【フローニンゲンからの便り】18950-18953:2026年6月30日(火)
- 7月2日
- 読了時間: 11分

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タイトル一覧
18950 | W杯の敗戦を受けて/conceptionの持つ二重性 |
18951 | 今朝方の夢 |
18952 | 今朝方の夢の振り返り |
18953 | 良遍の註釈研究における西谷啓治、西田幾多郎、井筒俊彦の思想の役割 |
18950. W杯の敗戦を受けて/conceptionの持つ二重性
時刻は午前6時半を迎えた。昨夜はW杯の日本対ブラジル戦を観戦していた。残念ながら日本はロスタイムに失点し負けてしまったが、今回の大会を通じての学びをここからの日本サッカー界に還元してほしいと思う。午前5時半に起床した時に、ちょうどオランダがモロッコとPK戦を始めたようで、オランダのキッカーが決めた時に近所から喜びの大絶叫があった。しかしオランダも敗れ、しばらくしてモロッコの勝利を祝う爆竹の音がしばらく聞こえた。フローニンゲンにはモロッコからの移民がちらほらいて、彼らがそれを行ったのだと思う。隣国のドイツもパラグアイにPK戦で敗れたし、これから生活拠点となるスコットランドは予選で敗退した。自分とゆかりのある国々が敗退していくのはどこか喪失感をもたらす。
昨日、英語のconceptionという語が持つ二重性について考えていた。概念という意味と、懐胎という意味。その二つが同じ語の中に宿っていることは、単なる偶然以上のもののように思われる。世界を知るとは、外にあるものをただ写し取ることではなく、自分の内側に何かを宿し、それを時間をかけて育て、やがて一つの意味として産み落とすことなのかもしれない。唯識の観点から見ると、この直感はとても自然である。自分が世界を見るとき、そこにはすでに阿頼耶識に蓄えられた種子が働いている。対象は外側に完成品として置かれているのではなく、過去の経験、習慣、感情、言語、身体感覚が縁となって、認識の中に現れてくる。つまり、見ることは受け取ることではなく、孕むことである。色や音や他者の表情は、自分の意識の子宮に入り込み、そこで過去の種子と結びつき、一つの世界像として育っていくのだろう。概念もまた、乾いた定義ではないのだと思う。概念とは、意識の中で受胎した世界の胚のようなものである。最初は小さな違和感や直感にすぎない。それが経験という羊水の中で育ち、言葉という骨格を持ち、感情という血流を得て、やがて思想や表現になる。自分が何かを本当に理解するとき、それは単に頭の中で説明できる状態ではなく、その理解が自分の存在の奥で温度を持ち始める状態なのだろう。量子論哲学の観点から見ても、世界を知ることは単純な反映ではなさそうである。量子の世界では、観測以前に対象が古典的な性質をすべて確定的に持っていると考えることは難しい。観測とは、すでに完成した事実を覗き込むだけの行為ではなく、可能性の広がりから、ある現実を関係的に成立させる出来事なのだろう。QBism的に言えば、観測は主体が世界に賭ける行為であり、関係的量子力学的に言えば、性質は観測者との関係において立ち現れる。ここでも、知ることは外界のコピーではなく、世界との接触によって何かを生み出す出来事である。そう考えると、唯識と量子論哲学は、異なる言語で同じ深い感覚に触れているように思われる。世界は、向こう側に完成品として横たわっている岩のようなものではない。むしろ、意識と出来事の出会いの中で芽吹く庭のようなものだろう。種子があり、条件があり、接触があり、そこに認識という発芽が起こる。自分が世界を知るたびに、世界もまた自分の内側で少しずつ別の姿を得ているのかもしれない。もちろん、これは独我論ではない。自分が勝手に世界を作っているということではない。むしろ、自分と世界が互いに触れ合う場において、経験が懐胎されるということである。母体が胎児を一方的に作るのではなく、胎児との関係の中で母体自身も変化していくように、世界を知る自分もまた、知る対象によって変えられていく。理解とは、対象を所有することではなく、対象によって自分が変容させられることなのだろう。conception という語は、その秘密を静かに教えてくれているように思う。概念を持つとは、世界を閉じ込めることではない。世界の小さな命を内側に宿すことである。そして本当に深い認識とは、その宿したものを急いで言葉にせず、十分に温め、沈黙の中で育てることなのかもしれない。自分がこれから研究し、音楽を奏で、仏教を学び、量子論哲学と唯識を架橋していく営みもまた、世界を懐胎し続ける長い修行なのだと思う。フローニンゲン:2026/6/30(火)06:48
18951. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、大学時代のサークルの4歳年上の先輩と一緒に日帰り観光の話をしていた。その先輩が親切にも自宅まで車で迎えに来てくれることになった。集合は朝の6時と早いが、移動時間を含めると妥当のように思えた。先輩はかつて目的地近辺に住んでいたらしく、その間に色んな場所を巡り、その土地に精通しているとのことだった。私たちはまず大麻博物館と大麻神社に足を運ぶことにした。そこに午前中行き、午後からも近くの観光地を巡ることにした。
次に覚えているのは、母が黒人の小さな男の子の子守りをしている場面である。私もそれを手伝うことにしたが、基本的に私はパソコンの前にいて、時折2人の様子を伺っていた。母はその子が迷子になったり、拐われたり、怪我をしたりしないように注意していた。その男が手に持っていたパーカーにはQRコードがあって、それが彼の身分証の代わりになっていた。最近はそのような便利なものがあるのかと感心しながら、仕事がひと段落したので、そこからは自分もその子の近くに行って彼と一緒に遊ぼうと思った。
最後に覚えているのは、両親と一緒に地元の小さな旅館を訪れていた場面である。かつて住んでいたアパートの前を走る大きな国道沿いにあるその旅館のことを自分は知らず、どうやら最近できたばかりの旅館のようだった。厳密には、その旅館は老舗なのだが、最近改築が終わったと述べた方が正確である。そんな旅館に宿泊のため訪れると、受付の中年女性が面白い話を聞かせてくれた。その旅館が製造しているオリジナルの醤油が外国人観光客に大人気のようで、連日大量に売れているとのことだった。外国人観光客がなぜその旅館の醤油を購入しているのかはわからなかったが、地元の綺麗な海からもたらされる塩の品質が高いことや近くの山から湧き出る水が綺麗なこと、そしてその旅館の醤油の製造技術が高いことが観光客に知られているのかもしれないと考えていた。フローニンゲン:2026/6/30(火)06:59
18952. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、外へ向かう旅、弱い存在へのまなざし、故郷の再発見という三層構造を通じて、自分の内面で起きている移行を象徴しているように思われる。最初の場面で大学時代の先輩が車で迎えに来るのは、自分より少し先を歩んできた過去の知的・社会的自己が、現在の自分を次の場所へ運ぼうとしている姿かもしれない。朝6時という早い集合時刻は、まだ意識が完全に明るくなる前に始まる旅であり、夜明け前の港に船が静かに入ってくるような、変化の予兆を示しているであろう。大麻博物館と大麻神社という組み合わせは興味深い。博物館は知識化された過去であり、神社は聖化された根源である。大麻は現代ではしばしば規制や逸脱のイメージを帯びるが、古来の文脈では麻、祓い、結界、神聖性とも結びつく。つまりこの夢では、自分が何か曖昧で扱いにくい力、社会的には誤解されやすいが、本来は清めや変性意識に関わる力に近づこうとしているのかもしれない。先輩がその土地に詳しいことは、自分が未知の領域へ単独で突入するのではなく、過去の縁や経験に案内されながら進もうとしていることを示しているようである。次の場面では、母が黒人の小さな男の子を守っている。ここで現れる子どもは、自分の中にある異質で、まだ言葉にならず、社会的身分も安定していない生命力の象徴である可能性がある。黒人の男の子という他者性は、自分の既存の文化的枠組みの外から来る感性、身体性、リズム、無垢なエネルギーを表しているのではないか。母はその子が迷子にならないよう、拐われないよう、怪我をしないように見守っている。これは自分の内なる養育的機能が、新しく生まれつつある感性を守っている姿であろう。しかし自分は最初、パソコンの前にいる。これは知的作業や管理的意識がまだ中心にあり、内なる子どもとの関係が画面越しの観察にとどまっていることを示すのかもしれない。男の子のパーカーに付いたQRコードは、現代的な身分証である。存在が一枚の布に刻まれた記号によって保証されるという構図は、魂の名札がデジタルの格子に変わったような印象を与える。自分はそれに感心しているが、やがて仕事がひと段落し、その子の近くへ行き、一緒に遊ぼうとする。ここには、情報として他者を認識する段階から、身体的に関わる段階への移行が示されていると思われる。最後の旅館の場面は、夢全体の統合点である。地元の国道沿いにあるのに知らなかった旅館は、自分の故郷的基盤の中にまだ発見されていなかった資源があることを示しているのではないか。しかもそれは新築ではなく、老舗の改築である。これは自分の古い自己、家族的記憶、土地に根ざした感性が、近年になって新しい器を得たことを象徴しているようである。古い井戸に新しい欄干が取り付けられ、そこから再び水を汲めるようになったようなものである。旅館の醤油が外国人観光客に人気であることは、非常に重要である。醤油は時間、塩、水、技術、発酵によって生まれる。地元の海の塩、山の湧き水、旅館の製造技術は、自分の経験、清澄な感受性、長年培ってきた探究技術を暗示しているのかもしれない。自分にとって当たり前すぎて見過ごしていた土地の味が、外から来た人々には貴重なものとして受け取られている。これは、自分のローカルな経験や日本的・仏教的な感性が、国際的な文脈で新たな価値を持ち始めていることを告げる夢であろう。全体として、この夢は、外界の観光ではなく、自分の内面の発酵蔵を巡る日帰りの巡礼であるように思われる。先輩が案内する未知の聖地、母が守る異質な子ども、改築された地元旅館の醤油は、それぞれ過去、未来、根源を表しているのかもしれない。自分は今、知識を集める旅人から、弱い生命を守る養育者へ、そして土地の味を世界に差し出す醸造者へと変わりつつあるのであろう。フローニンゲン:2026/6/30(火)08:15
18953. 良遍の註釈研究における西谷啓治、西田幾多郎、井筒俊彦の思想の役割
書籍の整理をしていると、不思議なことに、棚から本を取り出しているはずなのに、同時に自分の内側の棚も整理されているように感じられる。良遍の作品の註釈研究に向かう際、西谷啓治、西田幾多郎、井筒俊彦の思想を参照したいと思ったのは、おそらく偶然ではない。良遍の法相唯識を単なる中世教学として読むのではなく、現代の哲学的言語へと開いていくための三つの窓が、彼らの思想の中に見えたのだろう。西田幾多郎は、良遍を読む際の根本的な参照点になりうる。特に重要なのは、純粋経験、場所、絶対矛盾的自己同一である。唯識においては、対象が心の外に独立してあるのではなく、識の構造の中で現れてくる。このとき西田の場所の論理は、識が諸法を映し出す単なる主観ではなく、主観と客観が分かれる以前の開けとして理解するための補助線になるかもしれない。良遍が論じる一心、唯識、三性、円成実性は、西田的に言えば、分別以前の経験が、自己限定を通じて世界として現れる構造として読み直せる可能性がある。西田は、良遍の教学を近代哲学の概念へ乱暴に翻訳するためではなく、むしろ良遍の思考が持つ深い非二元性を、現代語で呼吸させるための肺のような役割を果たすのではないか。西谷啓治は、空の問題をめぐって重要になるだろう。良遍の唯識は、心を実体化する思想ではなく、遍計所執を空じ、依他起を正しく見、円成実へと開かれていく実践的構造を持つ。ここで西谷の空の立場は、単に存在を否定する虚無ではなく、自己と世界が根底から転じる場として参照できるように思われる。西谷が虚無をくぐり抜けて空へ至ろうとしたように、良遍の唯識もまた、外境への執着、自己への執着、法への執着をくぐり抜けて、世界が別様に現れる地点へ導こうとしているのだろう。西谷は、良遍の救済論的な側面、すなわち識の転換が単なる認識論ではなく、生の根底の転換であることを照らす灯火になるかもしれない。井筒俊彦は、良遍の註釈研究において、言語、意味、意識の深層構造を考えるための参照点になる。井筒は、東洋思想を比較哲学的に読み解き、言葉が存在を切り分ける働きと、言葉以前の意味の深層を鋭く見つめた思想家である。良遍のテキストには、名、相、分別、仮設、如、性といった語が頻出するが、それらは単なる術語ではなく、世界がどのように意味として立ち上がるかを示す符号のようである。井筒の意味分節論を参照すれば、唯識における分別とは、単なる誤った思考ではなく、無分節のリアリティが言語と認識によって分節され、世界として経験される過程として理解できるのではないか。三人を並べてみると、西田は経験と場所の深みを、西谷は空と転換の深みを、井筒は言語と意味の深みを与えてくれるように思われる。良遍の註釈研究は、文献学的な精密さを失ってはならないが、それだけでは良遍の思想が持つ生きた力を十分に汲み尽くせないかもしれない。原文の一語一語を丁寧に読みながら、その背後にある経験の大地、空の深淵、意味生成の霧のような運動に耳を澄ます必要があるのだろう。書籍を整理する手つきは、やがて思想を整理する手つきと重なっていく。不要な本を手放しながら、自分はむしろ、これから本当に携えていくべき思想の星座を選び直しているのかもしれない。フローニンゲン:2026/6/30(火)08:56
Today’s Letter
My existence is composed of countless living cells. It resembles a vast ocean, and I am grateful for every wave that rises and falls within it. Groningen, 6/30/2026

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