【フローニンゲンからの便り】19169-19172:2026年8月27日(木)
- 8月29日
- 読了時間: 11分

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タイトル一覧
19169 | ポッドキャスト「Football Weekly」について |
19170 | 今朝方の夢 |
19171 | 今朝方の夢の振り返り |
19172 | オランダ人の唯一無二の親友メルヴィンと最後の時間を過ごして |
19169. ポッドキャスト「Football Weekly」について
時刻は午前5時半を迎えた。辺りはまだ真っ暗で、日の出まで1時間ほど時間がある。ここ最近はすっかり秋の様子を見せていたが、今日だけは気温が上がり、27度まで到達するようだ。フローニンゲンを離れる前の最後の夏日を堪能したい。
一昨日にすでに荷物の搬送が完了し、空の家で暮らしている。家の中は空だが、自分の心はこの町に対する深い感謝の念と愛で満ち溢れている。それに伴って、新天地のエディンバラでの生活を謳歌するための心身のエネルギーも満ち溢れている。空の家と自己とのそうしたコントラストが興味深い。
昨日は、The Guardianのポッドキャスト「Football Weekly」について考えていた。サッカーのポッドキャストというと、試合結果や戦術を専門家が淡々と解説する番組を想像していたが、Football Weeklyは少し違うようである。むしろ、サッカーについて非常に詳しい人たちがパブのテーブルを囲みながら、試合について好き勝手に語り合っているような雰囲気に近い。そこにこの番組独特の魅力があるのだと思う。司会のMax Rushdenが全体を進行しながら、Barry Glendenningをはじめ、Jonathan WilsonやNicky Bandiniなどのジャーナリストが参加する。それぞれ得意領域も視点も異なるので、一つの試合についても単なる勝敗だけではなく、戦術、監督の思想、クラブ経営、選手心理、さらにはサッカー文化まで話が広がっていく。サッカーとは本来、ピッチ上の22人だけで完結するものではない。その背後には監督、クラブ、サポーター、歴史、メディアなど無数の要因が絡んでいる。Football Weeklyは、そうした複雑な生態系としてサッカーを見る番組なのかもしれない。英語学習という意味でも、これは面白そうである。ただし簡単ではない。ニュース番組なら一人の話者が比較的整った英語を話すが、この番組では複数人が自然な速度で会話する。途中で冗談が入り、皮肉が飛び交い、英国独特の文化的な前提も頻繁に登場する。単語を全部聞き取れても、なぜそこで皆が笑ったのか分からないことすらありそうである。しかし、それこそが良い訓練になるようにも思う。英語を学ぶということは、単語や文法を理解するだけではなく、その言語を使う人たちがどのような間合いで話し、何を面白いと思い、どのような比喩を自然に用いるのかを体得することでもあるからである。Football Weeklyを聞くことは、英語という川の流れに実際に身体を入れてみるようなものなのだろう。しかも、自分にはサッカーという強力な足場がある。試合をすでに見ていれば、誰が得点したのか、どの監督が批判されているのか、どのチームが苦戦したのかを知っている。そのため、英語の一部を聞き逃しても文脈から意味を推測できる。これは語学学習ではかなり重要なことだと思う。未知の内容を未知の言語で理解するのは大変だが、既知の内容を未知の表現で聞けば、「英語ではこう言うのか」という発見が次々に生まれる。特に興味深いのは、Football Weeklyが純粋な戦術ポッドキャストではないことである。サッカーを人間の意思決定や組織の問題として語る場面が多いのであれば、自分にとっては単なる娯楽以上の価値がありそうだ。なぜ監督の判断が機能したのか。なぜ同じ選手でも環境が変わると能力を発揮できなくなるのか。なぜ優れた個人を集めても優れたチームにならないのか。こうした問いは、そのまま人間の認知や発達、集合知の問題につながっていく。だから、このポッドキャストは「英語を勉強するために聞く」というより、「英語でサッカーを考える場所」として使うのが良いのだろう。試合を見た後にFootball Weeklyを聞き、自分なりの解釈と彼らの解釈を比べてみる。そうすれば、サッカーを見る眼と英語を聞く耳が同時に鍛えられるはずだ。長く続ければ、いつの間にか英語を日本語へ翻訳せず、そのままサッカーの意味として受け取れる瞬間が増えていくかもしれない。それはちょうど、ボールを受ける前に周囲をスキャンする選手のような感覚なのだと思う。最初は一つ一つ意識的に確認していたものが、やがて無意識のうちに視野へ入ってくる。Football Weeklyを聞き続けることによって、サッカーに関する英語もいつかそのような「考えずに見える風景」に変わっていくのかもしれない。フローニンゲン:2026/8/27(木)05:37
19170. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、数人の女性友達1人1人と話をしていた。穏やかな雰囲気の中、それぞれの友達との思い出話に花が咲き、お互いにとって楽しい時間が続いていた。自分は深い幸福感を感じながら、こうした気持ちをもっと色々な人と共有できればと思ったし、世界中の人がこうした気持ちに包まれて日々を過ごしてほしいという願いを持った。
次に覚えているのは、見知らぬ日本の街中にいる場面である。私は大きなスーツケースを引いて歩いており、そのスーツケースにはどうやら大量の書籍が入っているようだった。小中学校時代のある女性の友達(AS)と男性の友達(YK)に別々のタイミングで道端で遭遇し、彼らにそのスーツケースの話をした。その時に、試しに2人に持ち上げてもらうと、女性には重たすぎたようで、持ち上がらなかったが、男性の友人は難なく持ち上げた。そうしたやり取りをした後に、中央駅に行って列車に乗る必要があったので、中央駅までバスで移動することにした。目の前にやって来たバスにとりあえず乗り、運転手の男性にこのバスが中央駅まで行くのかを確認した。しかし、運転席は個室になっていて、乗客の空間とは隔離されていたので、小窓に取り付けられているスピーカー越しにコミュニケーションをした。通りを行き交う車の音がうるさかったので、運転手の声がうまく聞こえず、どうやらこのバスは中央駅に行かないことがわかった。そこで初めて、自分は「岡山駅」か「岡崎駅」のどちらかに行きたいのだとわかり、自分が行きたいのは前者の方であると気づいた。とりあえずバスを降り、そこからはちゃんと駅に向かうバスに乗るか、いっそのことタクシーを使おうと思った。タクシーの方が圧倒的に楽であることを思い、最初からタクシーを使えばよかったと思った。フローニンゲン:2026/8/27(木)06:04
19171. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内側で「人と結ばれる幸福」と「知を携えて次の場所へ移動すること」が一つの物語として結びつき始めていることを示しているのかもしれない。前半で自分は、数人の女性友達と一対一で穏やかに語り合い、過去の思い出を共有している。ここで重要なのは、特定の誰かとの強い情念ではなく、複数の人との間に共通して流れる柔らかな親密さである。これは、自分が人生の豊かさを「何を達成したか」よりも「誰かとどのような質感の時間を分かち合えたか」という次元で感じ始めていることを象徴している可能性がある。思い出話は過去の再演ではなく、これまでの人生に散らばっていた人間関係を一本の糸で縫い合わせる作業なのであろう。そして、その幸福を世界中の人にも味わってほしいと願う場面は、個人的な喜びが徐々に普遍的な慈しみへ広がっている徴候とも考えられる。小さな灯火が隣の灯火へ火を渡し、街全体を静かに明るくしていくような心の運動である。後半では、雰囲気が一転し、自分は見知らぬ街を大きなスーツケースとともに歩いている。大量の書籍が詰まったスーツケースは、これまで蓄積してきた知識、思想、経験、そして知的アイデンティティそのものを表しているのかもしれない。書物は自分を遠くまで運んでくれた翼である一方、今や移動の際には重量を持つ荷物にもなっている。つまり夢は、知を捨てることではなく、「知を所有すること」と「知を生きること」の違いを自分に問いかけている可能性がある。ASとYKにスーツケースを持ち上げてもらう場面も興味深い。女性の友人には持ち上がらず、男性の友人は容易に持ち上げるが、これは男女そのものの能力差を意味するというより、自分の知的荷物が人によって共有可能性を異にすることを示しているのではないか。ある人には重すぎるものも、別の人には自然に扱える。自分が抱えてきたものを誰もが同じ仕方で理解したり背負ったりする必要はない、という認識が育っている可能性がある。前半の夢が「感情は広く共有できる」と語る一方、後半は「知識は必ずしも同じようには共有できない」と語っているようにも見える。バスの場面はさらに象徴的である。自分は、とりあえず来たバスに乗り、あとから目的地を確認している。これは人生の移行局面で、まず既存の制度や一般的なルートに身を委ね、その後で「本当にこの道は自分の行き先につながっているのか」と確かめる心理を表しているのかもしれない。しかも運転手とは隔離され、騒音の中でスピーカー越しにしか話せない。外部からの案内は存在していても、それが雑音に遮られ、自分の進路を完全には決めてくれないのである。そして「岡山か岡崎か」という曖昧さの中から、自分が本当に行きたい場所を自覚する。これは、目的地が最初から明晰なのではなく、誤った交通手段に乗ってみることで初めて輪郭を得るという構造である。迷いは失敗ではなく、羅針盤の針を震わせながら北を探す過程なのであろう。最後に自分がタクシーを思いつき、「最初からそうすればよかった」と感じるのは、自分の人生を他者の路線図に合わせるより、必要なコストを引き受けても自分で目的地を指定し、直接そこへ向かう方がよいという洞察の象徴かもしれない。夢全体を貫いているのは、重い荷物を抱えて遠くへ行くことそのものではなく、何を携え、誰と幸福を分かち合い、どの道を自分で選ぶかという問いであるように思われる。自分の次の段階では、知識の量よりも、それを軽やかに運び、人との温かな結びつきへ還元していくことが重要になるのかもしれない。大量の本を詰めたスーツケースは、もはや自分を証明する宝箱ではなく、必要なものだけを取り出して次の土地へ渡るための移動式図書館へ変わりつつあるのであろう。フローニンゲン:2026/8/27(木)06:47
19172. オランダ人の唯一無二の親友メルヴィンと最後の時間を過ごして
時刻は間も無く午後4時を迎えようとしている。今、穏やかな風を浴びながら室内でこの日記を書いている。先ほど街の中心部のメルヴィンの店で髪を切ってもらって、買い物をして帰ってきた。メルヴィンに髪を切ってもらうのは今日が最後であり、買い物も今日が最後だった。メルヴィンの店に到着する前に、行きつけの珈琲屋に立ち寄り、エディンバラでの新生活の開始と共に飲むための深煎りのコーヒー豆を購入した。ちょうどポイントカードが貯まっていて、それを使うと、店員の女性が新しいカードを渡してくれようとしたが、あと数日でオランダを離れることを伝えた。すると隣の店員の女性が自分がエディンバラに行くことを以前話していたことを覚えてくれており、幸運を祈ると2人に祝ってもらう形で店を後にした。メルヴィンの店にいつもより早く到着すると、メルヴィンはいつものように外でクラシックギターを演奏していた。会ってすぐさま、お互いに今日が最後だねということを話し合った。そこからは、8年前の出会いから今にかけての思い出話に耽った。振り返ってみると、メルヴィンとはシロシビン・セッションを自宅で共に行ったり、ボルダリングのジムに一緒に行ったり、エクスタティック・ダンスのイベントにも2回ほど一緒に行った。その他にも種々の思い出があるが、メルヴィンに髪を切ってもらう中で対話を積み重ねてきたことが何よりも印象に残っている。メルヴィンには今日、ニッサン・インゲル先生の「Espoir(エスポワール:希望)」という絵画作品をプレゼントした。これは今から11年前に日本にいた時に銀座の画廊で購入した作品で、メルヴィンとパートナーのアンジェリカ、そしてメルヴィンのお客さんたちが希望に包まれて生きていくことを願って贈呈した。ちょうどメルヴィンの店はリニューアルしようとしているところで、芸術作品を飾るスペースがあるとのことなので、そこに飾ってもらうことになった。積もりに積もる話があるが、お互いに希望を見出しながら最後の対話を終えた。終始ユーモアと創造性に包まれながらの対話を行い、店を出る前にメルヴィンが記念撮影をしようと述べたので、記念撮影をした。そして最後にハグをしてお別れをした。確かにこれがメルヴィンとフローニンゲンで話をする最後の機会だと思うが、どこかのタイミングでアンジェリカとエディンバラに遊びに来てくれるらしいので、きっとどこかでまた再会を祝えるだろう。オランダでの10年間の生活において、メルヴィンの存在なしではそれを語ることはできない。彼はそれだけ自分の人生にたくさんの贈り物を届けてくれた唯一無二の親友である。フローニンゲン:2026/8/27(木)16:01
Today’s Letter
Life is a precious gem. My life is beginning to shine with a new light. Groningen, 8/27/2026



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