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【フローニンゲンからの便り】18777-18783:2026年5月31日(日)

  • 6月2日
  • 読了時間: 17分


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タイトル一覧

18777

マイケル・コモンズによるテロリズム論の論文

18778

今朝方の夢

18779

今朝方の夢の振り返り

18780

新しい身体組織化の始まり

18781

小指の覚醒と可能性の扉

18782

汎心論的観念主義の目覚め

18783

原子に内面性を認めることについて

18777. マイケル・コモンズによるテロリズム論の論文  


今週は、マイケル・コモンズによるテロリズム論の論文を読んでいたのだが、非常に独特な視点に驚かされた。普通、テロリズム研究というと、宗教、経済格差、地政学、イデオロギーなどが中心になる。しかしこの論文では、それを成人発達理論の観点から分析しようとしていた。つまり、国家や組織、文化そのものにも発達段階が存在し、その発達課題がうまく達成されない時に、暴力やテロが生まれやすくなるというのである。読んでいて特に印象的だったのは、「社会は発達段階を飛び越えられない」という主張だった。例えば、外部から民主主義や近代制度を急激に導入しても、その社会全体がまだそれを支える段階へ到達していなければ、むしろ混乱や反発が生じやすいという。この発想はかなり重要だと思った。現代社会では、「進んだ制度」を持ち込めば社会も発展すると考えがちである。しかし人間の発達と同じように、文化や組織にも「消化可能な複雑性」があるのだろう。まだ土台が形成されていない場所へ、高次のシステムだけを上から被せても、それは根付かない。まるで浅い土壌に巨大な樹木を植えようとするようなものなのかもしれない。また、この論文では、テロリズムを単なる狂気や悪意としてではなく、「発達的ミスマッチ」や「組織的停滞」の結果として理解しようとしていた。特に印象的だったのは、テロ組織と通常軍隊との違いについての議論である。テロ組織には固定的中心がなく、ネットワーク状に存在している。そのため、通常の戦争モデルでは対処しにくいという。ここを読んでいて、現代社会そのものが流動化しているのだと思った。昔の権力は、城や国家のように中心を持っていた。しかしインターネット以後の世界では、情報も組織も、菌糸のように分散しながら広がっていく。すると、敵味方という単純構造では理解できなくなる。暴力ですら、固定的軍隊ではなく、動的ネットワークとして現れ始めているのである。さらに面白かったのは、「assortativeness」と「affiliativeness」という概念だった。人間には、「自分と似た特徴を持つ集団へ集まりたい欲求」と、「他者と広くつながりたい欲求」の両方があるという。この二つの力のバランスが崩れると、極端な閉鎖集団が形成されやすくなる。つまり、「自分たちだけが正しい」という感覚が強まり、外部世界との対話が断絶されるのである。ここを読んでいて、これは国家レベルだけではなく、SNS空間そのものにも当てはまると思った。人は安心できる同質集団へ引き寄せられる。しかし同時に、それが過剰になると、異なる視点との接触が失われ、世界理解は急速に単純化していく。発達とは本来、より複雑な他者性に耐えられるようになることなのに、閉鎖集団は逆方向へ進んでしまう。また、この論文では、政府制度の発達にも強い関心が向けられていた。会計制度、法制度、裁判所、行政システムなどが透明性を持って機能することが、長期的にはテロ抑制につながるというのである。最初は少し地味な話に見えた。しかし考えてみると、これは非常に深い。人間は、自分の生活が予測不能で不安定になるほど、単純で強力な物語へ惹きつけられやすいのだろう。逆に、法や制度への最低限の信頼がある時、人は暴力的極端主義へ流れ込みにくくなる。つまり、この論文の核心は、「テロリズムを単なる軍事問題としてではなく、発達問題として見る」という点にあるように感じた。暴力とは、単に悪意の噴出ではない。むしろ、個人・組織・文化が、現在の複雑性に適応できなくなった時に現れる崩壊現象なのかもしれない。読み終えて強く感じたのは、成熟とは単なる知識量ではなく、「複雑な世界を単純化しすぎずに耐えられる力」なのだということである。社会も個人も、不安や恐怖が高まると、すぐに単純な敵味方構造へ戻ろうとする。しかし本当の発達とは、矛盾や多様性を抱えたまま、それでも共存の秩序を作ろうとする営みなのだろう。フローニンゲン:2026/5/31(日)06:51


18778. 今朝方の夢 

                   

今朝方は夢の中で、大学時代のある女性友達と一緒にデパートのような施設を散策していた。それぞれのフロアは違ったお洒落な雰囲気を持っていて、歩くだけで楽しかった。また、フロア内のエリアごとに雰囲気も違ったので、全く飽きることなく散策を楽しむことができた。自分はそのフロアの中でもお洒落な寝具を取り揃えた店に関心があり、どこかのタイミングでベッドをさらに質の良いものにして、さらに上質な日々の睡眠を実現させようと思った。一通り散策を終えると、彼女と一緒に一階に降りて、そこのレストランに入って朝食ビュッフェを食べようと思った。そう言えば、彼女はこのデパートと関係が深く、レストランでの食事は無料で行えるが、自分はそういうわけにはいかず、わざわざ高いお金を払ってそこで朝食を摂る必要があるのかを考えた。結局私はそこで朝食を食べることはせず、彼女だけレストランで食事をしてもらうことにした。彼女と別れ、一階の広大なフロアを散歩していると、コーヒー屋があり、モーニングコーヒーを一杯購入しようと思った。するとそこにはかつて帰国子女向けの進学塾で教えていた教え子の一人がいたので驚いた。彼はとても背が高くなっており、190cmぐらいになっていた。彼を見上げる形で声をかけると、彼は私と出会ったことをすぐさま喜んだ。ちょうどこれから近くのボウリング場で友人とボウリングをすることになっていたので、彼も参加するか誘ってみた。どうやら彼はこれから大学の授業があるらしく、それが終わったら合流したいとのことだった。その時にはもう一人かつての教え子も誘っていいかと尋ねられたので、もちろんだと答えた。フローニンゲン:2026/5/31(日)06:59


18779. 今朝方の夢の振り返り

 

今朝方の夢は、自分の人生が「探索の季節」から「選択の季節」へと静かに移行しつつあることを象徴しているのかもしれない。夢の舞台となったデパートは、単なる商業施設ではなく、自分の人生そのものの比喩であるように見える。異なるフロアやエリアごとに雰囲気が変わり、歩くだけで楽しいという構造は、近年の自分が経験してきた多様な知的探究や人生経験を反映している可能性がある。発達理論、唯識、量子論、音楽、教育、執筆、大学院進学といった数多くの領域を巡り歩いてきた自分は、まるで巨大な百貨店を自由に散策する旅人のようである。どこへ行っても新しい発見があり、退屈することがない。その意味で、この夢全体には人生に対する根本的な好奇心と肯定感が流れているように思われる。その中で寝具売り場に強く関心を示していたことは興味深い。ベッドとは活動の場ではなく休息の場であり、外的な成果ではなく内的な回復を象徴するものである。自分の無意識は、これから先の発展に必要なのは新しい知識や挑戦だけではなく、それらを支える土台の質を高めることだと伝えているのかもしれない。大木がさらに高く成長するためには枝葉を伸ばすだけでなく根を深く張る必要がある。睡眠への関心は、心身の基盤を整えることへの欲求の表れとも考えられる。一方で、女性友達が無料で朝食を食べられるのに対し、自分は高いお金を払わなければならないという場面は、人生における「所属」と「対価」の問題を映しているようである。彼女はその施設の内部の人間であり、自分は外部の訪問者である。つまり誰かが自然に得られるものを、自分は努力やコストを支払って獲得してきたという感覚が背景にあるのかもしれない。しかし印象的なのは、自分がそれを羨まず、朝食を断ることである。そこには、無理に他人の特権に乗ろうとしない成熟した判断が見える。自分にとって本当に必要なものだけを選び取ろうとする姿勢が表れているようである。その後に現れる教え子は、夢の中で未来からやって来た使者のような存在である。かつて教えていた少年が見上げるほど大きく成長している光景は、自分が過去に蒔いた種が予想以上に育っていることを象徴しているのだろう。教師という仕事はしばしば種まきに似ている。蒔いた瞬間には何も起こらないが、長い時間を経て森になる。この夢では、その森の一部を自分が目撃しているのである。さらに彼が大学に通い、友人を連れて後から合流したいと語る場面には、自分の影響力が一対一の関係を超えて広がっていく可能性が暗示されているように見える。かつての教育的関わりが、今度は仲間や共同体を生み出す方向へ発展しているのである。夢全体を貫いているのは「急がない」という感覚である。朝食を無理に食べない。教え子も今すぐではなく授業後に合流する。すべてが自然なタイミングで進行している。まるで川が海へ向かう途中で無理に流れを速めないように、自分の人生もまた適切な時機に向かって運ばれていることを無意識が示しているのかもしれない。人生における意味としては、これまで積み重ねてきた探究や教育、対話の営みがすでに豊かな実りを生み始めており、今後は新しい成果を追い求めるだけでなく、自らの基盤を整えながら、その実りが自然に広がっていく過程を信頼する時期に入っていることを示す夢であったように思われる。自分はまだ百貨店の旅を続ける探究者であるが、同時に知らぬ間に多くの人の成長を支える庭師にもなりつつあるのであろう。フローニンゲン:2026/5/31(日)07:55         


18780. 新しい身体組織化の始まり 

         

ブランダン・エイカー氏の言葉を読んでいて、とても腑に落ちる感覚があった。ギターを続けていると、ある時突然、「全部下手になったのではないか」と感じる瞬間がある。音が痩せる。指がぎこちない。今まで自然にできていたことが急に不安定になる。まるで身体の中から演奏感覚だけが抜け落ちてしまったような奇妙な感覚である。発達理論を学ぶ前の自分は、こういう時期を単なるスランプだと思っていた。しかしエイカー氏は、それを「後退」ではなく「移行」だと言う。この表現が非常に印象的だった。つまり、古いやり方が限界へ達し、新しい身体組織化が始まっているのである。考えてみれば、技能発達は直線ではない。むしろ、ある段階で古い安定が崩れ、一時的混乱を経ながら、新しい安定へ移っていく。その境界では、必ず「不快さ」が生まれる。脳も身体も、まだ新しい調和を見つけられていないからだろう。特に興味深かったのは、「楽器が今までとは違うものを要求している」という感覚である。初心者の頃は、ギターとは操作する対象だった。しかしある段階から、むしろこちらがギターに教えられ始める。弦の抵抗、爪の入り方、音が立ち上がる瞬間の摩擦、右手の微細な角度変化。そうしたものを、身体が以前より敏感に感じ始める。最近、自分の中でも似た変化が起きている気がする。以前は正しく弾こうとしていた。しかし今は、弦がどう反応するかを聴く感覚が少しずつ増えてきている。これは単に耳で音を聞くことではない。むしろ、指先や骨格全体で、弦との相互作用を感じ始めている感覚である。またエイカー氏が「無理に解決しなくていい」と言っていたのも深かった。不安定になると、人はすぐにコントロールしようとする。しかし実際には、新しい技能は探索の中から自然に醸成されるのだろう。つまり、神経系が新しいアトラクターを発見するには、少し漂う時間が必要なのである。これは即興演奏にも少し似ている。良い即興は、力づくで音を支配した時ではなく、身体がまだ知らない流れへ入っていった時に生まれることがある。そこでは、演奏しているというより、音の生成過程へ身体が参加しているような感覚になる。最近は、ギターの練習とは単なる筋肉訓練ではなく、「身体の知覚構造そのものを再編成すること」なのではないかと思い始めている。最初は指で音を作ろうとしていた。しかし少しずつ、音とは身体全体の重力、呼吸、接触、脱力、時間感覚の総体から立ち現れるものなのだと感じ始めている。そして、おそらく本当の上達とは、「より強くコントロールできるようになること」ではない。むしろ、音が生まれる条件を身体が深く理解し、無理なく共鳴できるようになることなのだろう。ギターとは、木の箱を支配する技術ではなく、自分の身体そのものを少しずつ響く構造へ変えていく営みなのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/31(日)08:25


18781. 小指の覚醒と可能性の扉


ここ最近、右手の小指の独立性を高めるための練習を地道に続けている。クラシックギターでは通常、小指はほとんど使用しない。しかし、だからこそ逆に、その指には未開拓の領域のような可能性が眠っているように感じている。最初に小指だけを独立して動かそうとした時、その感覚は奇妙そのものだった。まるで、長年ずっと薬指の影に隠れていた存在が、突然「自分も一つの指として動きたい」と主張し始めたようであった。実際、小指は薬指と強く連動している。小指を動かそうとすると薬指まで一緒に動き、薬指を固定しようとすると小指の動きもぎこちなくなる。その状態は、二本の木の枝が長年絡まり合い、どちらがどちらなのか分からなくなっているようでもある。しかし毎日少しずつ訓練を重ねていくと、その絡まりの中に微かな隙間が生まれ始める。その瞬間が実に面白い。特に興味深いのは、単に筋肉を鍛えている感覚ではなく、神経そのものを書き換えているような感覚があることである。以前は一つの塊としてしか感じられなかった運動が、徐々に細かく分化していく。まるで霧の中に埋もれていた道筋が、少しずつ輪郭を現していくようである。この感覚は、成人発達理論や現象学の探究ともどこか重なっているように思う。人間は最初から完全に独立した存在ではなく、多くの未分化な状態を抱えている。しかし注意深い実践と反復の中で、それまで一体化していたものが徐々に分化し、新しい統合が可能になる。右手の小指の訓練は、まるでその縮図のようでもある。そして何より面白いのは、使われてこなかった小指が少しずつ意識の光を受け取り始めることで、右手全体の感覚まで変わってきていることである。以前よりも右手全体が立体的に感じられ、弦との接触も繊細になってきている気がする。小指という小さな存在を目覚めさせることが、結果として右手全体の世界を広げているのである。それはまるで、長年閉ざされていた部屋の扉を静かに開け、その奥にまだ知られていない空間が広がっていることに気づくような体験なのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/31(日)08:35


18782. 汎心論的観念主義の目覚め 

           

自分の世界観を改めて振り返っていると、どうも単純な観念論とも、典型的な汎心論とも少し異なる立場に立っているように感じるようになった。もし名前を付けるなら、「汎心論的観念主義」と呼べるのかもしれない。一般的な観念論は、究極的には心や意識のみが実在し、物質はその現れであると考える。一方で汎心論は、物質世界のあらゆる存在に何らかの内面性や経験の萌芽を認める。これらはしばしば別々の立場として語られるが、自分の感覚では両者は必ずしも対立しない。例えば、石や木や川を眺めていると、それらに人間とは異なる何らかの内面性を感じることがある。もちろん、それは人間のような自己意識や言語を持った心ではない。しかし、まったくの無であるとも感じられない。山には山の沈黙があり、樹木には樹木の時間があり、音楽を奏でるギターには長年の振動の履歴が宿っているように思える。その意味で、自分は物質世界に何らかの内面性を認める傾向がある。しかし同時に、そのような内面性そのものも、自分の認識から完全に独立して存在していると断言することにはためらいがある。なぜなら、自分が山の静けさや木々の生命感を感じる時、それは常に自分の意識を通して経験されているからである。物そのものの内面性を直接知っているのではなく、自分の意識が世界に意味や深みを読み取っているとも言える。まるで夜空の星々を結ぶことで星座が生まれるように、自分は世界に内面性の輪郭を描いているのかもしれない。そのため、自分の立場は単純に「すべての物質に心がある」とする汎心論ではないように思う。また、「意識だけが存在する」と言い切る観念論とも少し異なる。むしろ、世界のあらゆる存在に内面性の可能性を感じ取りながら、その内面性もまた意識の中で構成される現象として理解しているように思うのである。この考え方は、どこか唯識の「唯識所現」にも通じているように感じる。世界は単なる客観的物体の集まりではなく、意識が意味を与えながら立ち現れる場である。しかしその場には、自我だけでは説明できない豊かな深みが存在している。世界は空白のキャンバスではなく、かといって完全に独立した完成品でもない。それは、意識と存在が絶えず共鳴しながら描き続ける巨大な即興演奏のようなものなのかもしれない。この気づきは、自分にとって世界を見る視線を少し柔らかくする意味を持っているように思う。人間だけを特別視するのでもなく、物質を単なる機械とみなすのでもなく、あらゆる存在に潜む深みを感じ取りながら、その深みもまた意識の働きの中で現れていることを忘れない。その態度は、世界を征服するための知ではなく、世界と対話するための知へと自分を導いているように感じるのである。フローニンゲン:2026/5/31(日)08:48 


18783. 原子に内面性を認めることについて

                  

昨日、汎心論に対する代表的な批判の一つについて考えていた。それは、もし原子や電子のような極めて微小な存在にまで内面性を認めるなら、それぞれが独立した意思を持つことになり、なぜそれらが集まった一つの存在は統一的な秩序を保てるのか、という問いである。確かに一見するともっともらしい疑問に思える。もし宇宙を構成する無数の原子が、それぞれ人間のような自由意志を持っているならば、世界は巨大な会議室のようになり、無数の意見が衝突して混乱してしまいそうである。しかし、この批判には一つの前提が潜んでいるように思う。それは「内面性があるなら人間のような自由意志もあるはずだ」という前提である。だが、その二つは必ずしも同じではない。例えば植物に何らかの内面性を認めたとしても、人間のような自己反省能力や選択能力まで認める必要はない。動物にも程度の差がある。同様に、原子レベルの内面性が存在するとしても、それは極めて単純で原初的なものであり、人間の自由意志とは比較にならないほど限定的なものである可能性が高い。むしろ興味深いのは、人間という比較的高度な自由意志を持つ存在ですら、しばしば一つの全体へとまとまっていくことである。社会心理学や集合心理学が示しているように、人間集団は単なる個人の寄せ集めではない。スポーツチーム、企業、国家、宗教共同体などでは、個人が独自の意思を持ちながらも、全体として一定の方向へ動いていく現象が観察される。個々人の自由意志が存在しているにもかかわらず、より大きなパターンや秩序が生まれるのである。このことは、宇宙における原子や分子について考える際にも示唆的であるように思う。仮にそれらに何らかの内面性があるとしても、それぞれが勝手気ままな独裁者のように振る舞う必要はない。むしろ、全体の中で共鳴しながら秩序を形成することの方が自然であるように感じられる。オーケストラを思い浮かべると分かりやすい。一人ひとりの演奏者は独立した主体である。しかし交響曲が始まると、無数の音が互いを打ち消し合うのではなく、むしろ一つの楽曲としてまとまっていく。個と全体は対立するものではなく、むしろ相補的な関係にある。さらに考えてみると、人間の身体そのものがその好例なのかもしれない。身体は数十兆個の細胞から構成されている。細胞はそれぞれ独自の活動を行っているが、全体としては「自分」という統一的な存在として機能している。もし細胞レベルである種の内面性を認めたとしても、それは身体全体の統一性を損なう理由にはならない。むしろ、多様な要素が統合されることで、より高次の全体性が生まれているのである。このことを考えていると、世界とは無数の小さな主体が互いに競争する戦場というよりも、異なる声部が響き合う巨大な合唱のように見えてくる。原子に内面性を認めることは、世界を混乱へ導く仮説ではなく、むしろ全体性がどのように生まれるのかを新たな角度から考えるための入り口なのかもしれない。個と全体は排他的なものではなく、波が海から切り離せないように、互いの中に含まれ合いながら存在しているように思われるのである。フローニンゲン:2026/5/31(日)09:11


Today’s Letter 

I have proposed the concept of "panpsychic idealism" as a label for my own metaphysical position. According to this view, even fundamental entities such as atoms may possess a rudimentary form of proto-consciousness, although this is qualitatively distinct from human consciousness. Proto-consciousness, for example, may lack the capacity for self-reflective awareness that characterizes higher-order forms of cognition. Consequently, I am inclined toward a panpsychic idealism that seeks to integrate insights from both idealism and panpsychism. Groningen, 5/31/2026 

 
 
 

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