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タイトル一覧
12982. 科学的手続きを踏まえた唯識学探究
12983. 遍計所執性的なものの見方の治癒と変容に向けて/今朝方の夢
12984. 前五識の遍行について
12985. 末那識と阿頼耶識の遍行について
12986. 現量を通じたマインドフルネス/仮名に囚われる病理を患っている現代人
12987. 没我没入融和の体験を積み重ねること/サイケデリクスを取り巻く歴史や政治に関する探究の再燃
12982. 科学的手続きを踏まえた唯識学探究
時刻は午前6時を迎えた。先ほど、3回目の栽培を始めたシロシビン・マッシュルームの収穫を終え、オーブンでの乾燥を始めた。それに伴って、今日は筋力トレーニングの翌日ということもあって、朝の栄養補給を兼ねてさつまいもの調理をし、そちらを先にレンジにかけた。蒸されたサツマイモにヘンプシードをまぶして後ほどいただくのが楽しみである。
今の気温は17度で、昨日の朝よりも暖かいがひんやりとしている。どうやら今日は夕方に雷を伴う雨が降るようだ。雨が降り始めるまでは比較的天気が良いようだ。少し雲があるようだが、太陽の姿を拝めそうである。今のこの瞬間は空にうっすらとした雲がかかっていて朝日を拝むことができていない。どこかのタイミングで晴れ間が広がるのを楽しみに待ちたい。雲があり、午後から雨が降る都合、今日の最高気温は21度までしか上がらないという予報が出ている。今日も涼しさの中で探究活動に取り組めることは有り難く、この環境を活かして今日もまた思う存分に唯識学の探究を前に進めていきたいと思う。そこでは心について知るということはもちろんのこと、唯識を取り巻く歴史や文化を知ることも行っている。その双方の探究を大切にしながら、心についてさらに理解を深め、唯識そのものについて理解を深めていきたい。
昨夜は唯識学の探究を科学的手続きを踏まえて行うことについて考えていた。仮説の立案、仮説の検証に必要なデータを集めるための方法論の選定、データ収集、そして仮説の検証という手続きは全ての科学に通じるものである。これがあれば対象はなんであれ反証可能性に開かれた科学になり得るし、逆にこの手続きを踏まなければ科学たり得ない。「仏教の心理学」と形容される唯識学は、まさに瑜伽師たちがこの科学的な手続きを経て心の理論を構築していったという歴史がある。彼らにとってみれば方法論は瑜伽行だったのであり、瑜伽行を通じて得られた心の多種多様な動きがデータとなり、他の瑜伽師たちとの協働合議によって仮説が検証されていき、詳細な心の理論体系が構築されていった。唯識の心の理論は実に緻密で包括的なものだが、自ら観法行を通じて同様の手続きを経ていけば、何か新しい発見があるかもしれない。あるいは新しい発見をもたらさなかったとしても、科学的な手続きを経て唯識が説く教えを直接体験を通じて1つずつ確証付けていくことは非常に重要なことのように思える。少なくとも文献に書かれている説明の中で理解に苦しむものがあれば、直接体験を通じて確証していくというのが良い方法かと思う。そのようなことを考えながら、日本では心理学が文学部に付属されていることが多く、心理学が科学という印象は薄く、欧米の学術系大学院では心理学は科学として扱われていることについても改めて考えていた。実際に自分が取得した心理学関係の修士号を振り返ってみると、オータナティブ大学であったジョン・エフ・ケネディ大学においてはMA(Master of Arts)として心理学の修士号を授与し、学術系大学院であったフローニンゲン大学においてはMS(Master of Science)として心理学の修士号を授与している。日本ではどうも研究対象によって文理が分かれると思っている人が多いようだが、それは大きな誤解であり――しかし日本ではそのように学部の区分けがなされてしまっているのでそうした誤解が生まれるのはしょうがないと言えるが――、科学か科学でないかが上記のように対象ではなく手続きが決定する。例えば、数学について研究しているということが直ちに理系にならないのは、数学の歴史を歴史学の方法論を用いて研究しているのであれば、それは歴史学科の中で行われる研究になる。また、天体についても同様で、天体に関するコスモロジー、すなわち宇宙に関する思想を哲学的な手続きで研究しているのであれば、それは哲学科の中で行われる研究になる。日本で蔓延している文理の枠組みや学部区分は非常に誤解を生みやすいものであり、遍計所執性を助長する悪しきものだということについても考えていた。フローニンゲン:2024/7/16(火) 06:25
12983. 遍計所執性的なものの見方の治癒と変容に向けて/今朝方の夢
朝の呼吸法を終え、動的ストレッチを済ませたところで、朝の暖かい飲み物を飲みながら、先ほど蒸したサツマイモをいただいた。正式な朝食までこれで栄養は十分に補給されただろう。先ほどの日記の中で、心理を扱う心理学は研究手続によって科学にもなるし、科学にならない場合もあるということについて指摘していた。日本で見られる心理学を文系の学問としてだけみなす傾向は遍計所執性のそれであり、非常に歪んだものの見方であり、非常に固着したものの見方であることに問題意識を持つ。それは端的には悪見と呼ばれるものに該当するのではないかという思いから、こうした悪見が思わぬところで他の人に危害を加えないようにするために、社会の中で種々の悪見が蔓延っていてそれを発見したらその都度できるだけ正見、すなわち正しいものの見方にしていく試みに従事したい。正しいものの見方とは少なくとも依他起性に基づくものである。先ほどの心理学の例で言えば、心理学はどのような研究手続きを経るかという依他起性によって科学にもなるし、科学にならない場合もあるということである。依他起性とは縁であり、コンテクストや条件設定とも言えるだろう。現代においてはコンテクストや条件設定を考慮せず、なんでもボックスに当てはめてしまうという非常に暴力的なものの見方が跋扈していることを自分は見過ごすことができない。それはその人自身を苦しめかねないし、他者に苦しみを与えかねないのだ。ゆえにそうした偏見的・固執的なものの見方を打破するための働きかけを広く行っていきたいという思いを改めて持つ。
そのような思いを改めて抱いたところで、今朝方の夢について振り返っていた。今朝方の夢としてまず覚えているのは、ある知人の女性がこのたび結婚するという知らせを別の知人の女性から突然聞いたことだった。結婚することになった知人の女性は自分と歳が近く、仕事に没頭している人だったので、まさか結婚するとは思ってもおらず、その知らせは青天の霹靂であった。相手の男性がどのような人なのかを知らせてくれた知人の女性に尋ねたところ、よくわからないとのことだった。いずれにせよ、その知人の女性は有名人でもあるから何かしらのニュースになっているのではないかと思い、後ほどニュースを調べてみようと思った。そのような場面があった。
それ以外に覚えているのは、見知らぬサウジアラビア人の中年男性と自分が出場したサッカーの試合について会話をしていた場面である。自分はここのところサッカーの練習に力を入れており、その成果を週末の試合で確認するようにしていた。1人で振り返りをすることにも意味があるが、他者から忌憚のないフィードバックをもらえるとより成長につながると思ったので、その男性にお願いをしてフィードバックをもらっていた。サウジアラビアもサッカーが盛んな国なので、その男性もサッカーに対して目が肥えており、非常に有益なフィードバックをいくつももらった。それを受けて、やはり自分だけで振り返りをするのではなく、他者からフィードバックをもらうことの大切さを改めて実感した。他者からのフィードバックは自分の観点に気づかせてくれ、自分の観点をさらに増やして多様な見方をすることに役に立ち、特定の観点に埋没・固執することを防いでくれる助けになるためにとても有用だと改めて思った次第である。フローニンゲン:2024/7/16(火) 07:07
12984. 前五識の遍行について
昨日、ゼミナールのある受講生の方から、「六位五十一心所の遍行の理解が難しい」というコメントをいただいた。確かにこの心所には理解が難しいところがある。第六識の遍行は具体例が考えやすく、説明も豊富にあるため理解が進みやすいと思うが、それこそ前五識において遍行の心所がどのように働いているのかは説明があまりなかったり、イメージしにくい。末那識や阿頼耶識はいわんやである。なので前五識の中から眼識を取り上げ、そして末那識と阿頼耶識に関して遍行の心所がどのように働いているのかについて簡単に考えてみたいと思う。まず眼識を取り上げた際に、遍行の1つ目の心所である「作意」はわかりやすいかと思う。それはまるでパソコンを立ち上げるかのように、心を起動させる働きなので、眼識を発揮させる心の働きである。つまり、眼識で見る対象に対してはっきりとした関心を持ち、そちらに心を向ける働きが眼識における作意なのだ。では次の「触」はどうだろう。これも理解がしやすく、眼識そのものと、眼識が認識とする対象、そして眼識の感覚器官である眼根の3者を接触させる心の働きが眼識における触となる。それではここから少し厄介な眼識における「受」を考えてみたい。受は感覚的な反応として苦・楽、感情的な反応として憂・喜、そしてそれらのどちらでもない捨として働く。実際に眼識が働く時には思考や言語化を司る第六意識も働いているので、目に映る対象に対して美醜や喜びなどの感情的価値判断を加えることが多いが、眼識だけに焦点を当てると、それは感覚的な反応として苦・楽の反応を起こすか、あるいは感覚も感情も何も生じない捨という反応を示すことになる。感覚的な反応としての苦・楽とは、言語を媒介させない形での見てて辛いという反応や見てて心地良いという反応だと考えればいいだろう。そして4つ目の「想」はどうだろうか。想は認識対象を心の中に取り込んで認識対象として表象させる働きのことを指す。まさに「知覚する」「知覚される」という言葉で表されるような働きである。第六識においては、認識した対象に概念を付与するところまでが想の働きとなる。眼識における想は、眼で見たものを心の中で、あるいは脳内で表象させる働きを指す。最後の「思」はどのように考えられるだろうか。思の心所は「意志」に対応するものとされ、認識したものに対して行動を起こそうとする心の働きである。眼識だけを例に取れば、想の心所を通じて表象された認識対象を言葉を媒介さずに見入るというアクションであったり、思わず目に飛び込んできた美しい花の前で立ち止まってその花を見続けるというアクションが思の心所の働きと考えればわかりやすいだろうか。もちろん私たちは日常生活において第六識を絶えず働かせている場合が多いので、目に映る対象に対して言葉を媒介させずに見続けるという体験は難しいかもしれないが、対象と1つになり、それに集中すれば、言葉を媒介させずに対象をあるがままに見続けるということも不可能ではない。少し休憩を挟んで、次に末那識と阿頼耶識に関して遍行の心所がどのように働いているのかについても簡単に考えてみたいと思う。フローニンゲン:2024/7/16(火)07:49
12985. 末那識と阿頼耶識の遍行について
先ほど、眼識に伴う遍行の心所について具体的に考えていた。今度は末那識と阿頼耶識に関しても同じように考えていきたいが、その前に、遍行の心所はそもそも認識の流れを瑜伽行を通じて観察していった結果発見された八識に共通して見られる心の働きの区分であるということを確認しておきたい。そのような区分がなぜ生まれたのかという問題意識をゼミナールのある受講生の方が持っておられたので、その区分は心が立ち上がってから具体的な働きをする一部始終を具に観察していった結果生まれたものだったことをここに明記しておく。
それではまずは末那識の遍行について見ていこう。末那識の「作意」はシンプルで、自我執着心としての末那識を起動させる働きである。次の「触」において注意しなければいけないのは、末那識は特定の感覚器官を持たないので根はなく、末那識とその認識対象である阿頼耶識を接触させる働きが末那識における触の働きとなる。次の「受」であるが、受における苦・楽は、苦しいや楽しいという日常的な感覚というよりも、もう次には受け入れたくない、次にもまた受け入れたいという現象のことを指すため、末那識は阿頼耶識を固定不変の自分だと受け入れたいと常に思っているため、阿頼耶識に執着する楽の受の働きを持っていると言えそうであるし、ひとたび諸法無我の真理に触れ、阿頼耶識に執着していることに自覚的になると、その事実を受け入れたくない苦として働くこともあるだろう。末那識の感情的な側面としての受はあるのかないのか、あるとすればどのようなのか。末那識の捨としての受の働きはるのかないのかについてもおいおい考えて見たいところである。では4番目の「想」であるが、これは表象作用であったから、阿頼耶識を表象させる働きとして捉えればいいだろか。あるいは、阿頼耶識を表象させ、それが実体のある自己だと思う認識を表象させると捉えればいいかもしれない。最後の「思」について簡単に述べると、末那識における思の心所とは、阿頼耶識を実体化させる形成作用とそれに固執することを促す意志の働きとして捉えるとわかりやすいだろう。
それでは最後に阿頼耶識の遍行についても考えてみたい。阿頼耶識の「作意」もシンプルで、阿頼耶識を起動させる働きである。しかしながら、末那識も阿頼耶識も潜在意識として絶えず働き続けているので、それらを起動させるというよりも起動させ続けている心の働きとして捉えた方がいいかもしれない。パソコンで言えばスリープ状態を維持させる働きや、スリープ状態から具体的な働きに起動させる働きと喩えてみるとわかりやすいだろう。次の「触」において注意しなければいけないのは、末那識と同様に、阿頼耶識も特定の感覚器官を持たないので根はなく、阿頼耶識とその認識対象である種子・身体・器世間を接触させる働きが阿頼耶識における触の働きとなると言えるだろう。次の「受」であるが、阿頼耶識には感覚や感情の働きはないので、捨という受の心所が働くと考えることができそうである。4番目の「想」であるが、阿頼耶識が持つ表象作用とは何であろうか。それを考える際には、阿頼耶識の認識対象が種子・身体・器世間であるから、それらを表象させる働きとして捉えれば良いのではないかと思う。最後の「思」について、阿頼耶識における思の心所とは、現行を種子として形成する作用、種子を相続させる作用、種子を現行させる作用、そしてそれらを促す意志、肉体の機能を維持させる作用とそれを促す意志、表象させた器世間を維持させる作用とそれを促す意志の働きとして捉えることができるだろう。以上簡単にではあるが、眼識に加えて末那識と阿頼耶識についても遍行の心所を具体的に考えてみた。これもゼミナールのある受講生の方が遍行の理解が難しいとコメントしてくださらなければ立ち止まって考えることはなかったと思うため、とても有り難い機会をいただけたことに深く感謝したい。フローニンゲン:2024/7/16(火)08:17
12986. 現量を通じたマインドフルネス/仮名に囚われる病理を患っている現代人
時刻は午前10時を迎えた。今換気のため少し窓を開けているのだが、ひんやりとして心地良い風が室内に入って来ている。今日もまた平日とは思えない穏やかさと落ち着きが溢れていて、そこから大いにエネルギーを汲み取らせてもらっている自分がいる。いつも日本に一時帰国する際に思うのは、日本の大都市の、とりわけ東京の都心部のあの気怠さは何なのだろうかと思ってしまう。そこには見せかけの華やかさがあったとしても、本質的な意味でこちらに力を与えてくれるような働きはない。むしろ生命エネルギーを吸い取られてしまう感覚がするのであるが、それは人口過剰や町づくりの問題や、ひいては現代の日本の集合意識と国全体の仕組みの劣化などから生じている現象なのかもしれない。
朝のここまでの探究を通じて考えていたことを備忘録がてらまとめておく。まず、治癒や変容につながるマインドフルネスは、第六識の比量の心の働きを抑え、前五識の現量の働きを通じて内面に生起するありのままの現象を自覚的に知覚していくこと。言い換えれば、言葉を離れて対象をあるがままに観察し、同化していくことなのだということについて考えていた。私たちは言葉を通じた第六識の比量の働きに惑わされてばかりである。もちろん比量という推論があるからこそ私たちは想像性を働かせて知的活動ができるわけだが、基本的にはその比量は歪んだ非量(ひいりょう)に陥りやすい。現代を生きる大半の人は言葉を通じて付与された名称を実体化し、それに囚われるという病理を患っていると言えるだろう。言葉とはある対象に対して仮に付された名前に過ぎず、本来実体を持たない仮名に過ぎないのだ。そうであるにもかかわらず、言葉を通じて差別をし、言葉に囚われて生きている人たちがいかに多いことか。それが自己を苦しめ、他者を苦しめていることに無自覚な人がいかに多いことか。その状況はとても嘆かわしい。この集合的な病理に対して唯識学が貢献できることは多々あり、種々の実践的な処方箋を提示することができるだろう。少なくともまずは言葉に囚われている自己に気づき、そこを出発点にして言葉から脱却していくことを日々意識して取り組んでみることが重要かと思う。それができれば今度は自己を実体化し、それに囚われていることに気づいていく取り組みに着手できる。そうすれば少しずつ諸法無我の真理を体得し、心が浄化され、健全な発達が実現されていくであろう。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/7/16(火)10:22
12987. 没我没入融和の体験を積み重ねること/
サイケデリクスを取り巻く歴史や政治に関する探究の再燃
時刻はゆっくりと午後4時半を迎えようとしている。早朝の天気予報の通り、午後3時半過ぎに激しい通り雨が降った。それは数分間の出来事で、今はもう雨は完全に止んでいて、静けさに加えて涼しさがある。通り雨が降る前も後もとても穏やかな午後の時間が続いていた。そんな中、突如としてフロイト、ユング、メラニー・クライン、ラカンらの精神分析の書籍を読みたくなり、それらを引っ張り出してきて没入状態で読み返している自分がいた。現在専心して探究している唯識学にはない観点で、とりわけ幼少期の発達課題やトラウマに注目しているのがそれらの精神分析の観点であり、それらは心の浄化を実現していく上で非常に貴重なものとなる。ここからも時折精神分析学の枠組みを参照したり、発達心理学の枠組みを参照したいと思う。
対象を見つめることは対象に見つめられることであり、見つめる主体と見つられる対象が1つになることができれば非二元体験となる。自我の殻から外に出て、そうした融和の体験を豊かに積んでいきたいものである。没我没入の体験は日々至る所で実現できる。それこそ昨日のジムでの筋力トレーニングでもそれに類する体験をしていた。今後はトレーニング中はとりわけ前五識の現量に成り切ることを心掛けたい。意識が肉体と化し、肉体が意識と化す形で心身が完全に統一された状態を味わっていこう。筋力トレーニングのみならず、探究上における読書もまた没我没入の体験をもたらしてくれる。文字を読む主体と文字という客体が完全に同一化するという体験。そこには煩悩の入り込む余地はなく、清浄な心だけがそこにある。見る者と見られる者との合一体験をこれからより一層のこと積んでいこう。
それ以外には、久しぶりにサイケデリクスに関する学術書を読み返してみようと思った。サイケデリクスそれぞれの物質特性よりも、サイケデリクスを取り巻く歴史や政治について改め関心を持っている自分がいて、その関心に紐付く学術書を時折再読していきたい。とりわけ現代における規制の枠組みについて各国どのような発想でどのような枠組みを制定しているのかについて常にアンテナを張っておきたい。サイケデリクスの探究もまた自分の楽しみであり、かつそれはいつか社会貢献としての活動に結実していくであろう。それは唯識学を通じた衆生救済の活動とはまた違った形での衆生救済の活動となるはずだ。フローニンゲン:2024/7/16(火)16:32
Today’s Letter
I’m being mindful at this moment. I’m just experiencing my five senses as they are. Deactivating verbalization in my mind is key to deep mindfulness. Of course, we can be mindful of our thoughts, but there is one more step beyond that: the deactivation of language in the mind. Groningen, July 16, 2024
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