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【フローニンゲンからの便り】18966-18969:2026年7月4日(土)

  • 7月6日
  • 読了時間: 10分


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タイトル一覧

18966

音を聴く瞑想

18967

今朝方の夢

18968

今朝方の夢の振り返り

18969

太極拳とクラシックギター

18966. 音を聴く瞑想

                                       

ここ最近、再び瞑想実践に戻っていこうとしている自分がいる。以前のように、どこか大きな覚醒体験を求めて座るのではなく、今はもっと静かに、もっと地に足のついた仕方で瞑想に向かいたいと思っている。クラシックギターの練習を続ける中で、音を聴く力、身体の微細な変化を感じ取る力、そして一音が生まれて消えていく瞬間に立ち会う力が、いかに大切かを日々感じているからである。まず取り組んでみたいのは、聞こえてくる音に焦点を当てる瞑想である。呼吸に集中する瞑想も良いが、今の自分には音を入口にすることが自然に思える。窓の外の風の音、鳥の声、部屋の中の微かな軋み。そのような音は、世界が絶えず自分に語りかけている微細な言葉のようである。普段は背景に退いているそれらの音に耳を澄ます時、自分の意識は外へ散っているようでいて、むしろ深く内側へ沈んでいくのかもしれない。音に焦点を当てる瞑想は、クラシックギターの練習にも直接つながっていくだろう。ギターを弾く時、音を出すことばかりに意識が向くと、すでに音は粗くなっている。大切なのは、音を作ろうとする前に、音が生まれる場所を聴いていることである。弦に触れる指先、響きが胴体の中で膨らむ感覚、余韻が空間へ溶けていく時間。それらを聴き取る耳が育てば、演奏は単なる運動ではなく、意識の調律になっていくように思われる。また、かつてのサイケデリック体験をさらに咀嚼していく上でも、瞑想は有用であるように感じる。強烈な体験は、稲妻のように一瞬で空を照らす。しかし、その光が見せた風景を本当に理解するには、日々の静かな灯火が必要である。瞑想は、その灯火のようなものかもしれない。過去の体験を無理に再現しようとするのではなく、その体験が自分の心身に残した模様を、ゆっくり指でなぞるように確かめていく実践である。ただし、いきなり長く座る必要はないだろう。むしろ今は、短い瞑想を一日に三回ほど行うことから始めるのがよい。朝に一度、昼に一度、夜に一度、ほんの数分だけ音に耳を澄ませる。それだけでも、日常の流れの中に小さな泉が生まれるはずである。長時間の実践を一気に始めようとすると、瞑想が義務になり、かえって心が硬くなる可能性がある。短く、軽く、しかし丁寧に行うことが、今の自分には合っている。音は常に生まれ、常に消えていく。そこに執着しようとしても、音は手のひらの水のようにすり抜けていく。だからこそ、音を聴く瞑想は、無常を身体で学ぶ実践でもあるのだろう。クラシックギターの一音も、日常の環境音も、意識の奥に残るサイケデリック体験の余韻も、すべては現れては消える波である。自分はその波を支配するのではなく、波が生まれる海そのものに静かに耳を澄ませていきたい。フローニンゲン:2026/7/4(土)06:39


18967. 今朝方の夢

          

今朝方は夢の中で、小中学校時代の友人たちと一緒にフットサルの大会に出場していた。チームを2つに分けて出場し、どちらのチームも最初の予選リーグを突破した。大会はそこからトーナメントになるのではなく、二次リーグ、決勝リーグという形式を採用していた。もう片方のチームは残念ながら二次リーグで敗退となり、その分自分たちのチームは決勝リーグまで進もうと意気込んだ。決勝リーグ進出をかけた試合は、相手に先制される形で始まったが、自分の右サイドからの高速ドリブルによる突破からのシュートがゴールに決まり、そこからさらに追加点を奪っていって、結局3-1で勝利した。決勝リーグに残ったのはわずか3チームで、ここから総当たり戦をしてチャンピオンを決めることになった。決勝リーグに向けて、ある友人(YU)が自分に助言をしてくれた。彼は普段自分のプレーに関してフィードバックをすることなど全くないのだが、その時は彼もまた自分たちのチームに優勝してほしいという思いがあったのか、自分に対して的確なフィードバックをしてくれた。

次に覚えているのは、小学校と中学校時代に過ごしていた社宅の近くの道路を走る車の中に乗っている場面である。その車は、小中学校時代のある友人(RS)が運転しており、彼と話しながら近場を散策していた。彼から話を聞いて初めて、その辺りにカフェがあることを知った。自分は長くそこに住んでいたのだが、カフェがあることなど全く気づかなかった。それもそのはずで、そのカフェは比較的最近できたばかりとのことだった。彼はその近所に引っ越してきて、週末はそのカフェで寛いでいるそうだった。気がつくと、車から降りていて、見知らぬ若い女性と一緒に見慣れない学校の中にいた。その学校は夜は大人のための授業が行われていて、色々な教室に様々な事柄を教える教師と生徒たちがちらほらいた。そうした光景を横目に、彼女と一緒に校舎の中を散策していると、大学進学についてどうするのかと尋ねられた。自分は全く準備をしていないが、東大に進学するか、それとも東京から離れて、九大を含め、環境を変えるために九州の大学を受験してみるのも悪くないと述べた。しかし、いずれにしても全く準備をしていないので、どの大学に対しても合格するかは全くわからない状態だった。そこでふと、自分はすでに欧米で高度な学位を取得しているのだから、わざわざ日本の大学の学士課程に進学する意味はないと気づいた。それに気づくと、肩の荷が下りて、とても楽な気分になった。フローニンゲン:2026/7/4(土)06:55


18968. 今朝方の夢の振り返り

                

今朝方の夢は、自分の内側に残る少年期の競争心と、現在の成熟した自己理解とが、ひとつの運動場で再会していることを示しているのかもしれない。フットサル大会は、人生を一発勝負のトーナメントではなく、複数のリーグを通じて段階的に深まっていく試練として描いているようである。予選、二次リーグ、決勝リーグという構造は、自分がこれまで歩んできた発達の層を象徴しているのではないだろうか。少年期の友人たちは、過去に置き去りにされた人格の断片というより、自分の中で今も走り続けている古い生命力の化身なのだと思われる。相手に先制される展開は、自分の人生において、いつも最初から優位に立てたわけではないという感覚を映しているのかもしれない。しかし、右サイドからの高速ドリブルによる突破は、自分が外側の定型的な道ではなく、少し脇道を駆け上がることで局面を切り開く力を持っていることを示しているようである。中央突破ではなく右サイドである点が重要である。そこには、王道から少しずれた場所でこそ発揮される創造性がある。まるで狭い水路を一気に流れ抜ける水のように、自分の衝動と集中がひとつになった時、停滞していた試合の空気が変わるのだろう。YUからの助言は、普段は沈黙している内的観察者の声を象徴しているのかもしれない。いつもは見守るだけの存在が、決定的な局面で言葉を与える。これは、自分の中の過去の友人像が、単なる懐かしさではなく、現在の自分を先へ押し出す知恵として働き始めていることを意味しているようである。優勝への意気込みは、他者に勝つことよりも、過去の自分たちの集合体をもう一段高い場所へ連れていく願いなのだと思われる。その後の車の場面では、競技場の熱が静まり、夢は記憶の地層を巡る探索へ移行している。社宅近くの道路は、幼少期から青年期にかけて自分を形作った生活世界の輪郭である。そこをRSが運転していることは、自分が過去を自力で制御しているのではなく、かつての関係性に導かれながら再訪していることを示しているのかもしれない。長く住んでいた場所にカフェができていたという発見は、記憶の土地が固定された博物館ではなく、今も新しい意味を宿す生きた街であることを表しているようである。過去は閉じた箱ではなく、時間の中で発酵し続けるパン種のようなものなのだろう。見知らぬ若い女性と夜の学校を歩く場面は、さらに深い象徴性を持っているのではないだろうか。夜に大人の授業が行われる学校は、表向きの教育ではなく、人生の後半に始まる内的学習の場である。そこで大学進学を問われることは、自分が再び出発点に戻るべきか、それともすでに得たものを認めるべきかという問いを突きつけているようである。東大や九大という選択肢は、権威ある中心へ向かう道と、環境を変えて遠方へ出る道の象徴である。しかし、準備不足への不安は、いまだに自分の中に「まだ足りない」という古い受験的意識が残っていることを示しているのかもしれない。最後に、自分はすでに欧米で高度な学位を取得しているのだから、日本の学士課程に戻る必要はないと気づく。この気づきは、夢全体の結び目をほどく鍵である。自分は過去の試験会場に再び座る必要はなく、すでに別の大陸で別の学びを積んできた存在である。その自覚によって肩の荷が下りるのは、自分が過去の評価制度から自由になりつつあるからだろう。夢は、少年期の競技、故郷の道路、夜の学校を通じて、自分にこう告げているのかもしれない。過去は捨てるものではなく、優しく統合されるべき地層であり、現在の自分はその上に立つ新しい校舎なのである。フローニンゲン:2026/7/4(土)07:41


18969. 太極拳とクラシックギター

                 

クラシックギターの練習は、太極拳に似ているのではないかと思う。太極拳は、外から見るとゆっくりとした動きに見えるが、その内側では重心、呼吸、意識、力の流れが精密に調整されている。ギターの練習もまた、速く弾けることや多くの曲をこなすこと以上に、一音を生み出すまでの身体の使い方、意識の置き方、余分な力の抜き方が重要なのだろう。弦に触れる右手の指は、太極拳における手の運びに似ている。強く押し込めばよいわけではなく、弱すぎても音は立ち上がらない。必要なのは、最小限でありながら十分な力である。爪が弦に触れ、弦をとらえ、解放する。その瞬間に、力は腕から指先へと流れ、音として空間に放たれる。これは打撃ではなく、流れである。弦を鳴らすというよりも、弦の中に眠っている響きを起こしてあげるような感覚に近い。左手もまた、力で弦を制圧するのではなく、必要な場所に必要な重さを置くことが大切なのだろう。フレットを押さえるという動作は、石を握りしめることではなく、水面に指を沈めることに似ている。力みすぎれば手首や肩に緊張が生まれ、音の通り道が狭くなる。太極拳で体の中心が崩れると動き全体が硬くなるように、ギターでも左手の一箇所の緊張が、音色、リズム、呼吸のすべてに影響を与えるのである。太極拳としてギターを練習するとは、音を出す前の準備を深く味わうことでもある。次の音に移る前に、指はすでに向かうべき場所を知っているだろうか。右手は次の弦の近くで静かに待っているだろうか。左手は移動の軌道を無駄なく描いているだろうか。こうした微細な問いを持ちながら練習すると、演奏は単なる反復ではなく、意識の武術になる。外側には小さな動きしか見えなくても、内側では全身の気配が絶えず編み直されている。呼吸も重要である。息が止まると、身体の内側の川の流れも止まり、指先だけで問題を解決しようとしてしまう。しかし、息が流れていると、音も流れやすい。吸う息で準備し、吐く息で音を解放する。すると一音一音が、身体の奥から自然に現れてくるように感じられる。太極拳の動きが呼吸と切り離せないように、ギターの音も呼吸と切り離せないのである。速く弾く練習も、太極拳的に捉えるなら、速度そのものを追いかけることではない。ゆっくりした動きの中で、すでに速さの種を育てておくことが大切である。遅いテンポで余計な力や無駄な移動を残したままでは、速くしたときにそれらが一気に露呈する。反対に、遅いテンポで重心、呼吸、指の距離、音の質が整っていれば、速度は後から自然に立ち上がってくる。速さとは急ぐことではなく、抵抗が少なくなることで生まれる現象なのだろう。こう考えると、ギターの練習は自分の意識状態を映す鏡である。焦っている日は音が硬くなり、力んでいる日は指が遅れる。静かに自分の中心に戻れている日は、音が丸く、動きも滑らかになる。ギターは嘘をつかない。弦は自分の内面の緊張をそのまま響きに変える。だからこそ、日々の練習は、音楽の訓練であると同時に、自分の心身を調律する稽古なのである。これからは、クラシックギターを太極拳のように練習していきたい。力で押し切るのではなく、流れを整える。指を急がせるのではなく、身体全体の通り道を開く。一音を勝ち取るのではなく、一音を迎え入れる。そのような姿勢で楽器に向かうとき、ギターは単なる演奏技術の対象ではなく、自分の意識と身体を統合してくれる静かな道場になるのだと思う。フローニンゲン:2026/7/4(土)08:34


Today’s Letter 

I always try to fully activate all the functions of my body and mind. I constantly discover latent dimensions waiting to be activated. Groningen, 7/4/2026

 

 
 
 

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