【フローニンゲンからの便り】19083-19086:2026年8月3日(月)
- 8月5日
- 読了時間: 10分

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タイトル一覧
19083 | 五度圏を使った遊びを行ってみて |
19084 | 今朝方の夢 |
19085 | 今朝方の夢の振り返り |
19086 | コード進行の役割と力について |
19083. 五度圏を使った遊びを行ってみて
昨日、五度圏を使った遊びが、実際にはどのような力を育てているのかを考えながら練習した。これまでは、五度圏を調号やコード進行を覚えるための図として見ていたが、実際に即興へ取り入れると、耳と身体と理論を同時に結びつける装置のように感じられた。右方向や左方向へ一つずつ調を移していくと、新しい調に入った瞬間、どの音が中心になるのかを探す必要がある。主音が見つかると、それまで浮いていた音が急に一つの方向へ引かれ始める。この感覚を繰り返すことで、調性感や主音への帰属感が少しずつ強くなるように思えた。調が変わるたびに、耳の中で重力の中心を置き直しているようである。隣り合う調へ移る練習では、何が変わり、何が残るかを意識した。たとえばCメジャーからGメジャーへ移ると、ほとんどの音は共通しているが、FだけがF♯へ変わる。この一音の変化を耳で感じ取ると、転調が大きな断絶ではなく、風向きが少し変わるような出来事に聞こえてくる。次に変化する音を予想しながら弾くことで、相対音感や先を読む耳も鍛えられているのだろう。共通音を残したまま和音を移したり、半音だけ動かして次の調へ接続したりすると、ボイスリーディングの大切さも見えてきた。すべての音を動かすより、一部を留めた方が響きは滑らかになる。和音同士が別々の建物ではなく、廊下でつながった部屋のように感じられた。サイコロで移動先を決める遊びでは、予定していなかった調へ突然入るため、考える暇がない。どの音に着地すればよいかを瞬時に判断し、少し外れた音も次のフレーズで回収する必要がある。この練習は、即興における反応力を鍛えているようであった。間違いを避ける力というより、間違いを音楽の流れに戻す力が育っている気がした。十二調を巡ると、楽器上の地理感覚も変わる。鍵盤では黒鍵と白鍵の配置が調ごとに異なり、指の形も変化する。頭では知っていた調が、指の感覚として記憶され始めるのである。特定の調だけで自由に弾ける状態から、どの調でも同じように考えられる状態へ、少しずつ近づいているように感じた。五度圏を一周し、元の調へ帰る遊びでは、曲全体の構成も意識するようになった。出発時には音数を減らし、遠くへ進むほど緊張を高め、帰り道では少しずつ響きを整理する。同じ主調へ戻っただけなのに、最初とは違う場所へ帰ってきたように聞こえる。調を移動する練習が、そのまま作曲や物語の設計にもつながっているのだと思った。拍子や旋律の方向まで同時に決めると、作業記憶や集中力も使う。ただし、規則を増やしすぎると音を聴く余裕がなくなる。昨日は条件を二つまでに抑えた方が、遊びとしての自由さを保てると感じた。五度圏の練習で鍛えられるのは、単なる暗記ではない。調の距離を感じる耳、響きの行き先を予測する力、身体で調を捉える感覚、そして予想外の展開へ対応する柔軟性である。円の上を移動しているうちに、音楽の中で迷っても、自分で帰り道を見つけられる力が育っているように思えた。フローニンゲン:2026/8/3(月)07:30
19084. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない学校の教室にいた。ただし、雰囲気としては、実際に通っていた小中高の学校の教室が混ざり合っている感じだった。実際に、その教室にいたのは小中高時代の女性友達ばかりだった。不思議なことに、男性友達は1人もそこにおらず、女性友達だけがいて、自分はひたすら1人1人に話しかけていった。彼女たちのとりわけ体調を労わる言葉をかけていくと、彼女たちは寒そうな格好をしていたが、自分は逆に暑そうな格好をしており、実際に自分だけがひたいに汗をかき始めた。彼女たちと同じく涼しい格好になろうとした時に、どういうわけか机に腰掛けて上着や長ズボンを脱いでいくことにした。
次に覚えているのは、3人の男性たちとマジック:ザ・ギャザリングをして遊んでいる場面である。私の右隣には、小中学校時代の一学年下の後輩がいて、序盤から積極的な攻めの姿勢を見せていた。それぞれが十分なマナが出たところで戦いは激しくなり始めた。特に右隣の彼が自身の最強のカードを出した時、展開は大きく揺らいだ。そのカードで自分の左隣の男性を攻めようとしたのだが、自分のターンが飛ばされていることに気づいた。彼がすでに攻撃をした後にそのことを伝えると、伝えるのが少し遅いと彼に言われてしまった。その瞬間にゲームに対して冷めてしまい、そこで夢が終わった。
今朝方はその他にもまだ何か夢を見ていたように思う。上記の2つの夢の前に、まだ別の夢があった感覚がある。それは見慣れない町の建物の中を散策するような夢だったように思う。自分の近くには名前の知らない他人がいて、その人と会話をしながら散策をしていたと記憶している。フローニンゲン:2026/8/3(月)07:53
19085. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分が人生の移行期において、過去の人間関係を再編しながら、自分の温度と他者の温度の違いを測り直していることを象徴しているのかもしれない。見慣れない教室に小中高の記憶が混ざり合っているのは、特定の時代への回帰というより、成長の各段階が一つの教室に集められ、現在の自分による総点検を受けている姿と考えられる。教室は学ぶ場所であると同時に、他者の視線の中で自分の位置を知る場所でもある。そこに女性友達だけがいるのは、自分の内側で、競争や達成よりも、共感、受容、配慮といった柔らかな機能が前面に出ているためではないかと思われる。自分が彼女たち一人一人の体調を気遣っている場面には、周囲の状態を細やかに察知しようとする力が表れているようである。しかし、彼女たちが寒そうである一方、自分だけが厚着をして汗をかく構図は、他者を労わる意識が強いほど、自分自身の負荷や熱量への気づきが遅れることを示しているのかもしれない。自分は周囲の寒さを心配しながら、実際には自分だけが過剰に熱を抱えているのである。これは、引っ越し、研究、将来設計など複数の課題を内側で燃焼させている現在の状態にも重なりうる。服を脱ぐ行為は単なる露出ではなく、役割、責任、過去の自己像を一枚ずつ脱ぎ、周囲の気候に合わせて身体を調整しようとする象徴であるように思われる。机に腰掛けて着替える姿は、学ぶ者としての席を一時的に外れ、自分自身を教材として観察している場面とも読める。続くカードゲームの場面では、前半の共感的世界から一転し、競争、戦略、順番、資源配分の世界が現れている。マナが蓄積されて戦いが激しくなる展開は、自分や周囲の準備が整い、現実の局面が本格的に動き始めることを示しているのかもしれない。右隣の後輩が積極的に攻める姿は、自分より若い部分、あるいは迷わず行動する内的衝動の象徴と考えられる。その人物が最強のカードを出すのは、慎重に全体を見渡す自分の横で、即断即決の力が状況を一気に変える様子である。ところが、自分のターンが飛ばされている。ここに夢の核心があるように思われる。自分は他者の体調や場の流れをよく見ている一方で、自分が発言し、選択し、行動する番を見失うことがあるのかもしれない。しかも、順番を飛ばされた瞬間ではなく、相手の攻撃後に気づく点が重要である。これは、自分の権利や違和感をその場で表明せず、事後的に認識する傾向を示唆している可能性がある。「伝えるのが遅い」という言葉は、他者からの非難というより、自分の内側にいる時間管理者からの警告のようである。人生というゲームでは、正しいカードを持つことだけでなく、自分の番が来た時にそれを出す感覚が必要なのである。その瞬間にゲームへの熱が冷めるのは、単なる敗北嫌いではなく、公平な順序が崩れた場から心理的に撤退する反応を表しているのかもしれない。前半では自分だけが熱く、後半では急に冷める。この温度変化は、過剰な関与と急な離脱の振り子を示しているようである。夢は、自分に対して、他者に合わせて服を脱ぐだけでなく、自分の番を早めに察知し、必要な時に声を出すことを求めているのではないかと思われる。さらに、その前に見知らぬ町の建物を未知の人物と歩いていた感覚は、これら二つの夢を包む序章であるように思われる。見知らぬ町は、まもなく入っていく新しい生活圏や精神的領域の比喩であり、名前のない同行者は、まだ輪郭を持たない未来の自分かもしれない。今回の夢全体は、過去の教室を整理し、現在のゲームで自分の順番を取り戻しながら、未知の町へ移動していく通過儀礼のような構造を持っているのである。フローニンゲン:2026/8/3(月)08:09
19086. コード進行の役割と力について
昨日改めて、コード進行というものは音楽における文法なのだろうか、と考えていた。確かに、その比喩はかなり正確である。単語を並べただけでは文章にならず、主語や述語、接続の仕方によって意味の流れが生まれるように、和音もただ鳴らすだけでは音楽的な方向を持たない。コード進行は、ある和音から次の和音へ移ることで、音に期待、緊張、安堵、驚きといった関係を与える仕組みなのである。例えば、安定したコードから不安定なコードへ進み、再び安定したコードへ戻る流れには、「出発し、迷い、帰ってくる」という小さな物語がある。機能和声でいうトニック、サブドミナント、ドミナントの関係も、居場所、外出、帰還という運動として捉えると分かりやすい。聴き手は和声理論を知らなくても、次にどこへ向かいそうかを無意識に感じ取っている。これは、文章を読むときに句読点や接続詞から次の展開を予測する感覚に似ている。コード進行は耳の中に見えない道を敷き、メロディーはその上を歩く旅人のようなものである。ただし、コード進行を文法と完全に同一視することには注意が必要である。言語の文法には、意味を正確に伝えるための比較的強い規則があるが、音楽では規則を外れること自体が表現になりうる。突然遠いコードへ移れば、文章でいえば意外な比喩や場面転換のような効果が生まれる。解決するはずのコードが解決しなければ、言いかけた言葉を飲み込んだような余韻が残る。音楽の文法は、誤りを排除する法律というより、期待を作り、その期待を満たしたり裏切ったりするための慣習なのである。しかも、その慣習はジャンルや時代によって異なる。クラシックでは強い緊張として響く和音が、ジャズでは自然な色彩として受け入れられることがある。ブルースでは、西洋古典音楽なら曖昧とされる響きが、むしろ感情の核心になる。言語に方言や文体があるように、コード進行にも地域性や歴史性があり、同じ並びでも文化的な耳によって意味が変わるのである。さらに考えると、コード進行の役割はコード名の並びだけでは決まらない。最低音がどのように動くか、各声部が半音や全音でどうつながるかによって、同じ進行でも滑らかさや切迫感が変化する。これは文章における語順や抑揚に近い。内容が同じでも、言葉の置き方ひとつで優しくも冷たくも聞こえるように、和音も内部の音の動かし方によって表情を変えるのである。同じコード進行でも、テンポ、リズム、音色、メロディーによって印象は大きく変わる。明るい曲で頻繁に使われる進行が、遅いテンポと低い音域では切なさを帯びることもある。つまりコード進行は、文章の構文だけでなく、舞台の照明にも似ている。同じ人物と同じ台詞であっても、光の当たり方が変われば、場面の意味まで変わって見えるからである。結論として、コード進行は音楽の文法であると同時に、感情の重力でもあると思った。コードは音を特定の方向へ引き寄せ、留まらせたり、遠くへ運んだりする。メロディーが何を語るかを決めるのではなく、その言葉がどのような空気の中で響くかを決めているのである。だから美しいコード進行とは、珍しい和音を並べたものではなく、聴き手の期待と感情を自然に動かす流れなのだろう。音楽を聴くとき、これからは旋律だけでなく、その背後で静かに道筋を描いている和音の連なりにも耳を澄ませてみたい。フローニンゲン:2026/8/3(月)09:44
Today’s Letter
Melodies can come alive through harmony, which provides musical context and gives music its vitality. I want to study harmony more seriously. Groningen, 8/3/2026



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