top of page

【フローニンゲンからの便り】18841-18846:2026年6月10日(水)

  • 6月12日
  • 読了時間: 21分


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

18841

新天地への期待/より身軽な旅人への変容

18842

今朝方の夢

18843

今朝方の夢の振り返り

18844

発達の幾何学/フラクタル次元と変動性の関係

18845

知性のネットワーク脆弱性を超えて豊かな連結性へ

18846

親友のメルヴィンが与えてくれたこと/希望の種蒔き

18841. 新天地への期待/より身軽な旅人への変容


—静かな眼 平和な心 その他に何の宝がこの世にあろう—三好達治


時刻は午前6時を迎えた。今、見事な朝日が遠くの空に輝いている。フローニンゲンのこの季節は本当に素晴らしい。確かに今朝の気温は10度と冷え込んでおり、午前5時に外に出てHIITを行った際には寒さを感じたが、暑さよりも自分は寒さを好む。自分の日々の活動の性質を踏まえると、暑さは集中力の大敵であり、涼しい気候を自分は心底望む。そんな環境がここにはある。そんなフローニンゲンをいよいよ2ヶ月半後に離れる。今度の生活拠点はエディンバラだ。エディンバラはフローニンゲン以上に夏が過ごしやすいとのことでとても楽しみである。冬に関しては雪が降ることは意外と少ないらしく、それは北海などの海洋性気候の影響なのかもしれない。例えば、今日のフローニンゲンの最高気温は16度、最低気温は10度だが、エディンバラは最高気温が14度、最低気温が7度となっている。フローニンゲンは真夏において30度に到達する日が数日ぐらいあるが、エディンバラはそれはほとんどないようだ。今年から実際に現地で暮らしてみて、その土地固有の気候を楽しみたいと思う。振り返ってみると、この15年間の中で実に様々な場所で暮らしてきた。大阪を出発し、サンフランシスコへ。そしてそこからニューヨーク、ロサンゼルス、東京、フローニンゲンと生活拠点を変えてきた。生活拠点を変える都度、そこには新たな感覚への開かれがあり、自己を深めることにつながった。次のエディンバラは、街全体がユネスコ指定の世界遺産ということもあり、歴史的風土の中でまた自分は自己を深めるだろう。

ここ最近はもっぱら書籍の断捨離を行なっている。書籍への執着を手放したとき、自我はおそらく一度、少し足場を失ったような感覚を覚えるのではないかと思う。本棚に並んだ本は、単なる知識の保管庫ではなく、自分が何者であるかを外側から支えてくれる鏡のようなものだったからである。成人発達理論、唯識、量子論、意識研究、ウィルバー、カストラップ、スメザム、それらの書籍群は、自分の知的遍歴を目に見える形で証明してくれる風景であった。その風景が少しずつ消えていくとき、自我は「これまでの自分はどこへ行くのか」と静かに問うかもしれない。しかし、その問いは同時に、自我がこれまで外的対象によって自分を補強していたことを明らかにする問いでもある。本を所有することによって、自分は学んでいる、自分は探究している、自分はこの道を歩んできた、という自己像を確認していたのだろう。唯識的に言えば、そこには末那識が作り出す微細な我執があったように思われる。本そのものに執着していたというより、本を通じて確認される「学ぶ者としての自分」に執着していたのかもしれない。書籍への執着を手放すとは、知を捨てることではない。むしろ、知を外側の所有物から内側の変容へと移すことである。本は読み終えられた時点で、すでに阿頼耶識に種子を残している。紙の本は棚から消えても、その本によって揺さぶられた問い、開かれた視点、形成された感受性は、自分の深層に刻まれている。ならば、手放されるのは知そのものではなく、「知を持っている自分」という外的な飾りである。そのとき、自我は少し軽くなるのではないかと思う。これまでは、知的な自己像を維持するために、無数の背表紙を鎧のようにまとっていたのかもしれない。しかし鎧は自分を守る一方で、動きを鈍くする。書籍を大量に抱えて移動することは、過去の自己像をそのまま背負って次の土地へ渡ろうとすることに似ている。今、その鎧を脱ぎ始めているのだろう。裸になるというより、より身軽な旅人になるのである。一方で、自己はむしろ広がっていくように思われる。ここでいう自己は、固く閉じた自我ではなく、経験を受け取り、消化し、次の形へ変えていく深い流れである。自我は本を所有しようとするが、自己は本から受け取ったものを生きようとする。自我は証拠を求めるが、自己は変容の事実だけで足りる。自我は「これは自分の本だ」と言うが、自己は「これはすでに自分の血肉になった」と静かに知っている。これからの人生は、所有の人生から流通の人生へ移っていくのではないかと思う。本を抱え込むのではなく、読んだものを言葉にし、講義にし、文章にし、夢の解釈にし、人との対話にし、次の研究に流していく人生である。知識は貯蔵される水ではなく、流れて初めて澄んでいく川である。溜め込みすぎた水は濁るが、流れる水は新しい地形を削り、やがて谷を作り、森を潤す。エディンバラへの移動もまた、この変化と重なっているように思われる。自分はこれまで、長い年月をかけて多くの知を集めてきた。しかし次の段階では、集めた知をどれだけ持っているかではなく、それをどのように生き、どのように研究へ結晶させ、どのように他者へ手渡すかが問われるのだろう。書籍を減らすことは、知的生活の縮小ではなく、知的生活の相転移である。氷が溶けて水になるように、固定された所有物が、動きのある実践へ変わっていくのである。書籍への執着を手放したあとの自分は、以前よりも少し不安で、同時に少し自由になるのだと思う。不安は、外側の証拠を失うことから来る。自由は、その証拠なしでも自分の歩みを信頼できるようになることから来る。おそらくこれからの人生では、所有している本の量ではなく、自分の内側でどれだけ深く熟成した問いを持っているかが、自分を支えていくのだろう。結局のところ、書籍を手放すことは、自分の過去を捨てることではない。過去を物質から解放し、未来へ運びやすい形に変えることである。本棚は小さくなる。しかし、自分の内側にある見えない書架は、かえって深くなる。その見えない書架を信頼できるようになったとき、自我は少し静まり、自己はより大きな流れの中で歩き始めるのだと思う。フローニンゲン:2026/6/10(水)06:16


18842. 今朝方の夢 

           

今朝方の夢は幾層にも積み重なるものだった。あるいは、一連の水平的な流れとして展開していた。まず覚えているのは、見慣れないセミナールームで、大学の日本人男性の数学教授が講義する数列の授業に参加していた場面である。近くには小中高時代のある親友(NK)がいて、彼と私は、ホワイトボードに書かれた解答を必死に書き写していた。ところがあるときに、教授の文字が読みづらかったことも手伝って、解答を写すことをやめた。それが突然不毛に思えたのである。そもそもその問題は今の自分には難解であるし、もう二度と出会わないような問題に思えたため、単に解答を書き写すのではなく、解答アプローチとプロセスの双方の大枠を頭に入れておくことに留めることにした。すると大変気が楽になった。親友の彼は私が隣にいて一緒に授業を受けていることに感謝の気持ちを表明してくれたので、一応最後までそこにいることにした。すると、今度はセミナールームに大学の進路相談の専門家がやって来た。そして小中高時代のある女性友達(YY)が現れ、私にある名門の石油会社への就職を勧めて来たのである。私は彼女の提案をありがたく受け止めたが、自分の進路は明確であり、独立して自由に活動していくというものだった。

次に覚えているのは、大きめの単語カードにパンと鯖を挟んで食べるという変わった場面だった。実際に食べたのは、カードに挟まっているパンと鯖の部分で、それを一口食べると、父が現れた。父が私にある行動を示してくれた。それは、自分が食べ終えた小さな容器に入ったヨーグルトに基づくものだった。父が示してくれたのは、ヨーグルトが入った容器を洗わずにそこに米を入れて、それを炊飯器に入れて炊くと美味しく炊けるとのことだった。そんなやり方は聞いたことがないと思ったが、ヨーグルトの甘味や乳酸菌によって味を変える変化が起こる可能性があるのかもしれないと思った。それを通じて炊き上がったご飯がとても楽しみだった。


もう一つ覚えているのは、高校時代のある友人(HH)が突然長く大きな布団にくるまって、欧州のどこかの街を転がるという場面である。転がり続ける彼の横に自分は常にいて、回転運動が落ち着くと、布団が小さくなっていたので驚いた。布団にくるまる彼と合わせて枕ほどのサイズになっていた。すると場面は突然変化し、夏祭りを楽しむ2人の男女を映し出していた。私は夢を目撃する者として、2人を見守っていた。2人は最初、冷水に入ったフルーツを選んで食べようとしていた。特にブドウのふさが輝いていて、とても美味しそうに思えた。しかし2人はあえてフルーツを選ばず、隣の露店のジュースを購入することにした。そこに置かれているオレンジジュースを口にしたところ、とても薄味であまり美味しくなかったらしく、2人はジュースを元の位置に戻した。彼らの様子を観察しながらふと思ったのは、自分であれば加工されたジュースではなく、生命力溢れるフルーツ、とりわけブドウを選んだであろうということだった。フローニンゲン:2026/6/10(水)06:35 


18843. 今朝方の夢の振り返り 

                 

今朝方の夢は、自分が既存の学習様式、家族的継承、友人関係、生活上の選択感覚を通じて、人生の栄養源をどこに求めるのかを見直していることを象徴しているように思われる。全体は幾層にも重なる夢でありながら、底流には一つの問いが流れている。それは、他者が示す解答を写すのか、それとも自分自身の理解の型を育てるのかという問いである。最初の数列の授業は、知的探究における古い姿勢からの離脱を示しているのかもしれない。数学教授の読みにくい文字を必死に書き写す場面は、かつての自分が権威ある知の板書を、雨漏りする屋根の下で器に受け止めるように集めていた姿に近い。しかし途中で書き写すことをやめ、解答そのものではなく、アプローチとプロセスの大枠を掴もうとする判断は、知識の所有から知恵の構造化への転換を表しているようである。難解な問題は、人生に一度しか現れない複雑な問いの比喩であり、そこでは模範解答の保存よりも、問いに向き合う身のこなしのほうが重要になるのであろう。NKが感謝を示す場面は、古い友情や過去の自己が、今の自分の存在に支えられていることを象徴しているように思われる。自分はもうその授業に完全には属していないが、誰かのためにそこに留まる。これは、過去の共同体や旧友を切り捨てるのではなく、そこに静かに寄り添いながら、自分の道へ歩み出す成熟した別れの姿である。続いてYYが名門石油会社への就職を勧める場面は、安定した社会的成功への誘いを示しているようである。石油会社とは、地中深くに眠る過去のエネルギーを掘り出して動く巨大な制度の象徴であり、自分の進路である独立と自由な活動とは対照的である。ここで自分は提案を否定せず、感謝しつつ受け流している。これは、社会的承認を敵にせず、それを一つの可能性として認めながらも、自分の羅針盤を手放さない姿勢を示しているのであろう。パンと鯖を単語カードに挟んで食べる場面は、言葉と身体的栄養が混ざり合う奇妙な象徴である。単語カードは記憶、語学、知識の断片を表し、パンと鯖は日常的で実質的な養分を表す。つまり、自分はもはや言葉を単に覚えるのではなく、言葉を食べ、知を身体に沈めようとしているのかもしれない。そこに父が現れることは、より古い生活知、あるいは家系的な実践知が加わることを示しているようである。ヨーグルト容器を洗わず、そこに米を入れて炊くという方法は、清潔に分離された近代的合理性から見れば奇妙である。しかし夢の論理では、残された甘味や乳酸菌が米に新しい味を与える可能性がある。これは、過去の残り香や家族的記憶を洗い流すのではなく、それを次の主食の発酵母として用いるという象徴であろう。父は、完成された教義ではなく、生活の底にある変化の技法を示しているように思われる。HHが大きな布団にくるまり、欧州の街を転がる場面は、移動と保護、変容と縮小の象徴であるように見える。布団は安心の繭であり、欧州の街を転がる姿は、未知の土地を理性的に歩くのではなく、包まれながら運ばれていく魂の移動である。回転が落ち着くと布団が枕ほどに小さくなることは、かつて大きく必要だった保護膜が、移動の過程で圧縮され、携帯可能な内的支えに変わることを示しているのかもしれない。これは、エディンバラへの移行を控えた自分にとって、外的な安心装置を小さな内的枕へと変えていく心理的準備を表しているようである。最後の夏祭りの場面では、自分は当事者ではなく目撃者である。男女は冷水の中の輝くフルーツを選ばず、加工されたジュースを選び、薄味に失望する。ここには、生命そのものの瑞々しさと、加工された代替物との対比がある。ブドウは房として実るため、個々の粒が集合しながら一つの生命をなしている。これは、人間関係、知識、経験が有機的に結ばれた豊かさの象徴であろう。それに対して薄いオレンジジュースは、元の生命から遠ざかった抽象的な快楽の比喩である。自分がブドウを選んだであろうと思う場面は、今後の人生で、加工された成功や薄められた刺激ではなく、直接的で生命力のある経験を選びたいという深層の意志を示しているように思われる。人生における意味として、この夢は、自分が解答を書き写す段階から、人生を発酵させ、熟した果実を選ぶ段階へ移行していることを告げているのではないか。過去の友人、父、欧州の街、夏祭りは、それぞれ別々の場面ではなく、一つの魂の市場に並ぶ品々である。そこで自分は、制度の石油ではなく内なる火を、薄いジュースではなく瑞々しい果実を、丸写しの解答ではなく問いへの身のこなしを選ぼうとしているのであろう。フローニンゲン:2026/6/10(水)07:43


18844. 発達の幾何学/フラクタル次元と変動性の関係 

             

今朝は、発達科学におけるフラクタル次元と変動性の関係について考えていた。発達というものは、階段を一段ずつ上がるような直線的な変化ではなく、むしろ海辺に寄せては返す波のようなものである。昨日できたことが今日できなくなり、ある場面では成熟した反応ができるのに、別の場面では幼い反応に戻ってしまう。この揺らぎを単なる不安定さや未熟さとして見るのではなく、発達が生きて動いている証として捉えるところに、発達科学の面白さがあるように思う。フラクタル次元とは、簡単に言えば、ある変化のパターンがどれほど複雑な自己相似性を持っているかを示す指標である。海岸線を遠くから見ても近くから見ても、どこか似たような入り組み方が見えるように、人間の行動や思考の変動にも、大きな時間スケールと小さな時間スケールのあいだに似た揺らぎが現れることがある。たとえば、数か月単位で見た学習の停滞と前進、数日単位で見た気分の上下、数秒単位で見た発話や動作の揺れが、どこか同じようなリズムを持っている場合がある。そこにフラクタル的な構造が見いだされるのである。変動性とは、発達における揺れ幅である。ある課題に対して常に同じレベルで反応するのではなく、時に高く、時に低く、文脈や疲労、支援、感情状態によってパフォーマンスが変わる。この変動性は、表面的には不安定に見える。しかし、実際には新しいスキルが生まれようとしている時ほど、変動性は大きくなることがある。氷が水に変わる直前に構造が揺らぐように、自己の能力も、新しい段階へ移行する前に一時的に不安定になるのだろう。ここでフラクタル次元が重要になるのは、変動性の質をより精密に見るためである。単に「揺れている」だけではなく、その揺れがランダムなのか、硬直しているのか、それとも柔軟で複雑な適応性を持っているのかを捉えることができる。フラクタル次元が低すぎる状態は、行動が単調で固定化されている状態に近いかもしれない。逆に高すぎる状態は、揺れが過剰でまとまりを失っている状態に近いかもしれない。発達において望ましいのは、秩序と混沌のあいだにある、しなやかな複雑性なのだと思う。これは、ギターの練習にも似ている。右手のタッチが毎回完全に同じであれば、機械的ではあるが、音楽的な生命感は乏しくなる。しかし、毎回ばらばらに動いてしまえば、演奏は崩れてしまう。良い演奏には、一定の型がありながら、その中に微細な揺らぎがある。その揺らぎが音に呼吸を与える。発達における変動性も同じで、完全な安定ではなく、意味ある揺らぎこそが成長の余白を生み出すのである。ダイナミックスキル理論の観点から見れば、人間のスキルは固定された能力ではなく、文脈の中でその都度組織化されるものである。そのため、変動性は失敗ではなく、スキルが環境と相互作用しながら組み替わっている痕跡である。フラクタル次元は、その組み替わりの複雑さを映す鏡のようなものだと言えるだろう。表面上の揺れをよく見ると、そこには見えない発達の幾何学が刻まれている。人生における意味として、フラクタル次元と変動性の関係は、自分の不安定さを成長の欠陥としてではなく、変容の前兆として受け止める視点を与えてくれる。揺れているから未熟なのではない。揺れているからこそ、新しい秩序が生まれようとしているのである。人生の発達とは、まっすぐな線を引くことではなく、複雑に入り組んだ海岸線のように、自分だけの輪郭を少しずつ描いていくことなのだろう。フローニンゲン:2026/6/10(水)08:26


18845. 知性のネットワーク脆弱性を超えて豊かな連結性へ 

               

昨日ふと、日本に成田空港しか存在しなかったらどうなるのだろうかと考えた。もし日本の国際的な出入口が成田だけに集中していたならば、そこに地震や台風やシステム障害が生じた瞬間、日本全体の観光や物流は大きく麻痺してしまうはずである。人も物も情報も、そこを通らなければ流れないという構造は、一見すると効率的である。集約され、管理され、見通しがよくなる。しかし、その効率性の裏側には、一本の太い血管に全身の生命を預けてしまうような危うさが潜んでいる。血管が詰まれば、全身が一気に機能不全に陥るのである。これは、人間の知性にもそのまま当てはまるように思われる。自分の知性が、一つの専門分野、一つの理論、一つの師、一つの方法論、一つの言語、一つの思考様式に過度に依存しているとき、そのハブはたしかに強力な中心として働く。多くの情報を整理し、複雑な現象に名前を与え、世界を理解可能なものにしてくれる。しかし、そのハブが揺らいだとき、自分の知性全体もまた揺らいでしまう。ある理論が説明力を失った瞬間に、世界そのものが読めなくなる。ある専門性が社会的に通用しなくなった瞬間に、自分の足場まで失われたように感じる。これは、知性のネットワーク脆弱性と呼べるものなのだろう。本当に豊かな知性とは、一つの巨大空港を築くことではなく、複数の空港を各地に育て、それらを交通網で結び合わせることなのかもしれない。哲学という空港、心理学という空港、仏教思想という空港、量子論という空港、芸術という空港、身体実践という空港、日記という小さな滑走路。それぞれは単独でも意味を持つが、それらが互いに連絡し合うとき、知性は単なる知識の集積ではなく、生きた生態系になる。どこか一つの空港が霧で閉ざされても、別の空港から飛び立つことができる。ある思考の道が閉ざされても、別の経験の道から世界に近づくことができる。知性の堅牢性とは、硬い城壁を築くことではないのだろう。むしろ森のように、多様な根が地下で絡み合い、一本の木が倒れても森全体が死なない構造を作ることなのだと思う。単一のハブに依存する知性は、巨大な一本杉のように美しいが、落雷には弱い。複数のハブを持つ知性は、雑木林のように一見すると雑然としているが、風にも火にも再生力を持っている。そこでは、一本の木が倒れることさえ、光を入れ、新しい芽を育てる契機になる。自分のこれまでの探究も、ある意味では複数のハブを育てる営みであったのかもしれない。自分は成人発達理論だけに閉じず、唯識思想へ向かい、量子論へ向かい、音楽へ向かい、夢の解釈へ向かい、日々の身体実践へ向かってきた。それらは一見するとばらばらである。しかし、深いところでは、人間はいかに世界を経験し、自己を形成し、リアリティを編み上げているのかという問いによって結ばれている。複数のハブは、単に数が多ければよいのではない。それぞれが互いに翻訳され、相互に交通できることによって、はじめて生態系になるのである。今日、この比喩を考えながら、自分は知性をさらに分散化し、同時に連結させていきたいと思った。分散とは散漫になることではない。連結とは一つに還元することでもない。むしろ、多様な中心を持ちながら、それぞれの間に柔らかな橋を架けることである。成田だけでなく、関空も中部も福岡も新千歳も那覇も生きているような知性。ある理論が沈黙しても、別の実践が語り始めるような知性。ある分野で行き詰まっても、別の分野の風が滑走路を開いてくれるような知性。人生における意味として、この気づきは、自分の知性を一つの中心に閉じ込めるのではなく、複数の拠点を育て、それらを往復する旅人として生きることの大切さを示しているように思われる。知性の豊かさとは、答えを一カ所に集めることではなく、複数の場所から世界へ飛び立てる状態を保つことなのである。フローニンゲン:2026/6/10(水)08:43


18846. 親友のメルヴィンが与えてくれたこと/希望の種蒔き

                                       

先日ふと、親友のメルヴィンについて考えていた。これまでの人生の中で、素晴らしい師と友との出会いがあった。さらには、インテグラル理論・成人発達理論・唯識という、自分の人生を大きく変えてくれる存在との出会いもあった。そうした良縁に恵まれる人生を生きさせてもらっている中で、メルヴィンという親友の存在は一際際立っている。彼のおかげで自分は、意識とリアリティの探究のさらに深くに入っていくことができた。サイケデリクスを通じた意識探究・リアリティ探究の方向性に気づかせてくれたのもメルヴィンだったし、クラシックギターという音楽的探究に誘ってくれたのもメルヴィンだった。そうした様々なことを与えてくれたメルヴィンに対して何かお礼をしたいという純粋な気持ちが湧いている。書籍を大量に手放すことを決めた流れの中で、今日は絵画も一つ寄付しようと思った。親友のメルヴィンに、ニッサン・インゲル先生の『Espoir(エスポワール)(希望)』という作品を託したいという思いが湧いてきたのである。書籍を手放すことが、自分の内側にある知への執着をほどいていく営みであるならば、絵画を手放すことは、美や祈りを自分だけの空間から公共的な場へ解き放つ営みなのかもしれない。『Espoir』というタイトルは、今の自分にとって大変象徴的である。希望とは、未来が必ず明るいと保証するものではない。むしろ、まだ見えない未来に向かって、それでも心のどこかに小さな灯を守り続ける力である。希望は、強烈な太陽というより、夜の海に浮かぶ灯台の光に似ている。すべてを照らすわけではないが、暗闇の中で進む方向を少しだけ示してくれる。その作品をメルヴィンの店に置くことは、その小さな灯を自分の部屋の中に留めておくのではなく、誰かがふと立ち寄る場所に差し出すことなのだと思う。メルヴィンの店を訪れる人々は、それぞれに異なる人生を抱えているだろう。喜びを抱えて来る人もいれば、疲れを抱えて来る人もいる。言葉にならない不安や、誰にも見せない孤独を胸の奥にしまっている人もいるかもしれない。そうした人々が店の中でその絵を目にしたとき、たとえ一瞬であっても、何か柔らかなものに触れることができればいいと思う。絵画には、言葉で説得するのとは異なる力がある。説教せず、説明せず、ただそこに在ることによって、人の心の奥に静かに触れる力である。これまで自分は、多くの本や作品を自分の探究のために集めてきた。それらは自分を励まし、支え、導いてくれた。しかし今、その一部を他者の空間へ送り出す時期に来ているのだろう。所有することによって守る段階から、手放すことによって循環させる段階へと移行しているのである。本も絵画も、誰かの心に届いて初めて、再び生命を得る。自分の部屋に飾られた作品は、自分を支えてくれた。しかしメルヴィンの店に飾られれば、その作品はさらに多くの人々の心に、小さな希望の種を蒔くかもしれない。これは単なる寄付ではなく、希望の移植のような行為である。鉢植えの木を自分の部屋から、より多くの人が通る庭へ移すようなものである。自分の手元から離れることで、その木は失われるのではない。むしろ、より広い空気を吸い、より多くの眼差しに出会い、別の仕方で育っていく。『Espoir』という作品も、自分のもとでの役割を終え、今度はメルヴィンの店という新しい場所で、新しい役割を果たしていくのだろう。思えば、書籍を手放すことも、絵画を手放すことも、根底では同じ意味を持っているように感じる。それは、自分のために蓄えてきたものを、他者と世界のために流し始めることである。知も美も、囲い込めば自分を安心させる。しかし流せば、誰かを励ます。今回の引越しは、単に荷物を減らす出来事ではなく、自分がこれまで受け取ってきたものを、次の場所、次の人、次の縁へと手渡していく儀式なのだと思う。メルヴィンに『Espoir』を託すことで、自分は希望そのものを失うわけではない。むしろ、希望を自分の外に置くことで、その希望が社会の中で呼吸し始める。自分の心の中にあった灯火が、今度は誰かの一日にそっと差し込むかもしれない。そのように考えると、手放すことは喪失ではなく、祈りの拡張である。自分の所有から離れたところで、希望が静かに働き続ける。その光景を想像すると、心の中に温かな納得が広がっていくのである。フローニンゲン:2026/6/10(水)09:16


Today’s Letter 

My life has moved from passion to zest, and now it seems to be moving from zest toward serenity. Groningen, 6/10/2026

 

 
 
 

コメント


bottom of page