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【フローニンゲンからの便り】18970-18973:2026年7月5日(日)

  • 5 日前
  • 読了時間: 10分


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タイトル一覧

18970

書籍の剪定を通じて見えてきたこと、感じること

18971

今朝方の夢

18972

今朝方の夢の振り返り

18973

海の音に包まれながら

18970. 書籍の剪定を通じて見えてきたこと、感じること

                                     

書籍の整理をしていると、単に紙の束を移動させているのではなく、これまでの自分の思索の地層を掘り返しているような感覚になる。一冊一冊の背表紙には、その時々の関心、問い、葛藤、期待が染み込んでいる。かつては、そのすべてを読み尽くし、理解し、所有することが、自分の探究を豊かにしてくれると思っていた。しかし今は少し違う感覚がある。大量の書籍に囲まれてきたからこそ、書物の森の中で本当に自分が辿りたい小径が見えてきたのだと思う。本を手放すことは、知識を軽んじることではない。むしろ、自分にとって本当に必要な問いを選び取るための、静かな剪定のような行為である。庭師が枝を切るのは、木を貧しくするためではなく、光と風の通り道を作るためである。同じように、書籍を整理することによって、自分の内面にも余白が生まれてくる。その余白に、これからの探究の輪郭がゆっくりと浮かび上がってくる。これまで大量の書籍を読んできたことには、確かな意味があったのだと思う。それらは、自分にとって巨大な羅針盤のようなものだった。ある本は進むべき方向を示し、ある本は行き止まりを教え、またある本は、まだ自分には早すぎる問いを静かに預けてくれた。すべての本が最終的な目的地に連れていってくれたわけではない。しかし、その一冊一冊が、自分の中で何を探究したくないのか、何に心が震えないのかをも明らかにしてくれたのである。選ぶ力は、膨大な寄り道の後にようやく育つのかもしれない。有限の人生を思うと、今後はもう漫然と知識を集めることはできないと感じる。時間は無限に広がる海ではなく、手のひらから少しずつこぼれていく清水のようなものである。だからこそ、その水をどこに注ぐのかを慎重に選ばなければならない。心底探究したいことだけに身を投じるという決意は、狭さではなく深さへの転換である。広大な書物の海を渡ってきたからこそ、いま自分は、どの入り江に錨を下ろすべきかを感じ取れるようになったのだろう。これからの自分に必要なのは、あらゆる領域に手を伸ばすことではなく、魂の底で鳴り続けている問いに耳を澄ませることである。唯識、意識、音楽、発達、リアリティの探究。それらはばらばらの関心ではなく、同じ地下水脈から湧き出している泉のように思える。書籍の整理は、その地下水脈に近づくための儀式なのかもしれない。外側の蔵書が減るほどに、内側の問いは濃くなる。これまでの読書は、知識を増やす旅であると同時に、自分の中の不要な声を見極める旅でもあったのだと思う。そして今、ようやく自分は、何に人生の時間を捧げたいのかを以前よりも明確に感じている。残された時間は限られている。しかし、限られているからこそ、そこには研ぎ澄まされた美しさがある。これからは、心が本当に呼応する問いだけを携え、深い井戸を掘るように探究を続けていきたい。広く集める時期を経て、いよいよ深く潜る時期に入ったのである。フローニンゲン:2026/7/5(日)07:32


18971. 今朝方の夢   

                   

今朝方は夢の中で、見知らぬ巨大な空港にいた。その空港はとても現代的で、設備はいずれもハイテクだったし、施設内には様々な煌びやかな店やレストランがあった。そんな中、搭乗時間が迫ってきたので、ボーディングパスを発券しようと思った。通常であれば空港に到着する前にデジタルのボーディングパスを発券しているのだが、その日は違った。空港があまりにも巨大だったため、発券できる場所まで距離があり、少し急いでそこに向かった。なんとか発券機でボーディングパスを受け取ると、もう搭乗時間の終わり間近かだったが、その路線はよく遅延が起こるため、おそらく今日も多少の遅延があるだろうと思われた。アナウンスはないが、どうやらその予想は当たっているような気がしたので、諦めずに搭乗口に向かうことにした。そんな中でも心には余裕があり、空港内をよく観察することを怠ることはなかった。


次に覚えているのは、見慣れない駅の構内にいた場面である。どうやらそこからサッカーの大会が行われる会場に向かう必要があり、小中高時代の友人たち数名と一緒にバスに乗ろうと考えた。しかし、自転車に乗っていった方が準備運動にもなるし、何より景色を楽しめると思ったので、友人たちの中で自転車で行きたいと思っている人たちと一緒に自転車で会場に向かうことにした。自分の前後には2人の友人(YU & SI)がいて、2人に挟まれる形で前後の2人に話しかけながら自転車に乗って景色を楽しみながら会場に向かった。会場に向かう自分たちは、これからサッカーの試合があるということはいい意味で完全に頭から抜けていて、純粋にその移動時間を楽しんでいた。フローニンゲン:2026/7/5(日)07:42


18972. 今朝方の夢の振り返り 

                                   

今朝方の夢は、移行期にある自分の意識が、二つの乗り物を通じて異なる時間感覚を調整していることを示しているように思われる。巨大な空港は、これから向かう新しい世界への入口であり、現代的でハイテクな設備や煌びやかな店は、外的環境の豊かさと複雑さを象徴しているのだろう。空港とは、本来どこにも属さない中間領域である。出発前でありながら、すでに日常からは離れている場所である。その巨大さは、自分の前に広がる選択肢や手続きの多さを映し出しているのかもしれない。ボーディングパスを事前に用意していなかったという点は、普段なら整えているはずの準備が、今回は別の仕方で求められていることを示しているようである。これは不備というより、未知の移行には、あらかじめ完全に準備できない部分があるという暗示ではないだろうか。発券機まで急ぐ自分は、制度や手続きの世界に追いつこうとしている。しかし同時に、心には余裕があり、空港内を観察することを怠っていない。ここにこの夢の重要な調律がある。自分は締切や搭乗時間に追われながらも、単なる焦りの塊にはなっておらず、むしろ、巨大な機械の内部を歩く旅人のように、外界の構造を眺めながら前進しているのである。搭乗が終わりかけているにもかかわらず、その路線は遅延するだろうと感じる場面は、自分の内側にある直観的な時間感覚を示しているように思われる。公式のアナウンスはない。それでも、何かがまだ間に合うと感じている。これは、外的な時計とは別に、内的な潮汐が働いていることを意味しているのかもしれない。夢の中の自分は、時計の針だけでなく、空気の湿り気や人の流れから天候を読む漁師のように、見えない遅延を感じ取っているのである。次の駅の場面では、空港の垂直的な移動から、地上の水平的な移動へと舞台が変わる。飛行機は一気に別の場所へ運ぶ乗り物であるが、自転車は自分の身体で進む乗り物である。この転換は、人生の大きな移行を、単なるジャンプとしてではなく、身体を通じて味わいながら進めたいという欲求を表しているようである。サッカー大会の会場に向かう必要があるにもかかわらず、バスではなく自転車を選ぶ点には、目的地よりもプロセスを重んじる現在の自分の姿勢が映っているのだろう。小中高時代の友人たちは、過去の自分を知る内的な同伴者であると思われる。YUとSIに前後を挟まれながら走る構図は、自分が過去と未来、先導と後続、支えられることと支えることのあいだに置かれていることを象徴しているようである。自分は孤独に走っているのではない。見えない隊列の中で、かつての関係性を風除けのように感じながら進んでいる。その会話は、内面の複数の時代が互いに声を掛け合っている光景にも見える。サッカーの試合を忘れて移動そのものを楽しんでいる点は、競争や成果への意識が一時的に薄れ、旅そのものが豊かな経験として立ち上がっていることを示しているのだろう。空港では搭乗に間に合うかどうかが問題だったが、駅から会場への道では、間に合うことよりも、景色を味わうことが中心になっている。この二つの場面は、外的な移行を遂行する自分と、内的な移動を味わう自分の二重奏である。夢全体は、巨大な空港の金属的な光と、自転車で進む道の柔らかな風を対比させながら、自分が今、制度的な旅立ちと身体的な成熟を同時に経験していることを告げているように思われる。フローニンゲン:2026/7/5(日)08:27


18973. 海の音に包まれながら

                            

ここ数日、何かに導かれるように、日本を含めた世界各地の海の音を聞いている。波が寄せては返す音に耳を澄ませていると、それは単なる環境音ではなく、自分の奥深くに沈んでいた記憶の貝殻を、ひとつずつ浜辺へ打ち上げてくるようである。地元の海辺の空気、潮の匂い、幼い頃に感じていた広がりが、音の粒子となって再び胸の内に満ちてくる。海の音とは、外側の自然音であると同時に、内側の原風景を呼び覚ます鍵なのかもしれない。波の音が母のお腹の中にいた頃の感覚を思い起こさせるように感じられるのも興味深い。胎内では、完全な静寂ではなく、母体の血流、心拍、呼吸、内臓の響きが、低く包み込むような音環境を作っていたはずである。海のうねりは、その胎内的な音響空間とどこか似ているのだろう。規則的でありながら完全には反復しない波音は、機械的なリズムではなく、生命のリズムに近い。自分の神経系は、その揺らぎの中に、かつて守られていた場所の記憶を感じ取っているのかもしれない。脳生理学的に見ても、波の音には心身を落ち着かせる働きがあると考えられる。穏やかな自然音は、過剰に高ぶった交感神経の働きを和らげ、副交感神経を優位にしやすいのだろう。呼吸がゆっくりになり、筋肉の緊張がほどけ、心拍も少しずつ安定していく。海の音を聞いていると、脳が危険を探す警戒モードから離れ、安全な環境にいるという信号を受け取るのかもしれない。波音は、神経系にとって柔らかな毛布のようなものである。また、波の音には注意を穏やかに支える働きもあるように思う。完全な無音は、かえって内的雑音を際立たせることがある。しかし海の音は、意識にやさしい足場を与えてくれる。そこには「次に何が起こるかわからない」という刺激の強さはなく、「だいたい予測できるが、完全には同じでない」という適度な揺らぎがある。この揺らぎが、脳の緊張を解き、雑念を自然に流していくのだろう。波は、思考を消し去るのではなく、思考を遠くへ運ぶ小舟のように働くのである。さらに、海の音を聞いている時、自分の中ではデフォルトモードネットワークの働きも穏やかに変化しているのかもしれない。過去の記憶や未来への想像が浮かびながらも、それらに強く巻き込まれない。海の音が背景にあることで、自分の意識は個人的な物語に閉じこもらず、より大きな自然のリズムに接続されていく。地元の記憶、胎内的な安心感、現在の自分の呼吸が、ひとつの潮流の中で溶け合っていくようである。世界各地の海の音を聞くことは、不思議な巡礼でもある。身体はフローニンゲンにありながら、耳は日本の海岸へ、遠い島々へ、まだ訪れたことのない浜辺へと旅をしている。音は場所を越える。海は国境を知らず、波は言語を持たない。その無言の響きに触れていると、自分の存在もまた、どこかひとつの土地だけに縛られたものではなく、もっと大きな水の循環の中にあるように感じられる。ここ数日のこの衝動は、単なる癒やしの欲求ではなく、自分の神経系が深い再調整を求めている徴なのかもしれない。大量の書籍を整理し、人生の時間の使い方を見直し、これからの探究の方向を定めようとしている今、自分は無意識のうちに、最も根源的な音へ戻ろうとしているのだろう。海の音は、始まりの音であり、帰還の音でもある。波を聞くことは、自分の内側にある古い浜辺に立ち、これから進むべき航路を静かに見つめることなのである。フローニンゲン:2026/7/5(日)09:54


Today’s Letter 

While listening to the sounds of the ocean, my consciousness expands, and the default mode network seems to loosen, allowing me to relax deeply. Groningen, 7/5/2026

 

 
 
 

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