【フローニンゲンからの便り】18784-18789:2026年6月1日(月)
- 6月3日
- 読了時間: 18分

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タイトル一覧
18784 | 9月からのエディバラ大学での探究に向けたプレーシーズンの開始 |
18785 | 今朝方の夢 |
18786 | 今朝方の夢の振り返り |
18787 | 原子の内面性について:汎心論と観念論の間に |
18788 | 作曲家からの手紙としての楽譜を「弾き解く」楽しさ |
18789 | 重力の中での最も自然な身体配置 |
18784. 9月からのエディバラ大学での探究に向けたプレーシーズンの開始
時刻は午前6時を迎えた。ここ最近のフローニンゲンは天気がとても良い。4月に入ってから晴れの日が増えてきて、5月はさらに晴れの日が増えた。起床直後の屋外でのHIITの際には、朝焼けを見ながら覚醒に必要な太陽光を浴びることができている。いよいよ今日から6月ということで、エディンバラ大学での研究に向けたプレシーズンがスタートした。9月からのエディンバラ大学での研究活動の開始をインシーズンとし、その前の6月、7月、8月はプレシーズンとするという考え方は、知人の中竹竜二さんとの対話の中で得られたアイデアである。自分は今回、エディンバラ大学で欧米で取得する4つ目の修士号に向けた研究を進めていく。その後に博士課程への進学を検討しており、1年間の修士課程の中でどのように過ごすかは決定的に重要になる。これまでの留学生活においては、オフシーズン、プレシーズン、インシーズン、ポストシーズンという4つの区分がなく、連続的・継続的に探究活動に取り組むことができていたと言えばそうであるが、メリハリをつけるという観点ではこの4つの区分は非常に有益だと感じている。事実、この区分のおかげで、オフシーズンにおいて、主たる研究テーマの唯識の探究から意図的に離れ、テクノロジー哲学やサイケデリクス学など、非常に広範な学問分野の探究を昨日の5月末まで行うことができた。今日からはプレシーズンのスタートということで、エディンバラ大学に提出する修士論文の執筆に少しずつ取り掛かる。まずは1節か2節ずつ論文を執筆していくのがいいだろう。6月は1節、7月は2節ぐらいのペースで執筆していけば無理がなく、もしかしたら7月を待たずして、6月の段階で修士論文全体のドラフトが完成するかもしれない。一旦それを目標にしておこう。修士論文の執筆が終わったら、査読付き論文に繋げていこうと考えている各履修授業でのファイナルペーパーの執筆を進めていく。今のところ履修する予定の授業は、仏教哲学や仏教倫理などで、それらの授業のファイナルペーパーのドラフトもエディンバラに引っ越す前に完成させてしまう。さらには、2つほど自分の研究テーマに焦点を当てて研究論文を執筆できる授業を履修する予定で、それらのコースのファイナルペーパーは査読付き論文に繋げやすい。それらの論文も9月中旬の学期の開始前に執筆してしまおう。そうすれば、大学院の授業が始まっても、焦ることなく、課題文献をじっくり読むことができ、必要に応じて文献を読みながらファイナルペーパーの加筆修正をして、よりより論文に仕立て上げていくことができる。今日からの探究リズムとして、午前中は論文執筆に専心し、午後は唯識に関係ない分野の文献を引き続き読み返していく。直近はサイケデリクスに関する学術書を読み返しているため、引き続き同分野の専門書を再読していこう。フローニンゲン:2026/6/1(月)06:27
18785. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、ある有名なコーチの知人と話をしていた。話の内容は自分の夢に関するものである。夢の中で夢について語るという二重構造の中、いざ夢について語り始めると、非常に不思議な体験が生じた。語り始めてすぐさま、自分はその夢の中の世界にいたのである。どのような内容の夢だったかというと、実家の最寄駅から3つほどいったところにある徳山駅という新幹線の停車駅から実家近くの光駅まで空を飛んで移動するというものだった。その時に、空を飛ぶことに関しては、形式が3つほどあった。1つ目は決められたコースを誰が一番早く飛ぶかを競うもの、2つ目は自分で決めたコースをできるだけ早く飛ぶもの、3つ目はコースすら決まっておらず、自由に飛んでいくもの、という3つである。自分は最後の形式を選んだ。いざ飛び始めると、光駅の方向がわからず、少し困ったが、とりあえず直感に従って飛んでいけば、いつか目的地に到着するだろうと思った。同時に、電車やバスなどの別の手段で帰る方法も検討しようと考えた。すると気づけば、広大な飛行場施設に降り立っていた。そこで不思議な光景を目撃した。最新鋭の飛行機が格納された大きな倉庫に入った時に、その倉庫内の右側が異世界になっていて、全く別の場所の運河が広がっていたのである。つまり、倉庫と運河脇の散歩道とがきっぱりと時空間の隔たりとして分かれて存在していたのである。さらに興味深いのは、運河脇の散歩道から一歩道を離れたところに、巨大な人喰い両生類がいたのである。それはオタマジャクシのようでもあり、ナマズのようでもあり、普段はとてもおとなしく、ちょこんと道脇に佇んでいた。どうやら道ゆく人たちにはその生物の姿は見えていないようで、カメレオンのように環境に同化する形で存在していた。自分にはそれがはっきりと見え、その生物の前を人が通るたびに、食べられないか心配で冷や冷やしていた。何人もの通行人がその生物の目の前を通って行ったが、不思議とその生物はアクションを起こさず静かにしていた。しかし、いつ人を食べるかわからなかったので、引き続き見張っておこうと思った。すると、倉庫内の最新鋭の立派な飛行機が動き出し、倉庫のシャッターが開いた。それを見て、自分はこの倉庫から外に出たいと思った。その際に宙に浮いて空を飛んで脱出しようと思ったが、人に見られたら何か問題があるかもしれないと思ったので、ひっそりと宙に浮かんで外に出ることにした。宙を移動し始めると、小中高時代の二人の女性友達(KE & YY)が昼食の弁当を買って倉庫にやって来た。彼女たちにも自分の姿を見られないようにしようと思い、無事に倉庫の外に飛び立ったところ、すぐ近くに紳士服専門店があるのが見えたので、そこに立ち寄ってスーツを吟味しようと思った。中に入ってみて驚いたのは、その店の広さである。店内を歩き始めた途端に、紳士服専門店がなんと巨大な美術館に変わった。しかもその美術館は、建物の中に閉じられたものではなく、開放的な国立公園を舞台にしたものだった。自分はその美術館のオーナーの女性と知り合いで、ちょうどその方と館内で出会ったので、少し話をした。この美術館は、国立公園全体が展示場になっていることもあり、まだまだ余っている展示スペースがあるとのことだった。ゆっくり歩きながら作品を鑑賞していくと、おそらく動物をモチーフにしたであろういくつかの抽象画に生命力を感じ、良い作品だと思った。また、黄金色に輝く巨大なスライムをモチーフにした絵も大変印象的だった。この時にふと、そう言えば、自分は知人に語っている夢の世界にいるなということを自覚した。その自覚が芽生えて以降も引き続き館内を歩いて見てまわった。最後に鑑賞したのは、ハープシコードとパイプオルガンを組み合わせたような見慣れない立派な鍵盤楽器だった。その場にいた学芸員の女性がその楽器について説明をしてくれ、触ってみることを勧めてくれた。実際に音を鳴らしてみると、不思議な音が奏でられた。同時に、色々な箇所に鍵盤があったので、これを一人で演奏するのはとても大変だろうと思った。その方曰く、この楽器は今1億円超の値段がついているとのことだった。楽器が置かれている場所から移動すると、見慣れないバーのカウンター席にいた。カウンター席にはずらりと若い女性たちが並んでいて、そこにいる男性は自分だけだった。マスターは友人の女性で、彼女が音楽の話をし始め、その場にいる全員で盛り上がった。彼女が提示した楽譜を見ると、知っている曲と知らない曲が半々に存在しており、知っている曲に関してもそれをピアノで演奏することは今の自分には難しいと思った。音楽の話を終えると、彼女が突然自分の年齢を全員に公開した。すると、右横に座っていた20代の若い女性が自分が年齢よりも見た目が若くて驚いていた。フローニンゲン:2026/6/1(月)06:53
18786. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、夢の中で夢を語り、その語りがただちに夢の世界そのものへ変わるという構造を持っている。これは、自分がいま、人生を外側から説明する段階から、その説明された世界の内側へ実際に入っていく段階へ移行しつつあることを示しているように思われる。知人のコーチに夢を語る場面は、自己理解を言語化しようとする意識の働きであり、その直後に夢の内部へ入る展開は、もはや自分の変容が言葉の整理だけでは済まなくなっていることを象徴しているのかもしれない。地図を眺めているつもりが、気づけば地図の上を歩いていたような夢である。徳山駅から光駅へ空を飛ぶ場面は、故郷という原点へ戻る旅でありながら、電車やバスではなく飛行によって移動しようとする点に意味がありそうである。決められたコースで競う形式、自分でコースを決める形式、コースすらない自由飛行という三つの選択肢は、人生の進み方そのものの三類型を表しているように見える。自分が最後の形式を選んだことは、他者の基準で成果を競うのでもなく、効率的に目的地へ到達するだけでもなく、方向が曖昧なまま直感に従って進む生き方を選びつつあることを示しているのだろう。ただし同時に、電車やバスという現実的手段も検討しているため、自由への衝動と実務的判断の両方が共存していると考えられる。飛行場施設と飛行機の格納庫は、自由に飛ぶ力を技術化し、制度化し、巨大な乗り物として整備する場所である。その右側だけが異世界の運河になっている場面は、合理的なキャリア設計や制度的な移動のただ中に、まったく別の感性世界や無意識の水路が開いていることを示しているようである。格納庫と運河がきっぱり分かれているのは、現実的計画と夢想的深層が、薄い壁一枚を隔てて隣り合っているということなのかもしれない。巨大な人喰い両生類は、この夢の中でもっとも重要な影の象徴であるように思われる。オタマジャクシやナマズのようで、普段はおとなしく、環境に同化しており、他人には見えない。それは、未分化で水中的な生命力、あるいはまだ言葉になっていない本能的エネルギーの象徴だろう。人を食べるかもしれないという恐れは、その力が創造性にも破壊性にもなりうることへの警戒を表しているのではないか。自分だけがそれを見て見張っているという構図は、自分が他者には見えにくい深層の危険や可能性を感知していることを示しているようである。それは怪物というより、まだ名前を与えられていない才能の幼生であるのかもしれない。紳士服専門店が巨大な美術館へ変わる場面は、社会的な装いを選ぶ場所が、創造的自己表現の場へ変容することを示しているように思われる。スーツは社会的役割の衣であり、美術館は内的世界の展示場である。つまり、自分がこれから身につけようとしている役割は、単なる職業的な制服ではなく、自分の感性、思想、生命力を展示するための広大な舞台になっていくのだろう。国立公園全体が美術館で、まだ展示スペースが余っているという場面は、自分の表現領域が想像以上に広く、未使用の可能性が多く残されていることを示しているようである。動物の抽象画や黄金のスライムは、形を固定される前の生命の輝きであり、柔らかく変形しながらも価値を帯びていく創造性の象徴であると考えられる。最後に現れる複雑な鍵盤楽器は、自分の知的・音楽的・霊性的な能力の統合を象徴しているようである。ハープシコードとパイプオルガンが混ざったような楽器は、繊細な指先の技巧と、荘厳な全体性の響きを同時に要求する。鍵盤が複数の場所にあり、一人で演奏するのが難しいという感覚は、自分が扱おうとしているテーマがあまりに多層的で、一つの身体や一つの専門性だけでは弾ききれないほど複雑であることを示しているのかもしれない。1億円超という価値は、その統合された表現能力が、まだ十分に使いこなされていないが、きわめて高い潜在価値を持つことを暗示しているようである。終盤のバーで音楽の話が盛り上がり、知っている曲と知らない曲が半々である場面は、これからの学びと表現が、既知と未知のちょうど境界で進んでいくことを示しているように思われる。年齢を公開され、若く見えると驚かれる場面は、時間的には経験を重ねていながら、内面にはまだ新しく飛び立てる若い生命力が残っていることを象徴しているのだろう。人生における意味として、この夢は、自分が既存のコースを離れ、未知の空路を選びながらも、深層の怪物を見張り、社会的役割を創造的美術館へ変え、最後には複雑な楽器としての自己を演奏する段階に入りつつあることを告げているのだと思われる。フローニンゲン:2026/6/1(月)07:57
18787. 原子の内面性について:汎心論と観念論の間に
改めて、原子の内面性とは何かという問いについて考えていた。汎心論に関心を持ち始めると、多くの人が最初に抱く疑問は、「もし原子に内面性があるなら、それは人間のように考えたり感じたりしているのか」というものである。しかし考えれば考えるほど、その問い自体が人間中心的な発想なのかもしれないと思うようになった。自分たちは「内面性」と聞くと、すぐに感情や思考や自己意識を思い浮かべる。しかしそれは人間という極めて複雑な存在の内面性である。原子の内面性があるとしても、それが人間の心の縮小版である必要はない。むしろ、そのように考えること自体が、海を見ながら雫の中にも同じ波があるはずだと期待するような誤解なのかもしれない。では原子の内面性とは何なのだろうか。最近の自分は、それを経験の種子のようなものとして捉えている。もちろん、それは思考でも感情でもない。ましてや自己意識でもない。しかし完全な無とも異なる。例えば量子力学において、粒子は観測される前には複数の可能性を保持している。その様子を眺めていると、そこには単なる機械的な運動以上の何かがあるようにも感じられる。もちろん科学的に証明された話ではないが、少なくとも世界を理解するための一つの想像力として興味深い。一方で、自分はその内面性を独立した実体として考えているわけでもない。最近抱いている立場は、汎心論と観念論の中間にあるようなものである。世界のあらゆる存在に内面性の可能性を認めながらも、その内面性もまた意識を通して現れていると考えている。つまり、原子そのものに内面性があるというより、自分が世界を経験する時、世界の奥行きとして内面性が立ち現れているとも言える。このことを考えていると、世界は以前よりも少し生き生きと見えてくる。椅子の横に置いているギターも、窓の外の樹木も、街を形づくる石畳も、単なる無機的な物体ではなくなる。しかし同時に、それらを人間のような人格として扱う必要もない。そこには、人間とは異なる仕方で存在している何かの深みがあるように感じられる。その感覚は、夜のコンサートホールで演奏開始を待つ静寂に少し似ている。まだ音楽は始まっていない。しかし空間にはすでに音楽の可能性が満ちている。原子の内面性について考える時、自分はそのような可能性の充満を想像しているのかもしれない。何も存在しないわけではない。しかし人間のような心がそこにあるわけでもない。世界は死んだ機械でもなければ、人間の複製でもない。その中間に広がる広大な未知の領域にこそ、探究する価値があるように思うのである。フローニンゲン:2026/6/1(月)08:25
18788. 作曲家からの手紙としての楽譜を「弾き解く」楽しさ
楽譜というものは単なる演奏指示書ではなく、作曲家からの手紙のようなものではないかと思う。もちろん楽譜には音高やリズム、強弱記号などが書かれている。しかし、それらは氷山の海面に出ている部分に過ぎず、その下にはもっと大きく、そして豊かな何かが隠されているように感じるのである。たとえばバッハの作品を弾いていると、一見すると単純な音の並びの中に不思議な意図を感じることがある。なぜここで声部が交差するのか。なぜこの音だけが少し長く保たれるのか。なぜこの和声が突然現れるのか。その理由を考え始めると、まるで暗号文を解読しているような気分になる。作曲家は何百年も前に亡くなっているにもかかわらず、その痕跡が音符の隙間から立ち現れてくるのである。興味深いのは、その解読が頭だけで行われるわけではないことである。本を読む場合、文字は主として目と知性によって理解される。しかし音楽の場合は違う。左手が弦を押さえ、右手が弦を弾き、身体全体が共鳴しながら理解が進んでいく。あるフレーズの意味がわからなかったものが、何十回も弾いているうちに突然腑に落ちることがある。それはまるで文章を読むのではなく、身体そのものが作曲家の言葉を翻訳しているかのようである。考えてみれば、作曲家の思考は最初から言語ではなく音として生まれていたはずである。そのため、その思考を理解するには、こちらも音を通して近づく必要があるのだろう。演奏とは単に再生することではなく、作曲家の思考経路を身体で追体験する行為なのかもしれない。登山家が山頂を目指して歩いた足跡をたどるように、自分もまた指先を使って作曲家の精神の地形を歩いているのである。最近は即興演奏にも取り組んでいるが、その経験を通じて作曲家への敬意がさらに深まった。即興をしていると、自分の内側から音楽が湧き上がってくる感覚がある。その体験を知ると、偉大な作曲家たちもまた、何か内なる流れに耳を澄まし、それを楽譜という形で定着させていたのではないかと思えてくる。楽譜は完成品ではなく、かつて流れていた音楽の川の河床のようなものなのだろう。だから演奏の楽しさは、正確に音を並べることだけにあるのではない。音符の背後に潜む見えない意図を探し、それを身体を通じて少しずつ読み解いていくことにある。その作業は考古学者が地中から古代文明の断片を掘り起こす作業にも似ている。一つのフレーズが理解できるたびに、何百年もの時を超えて作曲家と対話できたような気持ちになる。最近は、その静かな対話こそが演奏の最も大きな喜びなのではないかと思っている。フローニンゲン:2026/6/1(月)08:39
18789. 重力の中での最も自然な身体配置
ブランダン・エイカー氏の助言は、一見すると右手や左手の脱力について語っているように見えるが、実際にはもっと根本的な問題を扱っている。それは「指をどう動かすか」ではなく、「指が動き始める前に身体がどのように組織化されているか」という問題である。多くの演奏者は、音が詰まったり速く弾けなかったりすると、その原因を指の筋力不足や独立性不足に求める。しかし実際には、指そのものは無実であることが少なくない。問題はもっと上流にある。腕、手首、親指の位置関係にわずかな歪みがあると、それが川の源流に落ちた小石のように、下流にあるすべての動きに影響を与えるのである。例えば手首がほんの少し固まっているだけで、指は自由に動くために余計な努力を強いられる。親指が強く握り込んでいるだけで、他の指は無意識のうちに緊張を共有する。そして恐ろしいことに、その状態が何年も続くと、その緊張そのものが「普通」になってしまう。本人は力んでいるつもりがないのに、実際には常にブレーキを踏みながら車を運転しているような状態になるのである。そこで彼が提案しているのが、「まず腕を自然に垂らす」という方法である。これは単なる準備運動ではない。重力の中で最も自然な身体配置を思い出させるための方法である。腕を脇に垂らした状態では、本来ほとんど余計な緊張は存在しない。その感覚を保ったままギターに手を運ぶことで、演奏の出発点を人工的な構えではなく自然な構えに戻そうとしているのである。興味深いのは、「指を先に置くな」という助言である。多くの人は弦に指を合わせようとする。しかし彼は逆に、まず腕が到着し、その結果として手がついてきて、最後に指が弦に落ちるように勧めている。これは建築で言えば、窓枠から作るのではなく土台から作るという発想である。土台が整えば、その上の構造は自然と安定する。さらに重要なのが親指についての指摘である。特に左手では、親指はしばしば「押さえるための道具」と誤解される。多くの人は親指と他の指でネックを挟み込み、万力のように握ろうとする。しかしエイカー氏は、親指は力を発揮するためではなく、バランスを取るために存在すると述べている。これは非常に深い洞察である。本来、ギターを支える主要な力は腕全体の重量や骨格の配置から生まれる。親指はその均衡を微調整する舵のような役割であって、エンジンではないのである。ところが親指をエンジンとして使い始めると、前腕全体が硬直し、指の独立性や音色や速度までもが犠牲になる。この考え方は演奏だけでなく人生にも通じるように思う。多くの人は問題が起きると、その現象そのものを修正しようとする。しかし本当の原因はもっと深い構造の中に隠れていることが多い。指の問題を直そうとしていたら、実は腕の配置の問題だったということがあるように、人生でも結果ばかりを変えようとして、前提となる姿勢や習慣を見落としていることがある。エイカー氏の助言は、まるで木の枝を矯正するのではなく根の張り方を見直しなさいと言っているようである。根が安定すれば枝葉は自然に広がる。同様に、腕、手首、親指という土台が整えば、指は努力して動くのではなく、自然に動き始める。そしてそのとき初めて、演奏は力によって作られるものではなく、重力や身体構造と協調することによって生まれるものだと気づくのである。フローニンゲン:2026/6/1(月)09:16
Today’s Letter
My pre-season has begun ahead of the start of the academic year at the University of Edinburgh in mid-September. Starting today, I will begin drafting my master's thesis, one section at a time. Once that is underway, I will also start working on my final papers with the goal of developing them into publishable peer-reviewed articles. Groningen, 6/1/2026
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