⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した「サイケデリック唯識ラジオ」の配信をしています。
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タイトル一覧
12994. 今日の探究計画
12995. 今朝方の夢
12996. だから全ては美しい
12997. 今朝方の夢の続き
12998. 生命が輝き始める時/気づきの力・観察の力
12999. 眼差しの変容/流れと共に生きる流れとしての自己
13000. 正午前に今朝方の夢の続きを再び思い出して
13001. 精神修養としての筋力トレーニング
12994. 今日の探究計画
時刻は午前6時半を迎えた。今日もまた空にはうっすらとした雲がかかっているため、朝日を拝むことができていない。どうやら午前中一杯は曇りのようであり、午後から晴れてくるようだ。今日はちょうどジムに行く日なので、午後から晴れてくれることは有り難い。今の気温は16度と大変涼しく、日中は晴れることもあって23度まで気温が上昇する。それくらいの気温であれば十分に半袖半ズボンで出かけていくことができる。ジムの行き帰りに太陽の暖かさを感じることを楽しみにしたい。明日と明後日は真夏日に近い気温になるようだ。明日は28度まで気温が上がり、明後日は29度まで上がる予報が出ている。明々後日からは一転して涼しくなり、再び20度を少し超える気温となる。来週の初旬に関しては再度20度を下回る気温になるほどだ。このように気温差が激しい日が出てきたので、格好を含めて体調管理には気をつけていきたいと思う。
今日もまたジムに行くまでの時間は集中して探究活動に取り掛かりたいと思う。昨日の段階で、唯識学に関する洋書をざっと全て見返し、今後どれを特に読み込んでいったらいいのかを改めて判断した。今後は読み込むべきと判断した書籍に絞って丁寧に読み返していきたいと思う。今は幸いにも日本語を通じて唯識学についての随分と全貌を把握し、用語にも慣れてきたこともあって、洋書を読んで唯識用語に出会ってもそれがすぐに何を意味しているのかが把握できるようになっていることを昨日確認した。唯識と出会ってからまだ日は浅いが、この数ヶ月の集中的な探究の成果を見た気がした。当然ながら探究はむしろこれからなので、日英通じて唯識学について可能な限り深い学びを得ていきたい。今日もまた集中力を高く維持し、三昧の状態で探究活動に従事したい。昨日にはその他にも、1ヶ月前に注文して届けられた唯識学に関する和書の再読も始めた。この1ヶ月をかけてゆっくりと初読を進めていたのだが、ここからは再読フェーズに入る。本来は初読は一気呵成に行うのだが、この1ヶ月間は英語の発話能力の鍛錬に十分な時間を充てていたこともあり、初読の完了には時間を要した。再読の段階もほぼ初読の時と同じく、一言一句読み進めていくのではなく、新たな発見をしていくような感覚や初読で理解が難しかった箇所の理解を進めていくような感覚で読み返していく。それらの再読が終われば、3回目の読解を始めながら、同時に『観心覚夢鈔』や『法相二巻抄』などの重要なテキストをじっくりと一言一句読み返していきたい。フローニンゲン:2024/7/18(木) 06:54
12995. 今朝方の夢
涼しげな朝の世界の中で、今日は1羽の小鳥が鳴き声を上げている。しかしそれはどうやらコマドリではなく、コマドリよりもひと回り体の大きい小鳥のようだ。鳴き声からそれがわかる。たった今、キッチン側の倉庫の上を何か小動物が走っていく音がした。一昨日に降った雨がまだ溜まっていることもあって、ピチャピチャとした音が聞こえたのである。猫かなと思って見たところ、なんと見たことのない小動物だった。リス科の生き物か、イタチ科の生き物か、そのような生き物が走り去っていき、後ろを振り返って自分と目が合った。きっと近所の人が飼っているペットだろうが、猫ではないあの生き物は一体何だったのかが気になる。
そのようなことを思いながら、今朝方の夢について振り返り始めた。まず覚えているのは、ぼんやりとした空間かつ気持ち的に暖かさを感じられる空間の中で母と話をしていたことである。そこはキッチンのようで、母が今から買い物に出かけるので何か食べたいものはないかと尋ねてきてくれた。母が向かうスーパーのサンドイッチは大きくてとても美味しいので、サンドイッチを買ってきてもらうことにした。個数に関しては明確なことは言えず、少し多めに2人で食べることも考えて合計10個ほど買ってきてもらうことにした。しばらく自宅で待っていると母が帰ってきて、目当てのサンドイッチを買ってきてくれた。サンドイッチに合う飲み物として母がコーヒーを事前に淹れてくれていたが、自分はもうコーヒーを飲まないようにしているので、何か別な物を飲もうと思った。しかし、今日ぐらいはコーヒーを飲んでもいいかもしれないと思い、久しぶりにコーヒーを飲んでみようと思ってコーヒーメカーのポットを外してカップにコーヒーを注いだところ、単なるお湯のように思えるほどに薄いコーヒーで驚いた。笑いながら母にそれを指摘すると、母も笑って、もうそれはコーヒーではなく単なるお湯だねと述べた。もう一度コーヒーを淹れ直すことにし、それを待っている間にサンドイッチを早速食べ始めた。母はそんなに量を食べられないのを知っていたが、一旦10個を5個ずつに分け、余ったら冷蔵庫に入れてまた後ほど食べればいいと思った。5個のうちペロリと3個を平らげたところ、残り2つのサンドイッチを見たら、どうやらそこに肉が含まれていることがわかり、食べるのを躊躇した。自分はヴィーガンということもあり、肉入りのサンドイッチは食べれないと思ったのである。しかしここでもせっかく買ってきてもらったものだし、またすでにサンドイッチになってしまった肉にも悪いような気がして、肉への感謝の気持ちを持ちながら今日だけ特別に肉入りのサンドイッチを口にしてみようと思った。しかしいざ口に運んでみようとすると、身体が拒絶反応を示し、結局食べるのをやめた。それは肉体的な拒絶反応かつモラルを通じた拒絶反応でもあり、多分に精神的な物でもあった。結局は肉入りのサンドイッチを食べることをせず、冷蔵庫に入れて、肉を食べれる家族の誰かに食べてもらうことにした。そのような夢を見ていた。
この夢が興味深いのは、もう摂取することを控えているコーヒーの誘惑に一度屈しそうになったが、結局コーヒーを飲むことをせず、またヴィーガンとしての自分が一度肉入りのサンドイッチを食べてみようとするも、結局拒絶反応からそれを食べなかったことである。もはや誘惑に揺るがない自分の行動指針が確立されているようにも思えたし、それを通じて拒絶反応が出るほどに心身にそれが体現されていることを思った。フローニンゲン:2024/7/18(木)07:10
12996. だから全ては美しい
現れては消えていくもの。それはこの世界の全てに当てはまる。それはこの大宇宙の法則のようである。それは何ものも抗うことのできない原理・原則のようなものなのだろう。仏教ではまさにそのことを諸行無常と述べた。なんたる慧眼だろうか。自分という存在もまた現れては消えていくものなのであり、厳密には心身の構成要素はどれも一瞬一瞬の中で生成消滅を繰り返しているのである。その総体は変わらずに維持されているように思えるだけで、実はそれは見せかけのことなのであり、最終的には心身の総体もまた消滅する。それは自分だけに起こることでもなく、自分は例外的に逃れられることでもなく、全ての存在に平等に訪れる事柄なのだ。その点を認識できるのは平等性智の働きのおかげだろうか。私たちに備わる八つの識は何も修行が完了して四つの智に転じるわけではない。修行過程においても四つの智を働かせることができるのだ。心を落ち着けて、対象そのものと一体となるような気持ちでそれを観察してみれば、自ずからこれまで見えてこなかったものが見えてくる。それこそが真理なのだろう。そこで開示されるものは真理の一端か真理そのものなのである。トランスヒューマニズムは死の超克を掲げており、一度はそれに賛同していたが、それは思想的にも、実践的にもいかがなものかと最近考え始めている。そもそも技術的にもそれが完全に可能になることはあり得ないのではないかと思い始めている。地球という惑星そのものが一挙に消滅する際や、銀河系全体が消滅する際や、宇宙そのものが消滅する可能性などを考えてみると、人間は結局どこまでいっても不老不死を実現することはできないのではないかと思う。そもそも不老不死という不変的なものを求めようとするのは人間の欲望であり、煩悩の一種なのではないかと思う。不老不死を実現させようとするトランスヒューマニストたちは、朽ちることを極度に忌避し、変化を忌み嫌った『鬼滅の刃』の鬼舞辻󠄀無惨と根本的に何も変わらないのではないだろうか。彼らには共通して諸行無常という真理を受け入れられない何かがあり、死はその真理に基づいた誰しもに平等にやってくるものであるというその平等性を受け入れられない何かがあるのだろう。諸行無常の真理を受け入れられないのはきっと無明という煩悩があり、平等性を受け入れられないのは自分は特別だと思いたい慢や憍の煩悩があると言えるだろうか。結局のところ、トランスヒューマニズムの不老不死の考え方を賛同していた頃の自分は唯識学の探究を始める前であり、不老不死の考えに賛同する自己に内在している種々の煩悩に無自覚だったのだろう。不老不死を追いかけるのは、自分という存在を実体化し、それに執着し、その永遠性を求める衝動からもたらされている。その衝動は前述のように、真理に対して暗く、種々の煩悩からもたらされているのだ。意味もなく寿命を伸ばすというのも同様の事柄だろうが、仮に不老不死とまではいかないまでも、寿命を大いに伸ばすことが可能となり、それが肯定されるとするならば、寿命が伸びた分、深い智慧と慈悲を獲得し、それを衆生の救済に役立てることを目的にした場合に限るだろうか。それ以外の目的で長寿を実現することに何か意味があるのだろうか。利他心の欠けた利己心だらけの人たちが長く生き続けるというのは社会全体として望ましいことではないのではないだろうか。社会運営コストや生きる権利などの経済・法律的なことを議論するよりも前に、生死に関する価値観を見つめ直すことの方が先であろう。社会全体として、生死に関する価値観が欠落した状態で、あるいは歪んだ価値観に基づいて不老不死が実現される時、あるいはそれに向かう過程で長寿が技術的に可能になった時、幸福な社会が実現されているとは到底考えられない。そこに待っているのは真理に対して明るくない無明に根ざされた暗い社会なのではないかと思う。少しずつ朝日が照り始めた涼しげな朝の世界の中で、小鳥の清澄な鳴き声に誘われながらそのようなことを考えていた。それを考えていた自分はまた消滅し、再び生起した。小鳥たちの美しい鳴き声もまた諸行無常の真理に従って、現れては消えていく。だから全ては美しい。フローニンゲン:2024/7/18(木) 07:53
12997. 今朝方の夢の続き
柔らかく全てを包み込むような穏やかな朝日が地上に降り注いでいる。カーテンレース越しにうっすらと入ってくる朝日を浴びながら、今朝方の夢の続きを振り返っている。覚えている夢として、元サッカー日本代表のある選手を小中高時代のある友人(SN)と見知らぬ恰幅の良いアフリカ系のアメリカ人の女性と3人で取り囲んで話をしていたことである。そこで話されていたことはとあるカードゲームについてである。その場にいた全員がそのカードゲームを愛好していて、その話で盛り上がっていた。すると気がつけば、その選手を取り囲む人の数が増えていて、合計で10人ぐらいがその場にいた。せっかくなので今からみんなでそのカードゲームをプレーしようということになったのだが、その選手があるとてもレアなカードを使いたいと述べ、その使用許諾を私たちに求めてきた。どうやらそのカードを使うことに関しては事前に対戦相手から承諾を得て行いといけないルールになっているようだった。私はそのルールを知らず、そんなルールがあるぐらいにそのレアカードの強さは抜きん出ていた。その場にいた人たちの中ですぐさま承諾許諾をしたのは最初からいた小中高時代の友人とアフリカ系のアメリカ人女性だけだった。私はそのレアカードの本当の強さを知らなかったし、そのカードについてあれこれ考えを巡らせている段階だったので使用許諾を出すことに一歩遅れた。なので結局、その選手と対戦することになったのはその2人だけだった。さて今からどのような対戦が繰り広げられるのか楽しみだなと思ったところで夢の場面が変わった。
次に覚えているのは、ある日本人の母親とその子供の物語である。その母親には大学生の女の子がいて、その女の子よりも遥かに小さい男の子がいた。その男の子の年齢は幼稚園生ぐらいであった。ちょうどどの日は長女の大学の卒業式のようで、桜がうっすらと咲き始めていた。とても穏やかな雰囲気の中で卒業式が行われ、式が終わるとその母親は長女がお世話になっていた女子寮に向かった。ちょうど長女も寮の部屋から荷物を出し終わったところで、寮長に挨拶をしていた。挨拶を終えた長女は母親と合流し、そこで母親は優しい笑みを浮かべながら、改めて卒業を祝福した。しかし、その笑みの背後にはどこか哀しみがあった。どうやらその母親は治療不可能な病を患っているらしく、余命があとわずかとのことだった。長女はそれを薄々感じているらしかったが、2人は決してそのことについて話し合うことをしていないようだった。小さな男の子にはそのことは一切伝えておらず、寮のベンチに母親がその子のために買ってきたクマの小さなぬいぐるみを置いた。そして母親は彼らと過ごせた幸せさと別れる哀しさの両方の気持ちを抱えながらどこかに消えた。そこに残されたのはベンチに座っているクマの小さなぬいぐるみだけだった。初春の少し冷たさが残る生暖かい風が吹き、咲き始めたばかりのはずの桜の花が風に舞っていた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/7/18(木)08:25
12998. 生命が輝き始める時/気づきの力・観察の力
朝の涼しさが大変心地良い。無風の状態で、柔らかい朝日が天から降り注いでいる穏やかな世界の中にいる。小鳥たちの鳴き声はもう聞こえて来ず、彼らも一休みしているのか、はたまたどこか別の場所で活動しているのか定かではない。確かなことは、彼らがどこにいようとも自分と繋がっているということだ。全宇宙の全てと繋がっているというこの感覚。これこそを大切にして生きていこう。
人の輝き。生命の輝き。人は生を意識して輝くのではなく、また死を意識しての照り返しによって輝くのでもない。人が最も輝くのは、生と死の双方へ眼差しを向け、両方を意識することを通じてなのだろう。生と死の対極性が統合されたところから無尽蔵の輝きが放射される。生を見つめるだけでも、死を見つめるだけでもなく、それら双方を見つめ、それらを統合した形で統合の産物すらも超克した時に人の命は最大限に輝き始めるのだろう。そこでは生と死という二元対立性が克服されていて、全てが絶えず一であるという感覚に満たされている。全てと繋がり、全てをあるがままに映し出す大円鏡智としての在り方が、私たちの命と存在を最も輝かせてくれるのだろう。
このリアリティには無限大の智慧と慈悲が秘蔵されている。生と死という二分法的な対立を超えた認識を得た時、リアリティは私たちに深い智慧と慈悲を授けてくれる。それによって私たちの生命は無尽蔵のエネルギーを得て大いに輝き出す。その輝きもまた無尽蔵である。自らの命もそのようにして輝き始めている。ゆえに世界が輝いて見えるのかもしれない。自己を含んだ世界が輝いて知覚されること。それは自らの命が本来の輝きを取り戻し、無尽蔵なる輝きに向けて輝き始めたことの証左のように思えてくる。
そのようなことを考えていた後に、なぜ煩悩を観察すると、それが抑制や滅却の方向に向かっていくのかについて考えていた。端的には、それは観察とは関与だからなのだろう。観察とは単に外からそれを眺めて何も影響を与えないのではなく、観察という行為を通じて影響を与えるという関与が不可避に生じるものなのだろう。ゆえに煩悩に気づき、それを観察すれば、不可避の関与作用を通じて煩悩が伏せられる方向に向かったり、滅却の方向に向かったりするのだろう。ここに改めて気づくことの力、観察することの力を見る。フローニンゲン:2024/7/18(木)09:24
12999. 眼差しの変容/流れと共に生きる流れとしての自己
涼しげな夏。とても心地良い夏。生命力に溢れる夏の世界の中で、自分の命もまた活力溢れる形で絶えず躍動している。
午前中の探究の中でふと、阿頼耶識は単に種子を蓄えていくという受動的な存在なのではなく、諸法、すなわちあらゆる存在を生み出すという能動的な存在でもあるという二面性について考えていた。最近はこのように、いかなる存在に対してもそれが持つ両面を瞬時に把捉するような知覚が発揮される。Aを見てB、Bを見てAではなく、AB双方が一緒くたにして把握される感じなのである。そして同時に、それら両側面もまた人間が拵えた仮構の産物であるという認識から、両側面を超えた形でそれそのものを見る眼差しが涵養され始めている。それは妙観察智と呼ばれるものかもしれない。いずれにせよ、おそらくようやくにして事物をあるがままに見る眼差しの芽が吹き始めたことを実感する。
このリアリティに実在するものは、刹那消滅を繰り返し、絶えず創造する果てしない流れのみである。この流れだけは仮有でもなく、無でもなく、ありありと実在している。この消滅創造を司る巨大な流れこそが真理であり、真如であり、法界なのだろう。そしてそれは私たちの外側にあるのではなく、私たちの内側に絶えず息吹いているのである。目を閉じて、心を落ち着かせ、それを感じてみようと思えば誰でも感じられるものなのだ。こうした流れと1つになることは誰でもできることであり、それが流れと共に生きることなのである。流れと共に生きるというのは、生じた現象や直面した現象に対して無頓着であることを指すのでは決してなく、それらの現象にある背後に流れている流れそのものを直視し、それと1つになることなのだ。「流れの中で生きる」という言葉はよく聞くが、それは往々にして流れの本質を見抜いていない形の実に表層的な生き方として響く。生じた現象や直面した現象に執着しない生き方は素晴らしいが、それは流れの中で生きることの最初のステップなのであり、次に待っているのは刹那消滅と刹那創造を繰り返す果てしない流れと一になることである。それが実現されて初めて、流れと共に生きるということが真の意味で行えるようになってくるのだ。世間一般で手垢がついた形で述べられている流れの中で生きるという言葉に惑わされてはならない。その背後にあるさらに深い意味を汲み取り、自らも流れの一部と化して、流れの全体に還っていく生き方を推奨する。そもそも私たちは、そうした流れと一瞬たりとも離れたことはなく、絶えず流れと共にあり続けているのだ。その根本的な事実を思い出すことからまずは始めてみよう。どこまでも透明で透き通った心だけがここにある。どこまでも平穏で静けさに包まれた心だけがここにある。全てが一つとなり、一つが全てであるというありありとした感覚と一体となった流れとしての自己が仮有の泡沫として存在していることが知覚される。流れと共に生きる流れとしての自己が絶えず生成消滅を繰り返しながら楽しげな気分の中で微笑み続けている。フローニンゲン:2024/7/18(木)11:01
13000. 正午前に今朝方の夢の続きを再び思い出して
時刻は間もなく正午を迎える。早朝から正午に向かうにつれてゆっくりと気温が上昇し、今は21度と程よい暖かさを感じられる気温となっている。午後にジムに行く際には清々しく、それでいて少し暖かさを感じることができるだろう。時刻はすでに正午目前なのだが、今朝方の夢の続きをふと思い出した。それを書き留めてから昼食の準備を始めよう。
夢の中で私は、実際に通っていた高校の靴箱にいた。どうやらこれから体育の授業があるらしいので靴を履き替えて外に出ようとしていた。するとそこで、小中高時代のある友人(HY)と出会った。彼は同じクラスだったので、これから一緒にグラウンドに出ていこうということになったが、実は自分は授業に出る気力がなく、家に帰りたいと思っていた。そもそも高校を中退して、自分の好きなことを好きなだけ探究することに時間を当てたいと思っていたのである。そのことは告げずに、ただ授業をサボって帰りたいということだけを彼に伝えると、午後2時よりも前に自宅に帰ってしまうと、午前中での早退扱いになってしまうとのことだった。単位取得の観点からも、出席日数の観点からもそれは望ましくないと思ったので、午後2時までは学校にいようと思った。ちょうど体育の授業に参加すれば午後2時を超えるので、仕方なく授業に参加しようと思ったが、体育の授業が終わるともうあと一コマぐらいしか授業がないので、最後まで授業に出てもいいのではないかと思い始めた。最後まで授業に参加するのかはまた後ほど考えることにして、靴を履き替えて外に向かった。グラウンドに出てみると、そこは高校時代のグラウンドではなく、小学校時代のグラウンドだった。ただし広さは実際に自分が小学校に通っていた時のものよりも広かった。今日の体育の授業はサッカーだったので、自分の好きなサッカーができることは喜ばしかったが、靴箱にいた時点ではそれさえも煩わしいものだったことを思い出しながら、サッカーを始めようとした。すると突然、自分の肉体が消え、サッカーグラウンドを眺める意識だけになった。厳密にはグラウンドを眺めるというよりも、意識内に浮かび上がった架空のグラウンドを眺める状態となったと述べた方が正確である。その架空のグラウンドでサッカーを始めたのは実際の人間ではなく、小さなキャラクターたちがサッカーを始めた。最初こそそれを眺めている状態だったが、いつの間にかキャラクターのうちの1体を操作するようになり、自分は左のウィングフォワードを務めていた。意識内の架空のグラウンドで繰り広げられるサッカーに興じていると、そこから戦術的な話を友人とし始めた。するとグラウンドは静かに消えて行き、夢もまた去った。フローニンゲン:2024/7/18(木)12:07
13001. 精神修養としての筋力トレーニング
時刻は午後4時半を迎えた。今日は天気がすこぶる良く、結局早朝の予報よりも気温が上がり、日中の最高気温は25度に到達した。この気温でも道ゆく人たちの中には上にジャケットを羽織っている人もいたが、自分のように半袖半ズボンの人も多くいた。ジムに行く際にはジョギングをしているのだが、ジムに到着する頃にはじんわりと汗が滲み始めていて、準備運動として体を温めるには十分であった。今日のトレーニングを含め、最近の筋力トレーニングはますます精神修行の側面が強くなってくることに気づく。意図的にそうしているため、それを感じられるのは進歩であり、喜ばしいことである。トレーニングの最中のインターバルにおいては目を閉じて瞑想実践を行うように心掛けている。1分間かそこらの間で自分の内側で起こる現象をただ観察していると、心が落ち着き、精神が自然と統一されてくる。インターバル中のみならず、筋肉を鍛えている最中にはその狙った部位に対して、現量を働かせ、あるがままに筋肉を感じるようにしている。まさに、西田幾多郎が述べた「純粋経験」として筋肉の対象部位を把握し、そこを感じながらトレーニングしているのである。意識散漫の状態でトレーニングをするのと集中した状態でトレーニングをするのとでは、結果は自ずと変わってくるであろう。ここからも体を動かしている最中だけではなく、インターバルの時間も精神修養の最良の機会だと捉え、精神統一行を実施していきたい。そこでのトレーニングは、日常の至る所での集中状態を生み出すことに一役買ってくれるはずであるし、すでにそれを日常生活の中で実感している。
より具体的にトレーニングについて振り返ってみると、今日は真っ先にアブローラーで腹筋を鍛えた。前回はトレーニングの最後の最後にそれを持ってきたのだが、その前に肩の筋肉や上腕三頭筋を追い込んで鍛えていたこともあり、アブローラーをうまく引くことが難しく、今日は最初にそのトレーニングを持ってきた。これは功を奏し、アブローラーを使って腹筋に大いに刺激を入れた。腹筋についてはトレーニングの最後にまたアブローラーを使わない形で追い込んで鍛えていった。次回からもこの形式を採用しようと思う。月曜日はレッグプレスなどのマシーンを使って大臀筋やハムストリングを鍛えていったが、今日はダンベルを用いてブルガリアンスクワットとルーマニアンデッドリフトを行っていった。こうして月曜日と木曜日には異なる種目を通じて違う刺激を入れることを今後も意識していこう。木曜日から月曜日にかけては休養日が丸3日あり、月曜日から木曜日にかけては休養日が丸2日しかないこともあり、木曜日の方のトレーニングをより追い込む形にしている。結果的に今日のトレーニングは月曜日よりも時間的に長くなり、整理運動を含めて75分間ほどのトレーニングとなった。来週からのトレーニングも絶えず精神修養としての筋力トレーニングであることを意識して大いに楽しみながらトレーニングをしていきたい。フローニンゲン:2024/7/18(木)16:50
Today’s Letter
Everything appears and disappears. That’s why everything is beautiful. Everything obeys the universal law that all worldly things are impermanent. People who seek immortality might be ignorant of this universal truth and have worldly desires, one of which is the belief that they are special for disobeying the omnipresent principle of mortality. Those who pursue immortality with ignorance and desires look very much like Muzan Kibutsuji in “Demon Slayer.”
Our lives start to shine once we go beyond the dichotomy between life and death. Being mindful of either life or death is not enough. We have to be fully aware of both life and death. Our lives begin to emit light once we transcend the integration of life and death. Groningen, July 18, 2024
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