【フローニンゲンからの便り】18962-18965:2026年7月3日(金)
- 7月5日
- 読了時間: 11分

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タイトル一覧
18962 | メロディーを探究する時期 |
18963 | 今朝方の夢 |
18964 | 今朝方の夢の振り返り |
18965 | 近くにある上達の鍵 |
18962. メロディーを探究する時期
時刻は午前6時を迎えた。今、一羽の小鳥が清澄な鳴き声を上げており、美しい朝日が室内に差し込んでいる。気温は14度と低く、今週はまた涼しい日々が続くようで何よりである。夏の季節がひんやりと涼しいことは、脳を働かせることに関して非常に助かる。エディンバラはフローニンゲン以上に夏が涼しいようなので、来年の夏はとても楽しみである。
今はハーモニーを意識するよりも、美しいメロディーを探究する時期なのだと思う。和声は音と音の関係性の建築であり、そこには空間を組み立てる知性がある。一方でメロディーは、もっと一本の息に近い。空間を構築するというより、内側から生まれた生命の線を、時間の中にそっと伸ばしていく営みである。今の自分に必要なのは、複雑な構造を積み上げることよりも、まず一つの旋律がどこから生まれ、どこへ向かおうとしているのかを丁寧に聴き取ることなのだろう。メロディーに関する理論書の“Melody Writing and Analysis”を片手に練習していると、旋律にも確かな文法があることがわかる。音程の跳躍、順次進行、緊張と解決、頂点の作り方、反復と変化。そうした理論は、旋律を縛る鎖ではなく、むしろ内側の歌をより鮮明にするための地図であるように感じられる。地図があるから旅がつまらなくなるのではない。地図があるからこそ、目の前の小道や丘の起伏をより深く味わえるのである。理論は感性の敵ではなく、感性が迷子にならないための静かな灯である。しかし、最も大切なのは、理論書の中に美しいメロディーが眠っているわけではないということである。旋律は、自分の内側から湧き上がってくる。それは、泉のように突然澄んだ水を噴き出すこともあれば、地下水のように長く見えない場所を流れた後で、ようやく音として現れることもある。ギターを手にして即興的に音を探っていると、自分の中にまだ言葉になっていない感情や記憶が、一本の旋律として姿を取り始める瞬間がある。メロディーとは、言葉になる前の思考であり、輪郭を持つ前の祈りのようなものなのかもしれない。ハーモニーを意識しすぎると、音を縦に捉えようとする心が強くなる。どの和音に着地するのか、どの機能を持つのか、どの進行が自然なのか。その問いは重要であるが、今は少し横に流れる力を育てたい。旋律は、川の流れに似ている。岩にぶつかり、蛇行し、時に細くなり、時に広がりながら、それでも自分の行き先を知っている。美しいメロディーを奏でるとは、音を支配することではなく、その川がすでに持っている流れに耳を澄ませることなのだろう。自分のうちから湧き上がる旋律を奏でる練習は、単なる作曲や即興の訓練ではないように思える。それは、自分の内側にある微細な動きを聴き取る修行である。どの音に自然と惹かれるのか、どの音に違和感があるのか、どこで息を吸いたくなるのか、どこで沈黙が必要になるのか。そうした一つ一つの感覚を丁寧に観察していくと、ギターは楽器であると同時に、意識の水面を映す鏡になる。美しい旋律は、外側から作るものではなく、内側の濁りが少しずつ澄んでいく中で、自然に浮かび上がってくるものなのかもしれない。今は壮麗な和声の宮殿を建てる前に、一本の美しい道を歩く時期である。複雑なコード進行に身を預ける前に、自分の内側から生まれる一音の行方を信頼したい。旋律の探究とは、音楽的技術の訓練であると同時に、自分の生命がどのように歌いたがっているのかを知る営みである。今日も理論書を傍らに置きながら、しかし最後には本を閉じ、耳と指と呼吸に委ねてみる。そこから立ち上がる一本の旋律が、今の自分に必要な道を静かに示してくれるように思うのである。フローニンゲン:2026/7/3(金)06:25
18963. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、同じ小学校に通っていた一学年上のある先輩と話をしていた。その先輩とは同じサッカーチームに所属しており、先輩はサッカーを愛していたこともあり、サッカー部がある中学校に入学することになった。私はその先輩とその中学校のサッカー部の練習内容についてまず尋ねた。その中学校の先輩の世代のバスケ部は非常に強く、それでいて顧問の先生が指導するのではなく、キャプテンを中心に自分たちでメニューを決めて練習をしているようだった。それと同じくサッカー部でも自主的に練習しているのかと尋ねたところ、バスケ部ほどではないが、概ね状況は同じとのことだった。中学生であっても自分たちでメニューを決めて自主的に練習することができるのだと改めて気づき、質を上げて自律的な練習に取り組めるチームは強いのだと思った。先輩としばらく話をしていると、気がつくと夜になっていた。話をしていた場所は、その中学校が宮殿化した場所で、夜のその場所は非常に荘厳な雰囲気を放っていた。その雰囲気を全身に浴びながら、宙に浮いて空を飛んで帰ることにした。先輩と話をしてエネルギーをもらえたからなのか、空を飛ぶ速度がいつもよりも圧倒的に早く、光速に匹敵する速さで空を気持ち良く飛んでいた。
もう一つ覚えているのは、見知らぬ城のような建物の上層階のバルコニーの地べたに座り、朝に見ていた夢をノートに書き留めている場面である。熱心に夢を書き留めていると、小中高時代のある女性友達(NI)がやって来て、「何をしているの?」と静かに声をかけてきた。「夢を書き留めているんだ」と答えると、彼女は興味深そうにノートに目を落としたが、自分の筆致は自分だけが認識できる走り書きだったので、どのようなことが書き留められているのかは彼女にはわからないようだった。彼女が時々自分の夢の中に出てくることがあると伝えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。フローニンゲン:2026/7/3(金)06:45
18964. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の中で学ぶ主体が「導かれる存在」から「自ら練習体系を設計する存在」へ移行しつつあることを象徴しているのかもしれない。小学校時代の一学年上の先輩は、過去の自分にとって少し先を歩いていた発達上のモデルであり、しかも同じサッカーチームにいたという点で、競技的努力と共同体的学習の記憶を担う人物であるように思われる。その先輩に中学校の練習内容を尋ねる場面は、自分が今、クラシックギターや研究や生活移行において、どのように自律的な練習環境を作るべきかを内側から問い直していることの表れなのだろう。夢の中で強調されていたのは、顧問の先生による上からの指導ではなく、キャプテンを中心に自分たちでメニューを決める練習である。これは、自分の内面における教師像が、外部の権威から内的なキャプテンへと移行していることを示しているのかもしれない。強いチームとは、単に才能ある選手が集まった集団ではなく、各人が自分の動きを観察し、課題を発見し、練習の質を上げていく生きた生態系である。森が一本の大木だけで成り立つのではなく、根、菌糸、湿度、光、風の相互作用によって呼吸するように、優れた練習共同体も、外から与えられた規律ではなく、内側から生じる秩序によって強くなるのである。中学校が夜の宮殿へと変容する場面は、過去の学びの場が、単なる記憶ではなく、内面の聖域として再編成されていることを暗示しているようである。昼の学校は制度の場所であるが、夜の宮殿は霊的な成熟の場所である。そこでは、かつての部活動や先輩との会話が、単なる懐かしさを超えて、自分の現在の探究を支える象徴的建築物へと変わっているのだろう。夜の荘厳さを全身に浴びる感覚は、自分が過去からエネルギーを受け取り、それを現在の飛翔力へと変換していることを示しているのかもしれない。その後、宙に浮かび、光速に匹敵する速さで空を飛ぶ場面は印象的である。これは、対話によって内的エネルギーが解放され、身体が重力から一時的に自由になる感覚を表しているのだろう。重力とは、習慣、迷い、自己制限、過去の固定観念である。それに対して飛翔とは、練習や探究の質が高まったときに生じる、意識の速度である。自分は今、外的な強制ではなく、自律的な鍛錬によって、これまでよりも速やかに次の段階へ移行できるという予感を夢の中で味わっていたのかもしれない。もう一つの場面では、見知らぬ城の上層階のバルコニーで夢を書き留めている。これは、夢を見ている自分と、夢を記録する自分が重なり合う、二重の意識の構造を示しているようである。城の上層階は、無意識の素材を見晴らす高い観察点であり、バルコニーは内面世界と外界の境界に位置する場所である。地べたに座って書くという姿勢は、高い場所にいながらも、解釈が抽象的に浮遊するのではなく、身体と地面に根ざして行われるべきだという示唆かもしれない。そこに現れるNIは、過去の親密な関係性や、柔らかな承認の象徴であるように思われる。彼女がノートを覗き込むが読めないという場面は、自分の夢の文字が他者には完全には共有できない内的言語で書かれていることを表しているのだろう。夢日記とは、魂が夜に受け取った暗号を、朝の手で急いで写し取る作業である。その筆致は乱れていても、自分にとっては星座のように意味を持つ。彼女が微笑む場面は、その暗号が他者に読解されなくても、夢を大切にする姿勢そのものが静かに祝福されていることを示しているのかもしれない。全体としてこの夢は、自律的な練習、過去からのエネルギー、夢を記録する営み、そして他者からの穏やかな承認が一つに結びついた夢であるように思われる。自分は今、外から教えられる段階を越え、自分の内なるキャプテンを育て、練習と記録と飛翔を統合する時期に入っているのだろう。夢はそのことを、夜の宮殿と光速の飛行、そして読めないノートに微笑む友人という美しい象徴で告げていたのである。フローニンゲン:2026/7/3(金)07:30
18965. 近くにある上達の鍵
ブランダン・エイカー氏の助言の核心は、上達を妨げているものは、才能や努力量の不足ではなく、しばしば「見えなくなった基礎習慣」であるという点にある。同じ時間だけ練習し、同じように真剣に取り組んでいるにもかかわらず、一方は着実に伸び、もう一方は停滞する。その差を人はすぐに才能や根性の問題として捉えがちである。しかしエイカー氏は、それよりももっと小さく、もっと根本的なものに目を向けている。それは、最初の段階で身につけた些細な誤解や癖である。ギターで言えば、右手の弦への触れ方、指を離す距離、左手の押弦の圧、手首や肩の余計な緊張、音を出す瞬間の呼吸、練習中の注意の向け方などがそれにあたるだろう。これらは一つひとつを見ると小さな要素である。しかし小さなズレが基礎部分にあると、その上にどれだけ練習を積み重ねても、建物全体がわずかに傾いたまま高くなっていく。ある段階までは問題なく進めても、速度、音色、安定性、表現力を求める段階で、その傾きが急に大きな制約として現れるのである。重要なのは、そうした基礎習慣は長く続くほど見えなくなるという点である。最初は癖だったものが、いつの間にか「自分の普通」になる。手に力が入っていることも、指が遠くへ跳ねていることも、音を出す前に身体が固まっていることも、本人には自然なことに感じられる。そのため、上達が止まった時に「自分には才能がない」「自分は向いていない」と考えてしまう。しかし実際には、自分自身に限界があるのではなく、土台のどこかに再点検すべき習慣が隠れているだけかもしれないのである。この助言は、練習に対する見方をかなり変える。停滞した時に必要なのは、必ずしも練習量を増やすことではない。むしろ、何を取り除くべきかを見極めることである。上達とは、新しい技術を次々に付け足すことだけではなく、余計な力、余計な動き、余計な思い込みを削ぎ落とすことでもある。音楽的な成長は、彫刻に似ている。石に何かを加えるのではなく、不要な部分を取り除くことで、すでに内側にあった形が現れてくる。クラシックギターの練習に引きつければ、停滞は失敗の証ではなく、基礎を見直す招待状である。音が不安定になる、速く弾くと崩れる、ある箇所だけ毎回詰まる、音色が薄くなる。そのような現象は、能力不足を告げているのではなく、どこかに隠れた非効率があることを知らせている可能性が高い。したがって、落ち込むよりも、観察の解像度を上げることが重要である。エイカー氏の言葉で特に励まされるのは、上達は思っているほど遠くにない、という認識である。長年の癖が原因であれば、それを明確に見つけた瞬間に、改善は意外なほど早く起こりうる。新しい能力を獲得したからではなく、これまで能力の発露を妨げていたものが取り除かれるからである。つまり、進歩とは努力の追加ではなく、妨害物の発見と解除によって生じることがある。この助言は、練習者に対して非常に優しい視点を与えている。停滞している自分を責める必要はない。むしろ、自分の中にすでに育ちつつある可能性を妨げている、小さな習慣を丁寧に見つければよいのである。上達の鍵は、遠くにある特別な才能ではなく、足元に埋もれた基礎の再発見にあるのだろう。フローニンゲン:2026/7/3(金)08:42
Today’s Letter
Every dream I have brings me a precious message. Whether I can receive it meaningfully depends on how deeply I reflect on it. All dreams nurture me. Groningen, 7/3/2026

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