top of page

【フローニンゲンからの便り】19062-19066:2026年7月29日(水)

  • 7月31日
  • 読了時間: 12分


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

19062

二つの隣接音について

19063

今朝方の夢

19064

今朝方の夢の振り返り

19065

記憶を呼び戻す演奏

19066

10年の時の流れを感じながら


19062. 二つの隣接音について

              

昨日、Cのすぐ隣にあるC♯やD♭を同時に鳴らしたとき、なぜあれほど不気味に聞こえるのかを考えていた。二つの音は遠く離れて衝突するのではなく、ほとんど同じ場所を奪い合うように震える。完全五度のような協和音では、二つの振動が比較的単純な比率で重なり、耳はそれらを一つの秩序として受け取りやすい。しかし半音差の二音では、基本音だけでなく倍音同士も近接し、耳の内部で細かなうなりやざらつきが生じるらしい。音が滑らかな一本の線にならず、薄い刃を何枚も擦り合わせたような感触になるのである。実際、二つの周波数が近いと、振動は周期的に強め合ったり弱め合ったりする。このうなりは音量の微細な脈動として感じられ、耳には落ち着かない震えとなって届く。さらに人間の聴覚には、近い周波数を同じ帯域の中で処理する傾向があるため、二音を鮮明に分離できない場合、それらは透明な二本の線ではなく、輪郭の崩れた一つの塊として聞こえるようである。半音の不気味さは、二音が離れすぎているからではなく、むしろ近すぎて区別しにくいことから生まれるのであろう。特に同じ強さで長く伸ばすと、この不安定さがよく分かる。CはCとして居場所を主張し、C♯もまた別の中心を要求する。ところが両者は近すぎるため、耳はどちらを基準にすべきか決めきれない。まるで二つの磁石を無理に同じ穴へ押し込んだように、引き合うのか反発するのかが定まらず、知覚の表面が震え続ける。音楽理論でいう不協和とは、単に音が汚いということではなく、解決先を要求する緊張なのであろう。この感覚が禁忌めいて聞こえるのは、距離の近さそのものが原因なのかもしれない。遠い音同士なら、違いは明確であり、それぞれが別の人格として並び立てる。だが半音差では、似ているのに同一ではない。親密さと異質さが同時に現れ、境界が曖昧になる。自分が近すぎる関係の不穏さを連想したのも、このためであろう。似た者同士が調和するのではなく、似ているからこそ互いの輪郭を侵食する。そこに、心理的な居心地の悪さが生まれるのだと思う。ただ、半音そのものが常に不気味なわけではない。旋律の中でCからD♭へ一瞬動くなら、それはため息や憧れにも聞こえる。D♭からCへ戻れば、緊張がほどけ、暗い部屋の扉が静かに閉まるような安堵が生まれる。また、音楽を聴いてきた経験も大きい。西洋音楽では半音が導音や倚音として解決を予告する場面が多く、耳は半音をまだ終わっていない音として学習しているらしい。そのため、解決を与えずに放置すると、宙吊りにされた感覚が残るのである。低音域で二音を同時に鳴らすと濁りは強くなり、高音域では鋭い光のように感じられることもある。つまり不気味さは音程だけで決まらず、音域、長さ、音色、強弱、前後の文脈によって姿を変えるのである。半音は、音楽の中の傷口のようなものかもしれない。小さいのに、そこから緊張が滲み出す。しかし、その傷口があるからこそ、解決した瞬間の静けさが深く感じられる。今日あらためて思ったのは、不協和音とは秩序の敵ではなく、秩序を欲しがる耳の叫びなのだということである。フローニンゲン:2026/7/29(水)06:39


19063. 今朝方の夢

                  

今朝方は夢の中で、小中学校時代の2人の親友(NK & HS)と一緒に本屋で働きながら、ある潜入調査をしていた。その店にやって来た若い男性が本を万引きしにやって来ることが常習となっていて、それは単なる万引きではなく、背後には闇の組織があった。そこで私たちは、彼にあえて万引きを成功させ、囮捜査をすることにした。親友の2人は店員役を担い、自分は客役を担っていた。その男性が本屋にやって来て、しばらくして実際に万引きをして立ち去ろうとしたところから、まず私はカウンターにいた2人の親友に彼が何の雑誌を盗んだのかを確認した。どうやらワールドサッカーダイジェストだったらしく、それを知ってどうこうとうわけではないが、個人的に彼が何を盗んだのか関心があったので確認した次第である。私には各種特殊能力があり、人間を超えた力を持っていたので、そこからは1人で彼が向かう犯人たちのアジトに向かうことにした。この夢の場面が終わると、一瞬目が覚めた。昨夜は少し気温が上がっていたので、どうやら寝汗をかいているようだった。そこから再び夢の世界に戻ると、次のような夢が展開されていた。


次に覚えているのは、見慣れない学校の教室で、友人たちのお勧めの進学塾を教えていた場面である。彼らの今の成績と志望校を考慮して、それぞれの友人に最適な塾を紹介していくと、彼らはとても感謝していた。自分はかつて、成績が優秀であることを認められて、授業料を一切払わない特待生の形で塾に迎え入れられた経験があったので、成績が優秀な友人にはそうした道があることを説明し、またこれから成績を上げていけばそうした道が開けることを他の友人たちに伝えた。フローニンゲン:2026/7/29(水)06:46


19064. 今朝方の夢の振り返り

                   

今朝方の夢は、自分の内部で進みつつある「知を守る者」から「知を導く者」への移行を映しているのではないかと思われる。最初の舞台が本屋であることは象徴的である。本屋は単に本が並ぶ場所ではなく、知識、記憶、価値観、未来の可能性が棚ごとに分類された心の書庫である。その場所に闇の組織とつながる万引き犯が現れるのは、自分の知的世界に、何かを正当に学び取るのではなく、表面的に奪い去ろうとする力が侵入していることを示しているのかもしれない。それは外部の誰かというより、焦り、近道への誘惑、成果だけを得ようとする衝動など、自分の内側に潜む影の働きである可能性がある。親友のNKとHSが店員役を担い、自分が客役を担っていた点も興味深い。幼少期からの友人たちは、自分の人格の中でも古くから存在する素朴さ、信頼、現実感覚を象徴しているのではないか。彼らが店を守る側に立ち、自分が客として犯人を観察する構図は、自分が既存の知識体系の管理者にとどまらず、その外側から状況全体を読む役割へ移っていることを示しているように思われる。あえて万引きを成功させる囮捜査は、問題を即座に排除するのではなく、その背後にある構造まで追跡しようとする現在の知的姿勢の比喩であろう。目の前の症状を消すのではなく、地下水脈のように隠れた原因へ降りていこうとしているのである。盗まれたものがワールドサッカーダイジェストであったことにも意味がありそうである。サッカーは競争、連携、配置、戦略の世界であり、雑誌はその世界を俯瞰し、分析する媒体である。犯人が盗んだのは単なる娯楽ではなく、世界の競争を読み解く視点だったのかもしれない。自分が何を盗んだのか細かく確認したのは、問題の内容を曖昧にせず、奪われた価値の正体を特定しようとする知性の表れであろう。その後、自分だけが特殊能力を用いてアジトへ向かう展開は、最終的な探究は仲間と出発できても、核心部には単独で入らなければならないという自覚を表しているのではないか。そこでは他者の地図が役立たず、自分自身の直観と鍛えられた能力が羅針盤になるのである。一度目覚め、寝汗をかいた後に教室の夢へ移ったことは、前半が無意識の深部への潜入であり、後半がその成果を社会的に還元する場面であったことを示しているように思われる。見知らぬ教室は、これから所属する新しい学問共同体や教育環境の予兆とも考えられる。そこで自分は、友人たちの現在地と志望校を見極め、それぞれに最適な塾を勧めていた。これは自分が単に知識を所有する者ではなく、他者の発達段階と可能性を読み、適切な学習環境へ橋渡しする者になりつつあることを象徴しているのであろう。特待生の経験を語る場面は、自分の過去の努力が、今や他者に希望を与える資源へ変換されていることを示しているのかもしれない。かつて自分が開いた扉を、今度は他者にも指し示そうとしているのである。前半では闇の組織から知を守り、後半では未来を目指す者に知の道を分配している。両者を合わせると、この夢は、自分が知識の番人、探偵、案内人という三つの役割を統合し始めていることを告げているように思われる。自分の学びは、もはや個人的な蓄積だけではなく、奪われやすい知を守り、隠れた構造を暴き、他者の可能性を育てる灯台へ変わりつつあるのであろう。フローニンゲン:2026/7/29(水)07:42


19065. 記憶を呼び戻す演奏

                  

ブランダン・エイカー氏の助言を読みながら、『アルハンブラの思い出』という作品に対する見方が少し変わった。これまでこの曲を考えるとき、自分の意識はどうしてもトレモロの均一さや速さ、右手の持久力へ向かっていた。粒を揃え、旋律を途切れさせず、伴奏とのバランスを保つ。そうした課題は確かに重要である。しかし、エイカー氏が繰り返す「演奏されたのではなく、思い出されたように響く」という言葉は、技術の先にある別の入口を示しているように思えた。記憶とは、こちらが腕を伸ばして無理に捕まえるものではない。ふとした匂いや光をきっかけに、遠い景色が静かに浮かび上がり、しばらくすると再び霧の奥へ戻っていくものである。そう考えると、この曲のトレモロは音の機関銃ではなく、記憶の表面に降り続ける細い雨なのかもしれない。一音一音を強く主張するのではなく、旋律が輪郭を現しては薄れ、聴き手の内側に余韻だけを残していく。そのような呼吸が必要なのだろう。エイカー氏の助言で特に印象に残ったのは、作品の題名そのものが解釈への招待状であるという点である。楽譜には音符やリズム、強弱が書かれているが、題名はそれらをどのような心で鳴らすべきかを示す羅針盤になりうる。『アルハンブラの思い出』という言葉には、目の前にある宮殿ではなく、すでに遠ざかった宮殿がある。鮮明な現在ではなく、時間によって柔らかく磨かれた過去がある。だから演奏にも、何かを見せつける明るさより、失われたものをそっと撫でるような温度が求められるのだと思う。美しい演奏とは、技術を隠すことではなく、技術を透明にすることなのだろう。窓ガラスが曇っていれば景色は見えないが、磨かれたガラスは自分の存在を主張せず、向こう側の光を通す。トレモロの練習も同じで、速さや均一さを獲得すること自体が目的ではなく、それらを通して作品の記憶を曇りなく届けるためにある。技術が前面に出た瞬間、聴き手は奏者の努力を見る。しかし技術が音楽の背後へ退いたとき、聴き手は自分自身の記憶を見るのかもしれない。その意味では、音量やテンポの扱いも変わってくるはずである。記憶は一定の明るさで居座るものではなく、近づいたり遠ざかったりする。旋律を常に濃く歌わせるのではなく、ある箇所では息を含ませ、別の箇所では少しだけ輪郭を深くし、また静かに手放す必要があるだろう。伴奏も単なる背景ではなく、遠い庭園の水音や、石壁に残る夕暮れの反射のような役割を担うのかもしれない。音と音の間にわずかな余白を感じられれば、曲は完成品として提示されるのではなく、聴き手の中でゆっくり組み立て直される記憶になる。今後この曲を練習するときは、何音弾けたかだけでなく、旋律がどのように現れ、どのように遠ざかったかを聴きたい。録音を聴き返すときも、ミスの数より、音楽が急ぎすぎていないか、感情を説明しすぎていないかを確かめたい。記憶には沈黙が含まれているからである。急がず、押しつけず、音が自ら語り始めるまで待つ姿勢を持ちたい。この作品を攻略すべき難所としてではなく、昔の光が一瞬だけ差し込む部屋として扱えたなら、演奏は「上手に弾くこと」から「記憶を呼び戻すこと」へ近づいていくはずである。フローニンゲン:2026/7/29(水)09:44


19066. 10年の時の流れを感じながら

                                       

10年の時の流れを感じながら、フローニンゲンの街を物思いに耽りながら歩いた。まさにちょうど10年前の今頃に、自分は日本を出発し、オランダにやって来た。そこから今日までの10年の歩みは、長く実り多いものだった。自分の人生史の中にフローニンゲンの街での生活は、途轍もなく大きな意味を持っている。10年前の夏も今日のような真夏日だったと記憶している。到着した翌日に買い物がてら街を散策したのだが、その時も今日と同じく、運河をかける橋が上がったり下がったりしていて、船が通るのをぼんやりと眺めていたことが大変懐かしい。フローニンゲンの時の流れは、とても緩やかで、そして優しい。そのような時の性質と香りを持つこの街で、自分はおそらくその他の場所では深められなかったものをどこまでも深めてきたという思いがある。この街では、人や探究・実践領域において、本当に素晴らしい出会いがあった。今日はメルヴィンの店で髪を切ってもらったのだが、彼との付き合いは丸8年となり、彼に髪を切ってもらうのも、来月の出発数日前が最後となった。今日もお互いの出会いと来月の別れの話となったが、しかるべきタイミングで私たちはまた再会するだろう。メルヴィンの旅行先リストにはエディンバラが入っているとのことで、きっと数年以内にエディンバラを訪れてくれるのではないかと思う。自分はエディンバラでどれだけ生活をするのかは未定であるが、少なくとも2年間は住む予定である。仮にエディンバラ大学の博士課程に進学することになったら、さらに3年間の生活となり、合計で5年間はエディンバラの町にいることになる。ここからの人生において、どこの町で暮らすのかはこれまで以上に重要になるような予感がしている。仏教研究と音楽実践の双方に心底打ち込める土地との縁を強く願う。その願いが叶うなら、自分は他に望むことは何もない。


メルヴィンの店で髪の毛を切ってもらった後、楽器屋に立ち寄り、新しいクラシックギターの弦を1セット購入した。今後日本に旅行する際にクラシックギターを持って行きたいと考えていて、飛行機移動の際にはハードケースがあったほうがいいかと思い、それについても購入を検討したが、今回は購入を見送った。デザインを含めて、もう少し多くの数から吟味したかったのである。来月末の引っ越しに際しては、飛行機を用いず、列車で英国に入ろうと思っているので、手持ちの分厚めのソフトケースで事足りると判断した。残り1ヶ月のフローニンゲンでの生活は、1日1日がとても貴重なものとなるに違いない。そして、そうした日々の中で、自分は思い残すことなく新天地に向かうことができる準備が整うだろう。フローニンゲン:2026/7/29(水)16:53


Today’s Letter 

This world consists of vibrations, and so does my being. My daily practice is to come into full resonance with every vibration in this world. Groningen, 7/29/2026

 
 
 

コメント


bottom of page