【フローニンゲンからの便り】18752-18757:2026年5月27日(水)
- 5月29日
- 読了時間: 14分

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タイトル一覧
18752 | 決められたスケールでの即興演奏 |
18753 | 今朝方の夢 |
18754 | 今朝方の夢の振り返り |
18755 | 単純な運動の中に潜む演奏の本質 |
18756 | 即興の土壌作りとしての楽曲練習 |
18757 | エディンバラとフローニンゲンの気候の違い |
18752. 決められたスケールでの即興演奏
ここ数日、不思議なほど楽しいと感じているのが、「決められたスケールの中だけで自由に即興する」という遊びである。外から見ると、使える音を制限しているのだから不自由になっているようにも見える。しかし実際には逆で、制約があるからこそ、かえって音楽の内部へ深く潜っていける感覚がある。以前は、即興とは「どれだけ多くの音を使えるか」に関係していると思っていた。より複雑なスケール、より高度な理論、より難しいコード進行を扱えることが自由だと思っていた。しかし最近は、限られた数個の音だけを延々と転がしているときのほうが、むしろ深い没入感が生まれている。まるで、広大な海を高速で飛び回るより、一つの小さな庭に何時間も留まり、苔の質感や風の揺れを観察している感覚に近い。特に面白いのは、同じスケールの中でも、意識状態によって全く違う景色が現れることである。ある日はメジャースケールが朝の光のように感じられ、別の日にはどこか切なさを帯びた夕方の空気になる。同じ音階なのに、心の状態が変わるだけで、音楽の色彩がまるで変わるのである。そのため、スケール練習というより、内面の気候観測をしている感覚に近い。また、制限されたスケールの中で遊んでいると、「次にどの音を出すか」という発想より、「今鳴っている音をどれだけ味わうか」という方向へ意識が変わっていく。これは非常に重要な変化なのかもしれない。以前は、即興中もどこかで未来を追いかけていた。しかし最近は、一音を長く伸ばしたときの振動や、半音移動した瞬間の重力変化をじっくり感じること自体が快感になってきている。すると音楽は「前へ進むもの」というより、「今この瞬間の感覚を掘り下げるもの」へ変わっていく。さらに興味深いのは、スケール制限が逆に創造性を刺激する点である。音が少ないからこそ、リズム、間、強弱、音色、沈黙といった、これまで見落としていた要素が急に浮かび上がってくる。これはまるで、限られた色数だけで絵を描くことで、逆に筆圧や余白の美しさに敏感になるようなものである。最近では、移動中ですら頭の中で一つのスケールだけを鳴らし続け、その中でどれだけ多くの感情や空気感を生み出せるかを試している。すると不思議なことに、数個の音しか使っていないにもかかわらず、内面では無限に近い風景が広がり始める。制限は檻ではなく、むしろ感覚を凝縮するレンズなのかもしれない。おそらくこの遊びの本当の効能は、音楽理論を覚えることではなく、「少ないものの中に豊かさを見出す感覚」を育てている点にあるのだろう。現代は常に情報や選択肢を増やそうとする。しかし、限られた音の中に深く潜っていくと、豊かさとは量ではなく、感受性の深さによって生まれるのだという感覚が、少しずつ身体に染み込んでくるのである。フローニンゲン:2026/5/27(水)06:35
18753. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない山道を自転車で走る大会の応援に出かけていた。そのロードレースに参加する人たちの何人かは、鼻の形が特徴的だった。鼻の穴が通常の人とは違い、鼻の上の方にまで広がる形でついていたのである。私は彼らを見て、「鼻の穴があれだけ上の方にまで続いているのだから、酸素をより多く取り入れらせそうで、呼吸がしやすいのではないだろうか」と思った。しかし実際には、どうやら真逆のようである。彼らは酸素を取り入れる量が少ないらしく、こうしたロードレースではすぐに息が苦しくなってしまうそうである。ゆえに今回は彼らにとって、肉体の限界を超える大きなチャレンジだったのだ。このレースはチームを組んで、駅伝方式でたすきを渡していく形になっていた。まず私は大学時代の先輩に似た方を応援するべく、並走して一緒に自転車で走った。最初は山の頂上からの下りで、その方は勢いよく自転車を走らせて行った。あれだけ早く自転車を進めていくとハンドル操作を少し間違うだけで大きな怪我をしてしまうのではないかと心配したが、まずは自分が怪我をしないように、自分は慎重に自転車を進めていくことにした。
次に覚えているのは、中学校時代のバスケ部の一学年上の先輩たちの最後の試合を応援している場面である。私はベンチメンバーに入り、先輩たちの戦う姿をベンチから応援していた。対戦相手は近所の中学校で、そこは県内随一の強豪校だった。これまでは圧倒的な大差で負けてしまっていたが、今日の試合は先輩たちの最後の試合ということで、これまでにないほどの気持ちが入っていて、集中力の高さがずば抜けていた。もちろん相手も最後の試合なのだが、先輩たちの集中力と気迫は相手を圧倒的に凌駕しており、試合終盤まで接戦だった。いや、序盤こそ相手の実力の高さゆえに点差をつけられていたが、後半になり、そして終盤に近づくにつれて、ジリジリと点差を詰めていったのである。おそらく相手はそれによって焦りが生じ、こちらのチームはそれによってさらに勢いづいていった。残り時間5分の段階で、逆転も可能であることが見えてきて、こちらのチームの応援の声はさらに大きくなり、先輩たちもそれに呼応してさらに勢いを増していった。勝ち負けを超えて、この試合は自分の思い出に一生残るだろうと思った。そんな感動的な試合だった。フローニンゲン:2026/5/27(水)06:46
18754. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢では、自分が「走る者」ではなく、「応援しながら並走する者」として一貫して配置されている点が極めて象徴的であるように思われる。しかも、その応援対象が大学時代の先輩、中学時代の先輩と、いずれも「自分より先に道を進んだ存在」であることは興味深い。まるで夢全体が、自分の人生の内部に蓄積された「先行する人格の記憶」を再編成し、それを現在の自己形成へと接続する儀式のように見える。特に印象的なのは、「呼吸」に関する場面である。鼻の穴が大きく、上まで続いている人々は、一見すると大量の酸素を取り込めそうに見える。しかし実際には逆であり、彼らは酸欠になりやすい。これはおそらく、「外面的な適性」と「内面的な実際」が一致しないことの象徴ではないだろうか。社会的には能力が高そうに見える者、精神的に強そうに見える者ほど、実は深部では呼吸困難を抱えていることがある。巨大な吸気口を備えた機械が、内部配管の歪みによって十分な空気を循環できないように、人間もまた「構造そのもの」に問題を抱えることがあるのであろう。そして、そのような人々が山道の駅伝形式のレースに挑んでいる点には、自分自身の現在の人生状況が重ねられているように見える。駅伝とは、個人戦ではなく、「たすき」を渡す競技である。つまりこの夢は、自分が人生を完全に独力で切り開くのではなく、過去の恩師、先輩、思想、文化、共同体から何かを受け継ぎ、それを次へ渡していく存在であることを示唆しているのかもしれない。現在の研究活動や執筆活動もまた、まさに思想のたすきを繋ぐ営みである。下り坂を高速で駆け下りる先輩を見ながら、自分は慎重に走ることを選ぶ。この場面には、自分の現在の精神姿勢が濃厚に反映されているように思われる。速度そのものより、「転倒しないこと」を優先しているのである。これは単なる保守性ではなく、長距離走者としての知恵に近い。人生を短距離走として生きる者は勢いで崖を下れるが、自分はむしろ、未来の長い旅程を見据え、重心を崩さぬようハンドルを握っているのだろう。後半のバスケの試合はさらに象徴的である。圧倒的強者との対決、序盤の劣勢、終盤に向けて少しずつ点差を詰めていく展開は、現在の自分の人生感覚そのものに近いのではないか。巨大な学問世界、世界的大学、英語圏アカデミア、成熟した研究者たち。その中に飛び込もうとしている自分は、かつてなら圧倒的大差で敗北していたかもしれない。しかし夢の中では、「最後の試合」という切実さが集中力を極限まで高めている。ここには、自分の人生が今まさに本番に入りつつある感覚が表れているように見える。特に重要なのは、「勝敗を超えて忘れられない試合になる」という感覚である。この夢は、成功そのものよりも、「全存在を賭けて生きた時間」の価値を語っているように思われる。まるで鍛え上げられた弦が、切れる寸前で最も美しく震えるように、人間もまた極限の集中の中で、自分本来の音色を発するのであろう。この夢が人生において象徴しているのは、おそらく自分は今、他者から受け継いだたすきを携えながら、本格的な登攀へ向かう直前にいるということである。息苦しさも、不安も、強大な相手の存在も消えない。しかしそれでも、自分の内部ではすでに、後半から終盤にかけて点差を詰めていく何かが静かに始まっているのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/27(水)07:39
18755. 単純な運動の中に潜む演奏の本質
ブランダン・エイカー氏の助言は、単なるウォームアップ論ではなく、「上達とは何か」という認識そのものをひっくり返す内容であるように思われる。多くの人は、難しい曲や高速パッセージの練習こそが上達を生むと考える。しかし彼は、むしろ最も単純な運動の中に、演奏の本質が凝縮されていることを示している。特に重要なのは、「簡単な練習は、注意深く見ていないときだけ簡単である」という一文である。これは極めて深い。例えば、一本の弦を交互に弾くだけでも、本当に観察し始めると無数の要素が存在する。指の軌道は毎回同じか。右手の重心はどこにあるか。左肩は無意識に上がっていないか。呼吸は止まっていないか。音を出す瞬間、余計な力はどこで発生しているか。こうした問いを持ち込んだ瞬間、「単純な運動」は急に精密な観察対象へ変わる。これは、禅における掃除や茶道の感覚に少し似ているのかもしれない。外面的には極めて単純な行為である。しかし、注意の質が変わると、その行為は無限に深くなる。つまり、上達とは新しい情報を増やすことではなく、「すでにやっていることを、どれだけ高解像度で知覚できるか」によって生まれるのである。また、彼が「一度に一つだけ観察せよ」と述べている点も非常に重要である。多くの人は、フォーム、脱力、音色、テンポ、リズムを一気に改善しようとする。しかし注意は有限であるため、焦点が散ると観察が浅くなる。例えば今日は、「指がどれだけ最短距離で動いているか」だけを見る。あるいは、「どれだけ少ない力で綺麗な音を出せるか」だけを見る。その単一の観察対象へ数分間深く没入すると、身体は少しずつ自己組織化を始める。ここには、ダイナミックスキル理論にも通じる感覚がある。複雑なスキルとは、最初から複雑な全体を操作することではなく、微細な構成要素への注意が、時間をかけて統合されることで生まれる。つまり、高度な演奏とは「複雑なことをやる能力」というより、「単純なことを極めて精密に行う能力の蓄積」なのだろう。さらに興味深いのは、「多くの人は、何かが身体に定着する前に次へ進んでしまう」という指摘である。これは現代的な情報消費にも似ている。次々と新しい教材、新しい曲、新しい練習法を探す。しかし身体というのは、本来もっと遅い存在なのだろう。まるで木材にゆっくり油が染み込むように、運動感覚も時間をかけて神経系へ浸透していく。その沈殿の時間を待てる人だけが、最終的に安定した演奏へ到達するのかもしれない。そして最後の、「一貫性は、新しい教材ではなく、自分がすでにやっていることへの理解の深さから生まれる」という一文は、演奏だけでなく人生全体にも通じているように感じられる。多くの人は外側へ新しい何かを探し続ける。しかし本当の変化は、すでに存在している身体、呼吸、運動、注意を、どれだけ深く見つめられるかによって生まれるのである。これはまるで、遠くの大陸を探し続けた旅人が、最後に自分の足元の土壌の豊かさへ気づくような話なのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/27(水)08:29
18756. 即興の土壌作りとしての楽曲練習
最近少しずつ感じているのは、楽曲練習と即興演奏は別々の営みではなく、実際には地下水脈のように深い場所でつながっているのではないかということである。以前は、既存曲を練習することと即興することを別の能力のように捉えていた。しかし最近は、一つ一つの楽曲が完成された作品であると同時に、無数の音楽的パターンの宝庫でもあるように感じ始めている。例えば、ある和声進行、右手の分散和音、低音の動き、旋律の跳躍、間の取り方、緊張と解放の呼吸感覚などを丁寧に観察していると、それらは単なる曲固有のものではなく、音楽という大きな言語を構成する文法や語彙のように思えてくる。まるで外国語学習において、小説を暗記することが目的なのではなく、その背後に流れている言い回しや感覚を身体化することが重要であるのと似ている。楽曲練習とは、完成品を再現する作業である以前に、音楽的身体に新しい回路を埋め込む作業なのかもしれない。特に興味深いのは、練習していたフレーズが、即興中に意識せずとも自然に現れてくる瞬間である。それは単なる引用ではなく、もっと深い場所で変形され、別の文脈の中で生き直されている。まるで過去に読んだ本の言葉が、自分自身の思考として再構成されるような感覚である。つまり、練習によって獲得されるのは固定された型ではなく、変形可能な力なのだろう。そう考えると、楽曲練習に対する感覚も少し変わってくる。ただ音を正確に並べることだけが目的ではなく、このフレーズはどのような身体感覚から生まれているのか、この和声はどのような情緒の流れを持っているのか、このリズムはどのような重力を生み出しているのか、といったことを探る姿勢が強くなってきた。すると楽曲は、閉じた完成物ではなく、即興へと流れ込む生成の源泉のように感じられる。おそらく即興とは、無から音を生み出すことではない。むしろ、長年身体に蓄積された無数の音楽的パターンが、瞬間ごとの感情や感覚と結びつきながら、その場で再編成される現象なのだろう。そうであるなら、楽曲練習は単なる再現訓練ではなく、未来の即興を育てる土壌作りでもある。畑に種を蒔く時点ではまだ風景は見えないが、土の中では静かに根が広がっている。その見えない蓄積こそが、後になって自由な飛翔を支える翼になるのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/27(水)09:09
18757. エディンバラとフローニンゲンの気候の違い
エディンバラの気候について調べながら、フローニンゲンとの違いを少しずつ想像している。数字だけを見ると両都市はどちらも北海沿岸の冷涼な地域であり、気温のレンジも一見するとそこまで極端には変わらない。しかし実際には、その寒さや涼しさの質感はかなり異なるのではないかという気がしている。まず夏についてだが、エディンバラは思っていた以上に涼しい。30度を超える日はほとんどなく、28度ですら稀である。フローニンゲンも日本と比べれば十分涼しいが、それでも近年は熱波が来ると30度前後まで上がることがある。まさに昨日もそうだった。一方、エディンバラは海洋性気候の影響がさらに強いためか、気温の上振れがかなり抑えられている印象がある。まるで気候そのものが、熱狂ではなく静かな持続を選んでいるようである。特に興味深いのは、エディンバラでは冷房という概念がほとんど前提になっていない点である。日本では夏は外界との戦いだが、エディンバラではむしろ少し肌寒い夏が基本らしい。このことは、読書や執筆、長時間の思索にはかなり向いているのかもしれない。暑さは集中力を溶かすが、涼しさは思考を輪郭づける。エディンバラの夏は、燃え上がる季節というより、知性が静かに発酵する季節のように思える。一方、冬になると単純にエディンバラの方が暖かいとは言い切れない。数字上は、フローニンゲンとそこまで大差ない。しかし、体感はかなり違うのではないかと思う。フローニンゲンは風が強く、空が低く、平坦な地形の中を冷気がそのまま横切っていく感じがある。それに対してエディンバラは、同じ北の都市でも、石造りの街並みや丘陵地形のためか、湿った寒さと閉じた寒さを持っているように感じる。風そのものは強いかもしれないが、寒さの性格が違う。フローニンゲンの冬が「風による侵食」だとすれば、エディンバラの冬は「霧による包囲」に近いのかもしれない。ただ、その分、室内環境の重要性はエディンバラの方が大きそうである。EPC、二重窓、暖房方式などが生活の質をかなり左右する。良い部屋に住めば、外界の暗さや冷気を遮断しながら、静かな洞窟のように研究へ没頭できるだろう。しかし断熱の悪い部屋だと、じわじわ精神力を奪われる気もする。そう考えると、エディンバラへの移住は単なる引っ越しではなく、気候との新しい共生を学ぶことなのかもしれない。フローニンゲンで経験した広い空と風の感覚を背負いながら、今度は石の街の静かな寒さの中で、自分自身の思考や生活のリズムを再編成していくことになるのだろう。フローニンゲン:2026/5/27(水)09:14
Today’s Letter
Practicing existing pieces of music is not separate from improvisation, but rather forms the foundation for future improvisation. Groningen, 5/27/2026
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