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タイトル一覧
12988. 自利利他の精神で行う学習
12989. 今朝方の夢
12990. 唯識学・発達心理学・心の哲学の佳境に向けて
12991. 哲学・科学・宗教の三位一体を通じた心の探究
12992. 仏教の多様な側面を骨抜きにせず、全体性を通じてその智慧を活かすこと
12993. 三昧の中で/煩悩の克服とデカルト劇場からの脱出について
12988. 自利利他の精神で行う学習
時刻は午前5時を迎えた。ここ最近は日の出の時間のピークを過ぎ、今朝方起床した時には辺りは薄暗かった。今もまだ薄暗い状態が続いている。そんな中、1羽の小鳥が鳴き声を上げ始めたが、程なくして鳴き声は止んだ。空にはうっすらとした雲がかかっていて、そのおかげもあってかとても涼しく感じる。今日は1日を通して曇りがちのようであり、最高気温は20度までしか到達しない。明日からは気温が上がり始め、明々後日の土曜日だけ真夏日となり、最高気温が30度に達する見込みである。日曜日からはまたしても涼しくなり、来週の初旬は再び20度未満の気温が続く。真夏日が続くのは好ましくないが、こうして時折真夏日がやって来て夏らしさを感じられるのは悪くない。7月も引き続き涼しい状態で過ごすことができたら何よりであり、8月も突発的にやって来る真夏日を楽しみながら、継続して過ごしやすい気温であることを祈る。
今日もまた静けさと落ち着いた環境の中で唯識学を中心とした探究活動に励んでいきたい。昨日の日記でも書き留めたが、重要なことは集中力である。そして探究が自利利他となるように、絶えず誰かに説明することを意識した形で文献を読み進めていく。文献の中で特に重要だと思った箇所や整理が必要だと思った箇所については、PPTスライドにまとめ、ゼミナールの補助教材として解説動画を作成していきたい。また今後はPPTスライドにまとめるほどではなく、口頭で説明できてしまうものについては積極的に解説の音声ファイルとして作成していきたい。唯識学の理解が進んでいるのは、きっと他者に説明することを意識した学習と、実際に他者に対して説明するということを日々行っているからなのではないかと思う。自利的な学習は理解の速度が遅く、他者に知識や智慧を共有しようと思う利他的な学習は理解の速度が速くなるという現象は興味深い。人間はやはり本来社会的な生き物なのであり、人との繋がりや人への貢献を通じてエネルギーが湧き、学習が加速していく生き物なのだろうということを思う。他者を意識して、他者に説明するかのような学習と実際に説明するという学習は、人間の本質に根差したものだったのだと改めて思う。
具体的には今日はまず『法相二巻抄』の再読の続きを行い、それが終われば、『日本上代における唯識の研究』という専門書を再読する。それと並行して、唯識学関連の洋書の再読も積極的に進めていく。再び洋書にも取り掛かり始め、日英双方の言語を通じて唯識学について理解を深め、人間の心について理解を深めている。それは結局自分の心と存在についての理解を深めていることに他ならない。フローニンゲン:2024/7/17(水)05:33
12989. 今朝方の夢
空には依然としてうっすらとした雲がかかっていて、朝日を拝むことができていない。小鳥たちも今日はとてもおとなしく、彼らの鳴き声を聞こえてこない。それに加えて風も全くない。無いことづくしの朝の世界にあるのは静寂と平穏であろうか。無の中の有。有の中の無。
そんな朝の世界の中で、今朝方の夢について振り返っている。夢の中で私は、デロイト時代のオフィスで仕事をしていた。就業時間が終わりに差し掛かる頃、まだ就業時間の終わりでないにも関わらず、30分ぐらい早い段階でオフィスを抜け出して、下のフロアの本屋に立ち寄ることにした。小中高学校時代のある友人(SS)が英語の書籍を自分に貸してくれてていて、いつまでも借りているのは悪いと思ったので、本屋でそれを購入しようと思ったのである。本屋に到着して洋書コーナーに行くと、そういえば彼に借りていた本のタイトルは何だったかなと考えた。その書籍は学術書で、大変示唆に富み、とても面白く読み進めていたにもかかわらず、肝心のタイトルを失念していた。必死に思い出そうとしてみると、タイトルの節々がぼんやりと思い出され、それを頼りに本を探した。ところが本は見つからず、少し残念な気持ちになっていると、その代わりに目に入った数学の書籍を購入しようと思った。それは和書で、合計15冊ぐらいのポケットサイズの数学書を購入することにした。ポケットサイズとは言え、15冊ほどの数になると手で持つのは大変だった。引き続き本を吟味したかったので、どうしようかと思った時に、それらの本が自分の関心とは実際には少し離れているような気がしたし、これ以上無駄に自宅に本を増やすことはできないと思ったので本棚に戻すことにした。本を戻した後に本屋を引き続きぶらぶらしていると、本屋の中にあったカフェで少し寛ぐことにした。するとそこに小中学校時代の友人(RS)がいて、彼の横にはJリーガーの2人がいた。友人の彼はサッカーがとても上手かったのだが、そんな彼は今、横にいるJリーガーの2人を含め、現役や元Jリーガーの選手たちと同じ草サッカーチームに所属してサッカーを楽しんでいるようだった。自分もそのチームに関心があったので、練習場所や練習日について尋ねると、なんと夏休みの間しか練習しておらず、あとはその場で集まっていきなり試合に参加するとのことだった。彼曰く、チーム練習などしなくても以心伝心でプレーができてしまうほどのタレントが揃っているらしかった。どんなメンバーがいて、どんなサッカーをしているのか気になったので、夏休みのどこかで練習に参加してみたいと思ったが、自分は社会人でありながらもサッカーが強い高校のサッカー部に所属していて、サッカー部の顧問の先生が有名な指導者でもあり、その先生から指導を受ける代わりに別のチームで練習するのは勿体無い気がしたので、またどこかのタイミングでそのチームの練習に参加してみようと思い、今回は参加を見送ることにした。フローニンゲン:2024/7/17(水)05:49
12990. 唯識学・発達心理学・心の哲学の佳境に向けて
時刻は間もなく午前7時を迎える。つい今し方、黒豆の水煮の調理を始め、ここから弱火でじっくりと1時間ほど煮込んでいく。それが終われば今度はバスラマティライスを鍋で炊く。その下準備はもう済ませており、鍋に入れたライスをここから2時間ほど水に浸しておく。鍋でライスを炊くことにももう随分と慣れてきて、失敗なくいつも美味しくライスが炊けている。こうしたあたりにも学習効果を見る。
すでに朝の英語の発話能力の向上実践を終えたので、ここから本格的に唯識学の研究に取り掛かっていく。朝一番の英語の音読行は脳を活性化させるのに打ってつけである。実際に口を動かして発話をすることで脳に良い刺激が入り、探究の準備運動として最適であるといつも感じる。またそれは集中力を高めていくための儀式でもある。少なくとも朝と午後一番にはこの実践に取り掛かり、引き続き英語の発話能力を地道に磨いていくことを行っていく。それは英語の発話の形式的なものを磨いていく鍛錬なので、あとは何を話すかという中身を磨いていくことも重要で、それは日々の洋書の読解とそれに伴う考察を進めていく形で実現させていく。近い将来に欧米の大学院に戻り、そこで研究活動と教育活動を営むことを大変楽しみにしている自分がいる。
今日もまた唯識学の探究を旺盛に進めていくが、唯識学と発達心理学との佳境を絶えず意識して探究を進めていきたい。両者の佳境がある程度実現されたら、そこからは西洋の心の哲学との接続に向けた探究に取り掛かる予定だ。もちろん今現在から西洋の心の哲学についても再び探究を進めておくのも良いだろう。ただし今の主眼は唯識学の理解を極限まで深めていくことであり、それを最優先とするべきである。以前に西洋の心の哲学を集中的に探究していた時期があったが、唯識学との出会いをもたらしてくれたのはまさにそれだった。西洋の心の哲学の探究をしているうちに、文献から文献へと移っている過程の中でインド哲学と出会い、唯識学と出会ったのである。そう考えてみると、西洋の心の哲学と唯識学は自分にとって陸続きのものであり、唯識学との出会いの縁を作ってくれたものなのだからなお一層のこと尊重しなければならない。そうした尊重の念を込めて、唯識学との佳境に向けて西洋の心の哲学も必ずどこかのタイミングで再び深く探究していく。そうした気概で満ち溢れている。フローニンゲン:2024/7/17(水)07:06
12991. 哲学・科学・宗教の三位一体を通じた心の探究
結局のところ自分は人間の心に魅せられているのだと思う。人間の心がどれだけ美してくも、どれだけ汚れていても関係なく、美醜を超えて心のそのものの不可思議さと奥深さに惹かれているのである。それは探索し尽くすことのできない広大な宇宙である。しかも1人1人がそうした広大無辺な固有の宇宙を持っているため、探究は尽きることがない。自分の心を探究していくことの楽しみ。他者の心について知ることの楽しみ。人間全般における心について知る楽しみ。そんな楽しみに自分は魅了されているのである。そうした楽しみをさらに楽しく意味のあるものにしていくために、哲学・科学・宗教の3本柱から探究を進めていこうとしている自分がいることに気づく。大乗仏教瑜伽行唯識学にはそれらいずれの側面も含まれている。そこには心に関する哲学的な側面や科学的な側面が多分に見られる点が興味深いが、唯識学の本質は宗教性にある。そこには哲学や科学では指摘しない究極的な目標というものがあり、唯識学では智慧と慈悲に溢れた仏になることが目指される。そうした目標が掲げられるのは宗教性ゆえであり、哲学や科学ではそのようなことは決して目標として掲げられない。唯識学が大乗仏教の中にあり、仏教に哲学的な側面や科学的な側面があったとしても、それは究極的には宗教なのであるから、その宗教性を決して骨抜きにしてはならない。その点については過去の良識的な唯識研究者の多くが指摘する通りである。仏教の宗教性を忘れてそれを哲学だとみなす歪曲した虚言に惑わされてはいけない。智慧と慈悲に溢れた仏となり、衆生を利楽し救済するという高邁な宗教的目標が掲げられ、それに向けた修行を積んでいくことを徳目に置く唯識学のそうした宗教性を決して忘れていけないし、宗教アレルギーに屈してその宗教性を去勢させてしまうことはなんとしても避けなければならない。さもなければ、唯識学が実践に繋がらず、心の治癒や発達とかけ離れた単なる教養的座学に堕してしまうだろう。そうした問題意識を絶えず大切にしながら、心を宗教的な側面から探究していく核に唯識学を置き、哲学的な側面から探究していく核に西洋の心の哲学を置き、科学的な側面から探究していく核に発達心理学を置こうとしている自分がいることに気づく。また、過去の自分がまずは発達心理学を学び、そこから心の哲学の探究に移行し、そして今唯識学を探究している流れに深く合点する。自分が辿ってきた道には意味があったのだということにありありと気付かされ、力が根底から湧いてくる。ここからは哲学・科学・宗教の三位一体を通じて心をどこまでも深く探究していこうと改めて思った次第である。明確な探究指針が得られたことに深く感謝したい。フローニンゲン:2024/7/17(水)07:27
12992. 仏教の多様な側面を骨抜きにせず、全体性を通じてその智慧を活かすこと
時刻は午前8時半を迎えたが、朝の世界の様相は起床直後とあまり変わらない。静けさと落ち着きが体現されていて、なんとも言えない心地良さを感じる。朝の涼しげな世界の中で、仏教の持つ宗教性を現代社会の姿と絡めて考えていた。
神学者のポール・ティリックは宗教の本質に究極的関心を挙げた。仏教においてはまさに、智慧と慈悲に満ち溢れた仏になり、衆生を利楽して救済するという究極的な関心があるゆえに宗教性がある。しかし、仏教の宗教性を蔑ろにし、それを骨抜きにしようとする人たちが一定する社会にいることは確かであり、彼らは宗教アレルギーを患っている場合が多く、仏教の哲学的な側面や科学的な側面を自らの利益に即するように道具的に活用しようとする発想を持っている場合が多い。ビジネスや対人支援の場で仏教の哲学的な側面や科学的な側面がうまく活かされることそのものは決して悪いことではなく、むしろ歓迎されるべきことだろう。しかしそうした活動に従事している人の大半は、自覚的あるいは無自覚的に仏教の持つ宗教性を蔑ろにしているのである。まさに現代で蔓延しているような、本質を無視したいいとこ取りの発想に絡め取られているのである。それに加えて、利己的で、道具主義的な発想もまた往々にしてそこに見られる。世の中の風潮に迎合する形で仏教を部分的に捉えるのではなく、仏教の全体性に注目し、仏教が持つ核心の宗教性を絶えず大切にしながら哲学的な側面や科学的な側面を自利利他の形で活かしていくことが大切なのではないだろうか。
「仏」という言葉を用いなくてもいいので、深い智慧と慈悲を涵養していき、それを衆生の利楽と救済の実現に活かすことを強調することは決しておかしなことではなく、多くの人に共感してもらえるような方向性ではないだろうか。自分を犠牲にするのではなく、自らの存在を含んだ全ての存在の幸福の実現に向かっていくことは何らおかしなことではないはずなのに、そうした目標を掲げる人は少なく、利己的な目標設定や過度に自己犠牲的な目標設定をしてしまうという中道を見失った人たちが多い印象を受ける。
いずれにせよ、仏教の持つ多様な側面の一部分だけをいいように切り出していき、それに固執するのは遍計所執性的な在り方である。一方で、仏教の多様な側面に注目するというのは依他起性的な在り方であり、仏教の豊かな全体性を通じて生きるというのは円成実性的な在り方だと言えるのではないだろうか。宗教をアップデートしていくというのは、決して現代の諸風潮に迎合していくことではなく、現代に山積みの諸課題を解決していくためにもう一度その本質・本義に立ち返り、その宗教の本質を輝かせていくことなのではないかと思う。それを通じて忘れられていた大切な叡智に気づき、その叡智を復権し、それを現代社会に活かすことが本質的な宗教のアップデートなのだろう。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/7/17(水)08:46
12993. 三昧の中で/煩悩の克服とデカルト劇場からの脱出について
時刻は午後4時半を迎えた。夕方の今の時間は少しばかり晴れ間が顔を覗かせている。太陽の光はそれほど差し込んでいないこともあってとても涼しい。今日も静けさと穏やかさ、そして涼しさの中で探究活動に精を出していた。ここのところは筋力トレーニングを通じた精神力の強化、シロシビン・セッションを通じた煩悩の浄化、唯識学を通じた修学によって、日々の活動に取り組む際の集中力が非常に高度化しており、まさに三昧のような状態で探究活動に従事できている。それは大変喜ばしいことで、これからもなお一層のこと禅定状態を磨いていき、それを維持しながら日々の取り組みに従事していきたいと思う。
私たちが持つ生得的な根本煩悩は深層意識の奥深くに存在していて、それを克服していくのは難しい。ゆえにまずは後天的に形成された根本煩悩を見つめ、それを浄化していくのが取り組みやすいプロセスだろう。後天的に形成された煩悩は言葉由来のものが多いため、まずは言葉由来の煩悩と向き合っていくことを推奨する。そこから後天的に獲得された感覚由来の煩悩を滅却していく取り組みをしていけばいい。先天的に獲得されてしまっている煩悩の根本治癒は相当に修練を積んだ後でなければ難しいので、当面は諸行無常、諸法無我、縁起の理、因果の理を絶えず見つめていき、個別具体的な現象に伴う煩悩の根幹にある無知さに気づき、無知の自覚を通じて煩悩を少しずつ滅していくことを心がけていこう。どんな煩悩も根幹には無知さがある。無知さに気づきの光を当て、気づきを深めていくことが光の照射を強くし、煩悩を滅尽させることにつながっていく。特定の煩悩にちょっと気づくだけでも、その煩悩の埃を払うことができる。深く染みついた煩悩であればあるだけ、いきなり根本治癒をすることは難しいので、まずはそれに気づくだけでも十分である。そこから心に関する学習と実践を通じて少しずつ根本治癒に向かっていけばいいのだ。
私たちは、見るものと見られるものという主客二分されたデカルト劇場の中に生きているということ。観心覚夢の実現、すなわちデカルト劇場からの脱出に真っ先に求められることは、自分がデカルト劇場にいて、そこで展開される劇の役者でもあるということに気づくことだ。私たちは生まれてからこの方まで自分が主客二分で満ち満ちたデカルト劇場の中で生きてきたことに無自覚であるため、それに気づくことがひどく困難である。しかし唯識学の教えに触れ、そこで提唱されている種々の実践に従事していけば、自らがデカルト劇場の住人であったことに気づくだろう。まずは兎にも角にもその気づきが解放の種となる。その種をひとたび獲得すれば、あとはその種に養分を与えていくことをしていけばいい。養分を与えるというのは、まさに心を観察するという観法行である。絶え間ない観法行によって、私たちはいつの日か必ずやデカルト劇場からの脱出に成功するだろう。唯識学の先人たちはまさにそれを成し遂げていたことは大いなる励みとなる。フローニンゲン:2024/7/17(水)16:55
Today’s Letter
Emptiness is fullness. Ampleness is void. I constantly unite with both. I am emptiness and fullness, and I am beyond them.
We don’t need a VR headset or VR games because we’re living in a VR world constructed by our minds. Noticing that we’re entrapped in VR is the first step to liberating ourselves from it.
We’re playing at the Cartesian Theater, constantly separating the seer and the seen. Realizing that we’re actors in this theater is essential for awakening from the dream. Groningen, July 17, 2024
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