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【フローニンゲンからの便り】19075-19078:2026年8月1日(土)

  • 8月3日
  • 読了時間: 11分


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タイトル一覧

19075

音の相対的な把握と絶対的な把握

19076

今朝方の夢

19077

今朝方の夢の振り返り

19078

音楽の血流としてのリズムを日常の中で鍛えること


19075. 音の相対的な把握と絶対的な把握 

       

昨日、ギターの指板をどのような言語で理解していけばよいのかを考えていた。最終的な目標は、ドレミファソラシドによる相対的な把握と、C、C#、Dといった絶対的な音名の把握を、どちらか一方に決めることではないように思う。むしろ、同じ指板を二種類の地図で読めるようになることが理想なのだろう。相対音感的なドレミは、音の役割を理解するための言語である。あるキーの中でドは中心、ソはそこへ戻る力を持ち、シはドへ進みたがる。たとえば同じCの音であっても、Cメジャーではドであり、Fメジャーではソ、A♭メジャーではミとなる。音の物理的な位置は同じでも、調が変われば表情と役割が変わるのである。これは同じ人が、家庭では子であり、学校では教師であり、社会では研究者であることに似ている。相対的なドレミで把握できるようになると、旋律がどこへ向かおうとしているのか、和音の中でその音がどのような緊張や安定を担っているのかを、耳と身体で感じやすくなるだろう。移調、即興、耳コピーにも強くなるはずである。一方、C#やF、B♭といった音名は、指板上の住所を示す言語である。五弦三フレットはC、二弦七フレットはF#というように把握できれば、楽譜、コード、和声理論、他の演奏者との会話を正確に結びつけられる。音名を知らずに相対音だけで演奏すると、耳では理解していても、現在どの音を出しているのかを説明できないことがある。反対に音名だけを暗記すると、指板が無数の番地の一覧になり、音楽の重力や方向感覚が見えにくくなるかもしれない。したがって、自分が目指すべきなのは、音を見た瞬間に二重に理解する状態である。たとえばGメジャーで二弦七フレットのF#を弾いたとき、これはF#であり、このキーではシであり、主音Gへ半音上がりたがっていると感じられる状態である。絶対音名が座標を与え、相対音名が意味を与える。前者が地図上の緯度経度なら、後者はその土地が山なのか、港なのか、帰るべき家なのかを教える物語である。練習では、まず各ポジションの音名を少しずつ固定しながら、同時に一つのキーを決めて、その音をドレミでも唱えるのがよいだろう。Cメジャーだけでなく、G、D、A、F、B♭へと広げ、同じフレットの音がキーによって何度に変わるかを確かめるのである。最終的には、音名を考える作業とドレミへ変換する作業が別々に起こるのではなく、キーボードを見ずに文字を打てるように、ひとつの音から位置、名称、機能、響きが同時に立ち上がるのだと思う。現段階では、音名の把握を土台として少し優先し、その上に各キーでのドレミを重ねていくのがよさそうである。音名は一度覚えれば変わらないが、ドレミ上の役割はキーごとに変化するからである。ただし、練習の最終地点では両者に上下関係はなくなり、一つの音を見聞きした瞬間に同時に立ち現れるはずである。指板を本当に理解するとは、音の名前を知ることでも、ドレミで歌えることでもなく、一つの音を複数の関係の中で聴けることである。ギターの指板は固定された表ではなく、調が変わるたびに星座の形を変える夜空である。音名は星そのものの名前であり、相対音感は星々を結んで意味ある星座を見いだす力なのである。フローニンゲン:2026/8/1(土)06:47


19076. 今朝方の夢

                          

今朝方は夢の中で、見慣れない山間の土地にいた。その地のある会館で、これから模擬試験が行われることになっていたので、大学時代のゼミのある友人と一緒に向かった。会場に向かう途中で、今日の模試は長丁場なので昼食を調達するためにコンビニに入った。試験会場の周りには飲食店はなかったので、ここで昼食を買うしかなかった。おそらく試験会場まではもうコンビニはないと思われたので、ちゃんとそこで昼食を購入しておく必要があった。最初私は二つのパンを手に取ったのだが、おにぎりの方が健康的に思えたのでおにぎりを購入することにした。少し大きめのおにぎりを二個ほど手に取って、三個目を選んでいると、同じく模試の受験者であろう男女の学生が数人入れ替わりにやってきて、気づいたら全てのおにぎりが品切れになっていた。早くおにぎりを確保しておけばよかったと思いながら、次の在庫の補填までに数時間ぐらい時間がかかりそうだったので、二個のおにぎりだけを購入することにした。友人曰く、試験会場の向こう側にもまだコンビニがある可能性があるとのことだったので、そちらの店に賭けてみることにしたが、同じ考えを持っている受験者たちがたくさんいるであろうから、そちらの店も品切れの可能性が大いにあった。会場に到着すると、おにぎりを買いに行く余裕もなく、早速一科目目の試験が始まることになった。問題用紙を見ると、入試とは全く関係ない暗号関係の問題が出題されており、問題文の日本語もよく意味がわからず、問題を解く気持ちが失せた。そもそもこの模試は、自分の志望校の出題傾向とは随分と乖離があることを事前に知っており、実際に変な問題が出題されたので、もう試験は受けずに帰ろうと思った。試験会場を後にして帰り始めると、後ろから試験監督の若い女性が怒りの形相で追いかけてきて、自分を引き留めた。本来、彼女は自分が試験を受けようが帰ろうが関係ないはずなのだが、彼女は何かしらの責任を感じて自分を引き留めた。彼女の気迫に圧倒され、また彼女の気持ちを汲み取って、一旦は会場に戻ることにした。すると、先ほどの会館はなくなっており、受験者たちは車道の脇に机を並べて外で問題を解いていたので驚いた。私も席につき、問題を解き始めたところ、今度は幾分まともな数学と化学の問題になっていたので、少し解いてみることにした。だが、やはり自分にとってはとても退屈だったので、再び帰ろうとしたところ、少し遠くに男子学生だけが集まって問題を解いている様子が見えた。彼らの中には灘の卒業生が数人いて、彼らが行っているラジオ番組に急遽出演することになった。出演依頼も承諾も、全てテレパシーのような形でその場で一瞬にして行われた。ラジオ番組が始まり、冒頭のタイトルコールは自分のラジオ番組で使っているものを述べることになったが、久しぶりだったので最初の単語の言葉を間違えてしまい、テイクツーとなった。今度は彼らの近くでより親近感を感じながら話し始めようと思ったので、彼らのところに瞬間移動することにした。フローニンゲン:2026/8/1(土)07:03


19077. 今朝方の夢の振り返り

   

今朝方の夢は、これから始まる新しい知的生活に向けて、自分がどの試験を本当に受けるべきかを選別し始めていることを象徴しているのかもしれない。見慣れない山間の土地は、日常の平地を離れ、まだ地図の完成していない高次の学びへ入っていく移行領域であろう。そこに大学時代の友人が同行しているのは、過去の学問的自己が現在の自分を見送り、新しい段階との橋渡しをしていることを示しているように思われる。試験前に昼食を確保しようとする場面は、長期的な挑戦に備えて精神的な燃料を蓄えようとする動きであろう。パンからおにぎりへ選択を変えたのは、便利さや即効性よりも、自分の身体と価値観に合った滋養を求めていることの表れかもしれない。しかし、選んでいる間に在庫が尽きたことは、最善を見極めようと熟考するほど、機会が先に他者へ渡ってしまうという焦りを映している可能性がある。二個だけ確保できたことは、必要な準備が完全ではなくとも、当面を支えるだけの資源はすでに手元にあるという暗示でもあろう。夢は、完全な備蓄を待たずに出発せよと告げる山道の標識のようである。最初の試験に暗号めいた不可解な問題が現れたのは、外部から与えられる評価基準と、自分が本当に探究したい問いとのずれを示しているのかもしれない。意味の通らない日本語は、制度の言葉が自分の内的必然性を失ったとき、単なる記号の迷路に変わることを象徴しているように見える。退出を決めた行為は逃避というより、他者が設計した試験から降り、自分自身の問いを選び直す主体性の芽生えであろう。若い女性監督が激しく追いかけてくる場面は、自分の内側にある責任感、あるいは途中で放棄することを許さない生命力が人格化されたものかもしれない。彼女は制度の番人であると同時に、未完了の課題を回収させる内なる案内人でもある。彼女に促されて戻ると会館が消え、道路脇で試験が続いていたことは、これからの学びが閉ざされた建物ではなく、移動そのものの中で行われることを示しているように思われる。道端の机は、人生の移行期そのものが教室になるという象徴であろう。数学と化学の問題が多少まともになっても退屈だったことは、自分が能力不足で離れるのではなく、問いの次元そのものに飽き足らなくなっていることを表している可能性がある。そこで現れた灘の卒業生たちは、高度な知性を備えながら、試験を解くだけでなく言葉を通じて知を共有する集団の象徴かもしれない。彼らとの出演交渉がテレパシーで成立したのは、自分の進むべき共同体とは説明や審査を重ねずとも、関心の周波数が一致すれば瞬時につながるという感覚を示しているのであろう。タイトルコールを間違えて撮り直した場面は、過去に培った発信者としての声を、新しい環境で再調律する必要を示しているように思われる。声そのものは失われていないが、最初の一音だけが現在の自分とずれているのである。最後の瞬間移動は、外部の試験に合格することより、自分と知的共鳴を起こす人々の近くへ移ることが、次の課題であるという暗示かもしれない。この夢全体は、試験会場から放送空間へ、受験者から語り手へと立場が変わる変容の物語である。自分はもはや用意された問題に答えるだけの存在ではなく、どの問いを語る価値があるのかを選び、その問いを他者と響かせる段階へ入りつつあるのであろう。フローニンゲン:2026/8/1(土)07:53


19078. 音楽の血流としてのリズムを日常の中で鍛えること

                          

日常のあらゆる動作をリズム練習へ変えるという発想を持ってみること。今朝方、即興演奏について考えていて、メロディーやハーモニーを生み出す力だけでは、音楽は十分に息をしないのだと改めて感じた。どれほど美しい音を選んでも、それを置く時間の感覚が曖昧であれば、言葉だけが並び、句読点のない文章のようになってしまう。リズムは音楽の骨格というより、むしろ血流に近いのかもしれない。音が鳴っていない休符の間にも流れ続け、演奏全体に生命を運んでいるからである。リズム感を育てるために、練習時間だけを特別な場にする必要はないように思う。歩くときには、左右の足音を一定の拍として感じ、四歩を一小節に見立ててみる。慣れてきたら、一歩目だけを強く意識したり、三歩ごとにアクセントを置いたりすれば、四拍子と三拍子の感覚を身体の中で切り替えられる。階段を上るときも、一段ごとに八分音符を感じたり、二段をひとまとまりとして大きな拍を捉えたりできる。日常の移動そのものが、身体を使ったメトロノーム練習になるのである。料理や食器洗いにもリズムがある。野菜を切る音、水道から流れる水、皿を置く動作に耳を澄ませると、生活の中には無数の反復が隠れている。ただ機械的に同じ動きを繰り返すのではなく、一定の周期を保ったまま、ときどき意図的に間を空けてみる。この間が休符となり、再び動き出す瞬間がアウフタクトのように感じられるだろう。歯磨きや掃除のような単純な動作でも、二拍、三拍、四拍で動きをまとめれば、拍節感の訓練になる。会話もまた、優れたリズム教材であると気づいた。相手が話し終える前に言葉を重ねず、呼吸一つ分の間を置いて返事をする。その沈黙を空白ではなく、音楽的な休符として味わうのである。話す速度を一定に保ちながら、大切な語の前後にわずかな間を置けば、フレージングの感覚も養われる。朗読をするときには、文章の意味だけでなく、音節の長短やアクセント、息継ぎの位置も感じてみたいと思う。言葉にも拍があり、文章にもグルーヴがあるからである。音楽を聴くときには、旋律を追うだけでなく、手や足で一定の拍を取りながら、別の層を探るのもよさそうである。まず四分音符を刻み、次に八分音符、裏拍、三連符へと注意を移してみる。さらに、拍を鳴らし続けるのではなく、数小節だけ手拍子を止め、内側で拍を保ったまま再び戻ってみる。戻った瞬間に音楽と一致すれば、外部のリズムをなぞるだけでなく、内的な時計が育っている証拠であろう。呼吸も重要である。四拍で吸い、四拍で吐く。あるいは三拍で吸い、五拍で吐く。こうして呼吸の周期を変えると、身体が異なる拍のまとまりを覚えていく。ただし、苦しくなるほど長くする必要はない。目的は呼吸を支配することではなく、時間の流れを身体の内側から感じ取ることにある。結局、リズム感とは正確に数える能力だけではないのだろう。一定の拍を保ちながら、そこから少し前へ出たり、後ろへもたれたりする余裕を持つことである。時計のような正確さと、波のようなしなやかさを同時に育てる必要がある。日常生活の動作、呼吸、歩行、会話を注意深く味わえば、一日は巨大なリズム練習曲になる。ギターを手にしていない時間にも、身体の中では演奏が続いているのだと思う。フローニンゲン:2026/8/1(土)09:30


Today’s Letter 

Rhythm is the lifeblood of music. I develop my sense of rhythm every day. Daily activities provide numerous opportunities to train it. Groningen, 8/1/2026

 
 
 

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