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【フローニンゲンからの便り】18821-18828:2026年6月7日(日)

  • 6月9日
  • 読了時間: 22分


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タイトル一覧

18821

セゴビアスケールと即興演奏

18822

今朝方の夢

18823

今朝方の夢の振り返り

18824

セゴビアスケールのパターンから

18825

速度に対する誤解

18826

査読付き論文の原稿としてのファイナルペーパー

18827

万華鏡的な主観性に祝福あれ

18828

家の見学にやって来たジュリアンから古本屋を紹介してもらって

18821. セゴビアスケールと即興演奏

 

数日前にふと、セゴビアスケールと通常のスケール練習の違いについて考えていた。これまではどちらも単なる音階練習の一種だと思っていたが、実際には目指しているものがかなり異なることに気づいた。通常のスケール練習は、あるポジションの中で音の並びを覚えたり、指板上の音の位置を確認したりする練習である。いわば一つの町を歩き回り、その地形を身体で覚えるような作業である。一方でセゴビアスケールは、一つのポジションに留まらない。低音域から高音域まで、指板全体を旅するように設計されている。こちらは町内散歩というよりも、日本全国を巡る鉄道旅行に近い。なるほど、セゴビアが目指したのは単なる音階暗記ではなく、ギターという楽器全体を身体化することだったのかもしれない。実際に弾いてみると、音が上昇するたびにポジションが変わり、景色が変わる。最初は慣れ親しんだ街角にいたはずが、気づけば見知らぬ高音域へ到達している。その感覚はなかなか面白い。しかし、即興演奏という観点から考えると少し話が変わってくるようである。即興では、指板全体を知っていることも大切だが、それ以上に「今ここで何が弾けるのか」を瞬時に把握する能力が重要になる。会話中に辞書全体を思い出す人はいない。必要なのは、その場で使える語彙である。同じように、即興でも現在いるポジションの音やコードトーンを自由に操れることの方が重要なのだろう。そう考えると、セゴビアスケールは文法書を読み込む作業に似ている。文法は言語の骨格を理解させてくれるが、それだけでは会話は始まらない。一方、即興演奏は実際の会話である。多少文法が不完全でも、とにかく話し始めることで新しい表現が生まれる。最近、自分にとって即興演奏は単なる音楽練習ではなく、現象学的な自己探究のような意味を持ち始めている。譜面の外へ出て、その瞬間に現れてくる音を追いかける感覚は、思考の流れを観察する瞑想にもどこか似ている。その意味では、セゴビアスケールは即興そのものではなく、即興が自由に羽ばたくための滑走路なのかもしれない。結局のところ、どちらが優れているという話ではないのだろう。セゴビアスケールは指板という世界地図を描いてくれる。そして即興演奏は、その地図を片手に未知の土地へ歩き出す冒険である。地図だけでは旅は始まらず、旅だけでは地図は完成しない。その両方を少しずつ往復することが、自分なりの音楽との付き合い方なのだと思った。フローニンゲン:2026/6/7(日)05:45


18822. 今朝方の夢

            

今朝方は夢の中で、見知らぬ施設の中にいた。その一階には大きな水槽があり、そこで偶然にも高校時代のある友人(SK)と出会った。彼曰く、その水槽は彼のものらしく、大事に魚を飼っているとのことだった。そう言えば自分も家に水槽があって、ここまでの大きさではないが、その水槽で魚を飼っていることもあり、彼に色々と魚の飼育方法について尋ねてみようと思った。彼は魚を飼い始めて長いらしく、相当深いノウハウを持っていた。彼の話はとても参考になり、お礼を述べてからその施設の奥に向かった。するとそこには広々としたプールがあり、小中高時代の2人の友人(SI & YU)が楽しそうに泳いでいた。しかし、高校の水泳部の集団がやってきて、広々していたはずのプールがとても狭く感じられた。その水泳部は、1年生から3年生まで部員数が数十名ほどいる大所帯だった。私たちは水泳部に入っていなかったから、水泳部には文句を言えず、おそらく文句があるなら正式に水泳部に入れと言われるだろうと思ったので、今日はここまでにし、プールから上がることにした。プールから出ると、気づけば自分はイタリアのゼニアのお洒落なオーダメードスーツを着ていた。そのスーツを着て、小学校時代のある女性友達(HK)に話しかけた。先ほどプールで彼女が水泳部として泳いでいるのを見て、本来は陸上部に所属しているはずではなかったかと尋ねたのである。どうやら彼女は陸上だけではなく、水泳にも才能を持っているようであり、尚且つ方向転換をしたいという重いと重なったので、高校からは水泳部に所属することにしたと語ってくれた。小学校卒業以来に久しぶりに彼女と話をすることができて、なんだから嬉しい気持ちになった。


次の場面では、見慣れない野球グラウンドにいた。そこで幸運にも、かつてメジャーリーグで大活躍したレジェンド的な元プロ野球選手からバッティングの指導を受けることができた。その方曰く、右打ちではなく左打ちにしたほうがいいとのことで、素直にその助言に従って、左のバッターボックスに立った。しかし、いざピッチャーの球を打とうとすると、全く思うようにバットが振れなかった。いくぶん屈辱的だったのは、ピッチャーは幼稚園の年長ぐらいの男の子で、しかも上から振りかぶってボールを投げるのではなく、近くからまるで鯉に餌をあげるかのように、下からヒョイッとボールを放り投げる感じの球だったのである。それであれば楽々打てると思っていたのだが、実際は全くそうではなかった。結局、ファーストゴロで打ち取られたのだが、その時にファーストを守っている人にタックルをして、強引に塁に出ようかと思ったがそれはやめた。打ち取られた直後に、指導してくれたそのレジェンド的な方に対して煮えたぎるような怒りの感情が芽生えた。彼の助言に従ったから、このような結果になったのだという怒りである。しかし、怒りが芽生えた直後に、今回はまだ何も練習をしておらず、1回目のトライだったのだから、これからじっくりと技術を磨き込んでいけばいいと思ったのである。すると怒りはスッと消え、ここからはその方からさらに助言をもらいながら、直向きに練習に励もうと思った。そこで一旦練習を終えると、知り合いと彼が飼っている猫が野球場にやってきた。最初猫は飼い主の彼よりも私に懐いてきて、とても可愛かった。飼い主には噛み付くそぶりを見せ、私には甘えるようなそぶりを見せたのである。そこからその猫は一旦飼い主のところに戻りながらも、少し距離を取って、飼い主に背を向けて放尿した。それが飼い主に飛び散り、少し後ろにいた自分にも少し飛び散った。飼い主は激怒していたが、私はそれを大変微笑ましく思った。


最後の夢の場面はとても印象的だった。私は、小中高時代の仲の良いある女性友達(MH)が運転する可愛らしい赤い車の助手席に座っていた。交差点に差し掛かるときに目の前に現れたのは、なんと巨大な無数のジャガイモだった。それを見て、ジャガイモにぶつかると衝撃で危ないと思ったが、彼女はジャガイモを見て笑みを浮かべ、大胆な行動に出始めた。なんとその無数の巨大なジャガイモの上を車で走り始めたのである。交差点の信号機に向かうほど、ジャガイモが積み重なっていて高くなっていた。信号機よりも高く積み上げられたジャガイモの上から、今度はまるで遊園地のジェットコースターを滑走するかのように彼女はジャガイモを駆け下り始めた。そこで私は、ディズニーランドとジェットコースターという言葉を文字って、「ジャガイモランドのジャガイモコースター~!!」と叫びながら、恐怖心を完全に乗り越えて、積み重なったジャガイモから駆け降りる快感を味わっていた。フローニンゲン:2026/6/7(日)06:10 


18823. 今朝方の夢の振り返り 

                 

今朝方の夢は、自分が過去の人間関係を通じて、現在の自己変容を多層的に点検している夢であるように思われる。最初の施設は、人生の記憶と能力が保存されている内的な研究所のような場所であり、一階の水槽は、感情や生命力を静かに育てる心の容器を象徴しているのかもしれない。高校時代の友人SKが魚の飼育に精通していたことは、自分の中にまだ十分には活用されていない経験知や、他者から学ぶことによって成熟する感情管理の知恵を示しているように思われる。魚は、言葉になる前の繊細な感情や直感であり、水槽はそれらを乱暴に扱わず、適切な水温と酸素で育てる内的環境である。続くプールの場面では、小中高時代の友人たちが泳いでいる。ここでの水は、水槽よりも開かれた感情世界であり、個人的な内面から共同的な場へと移行しているようである。広々としていたプールが水泳部の集団によって狭く感じられるのは、自分の自由な探究や遊びが、制度化された専門性や集団的規範に圧迫される感覚を表しているのかもしれない。水泳部に所属していないため文句を言えないという感覚は、ある領域に正式に参入していない者が感じる周縁性の象徴である。しかし、プールから上がると自分はゼニアのオーダーメードスーツを着ている。これは、水の中の未分化な感情領域から、社会的に洗練された自己表現へと移行する象徴であるように思われる。魚を育て、泳ぐ者たちを眺め、最後にはスーツをまとって対話するという流れは、感情の素材が徐々に人格的な装いへと仕立てられていく過程のようである。HKが陸上から水泳へ方向転換したという話は、とりわけ重要であるように感じられる。陸上は地面を蹴って前に進む競技であり、水泳は水に身体を預けながら進む競技である。これは、意志で突破する生き方から、環境との調和の中で進む生き方への転換を暗示しているのかもしれない。彼女との再会の嬉しさは、自分の中にある柔らかな記憶と、かつての可能性が再び息を吹き返す感覚を示しているようである。野球場の場面では、レジェンド的な元選手から左打ちを勧められる。右打ちから左打ちへの変更は、慣れ親しんだ自己の型を反転させ、新しい身体知を獲得する課題を象徴しているように思われる。幼い男の子が鯉に餌をあげるように球を投げるにもかかわらず打てないことは、課題の難しさが外側にあるのではなく、自分の身体化されていない新しい構えの中にあることを示しているのだろう。怒りが一瞬湧き上がるのは、未熟さを外部の助言者に投影しようとする心の反射である。しかしすぐに、一回目の試みにすぎないと気づき、練習へ向かう心に変わる。ここには、自己防衛から学習者の謙虚さへと変わる成熟の瞬間が描かれているようである。ファーストへのタックルを思いとどまる場面も、力ずくで成果を奪うのではなく、技術の熟成を待つ倫理的抑制を示しているのかもしれない。猫の放尿の場面は、一見滑稽でありながら、夢全体の緊張を解く重要な働きをしているように思われる。猫は気まぐれで、自律的で、所有されることを嫌う生命力である。飼い主に背を向けて放尿する姿は、管理しようとする者に対する野生の小さな反乱のようである。それが自分にも少し飛び散るにもかかわらず微笑ましく感じられたことは、自分が制御不能な生命のいたずらを、汚れではなく祝福として受け取れる段階に近づいていることを示しているのかもしれない。最後の赤い車と巨大なジャガイモの場面は、夢全体の結晶であるように思われる。赤い車は生命力と冒険心の乗り物であり、助手席にいる自分は、今回は運転するのではなく、信頼して運ばれる位置にいる。巨大なジャガイモは、大地の下で育つ素朴な生命の塊であり、日常性、身体性、生活の糧を象徴しているようである。それが交差点に無数に現れるのは、人生の進路変更の場面で、抽象的な理念ではなく、生活そのものの重みが山のように立ちはだかることを示しているのかもしれない。しかしMHはそれを障害ではなく遊具に変える。積み上がったジャガイモは、恐怖の壁ではなく、ジャガイモランドのコースターになる。ここに、夢の核心がある。自分は、人生の重荷を回避するのではなく、それを滑走路に変える感性を学びつつあるのである。人生における意味として、この夢は、自分が過去の友人たちを内的な案内人として呼び出しながら、感情の養育、専門性への参入、新しい技術の習得、制御不能な生命への寛容、そして生活上の大きな障害を遊びへと変える力を統合しようとしていることを示しているように思われる。自分の人生は今、慎重に魚を育てる水槽であり、混み合うプールであり、左打ちを学ぶ打席であり、巨大なジャガイモの山を駆け下りる遊園地でもあるのだろう。フローニンゲン:2026/6/7(日)07:05


18824. セゴビアスケールのパターンから

               

—抽象というのは、理解するものではなく、感じるもの—篠田桃紅


改めてセゴビアスケールについて考えていて、以前から抱いていた素朴な疑問が少し解けた気がした。それは、なぜセゴビアスケールにはたった8つのパターンしかないのかということである。最初は、もっと多くのパターンがあってもよさそうに思っていた。ギターの指板は広大であり、調も数多く存在する。だから、それぞれに異なるパターンが用意されていても不思議ではない。しかし調べながら考えてみると、セゴビアが目指していたのは個々のスケールを大量に覚えることではなく、その背後にある構造を身体で理解することだったのかもしれない。たとえば、地図帳を眺めると世界中に無数の都市が存在している。しかし、地理学者が本当に理解しようとしているのは個々の都市そのものではなく、山脈や河川や海流といった地球全体を形作る大きな構造である。セゴビアスケールもそれに似ているように思える。表面上はさまざまな調が存在するが、その背後には共通する運指の骨格があり、セゴビアはその骨格だけを抽出しようとしたのではないだろうか。これは自分が学んできたダイナミックスキル理論ともどこか重なる。初心者は個別の事例を一つひとつ覚える。しかし熟達者は、その奥にある深層構造を理解している。個別の状況が変わっても応用できるのは、その構造を身体化しているからである。セゴビアもまた、無数のスケールを覚えるのではなく、運指の深層構造を身体に染み込ませようとしていたのかもしれない。一方で、即興演奏という観点から考えると、少し違った景色も見えてくる。セゴビアスケールは指板全体を旅するように設計されているため、ギターという世界の全体像を把握するには非常に優れている。しかし即興では、その瞬間に立っている場所で自由に話せることも重要になる。世界地図を持っていても、エディンバラの街角で迷わず歩けるとは限らないのと同じである。そのため、セゴビアスケールは即興そのものではなく、即興のための基礎体力を養う訓練なのだろう。地球儀を眺めながら世界の形を理解する作業に近い。その上で、実際に街を歩き、路地に入り、人と出会うのが即興演奏なのである。今日の気づきは、セゴビアが8つのパターンしか残さなかったのではなく、無数の可能性を8つの深層構造へ圧縮したということだった。複雑さを増やすのではなく、本質を抽出すること。熟達とは情報を増やし続けることではなく、むしろ背後にあるシンプルな原理を見出すことなのかもしれない。ギターの運指から始まった考察だったが、学問や人生においても同じことが言えるような気がしている。フローニンゲン:2026/6/7(日)08:19


18825. 速度に対する誤解

                

ブランダン・エイカー氏は、速度に対する多くの演奏者の誤解を指摘している。演奏が思うように速くならない時、多くの人は本能的に「もっと速く動こう」「もっと力を入れよう」と考える。しかし彼によれば、その発想そのものが問題なのである。一般に人は、速度とは努力を加えることで生み出されるものだと思いがちである。ところが実際には、速度を妨げているものを取り除いた結果として速度が現れる。つまり、速さは何かを付け足すことで得られる能力ではなく、余計なものを削ぎ落とした先に自然に現れる状態なのである。演奏が遅くなる原因の多くは、指を速く動かせないことではない。むしろ、必要以上に大きな動き、無意識の緊張、次の動作へのわずかな迷いなど、小さな非効率が積み重なっていることにある。例えばクラシックギターでは、左手の指を必要以上に高く持ち上げたり、右手に余計な力が入ったりするだけで、動き全体の流れが損なわれる。それら一つひとつはごく小さな問題に見えるが、積み重なると大きな遅れとなる。さらに厄介なのは、速く弾こうとすればするほど、その非効率が増幅されることである。力を入れれば指の動きは大きくなり、筋肉は硬くなり、身体全体に緊張が広がる。本来は速度を得るために行っていた努力が、結果として速度を妨げる原因へと変わってしまうのである。そこで彼は、「もっと頑張る」のではなく「もっと洗練する」ことを勧めている。動きをより小さく、より自然に、より効率的にすることで、速度は無理なく生まれる。興味深いのは、その時の感覚が「速くなった」というよりも「軽くなった」という表現に近いことである。優れた演奏家の動きが一見すると楽そうに見えるのは、才能によって無理やり速度を生み出しているからではなく、余計なものが取り除かれているからなのである。この考え方は音楽以外にも当てはまるように思われる。研究や執筆においても、成果が出ない時にはさらに本を読み、さらに情報を集めようとしがちである。しかし問題は知識不足ではなく、論点が多すぎることかもしれない。仕事でも勉強でも、人は何かを加えることで前進しようとするが、実際には不要なものを減らすことの方が効果的な場合が少なくない。エイカー氏の助言が示しているのは、成長とは必ずしも能力を増やすことではないということである。むしろ、本来備わっている能力を妨げている無駄や緊張や迷いを取り除くことによって、人は自然な流れを取り戻していく。速度とは努力の量ではなく、洗練の結果として現れるものである。だからこそ、うまくいかない時には「何をもっと加えるべきか」ではなく、「何を取り除くべきか」を問い直してみる価値があるのであろう。フローニンゲン:2026/6/7(日)08:27


18826. 査読付き論文の原稿としてのファイナルペーパー 

                                     

最近、エディンバラ大学で履修する仏教学のコースについて考えていて、一つの戦略が頭に浮かんでいる。それは、最初からファイナルペーパーを授業の課題としてではなく、将来の査読付き論文の原稿として執筆するという考え方である。これまでの学生生活では、課題は課題として提出し、提出後にそのまま役目を終えることが多かった。しかし今回の留学は、単位取得そのものが目的ではない。最終的には良遍や法相宗の研究を国際的な学術界へ発信していくことが目標である。その視点に立つと、一つひとつのファイナルペーパーを研究成果の種として育てていく方が合理的なのではないかと思えてくる。興味深いのは、多くの学生が締切に合わせて必要最低限の長さで論文を書くのに対し、自分の場合は逆の発想の方がよいかもしれないということである。最初に査読付き論文を意識した十分な分量と議論を持つ原稿を書き上げ、その後で教授からフィードバックを受ける。そして提出時にはコースの字数制限に合わせて圧縮するのである。これは木を育てる作業に似ているように思う。最初から盆栽を作ろうとすると枝が足りなくなる。しかし大きく育った木であれば、どの枝を残し、どの枝を剪定するかを選ぶことができる。学術論文も同じで、最初から4,000語や5,000語に収めようとすると議論が痩せ細りやすい。むしろ7,000語や8,000語の原稿を作り、その中から本当に重要な部分を残していく方が、結果として密度の高い文章になるのかもしれない。さらに魅力的なのは、教授からのフィードバックの質である。もし最初から査読論文レベルの問題意識や文献調査を盛り込んでおけば、教授のコメントも単なる授業課題への助言ではなく、研究者としての助言に近づく可能性がある。実質的に査読前のプレレビューのような機会になるだろう。もちろん注意も必要である。授業の評価基準は査読論文の基準と完全には一致しない。コースによっては独創性よりも授業内容の理解が重視されることもある。また、字数を超えた原稿を提出できるわけではないので、最終的には課題として求められる形式へきちんと落とし込まなければならない。それでも全体としては、この戦略には大きな可能性があるように感じる。修士課程の一年間を単位取得のために使うのではなく、将来の査読付き論文群を生み出すためのインキュベーターとして使うのである。そう考えると、各コースのファイナルペーパーは終着点ではなく出発点になる。振り返ってみると、これはギターの練習で学んだことともどこか似ている。演奏会のためだけに曲を仕上げるのではなく、その曲を通じて技術や音楽性そのものを育てる。エディンバラで書く論文も同様に、一つの課題を終わらせるためではなく、研究者としての自分を育てるための材料として捉えるべきなのかもしれない。そう考えると、修士課程の一年間は単なる学習期間ではなく、博士課程やその先の研究人生へ向けた長い助走路のように見えてくるのである。フローニンゲン:2026/6/7(日)08:37


18827. 万華鏡的な主観性に祝福あれ

         

科学に対する敬意は、自分の中にたしかにある。科学に関する二つの修士号を通じて、自分は世界を客観的に見る訓練を受けてきた。仮説を立て、データを集め、変数を分け、再現性を確かめ、ある現象の背後にある機構を明らかにしようとする態度には、深い知的誠実さがある。とりわけサイケデリック科学において、シロシビンやLSDがどの受容体に作用し、脳内ネットワークをどのように変化させ、デフォルト・モード・ネットワークや神経可塑性にどのような影響を与えるのかを明らかにすることは、確かに重要である。それは人類が長らく神秘として扱ってきた体験に、ひとつの明晰な光を当てる営みである。しかし自分は、そこに一定の敬意を持ちながらも、どうしてもそれだけでは胸が躍らない。サイケデリクスの化学的特性がどれほど精密に記述され、脳画像がどれほど鮮やかに示されても、それはあくまで体験の外側に置かれた地図である。地図は大切である。だが、地図をいくら眺めても、森の湿った匂いや、木漏れ日の揺らぎや、足裏に伝わる土の柔らかさは分からない。自分が惹かれているのは、まさにその森の内部で起こる一回限りの出来事なのだろう。サイケデリック体験の核心は、客観的に測定可能な脳内変化だけではなく、その人にとって世界がどのように立ち現れたのかにあるのではないか。ある人にとっては、幼少期から抱えてきた悲しみが初めて形を持って現れるかもしれない。別の人にとっては、自己という境界が溶け、宇宙全体に抱かれるような感覚が生じるかもしれない。また別の人にとっては、恐怖、罪悪感、愛、赦し、死、再生が、言葉以前の象徴として押し寄せるかもしれない。それらは同じ物質によって誘発された体験であっても、決して同じ体験ではない。そこには、その人の記憶、身体、関係性、文化、傷、願い、信念、無意識が、万華鏡のように組み合わさって現れる。自分が面白いと感じるのは、おそらくこの万華鏡的な主観性である。サイケデリクスは、単に脳に作用する化学物質ではなく、その人の内的世界に光を入れる特殊なプリズムのようなものなのかもしれない。プリズムそのものの材質を調べることも重要である。しかし、自分が見たいのは、そのプリズムを通った光が、ある人の人生の壁にどのような模様を描くのかである。そこにこそ、人間存在の深みがある。科学は一般化を目指す。どの人にも共通するメカニズムを探し、個別性の背後にある普遍的な法則を明らかにしようとする。それに対して、主観的体験は一般化からこぼれ落ちるものを抱えている。なぜその人はそのヴィジョンを見たのか。なぜその場面で涙が出たのか。なぜある言葉が救いとなり、別の言葉が傷となったのか。こうした問いは、数値化しにくい。しかし数値化しにくいからといって、重要でないわけではない。むしろ、人間の人生にとって決定的なものほど、しばしば測定の網目からすり抜けていく。自分は科学を否定したいのではない。むしろ、科学の限界を理解するからこそ、科学の尊さもよく見えるのだと思う。科学は現象の骨格を明らかにする。だが、主観的体験はその骨格に血を通わせ、声を与え、物語を与える。骨格だけでは人間は立てるかもしれないが、そこに温度はない。サイケデリック科学が脳内機構を解明することは重要である。しかし、その人がその体験をどう意味づけ、どう人生に統合し、どのように自己理解や世界理解を変えていくのかを見なければ、体験の本当の豊かさには近づけないのではないか。自分が惹かれているのは、客観的知識の向こう側にある、一人ひとりの内的宇宙である。脳画像には似たようなパターンが映るかもしれない。しかし、その内側で開かれている風景は、誰一人として同じではない。ある人の内側には、沈黙した祖先の声が響いているかもしれない。ある人の内側には、子どもの頃に閉ざした扉がゆっくり開いているかもしれない。ある人の内側には、死への恐怖が光に包まれて変容しているかもしれない。そこにあるのは、化学反応であると同時に、人生そのものの詩である。その意味で、自分にとってサイケデリクスの魅力は、物質が意識に何をするのかという問いだけではなく、意識がその物質を契機として、自らの深層をどのように語り始めるのかという問いにあるのだろう。科学は扉の構造を説明する。けれども、自分が見つめたいのは、その扉が開いたときに、各人の内側からどのような風が吹いてくるのかである。そこにこそ、自分が研究者として、探究者として、そして一人の人間として惹かれてやまない主観的体験の神秘がある。フローニンゲン:2026/6/7(日)09:01


18828. 家の見学にやって来たジュリアンから古本屋を紹介してもらって 

           

静謐な日曜日の午後。爽やかな風が辺りを吹き抜けていく。今日は日曜日ということもあって、一段と周りが静かである。午前中からクラシックギターの練習と修士論文の執筆に従事しており、それらがひと段落ついたので、ここから引っ越しに向けた書籍の選別をしていきたい。実は先ほど、家のオーナーのペイトラさんがやって来て、扉をノックした。どうやらテキストメッセージと電話をしてくれていたようなのだが、いつも自分はスマホの着信音もバイブレーション機能もオフにしており、昼の仮眠の時にタイマーをかけるまで一切スマホに触れることはないので気づかなかった。何やら、家の見学をしたい人がいるとのことである。いつもは事前にこうした連絡をしてくれるが、偶然その人が家にやって来たために、急遽家を案内することになった。彼の名前はジュリアンといい、人柄大変良く、普段は映画やドキュメンタリーのクリエイターとして仕事をしているそうだ。ペイトラさんも家の様子がどのようになっているのか知りたいようだったので、2人に家を案内することになった。現在、もっぱら引っ越しに向けて準備中なので、1階は書籍とダンボールが散乱しており、2階は引き続き、書籍の山が至る所にできている。そのような中で家を案内することを一言述べた上で、2人に家を見てもらった。どうやらジュリアンはこの家がとても気に入ったようである。それもそうであろう。周りから隔離され、静かなこの居住空間は、彼のようなクリエイティブな仕事をする人にはうってつけのはずである。自分も学術研究や音楽実践に打ち込むにはもってこいの環境だった。膨大な書物を前にして、2人から思わぬ情報を得た。これまでのところ、1000冊以上の書籍をどこかに寄付しようと思っていたが、その受け取り先をまだ見つけておらず、2人から街の中心部の古本屋「Van der Velde」という店を紹介してもらった。その店なら様々なジャンルの書籍を買い取ってくれるだろうとのことだった。当初は無料で寄付しようと思っていたが、買取をしてくれるというのは有り難く、仮にわずかであっても引っ越しの費用の足しになる。ここから書籍の選別を完了させたタイミングで、一度この店にコンタクトをして、書籍の買取方法について尋ねてみたい。フローニンゲン:2026/6/7(日)14:39


Today’s Letter 

May our kaleidoscopic subjective experiences be honored in their fullness. We need to move beyond scientism, which reduces everything to objective measurement. Our unique subjectivity is not an obstacle to truth but a key to accessing ultimate reality. It is, in this sense, a master key. Groningen, 6/7/2026

 

 
 
 

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