自然と唯識学への理解が深まり、実践がより豊かなものとなり、心の治癒と発達が自ずから実現されていくのではないかと思う。フローニンゲン:2024/8/10(土)09:42
13109. 第92回のゼミナールのクラスを振り返って
鳩がホーホーと鳴き声を上げていて、まるで朝の世界のように思えるが、時刻は午後3時半を迎えたところである。清々しい夏空が広がっていて、気温は25度ほどだが、夏らしさを感じさせる。先ほど第92回のゼミナールのクラスを終え、今静かに振り返りをしている。
外国語は使ってなんぼであり、その言語を活用しない限りは習得することができない。それは唯識学にも当てはまる。とりわけ唯識学は他の仏教の教えの中でも術語が多いので、専門用語に慣れていく必要がある。その際に重要なことは、とにかくその用語を使ってあれこれと自分の心の中の現象や社会現象を説明してみるということである。クラスの場はとにかく唯識の用語を積極的に活用する場とし、実際の対人支援の現場や人々との交流においては用語を手放せばいいのである。スポーツでも練習の段階でできないプレーを試合中にやるというのは無理な話で、それは唯識学の実践的適用にも当てはまることかと思う。この点を常に意識しながらここからのクラスにまた臨みたいと思う。最終的には言葉を手放して、無意識的に唯識学の叡智が体現された心の在り方で他者に接することができるようになりたいものである。
また、私たちは金メダルを取得するほど修行をしてもいいし、全ての人が金メダルを目指す必要もない。各人がまずはできる範囲の取り組みをしていけばいいのである。重要な点は、今よりも少しでも自分の心が穏やかになり、周りの人が少しでも安らかな心になれるかが重要なのだと思う。そもそも仏陀は苦行を否定したのであるから、過度な修行をする必要はなく、その人の時間やエネルギー、さらには自らの使命と照らし合わせてできる範囲の修行をしていくことが、継続的な修行の実現と継続的な心の成長を実現するのだと思う。フローニンゲン:2024/8/10(土)15:39
Today’s Letter
All perceptual phenomena and things are like mirages. They come and go, never eternal but ephemeral. We tend to substantiate them and cling to them, which leads to agony. Groningen, August 10, 2024
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