【フローニンゲンからの便り】18829-18834:2026年6月8日(月)
- 6月10日
- 読了時間: 15分

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タイトル一覧
18829 | 散歩の意識で |
18830 | 今朝方の夢 |
18831 | 今朝方の夢の振り返り |
18832 | 毎日の小さな刺激の積み重ね |
18833 | 神経系への毎日の適度な刺激 |
18834 | 未発達な領域に意識を向けることの価値 |
18829. 散歩の意識で
ディオニシオ・アグアドのEstudio in A Minorを練習している時、自分は和音の移動について、ひとつ小さな発見をしたように思う。これまでは、ある和音を押さえ終えたあと、指をいったん指板から離し、次の和音へ改めて置き直すような感覚があった。もちろんそれでも音は出る。しかし、その動きにはどこか断絶がある。ひとつの地点から別の地点へ瞬間移動しようとして、かえって身体が緊張し、指が少し迷子になるような感じがあったのである。ところが今日は、指を「移動させる」のではなく、指板の上をゆったり散歩させるように意識すると、和音の移り変わりがずいぶん自然になることに気づいた。散歩には、急いで目的地へ飛び込む感覚がない。足裏が地面を感じながら、次の一歩を探していく。ギターの指もそれに似ているのかもしれない。弦から完全に離れて空中を飛ぶのではなく、指板や弦の近くをなぞるように、次の形へ向かって静かに歩いていく。すると、移動は跳躍ではなく連続になる。この発見は、単に技術的な工夫にとどまらないように思われる。和音の移動とは、ひとつの形を手放し、次の形へ移ることである。その時、完全に手放してしまうと、次の形をゼロから作り直さなければならない。しかし、指をゆったり動かしていくと、前の和音の記憶が次の和音へ橋をかけてくれる。まるで石畳の上を歩くように、一つひとつの指の位置が次の場所への手がかりになる。音楽の中の移動とは、断絶ではなく、記憶を帯びた変化なのだろう。これまでの自分は、和音を正確に押さえることに意識が向きすぎていたのかもしれない。正しい地点に早く到達しようとするあまり、その途中にある道のりを見落としていた。だが実際には、ギターにおいて重要なのは到着点だけではない。到着するまでの指の軌道、力の抜き方、弦との距離、手首の角度、次の形を予感する感覚が、すべて音に影響している。演奏とは、音が鳴っている瞬間だけでなく、音と音のあいだにも宿っているのである。「散歩の意識」は、力みを解くための良い比喩である。散歩する人は、地面と争わない。道を支配しようとせず、道に身を任せながら進む。指もまた、指板を征服するのではなく、指板と対話しながら移動すればよいのかもしれない。次の和音へ急襲するのではなく、そこへ挨拶しに行くように近づいていく。そう考えると、左手の動きはずいぶん柔らかくなる。指は兵士ではなく、旅人になる。アグアドの練習曲は、こうした基礎的な身体感覚を静かに教えてくれる作品なのだと思う。一見すると単純な和音移動の練習に見えても、その中には、無駄な動きを削ぎ落とし、身体の中に自然な経路を作るための知恵が含まれている。速く動くためには、急ぐ必要がない。むしろ、ゆっくりと最短距離を知ることによって、結果的に速さが生まれる。これはまるで、遠回りの散歩をしているうちに、いつの間にか近道を身体が覚えてしまうようなものだ。この気づきは、ギターの練習におけるひとつの転換点になるかもしれない。指を離して移動するのではなく、指板の上を散歩する。和音から和音へ飛び移るのではなく、和音と和音のあいだに小径を見つける。その小径を何度も歩いているうちに、指は次第に迷わなくなるだろう。音楽とは、指先が覚える地図であり、練習とは、その地図に静かな道を描き込んでいく営みなのである。フローニンゲン:2026/6/8(月)05:56
18830. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、小中学校時代のある双子の友人が運転する車の中にいた。私たちは近くの湖に行ってバス釣りをすることになっていた。運転をしていたのは兄の方で、湖の近くにやって来ると、弟の方が好きなスポットの駐車場が埋まっていたので、泣く泣く先に進んで別のスポットを探すことにした。しかし、突如引き返して弟が好きなスポットでなんとか空いている駐車場を見つけようということになり、車は反転してやって来た道を引き返した。気がつくともう湖に到着していて、いつの間にか双子の友人はいなくなっており、その代わりにうちの両親がいた。両親の手には釣り具があり、一緒に釣りをすることになった。3人ともワームを選び、それをリールの糸に巻き付け湖に投げた。すると早速自分に当たりがあった。釣り上げてみると、バスではなく、赤々とした手のひらサイズのタコだった。湖にタコがいることに驚いたが、すぐにタコから針を外してボックスに入れようとした。ところが針からタコを外すのに少し手間取ってしまった。その間に母が湖の底にワームを絡ませてしまったみたいで、父が母の手助けをし始めた。そこで場面が変わった。
次の場面においても両親が登場していた。両親はすでに70歳近くになっているが、なんと2人の間に子供ができたそうだった。どうやら男の子らしく、ということは自分に弟ができるのだとわかって、驚きと嬉しさの感情が芽生えた。しかし冷静に考えてみると、母にとっては高齢出産となり、母子ともに危険性がある。母は産む意思を固めており、それは尊重したいと思ったが、仮に無事に出産できたとしても、両親はもう随分と高齢なので、自分が引き取って彼を育てるというのが一番なのではないかと思った。その時に、彼を弟ではなく、自分の息子として育てるのが良いように思えた。そして彼が成人したら、あるいは30歳ぐらいになったら、真実を打ち明けようと思った。自分は親ではなく、兄なのだと。彼を育てることに対して非常に前向きな自分がいて、立派に育てるという意思が存在していた。フローニンゲン:2026/6/8(月)06:14
18831. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、過去の友情、家族的系譜、そして新しい自己を育てる責任が、一つの湖のほとりで交差する夢であるように思われる。小中学校時代の双子の友人が運転する車に乗っている場面は、自分がかつて共有していた無邪気な時間、遊び、競争、そして仲間との呼吸に再び運ばれていることを示しているのかもしれない。双子という存在は、同じ根を持ちながら異なる志向を持つ二つの自己の象徴であるように見える。兄が運転し、弟が好む釣り場を探すという構図には、現実を前へ進めようとする自己と、失いたくない原初的な喜びの場所へ戻ろうとする自己との微妙な対話が映し出されているのではないかと思われる。湖は、意識の深層を湛える静かな器である。そこへ向かうことは、単に魚を釣ることではなく、自分の心の底に沈んでいるものを引き上げる行為であるように思われる。最初は双子の友人と一緒だったにもかかわらず、気がつくと両親に置き換わっている点は重要である。これは、少年期の仲間関係を通じて開かれた記憶の水路が、さらに深い家族的源流へとつながっていったことを示しているのかもしれない。友人たちは入口の案内人であり、湖そのものに到着した瞬間、より根源的な登場人物として両親が現れたのである。バス釣りをしようとして赤い手のひらサイズのタコが釣れる場面は、夢の中でもひときわ象徴的である。バスは狙われた成果、計画された獲物、予想された成功の象徴であるのに対し、タコは予想外の生命、柔軟性、絡み合い、異質な知性の象徴であるように思われる。しかも湖にいるはずのないタコが現れるということは、自分の内面には、分類や常識では捉えきれない生命的な何かが潜んでいることを示しているのではないか。赤々とした色は、血縁、生命力、誕生、情動の熱を帯びている。手のひらサイズであることから、それは巨大な脅威ではなく、まだ抱えることのできる新しい可能性として現れたのだろう。しかし、そのタコを針から外すのに手間取る。ここには、新しい生命的可能性を掴んだものの、それを支配や捕獲の文脈から解放する難しさが示されているように思われる。釣り上げることと、傷つけずに扱うことは別である。自分の中に現れた新しい何かを、成果物として箱に入れるのではなく、いかに繊細に受け取るかが問われているのかもしれない。その一方で、母は湖底にワームを絡ませ、父がそれを助ける。母が深層に絡まり、父がその解放に動く構図は、家族の中にある古い結び目、あるいは母性的な生命力が深い無意識に触れてしまったことを暗示しているようである。次の場面で、老いた両親の間に男の子が生まれるという知らせは、現実的には不可能に近い出来事であるが、夢においては非常に自然な象徴である。これは両親そのものから新しい子が生まれるというより、自分の中の家族的根源から、新しい男性的自己、若い弟、あるいは未来の息子のような存在が生まれようとしていることを示しているのではないかと思われる。その子は弟でありながら息子でもある。つまり、自分より後から来る自己でありながら、自分が責任をもって育てるべき自己なのである。彼に真実をいつか伝えようとする場面には、成熟した保護者としての倫理が表れているように思われる。すぐに真実を突きつけるのではなく、成長の時を待つ。これは、自分自身の中に生まれつつある新しい可能性に対しても同じである。まだ未成熟なものには、いきなり全体の真実を背負わせるのではなく、まず安全な器と十分な時間を与える必要がある。夢の自分は、その子を立派に育てようとしている。ここには、自分が単なる探究者から、未来の自己を養育する者へと変わりつつある兆しがあるのではないか。人生における意味として、この夢は、自分が過去から受け継いだものを整理しながら、予想外の形で生まれてくる新しい自己を引き受ける段階に入っていることを告げているのだろう。湖から釣り上げた赤いタコと、老いた両親から生まれる男の子は、同じ生命の別の顔である。自分の人生は今、失われた少年期へ戻る道ではなく、少年期の源泉を未来の養育へと変換する道へ進んでいるのかもしれない。フローニンゲン:2026/6/8(月)07:15
18832. 毎日の小さな刺激の積み重ね
最近ふと気づいたのだが、身体を鍛えることと身体を育てることは、少し違うのかもしれない。以前は運動というと、どこか限界まで追い込み、筋肉を悲鳴を上げさせることが成長だと思っていた。しかし毎朝のスクワットジャンプを続ける中で、その考え方は少し変わってきた。現在、自分はスクワットジャンプを15回2セット、合計30回行っている。この数字だけを見ると決して多くはない。しかし実際に続けてみると、下半身は着実に強くなっている感覚がある。階段を上る時の軽さ、歩く時の安定感、身体全体の土台の強さが以前とは違う。考えてみれば、樹木も一晩で太くなるわけではない。毎日少しずつ水を吸い上げ、目には見えない速度で年輪を刻んでいく。身体もそれに似ているのかもしれない。スクワットジャンプ30回という量は、疲労を大きく残すほどではないが、身体に対しては確かな刺激になる。しかもジャンプは単なる筋力トレーニングではなく、神経系への訓練でもある。地面を押し返す瞬間、全身の筋肉が協調し、一瞬のうちに力を集約する。その意味では、毎朝の30回は筋肉を壊すためというより、身体に目覚めの合図を送る儀式に近いのだろう。腕立て伏せについても同じことが言えそうである。1度に行える限界回数は今の所50回程度であるが、だからといって毎日50回行う必要はない。むしろ毎日続けるなら35回前後がちょうどよいように思う。限界の7割程度であれば、肩や肘への負担も抑えられ、翌日にも気持ちよく取り組める。筋肉を一気に大きくすることよりも、毎日身体に「使うべき筋肉である」と思い出させることの方が大切なのかもしれない。面白いのは、この考え方が最近のギター練習の発見とも重なることである。和音を移動する時、指を空中に持ち上げて飛ばすのではなく、指板の上を散歩させるように動かすと演奏が滑らかになることに気づいた。運動も同じなのではないだろうか。身体を毎日追い込むというのは、指を大きく持ち上げて無理に移動させるようなものである。一方で、適度な刺激を毎日積み重ねることは、指板の上を静かに散歩するようなものである。振り返ると、自分は若い頃、成長とは劇的な変化だと思っていた。しかし今は少し違う。成長とはむしろ、昨日と今日の違いがほとんど分からないほどの小さな変化を積み重ねることなのだろう。スクワットジャンプ15回2セットも、腕立て伏せ35回も、その日のうちに人生を変えるものではない。しかし一年後に振り返れば、その積み重ねは大きな差になっているはずである。身体は短距離走者ではなく、長い旅を共にする伴走者である。だからこそ、毎日少しだけ刺激を与え、毎日少しだけ強くなる。その歩みは派手ではないが、静かに、そして確実に未来の自分を支えているように思うのである。フローニンゲン:2026/6/8(月)08:41
18833. 神経系への毎日の適度な刺激
ふと毎日行っている腕立て伏せについて改めて考える機会があった。以前は、筋肉を成長させるためには筋繊維を大きく傷つけ、その後に十分な休養を取らなければならないと思っていた。そのため、毎日同じ部位を鍛えることは非効率であり、むしろ逆効果なのではないかという印象を持っていた。しかし最近の運動科学を調べてみると、必ずしもそう単純ではないことが分かってきた。特に腕立て伏せのような自重トレーニングでは、高重量のベンチプレスを限界まで行う場合とは状況が異なるようである。筋肉の成長において重要なのは、頻度そのものよりも総負荷量であり、さらに毎日の適度な刺激は神経系の適応を促す可能性があるという。考えてみると、自分の腕立て伏せの1度に行える限界は50回程度である。毎日35回前後を行うことは、限界まで追い込む行為ではない。むしろ身体に対して、「この筋肉は今日も必要である」という穏やかな合図を送るようなものなのかもしれない。筋肉を破壊するというより、目覚めさせる感覚に近い。この考え方は、最近のギター練習で得た気づきともどこか重なる。和音移動を速くしようとして指を大きく持ち上げるよりも、指板の上を散歩するように動かした方が滑らかになる。身体の成長も同じなのかもしれない。毎回限界まで追い込むことは、大きく跳躍しようとする動きに似ている。一方で、毎日適度な刺激を積み重ねることは、小径をゆっくり歩きながら目的地へ向かうようなものである。興味深いのは、近年の研究では高頻度トレーニングの有効性も示されていることである。身体は必ずしも大量の刺激をたまに与えられることを好むわけではなく、適切な刺激を頻繁に受けることで効率よく適応することもあるらしい。これは庭木への水やりに似ている。週に一度だけ大量の水を与える方法もあるが、毎日適度に水を与える方法もある。どちらが良いかは状況によるが、自分の現在の目的はボディビルダーのような筋肥大ではなく、健康で機能的な身体を維持することである。そう考えると、朝のHIITの際にスクワットジャンプ15回×2セットを行うことと、夕方の腕立て伏せ35回という習慣は案外理にかなっているのかもしれない。派手なトレーニングではない。しかし、毎日続けることができる。身体は劇的な変化によって成長するというより、小さな刺激の積み重ねによって静かに形を変えていくのだろう。振り返れば、学問もまた同じである。論文を一日で書き上げることはできない。毎日少しずつ文献を読み、考え、メモを取り、理解を深めていく。その積み重ねがやがて大きな成果になる。身体もまた、一日で変わることはない。しかし毎日続けられる刺激は、いつの間にか自分を支える土台となっている。最近は、成長とは激しい変化ではなく、静かな継続なのだと思うようになった。腕立て伏せ35回は決して壮大な数字ではない。しかし、その35回を何百日も積み重ねた先にある身体は、今日の自分とは確実に違うはずである。だからこそ、これからも無理に追い込むのではなく、毎日身体に小さな目覚めの合図を送り続けたいと思うのである。フローニンゲン:2026/6/8(月)08:54
18834. 未発達な領域に意識を向けることの価値
昨日、ギターを手に取りながらふと思った。普段演奏している楽曲の多くでは、右手の人差し指と中指が主役である。メロディーを奏でるのも、人差し指と中指が交互に動く場面が圧倒的に多い。そのため自然と、この二本の指は経験を積み、神経回路も洗練され、まるで長年連れ添った職人のように迷いなく働いてくれる。しかし、その一方で薬指や小指はどうだろうか。決して何もしていないわけではないが、人差し指や中指ほど頻繁に重要な役割を与えられてはいない。まるで組織の中で有能な社員ばかりに仕事が集中し、他の社員には十分な成長機会が与えられていない状態にも似ている。そこで、基礎練習のスケール練習では意図的に薬指と小指を使ってみることにした。もちろん実際の演奏では効率が悪く、ぎこちなく感じることもある。しかし、まさにその不器用さこそが価値なのだろう。不慣れな指を動かそうとすると、脳は新しい神経経路を開拓しなければならない。慣れ親しんだ高速道路ではなく、まだ舗装されていない山道に道を切り開くような作業である。考えてみれば、これは成人発達にも似ている。人は得意なスキルばかり使っていると、その領域ではますます熟達する。しかし、発達そのものはしばしば未発達な領域に意識を向けたときに起こる。快適な能力圏の外側に足を踏み出した瞬間に、新しい可能性が生まれるのである。薬指や小指の訓練も同じかもしれない。将来的に実際の楽曲で頻繁に使うかどうかは分からない。しかし、その訓練によって右手全体の協調性は向上するだろうし、人差し指や中指の動きにも良い影響を与えるかもしれない。一つの指の発達は、独立した出来事ではなく、手全体というシステムの再編成につながるからである。川の本流だけを深く掘り続けるのではなく、支流にも少しずつ水を流していく。その結果として、水系全体の循環が豊かになる。薬指と小指の練習とは、そのような営みなのかもしれない。ギターの技術向上という観点から見ても、これは単なる指の訓練ではないように思える。むしろ、自分が無意識に頼り続けているパターンから離れ、未開拓の可能性に光を当てる練習である。音楽の練習をしているようでいて、実は脳そのものの柔軟性を鍛えているのかもしれない。そう考えると、少しぎこちない薬指と小指の動きさえも、新しい自分へと続く小さな探検のように感じられるのである。フローニンゲン:2026/6/8(月)09:07
Today’s Letter
As I study Yogācāra and practice classical guitar in a meditative way, my mind becomes mirror-like, reflecting everything just as it is. Groningen, 6/8/2026


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