
⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した「サイケデリック唯識ラジオ」の配信をしています。
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タイトル一覧
13051. 第36回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)
13052. 第36回のシロシビン・セッションの振り返り(その2)
13053. 第36回のシロシビン・セッションの振り返り(その3
13054. シロシビン・セッション後のトレーニング
13051. 第36回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)
時刻は午前6時を迎えた。今日は朝からとても冷えていて、気温は12度しかない。まだ朝日が照っていないこともあり、気温は低い状態である。朝日が出ていないことに対しての心配は無用で、もうしばらくしたら朝日が顔を覗かせるだろう。そこから気温はゆっくりと上昇していき、今日は1日中晴れとなり、最高気温は24度ほどになる。とても過ごしやすい1日となりそうだ。明日は気温が28度ぐらいまで上がるそうだが、今週のそれ以外の日は依然として過ごしやすい日々が続く。8月に入ってもこの調子で快適な日々が続いてほしい。
昨日は第36回のシロシビン・セッションを正午過ぎから行なった。1ヶ月ぶりのセッションは、心身共に大いに寛ぐ時間を提供してくれ、人間存在と自らの生き方や在り方に関して多くの洞察をもたらしてくれる非常に有意義なものだった。服用量としては5.5gほどのかなりの量を摂取し、体験は前回と同様に言葉にできないほどに深いものだった。今回のセッションを受けて決心したのは、今回を最後にシロシビン・セッションはもうしばらくやめるということだった。繰り返しになるが、今回のセッションは悪いものでは決してなく、むしろいつもと同じくらいかそれ以上の学びをもたらすものだったのだが、受け取ったメッセージとしてシロシビン・セッションはもうしばらく必要ないと思ったのである。完全なる卒業ではないかもしれないが、無期の卒業をしようと思った。それはそっとやって来て、そのメッセージを静かに受け取っている自分がいた。ここまでの定期的なシロシビン・セッションから得られたことは本当に多大であった。尋常ではない気づきが得られ、心の治癒と発達も確実に実現されていた。それでも今回が最後のセッションと決めたのもまた何かの縁なのだろう。これまでの学びや実践が直接原因となり、縁を間接原因としてシロシビン・セッションからの卒業を果たす形になった。おそらくはそれが最大の収穫だったと言えるかもしれない。セッション後、まだ太陽の沈まむ世界の中で、これまでお世話になってきたシロシビン・マッシュルームに感謝の気持ちを捧げた。実はまだ冷蔵庫に保存されていた乾燥マッシュルームがあったのだが、瓶からそれを取り出して、お礼を述べながらそれを処分することにした。本当に今の自分にはもうシロシビン・セッションは必要なくなったという確信がそれをさせた。ここからの人生において、またシロシビン・セッションが必要になる時があるかもしれない。全く必要ない形で人生を送っていく可能性ももちろんある。どちらが良い悪いでもない。人生は絶えずあるがままにそれとしてあり続けている。また然るべきが来たらシロシビン・マッシュルームにお世話になればいいし、然るべき時が来なければシロシビン・マッシュルームに頼る必要は全くない。結局そこで頼りにしているのは自分の心なのである。シロシビン・マッシュルームという存在もまた自分の心が映し出している自らの心に他ならないのである。これまでの数々のセッションを通じた思い出を胸に、今日から人に優しく、他の生き物に優しく、深い慈悲の心を生きていきたい。フローニンゲン:2024/7/29(月)06:36
13052. 第36回のシロシビン・セッションの振り返り(その2)
昨日2024年の7月28日行われた第36回のシロシビン・セッションが現時点における最後のシロシビン・セッションとなった。人生の成り行きは誰にも分からず、自分もこれからどのような人生を生きていくのか分からないが、少なくとも当面はシロシビン・セッションからの卒業となった。シロシビン、そしてそれが体内で転換されたシロシンは、脳内の神経ネットワークを再編成し、既存の週間の見直しを実現させてくれる。習慣も人生もリセットされ、新たな人生をもたらしてくれるのがシロシビン・セッションの特性の1つである。ここまでシロシビン・セッションを自らの心と向き合い、さらには唯識学の探究のために習慣的に行なって来たのだが、その習慣を脱構築する現象が昨日に起こったと言える。セロトニン系のサイケデリクスは身体的な依存症は基本的になく、あるとすれば何かの明確な目的のために習慣的に摂取するということだけなのだろう。それを証明するかのように、昨日のセッションの終わり頃に、もうシロシビン・セッションは自分には必要なく、卒業のタイミングがやって来たと確信した。それを受けて、どこか晴れやかな気持ちがやって来た。晴れやかな気持ちの中で、夕方の窓の外の景色を眺めていた。昨日のセッションは、開始から1時間半ぐらいして1階の寝室ではなく、明るい2階に移った。これまでのセッションは、常に1階の静かで暗い寝室で行なっていた。ところが昨日は太陽の光を欲し始めた自分がいて、トイレ休憩をしてから2階に上がり、そこからはずっと2階のフロアに横になっていた。その時に、キッチン側の木々にやって来ていた小鳥たちをずっと眺めていた。地球上にこんなにも姿かたちの美しい生き物がいることに改めて驚かされた。彼らの挙動はとても愛らしく、存在そのものが輝いているように思えた。輝きを放っていたのは小鳥たちだけではなく、彼らが止まっていた木々もまた美しく輝いていたし、見事な青空や空に浮かぶ千切れ雲もまたとても美しかった。目を閉じたり、目を開けたりしながら静謐なる時間を過ごすことがそこから何時間か続いた。ただフロアに横になっていて、目を閉じて真理に触れる体験をしたり、目を開けて世界の美しさをしみじみと感じている自分がいた。そこで考えていたのは、自分はなぜどのようにしてこの惑星に生まれ落ちたのだろうかといことだった。人間としての祖先を全て辿り、人間の祖先を超えていくつもの生物種の進化の過程を逆に辿り、微生物、果ては菌類にまで遡りながら自分という生き物の起源に立ち返っていた。すると、自分が人間であるということがどこまでも奇跡的なことであり、どこまでも不思議なことだと思った。自分は人間だったのだ。自分はヒト科の生き物だったのである。その明確な認識を改めて持った時、他の人間を含めた全ての生き物に対して優しさを与えられる存在でありたいと切に思った。それ以外の望みはもはや何もなかった。智慧も確かに重要だが、智慧よりも慈悲が自分にとって最大限に大切にするものなのだと分かった。慈悲のあるヒト。自分は慈悲のある生き物でありたい。他の生き物に優しく、他の生き物に優しさと温もりを感じてもらえるような存在でありたい。願いはただそれだけだった。自分の人生おいてもうその他に望むことは何もないと思われた。ただただ他の存在に優しい存在であり続けたい。そんな願いと誓いをもたらしてくれた恵みの時間であった。フローニンゲン:2024/7/29(月)07:07
13053. 第36回のシロシビン・セッションの振り返り(その3)
時刻はゆっくりと午前7時半に近づいている。起床直後はまだ朝日が出ていなかったが、今は朝日がすっかりと顔を覗かせており、優しい光を地上に降り注いでいる。早朝の朝日のような穏やかな子心を持ち、朝日の光のように優しい存在でありたいと改めて思う。昨日のシロシビン・セッションを通じて得られたメッセージはそれに尽きる。深い慈悲心。どこまでも深く、誰に対しても深い慈悲の心を持って接すること。未だ我執が払拭されぬ自己であるから常にそれを行うのは難しいかもしれないが、少しずつ全ての存在に対して常に慈悲の心で接することができるようになろう。今日からそれが試される。
セッションを終えた後の今朝方に見ていた夢はどこか淡々とした内容だった。淡々と夢が現れ、淡々と夢の中でありのままに振る舞う自分がいて、淡々と夢が流れていくような内容だった。夢がまるで河のように絶えず流れていく感覚があった。それはまさに阿頼耶識の特性だろう。阿頼耶識はよく河に例えられ、暴流の如く絶え間なく変化し続けている。今朝方の夢はまさにそのようなことを彷彿とさせるものだった。どのような人がその場に現れて、自分がどこにいたのかも全く定かではない夢を見ていた。そうした夢を見るのは久しぶりのことである。セッションの中で考えさせられた地球外から自分はやって来たという感覚と重ね合わせてみると、今朝方の夢はこの惑星を超えた内容を持つものであった。自分の起源はきっとこの地球上にはなく、地球という惑星がそもそも宇宙空間上の星々や塵の集まりだったことを考えると、自分の祖先はこの惑星の外にあるというのは全くもっておかしなことではなく、むしろ至極当たり前のことのように思える。言い換えれば、この地球上で今生きている全ての生き物の起源は、そもそもこの惑星の外にあるということである。そうした認識を持って今を生きている人がどれだけいるだろうか。人間という種族が仮構した実体のない社会なるものを実体化し、それに縛られて生きている人たちは到底そのようなことに気づかないかもしれない。だがそれに気づく必要があると自分は思う。他の人や他の生き物、そしてこの地球に対して優しく接するためには、必ずやそうした認識が必要になる。現在、人も生き物も地球も悲鳴を上げている。全存在の苦悩の声を耳にして、それを無視することはできない。不退転の決意。そうした決意を持って全存在が苦なく楽として存在し続けられるようにしたい。争いや競争は全くもって不要であり、比較も不要である。この世界の苦の原因はそれらにある。とりわけ人間は不要なことをし過ぎなのである。不要なことに人生のほぼ全ての時間を躍起になって充て、本当に大切なことに何一つとして時間を使っていないのである。本当に大切なこと。それは自分を含めた全存在がその存在のまま肯定され、楽を享受しながら幸せに生きることではないだろうか。それ以外に必要なことが本当にあるのか問うてみるがいい。それ以外に必要だと思うことは、きっと我執の産物である。自我の実体化を通じた自我への囚われから生まれる不必要なことに躍起になるのはやめてはどうだろうか。そうすればきっと今よりもずっと穏やかで、幸せな日々が実現されるだろうし、自分がそのように生きられるようになってきたら、その輪が周りに広がっていき、他の存在もきっと少しずつ幸せに生きられるようになってくるだろう。青空は全てを包み、穏やかな朝日が全てに光を届けている。ここにあるのはただ抱擁だけであり、ただ優しさだけである。フローニンゲン:2024/7/29(月)07:36
13054. シロシビン・セッション後のトレーニング
時刻は間もなく午後5時を迎えようとしている。今日は結局24度まで最高気温が上がったが、雲ひとつない晴天だったので、体感温度はそれよりも暖かく感じられた。午後でのジムのトレーニングの際には汗がじんわりと滲む時間帯があったが、大汗をかくほどではなかった。ジムには冷房はなく、扇風機しかないが、30度を超える真夏日でない限り大量に汗をかくことはない。その点はトレーニングしやすい環境かと思う。今日のトレーニングは昨日のシロシビン・セッション明けということもあって無理をしないように鍛錬をしていった。いつもよりも気持ち負荷量を落とした形で全身を鍛えていった。シロシビン・セッションの日は1日ファスティングを伴うこともあって、トレーニング前の朝食と昼食とで十分にエネルギーを補いながらも、普段とはやはり若干体の動かしやすさが異なる。昨日のセッションが当面の最後のセッションであったことから、ここからはエネルギー不足の心配をする必要はなく、常に一定の体の動きやすさを確保することができるだろう。ファスティングについては身体の状態を見て、別途またどこかのタイミングで実践すればいい。定期的に腸をきれいにするためのファスティングを無理のない範囲で実践していく。
今日のトレーニングを振り返ってみると、アブローラーの使い方に再び慣れてきて、膝を地面に着いた状態ではなくて立った姿勢で再び行えるようになった。むしろ立った姿勢の方がやりやすく感じたぐらいである。ここからはさらに体を伸ばし切った状態で起き上がって来れるようにしたい。今のところは100%ほど体を伸ばすことはできず、80%ぐらいまで伸ばすことに留まっている。ここから徐々に腹筋を鍛える形の中でその距離を伸ばしていきたい。昨日のシロシビン・セッションのおかげで精神統一がしやすい状態になっていることは有り難く、その恩恵を受ける形で目を閉じて体の内側を感じながら狙った部位を鍛えることを意識的に行っていた。これはここ最近の習慣になりつつあり、兎にも角にも筋力トレーニングを単に身体的なトレーニングとせず、精神を鍛えるトレーニングとしたい。今週木曜日のトレーニングもまた楽しみである。フローニンゲン:2024/7/29(月)17:00
Today’s Letter
I was reborn this morning. I had my 36th psilocybin session yesterday. This session made me realize that I came from outer space and should give all sentient beings mercy and compassion. The entire universe gives me benevolence, so I should do the same for others to make all sentient beings and the world peaceful. That’s all I wish for. Groningen, July 29, 2024
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