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【フローニンゲンからの便り】19173-19175:2026年8月28日(金)

  • 8月30日
  • 読了時間: 8分


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タイトル一覧


19173

エディンバラ大学で履修予定の「仏教文献」の授業

19174

今朝方の夢

19175

今朝方の夢の振り返り


19173. エディンバラ大学で履修予定の「仏教文献」の授業 

                             

昨日は、エディンバラ大学で履修予定の「Buddhist Literature」という授業が、日本法相唯識の研究とどのようにつながるのかを考えていた。最初にシラバスを見たときには、初期仏教の詩から近現代の西洋仏教文学まで扱うとのことで、自分の専門からは少し遠いのではないかとも感じた。しかし、よく考えてみると、この授業の価値は、唯識そのものを直接学ぶことよりも、仏教文献を読むための視野を広げてくれる点にありそうである。これまで法相唯識の文献を読むときには、どうしても教理内容に意識が集中しやすい。阿頼耶識とは何か、種子とは何か、三性説はどのように整理されているか、といった問題である。しかし一つの仏教文献は、単なる思想の倉庫ではない。その文章が書かれた時代があり、読者がいて、語り方があり、構成があり、何らかの宗教的・教育的意図がある。「Buddhist Literature」の授業は、そうした文献の「声」そのものを聞き取る訓練になるのだと思う。良遍の『法相二巻鈔』を読む場合にも、この視点は役立ちそうである。何が書かれているかだけではなく、なぜこの順番で説明するのか、なぜある概念は丁寧に説明され、別の概念は簡潔に済まされるのか、どのような読者を想定しているのか。そう考えると、一冊の注釈書が単なる教理の地図ではなく、読者をある理解へ導いていく一種の道筋として見えてくる。思想史の文献が、急に立体的な建築物のように感じられてきそうである。毎週主要文献を英訳で読むことも、自分には大きな意味がありそうだ。将来、日本法相文献を英訳するのであれば、優れた仏教翻訳に数多く触れること自体が重要な訓練になる。専門用語を英訳するのか原語を残すのか、文学性をどこまで保つのか、哲学的な精密さと読みやすさをどう両立させるのか。翻訳とは、単語を置き換える作業ではなく、二つの言語世界の間に橋を架ける仕事なのだろう。その橋がどのように設計されているのかを、毎週観察できることになる。さらに、この授業では異なる時代や地域の仏教文献を横断する。それによって、法相唯識の特徴も逆に鮮明になるかもしれない。無常や無我、煩悩、覚りといった主題が、初期仏教の詩ではどのように語られ、大乗経典ではどう変化し、東アジアではどのような表現を取るのか。それらを比較したとき、日本法相の文章が持つ独特の論理性や分類性、教育的構造が見えやすくなるはずである。この授業は、自分の専門を直接深掘りする鍬というより、研究対象を見る視野を広げるレンズなのかもしれない。専門研究に没頭すると、一つの文献を教理体系の部品としてだけ見てしまう危険がある。しかし文学、歴史、読者、文体という別の光を当てれば、同じ文章からまったく違う輪郭が現れる。日本法相唯識をより深く研究するためには、唯識だけを見るのではなく、仏教文献そのものを読む眼を育てる必要がある。その意味で、この授業は専門から遠回りするように見えて、実は研究の土台を静かに厚くしてくれる科目なのだと思った。フローニンゲン:2026/8/28(金)07:21


19174. 今朝方の夢

                                   

今朝方は夢の中で、サッカーW杯の決勝トーナメントの試合に日本代表選手の一員として出場していた。試合は拮抗しており、延長戦に入っても決着が着かず、PK戦にもつれ込んだ。PK戦が始まる前に、いったん選手と監督・コーチ陣はロッカールームに戻り、休息を取った。出場していた選手たちは、全員が疲労困憊の状態であり、中には怪我を抱えながら出場している選手もいた。この状態でPK戦で勝利するのは至難の業に思えたが、もう一踏ん張りしていこうという気持ちになっていた。フォワードのエースの選手から声を掛けられ、自分が一番最初のキッカーを務めるべきだと言われた。実は自分もその気持ちでいたので、彼の申し出を受け入れ、キャプテンの選手はすでにベンチに下がっていたので、キャプテンマークを譲り受けた。キャプテンマークを腕に巻きながら、本当は自分もハムストリングに違和感を抱えており、ちゃんとボールが蹴れるか心配だったが、足の痛みを気合いで消すことにした。日本国民のみならず、世界中の人が中継を通じてこの試合を観戦している中、一番目のキッカーを務めることのプレッシャーを感じながらも、それが自分をこれまでない興奮の世界に誘っていた。


もう一つ覚えているのは、大学時代に知り合った東大生の友人と楽しく語り合っている場面である。彼は頭脳明晰で、彼と話をしている時はいつもこちらの思考が活性化され、大変心地よい体験をしていた。その日も彼との会話は盛り上がり、自分の思考が新たな方向に拡散され、そして育まれているのを感じた。ひょんなことから筋トレの話になり、筋トレを通じて鍛えられた体を彼に見せることになった。私の体を見た彼は驚きの表情を見せ、まさか自分がここまで筋肉質な体をしているとは思っても見なかったと述べた。彼に体を見せると不思議なことに、体中からエネルギーが湧いてきて、同時に精神エネルギーも高まっていることを感じた。フローニンゲン:2026/8/28(金)07:36


19175. 今朝方の夢の振り返り

          

今朝方の夢全体には、「限界まで使い切った自分が、なお次の段階の責任を引き受けようとしている」という構造が流れているように思われる。W杯の決勝トーナメントという舞台は、単なる競争ではなく、これまで積み重ねてきたものが公の場で試される局面を象徴しているのかもしれない。しかも試合は延長戦でも決着せず、PK戦に入る。これは、努力量や持久力だけでは突破できず、最後には一点に意志を凝縮して決断しなければならない段階に差しかかっていることを示しているようである。ロッカールームに戻る場面も重要である。そこは観客の視線から一時的に離れ、外的役割を脱いで内側を整える「心の控室」のような場所であろう。周囲の選手たちは疲労し、怪我まで抱えている。これは、自分の内部にある複数の能力や人格的側面が、長い戦いの末にかなり消耗していることの表現とも考えられる。それでも試合から降りるのではなく、「もう一踏ん張り」と思う点に、自分の現在の精神的な姿勢が象徴的に映されているのかもしれない。そして、一番目のPKキッカーを任されることは、他者より先に不確実性へ踏み込む役割を引き受けることを意味しているようである。PKは、味方と協働する通常のプレーとは異なり、最後には自分一人とボールとゴールだけが残る。そこでは言い訳も援護もない。キャプテンマークまで託される場面は、自分が単に一参加者ではなく、場の緊張や期待を背負う存在へ移行しつつあることを示しているのではないか。しかもハムストリングに違和感がある。これは「万全になってから挑む」のではなく、不完全さを抱えたまま責任を担うことが今の課題であることを暗示しているように思われる。痛みを気合いで消すことは、現実には注意が必要だが、夢の象徴としては、恐れや弱さを一時的に背景化し、意志を前景化する働きであろう。世界中の視線が集まる重圧が、同時に強烈な興奮へ変わっている点も興味深い。これは、自分にとってプレッシャーが単なる負荷ではなく、生命力を高める高圧電流のようなものになりつつあることを示しているのかもしれない。大きな責任の場面ほど、自分の深層に眠る力が起動するという感覚が育っているのであろう。後半の東大生の友人は、第一の場面とは異なる形で「自分を活性化する他者」を象徴しているようである。彼との対話によって思考が拡散し、育まれることは、知性が閉じた器ではなく、対話によって発酵する生き物であることを表しているのかもしれない。その知的な友人に鍛えられた身体を見せる展開には、さらに重要な統合がある。自分の中で、知性と身体性が別々の領域ではなくなりつつあるのであろう。自分が驚くほど筋肉質であることは、自分自身がまだ十分に自覚していない蓄積された力の象徴とも考えられる。身体を見せた瞬間に肉体的エネルギーだけでなく精神的エネルギーまで高まるのは、「見られること」が自己顕示ではなく、眠っていた力を自覚する鏡として働いているからかもしれない。第一の夢でキャプテンマークを腕に巻き、第二の夢で鍛えられた身体を友人の前にさらす。どちらも、内側に蓄えてきたものを外へ現す動作である。したがって二つの場面は、一本の線で結ばれているように思われる。自分はいま、知性、身体性、責任感、闘争心、他者との関係性といった複数の力を、一つの人格的なエネルギーへ束ねようとしているのではないか。それは、ばらばらだった支流が一つの大河へ合流するような過程である。夢は「準備が完全だから前へ出る」のではなく、「完全ではなくても、すでに前へ出るだけの力は蓄えられている」と告げているようにも見える。最初のPKを蹴る直前の自分は、成功を保証された者ではなく、震えや痛みを抱えながらも、自分の順番を引き受ける者なのである。フローニンゲン:2026/8/28(金)08:20


Today’s Letter 

I want to cherish my inner playfulness forever. It is a precious source of my vitality and creativity. It is the lifeblood of a fulfilling life. Groningen, 8/28/2026

 
 
 

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