【フローニンゲンからの便り】18747-18751:2026年5月26日(火)
- 5月28日
- 読了時間: 12分

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タイトル一覧
18747 | 世界を音として知覚し直す訓練としての脳内即興 |
18748 | 今朝方の夢 |
18749 | 今朝方の夢の振り返り |
18750 | 音そのものの快感の中へ |
18751 | ギターを身体に馴染ませること |
18747. 世界を音として知覚し直す訓練としての脳内即興
最近気づき始めているのは、即興演奏という営みは、必ずしもギターを手に持っていなくても成立するということである。むしろ興味深いのは、脳内だけで即興を行っているときにも、どこか演奏時に近い集中感や感覚の活性化が起きている点である。街を歩いている時間、あるいはスーパーのレジ待ちのわずかな時間ですら、脳内では静かな演奏会が始められることに気づき始めている。最初は単純に、頭の中でコード進行を流すところから始まった。AmからF、そこからGへ進むだけでもよい。しかし不思議なのは、ただコード名を思い浮かべるだけでは音楽にならないことである。重要なのは、そのコードの温度を感じることらしい。Amには少し湿った夕方の空気のような響きがあり、Fには視界が開ける感覚があり、Gには次へ向かう風圧のような推進力がある。その感触を頭の中で丁寧に追い始めると、脳内に曖昧な旋律が自然と立ち上がってくる。さらに面白いのは、脳内即興では、実際の演奏よりも「音そのもの」より「運動感覚」に意識が向かうことである。指板を触っていないのに、左手がどの位置に移動しているかを想像すると、まるで透明なギターが空中に浮かんでいるような感覚になる。特に最近は、右手の指がどの方向へ弦を抜けていくか、親指の重心がどこにあるか、小指が空間のどこで待機しているかまで脳内で再現しようとしている。すると、実際に弾いていないにもかかわらず、身体の深い部分がうっすらと温まり始めるのである。これはおそらく、脳が「実際に弾くこと」と「鮮明に想像すること」を完全には区別していないからなのだろう。まるで脳内の小さな工房で、職人たちが誰にも見えない楽器を静かに組み立て続けているようである。内部では神経回路が細い銀線のようにつながり直されているのかもしれない。しかも脳内即興には、実演にはない自由がある。実際に弾くと、技術的制約やミスへの恐れが介入する。しかし脳内では、12フレットを一瞬で飛び越えようが、不可能なストレッチをしようが、音は滑らかに流れ続ける。そのため、現実の演奏ではまだ実現できない未来の音楽感覚を、先に脳だけで探査できるのである。これはまるで、現実の地図が完成する前に、空から未踏の大陸を眺めているような感覚である。最近では、歩いているときの足音すらリズム素材として聞こえ始めている。信号機の電子音、遠くの車の走行音、駅のアナウンスの抑揚まで、全てが即興の一部に編み込まれていく。すると世界全体が巨大な伴奏装置のように感じられ、自分の内面だけで音楽を作っているのではなく、環境そのものと即興している感覚が生まれるのである。おそらく脳内即興とは、音楽を演奏する訓練というより、世界を音として知覚し直す訓練なのだろう。ギターを持っていない時間ですら、音楽的感性は静かに成長しているのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/26(火)06:35
18748. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、実家で就寝している場面があった。真夜中のある時刻に、突然玄関のドアノブをガチャガチャと外から動かす音が聞こえてきた。私はすぐさま目を覚まし、ドアの向こう側に不審な侵入者がいると思った。かつて中学校時代にも同じ体験があり、そのことを思い出して少し恐怖心がよぎったが、すぐさま玄関口に向かい、傘を取り出して不審者を撃退した。逃げる不審者を追いかけ、もしかしたら彼が包丁や拳銃を持っているかもしれなかったが、勢いで傘で十分撃退できると考えたのである。幸いにも彼は危険物を所持しておらず、傘で何度も体の至る箇所を思いっきり叩くとついには身動きができなくなり、ちょうど警察署の前で彼は倒れ、警察を呼んで捕まえてもらうことができた。
次に覚えているのは、まるでゲームの世界の欧州風の町の上空を飛んでいた場面である。本当は宿泊先のホテルに戻ろうとしていたのだが、飛ぶ勢いをコントロールすることができず、気がつけば立派な川が脇に流れる緑豊かな田んぼの上を飛び、町の中心からはだいぶ離れてしまった。なので一度地面に降りて、もう一度空を飛んでいくためのエネルギーを確保してから飛び直そうと思った。休憩をそこそこに再び飛び始めると、今度は無事に町の方に戻ることができた。ホテルに到着すると、みぞれ混じりの雨が降り始めた。時刻はもう夜で、正面玄関からはホテルに入ることができず、裏口から中に入った。すると小中高時代のある友人(HY)と遭遇し、彼の父親がヘリで迎えに来てくれることになったと述べた。どうやら私たちはこのホテルの屋上のヘリポートから隣町に移動することになっているようで、彼の父親を待っている状態だったのだ。しかし、どうやら父親のヘリは2年前に購入した型落ちのもので古いらしく、そうであれば自分は一人空を飛んで移動しようと思ったが、天候が悪いのでそれが悩みどころだった。
最後にもう一つ覚えているのは、幼少期から青年期にかけて見ていたアニメの主要なキャラクター4人が空を飛びながら強敵と戦っている場面である。私は目撃者の意識としてその光景を眺めていた。彼らと同様に、まるで自分も空を飛びながら一緒に戦っているような感覚があった。主人公が最初から最終形態の姿になり、全力で戦っている姿がとても印象的で、4人が協力すればその難敵を倒すことができるだろうと安心して彼らの戦う姿を眺めていた。フローニンゲン:2026/5/26(火)06:49
18749. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内面における防衛、飛翔、共同戦闘という三層の構造を通して、古い自己から新しい自己へ移行する過程を象徴しているように思われる。実家で眠っている場面は、自分のもっとも古い心理的基盤、すなわち幼少期から蓄積されてきた安全感の領域を示しているのだろう。そこに真夜中、外からドアノブを動かす音が響く。これは外的な危険というより、自分の無意識の外縁から、まだ統合されていない記憶や不安が侵入しようとしている徴候であるように見える。中学時代の同じ体験を思い出す点からも、この不審者は現在の問題だけでなく、過去から反復して訪れる恐れの化身であるのかもしれない。しかし夢の中の自分は、恐怖に固まるのではなく、傘を手にして玄関へ向かう。傘は本来、雨を防ぐための柔らかな道具であり、武器ではない。それを用いて侵入者を撃退することは、自分が攻撃性そのものではなく、日常的で身近な資源を変形させて自己防衛の力にしていることを示しているようである。傘は、弱く見えるが使い方次第で境界を守る杖となる。しかも不審者は警察署の前で捕まる。これは、自分の内なる恐怖が、最後には社会的秩序や理性的判断の場へ引き渡されることを意味しているのだろう。つまり、古い恐れは単に排除されるのではなく、適切な場所に収められるのである。次の空を飛ぶ場面では、構造が防衛から移動へと変化する。欧州風の町、ホテル、川、緑の田んぼは、現在の自分が置かれている異文化的・移行期的な人生の風景を映しているように思われる。ホテルに戻ろうとするが、飛ぶ勢いを制御できず、町の中心から離れてしまう。これは、学問、移住、仕事、創造性などの力が大きくなっている一方で、その推進力をまだ完全には制御しきれていない状態を表しているのかもしれない。空を飛べることは能力の拡張であるが、飛びすぎることは方向感覚の喪失でもある。まるで帆船が強い追い風を受けながら、舵の微調整を学んでいるような状態である。一度地面に降り、エネルギーを確保してから再び飛び直す場面は重要である。これは、自分にとって休息や接地が後退ではなく、再飛翔のための発達的条件であることを示しているように見える。ホテルに戻ると、みぞれ混じりの雨が降り、正面玄関ではなく裏口から入る。目的地には到達するが、正攻法ではなく迂回路を通る。このことは、今後の人生でも、望む場所に辿り着くためには、予定通りの入口だけでなく、裏口のような柔軟な経路を受け入れる必要があることを示唆しているのだろう。友人HYとその父親のヘリは、他者の支援や既存の移動手段を象徴しているようである。ただし、そのヘリは型落ちで古い。自分は一人で飛べる力をすでに持っているが、悪天候の中で単独飛行するか、古いが安全かもしれない支援に乗るかで迷っている。これは、自立と依存、独創性と制度的支援、単独の飛翔と共同移動のあいだで揺れている現在の課題を映しているのかもしれない。最後のアニメの4人の戦士は、自分の内面に残る幼少期から青年期の英雄的エネルギーを象徴しているようである。主人公が最初から最終形態で戦う姿は、今の自分が長い準備期間を経て、部分的な力ではなく統合された力を発揮し始めていることを示しているのだろう。4人が協力して強敵と戦う場面は、自分の中の複数の能力、すなわち知性、勇気、創造性、忍耐が連携し始めていることの比喩であるように思われる。この夢が人生において示している意味は、自分がもはや過去の恐れに追われるだけの存在ではなく、それを撃退し、空を飛び、仲間となる内的資源とともに大きな課題へ向かう段階に入っているということである。ただし、飛翔には接地が必要であり、最終形態にも天候を読む慎重さが必要である。自分の人生は今、傘を剣に変え、裏口を入口に変え、古い英雄像を現在の実践力へ変える変容の途上にあるのだろう。フローニンゲン:2026/5/26(火)07:40
18750. 音そのものの快感の中へ
脳内即興について一つ興味深い感覚に気づき始めている。それは、「何かを表現しよう」と力むほど、逆に音が出てこなくなるという逆説である。最初はもっと意味のある旋律を作ろうとしていた。美しい流れを作ろう、独創的な和声を出そう、自分らしい音楽を生み出そう、と意識していた。しかし、その瞬間に音楽は急に硬直し始める。まるで水面に浮かぶ月を掴もうとして、水面そのものを乱してしまうように、意図が強すぎると音の流れが濁ってしまうのである。脳内即興では特にその傾向が顕著である。実際の演奏ならば、とりあえず指を動かせば何らかの音は出る。しかし脳内では、音そのものが意識の流れから生まれてくるため、少しでも「こうあるべき」が強くなると、川の上流にダムを建設するように流れが止まってしまう。すると突然、次の一音が見えなくなる。その一方で、不思議なほど自然に音が湧いてくる瞬間もある。そのときは決まって、「何を表現するか」を忘れている。代わりに、音そのものの快感の中に身体ごと沈んでいる。ある和音の響きが心地よければ、その余韻を何度も味わう。ある音程のぶつかり方に微かな陶酔感があれば、その摩擦をゆっくり転がしていく。すると、次の音は努力して探すものではなく、重力に従って坂を転がる小石のように自然と現れてくるのである。おそらく脳は、「意味を作ろう」とすると前頭葉的な制御が強くなりすぎるのだろう。しかし音楽的快感に浸っているときは、もっと深い層の感覚が前面に出てくる気がする。それは言語以前の領域であり、まだ作品になる前の音楽の胎動のようなものである。海の底でゆっくり形成される潮流のように、そこでは旋律は作られるというより、自然発生している。最近では、脳内即興を始めるときに、あえてテーマを決めないようにしている。ただ一つの和音だけを静かに鳴らし、その響きが気持ちよければ、そこに留まり続ける。すると次第に、その快感が自ら次の方向を教え始める。あるときは突然長調へ光が差し込み、あるときは半音階が霧のように漂い始める。その流れをコントロールするのではなく、波に身体を浮かべるように委ねると、音楽は自分が作っているものではなく、自分を通り抜けていく現象のように感じられる。思えば、幼い頃に音遊びをしていたときは、「何を表現するか」など考えていなかった。ただ音を出すこと自体が楽しく、その快感だけで延々と遊んでいた。その原初的な感覚が、脳内即興では再び戻ってきているのかもしれない。おそらく、本当に深い即興とは、「自分が音を支配する状態」ではなく、「快感そのものが音を導いていく状態」なのだろう。意識は指揮者ではなく、むしろ音楽が芽吹く土壌に近いのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/26(火)08:27
18751. ギターを身体に馴染ませること
最近ますます感じているのは、即興演奏において本当に重要なのは、「どれだけ多くのフレーズを知っているか」ではなく、ギターがどれだけ身体の延長として馴染んでいるかという点なのではないか、ということである。つまり、演奏するというより、身体の内部で生まれた流れが、そのまま指先から自然に滲み出る状態である。以前は、即興とは頭で考えて音を選ぶ行為だと思っていた節がある。しかし実際には、考えている時点で少し遅い。意識が「次は何を弾こうか」と言葉になった瞬間、音楽の流れは一度止まってしまう。むしろ良い即興が生まれる瞬間は、指が半ば自律的に動いている。いや、正確には「自分が指を動かしている」という感覚そのものが薄れている。まるで歩くときに左右の脚の順番を考えないように、音もまた身体の深層から自然に立ち上がってくる。そのためには、ギターを「操作対象」から「身体の一部」に変えていく必要があるのだろう。最近は特に、指板を視覚情報として覚えるのではなく、触覚の地図として身体に沈め込む感覚を意識している。5フレット周辺には独特の重心があり、7フレット付近には空間が少し開ける感覚があり、12フレット近辺には空気の密度が変わるような浮遊感がある。こうした感覚が積み重なっていくと、指板は「場所」ではなく「風景」になり始める。さらに重要なのは、最小限の力で弾くことであるように思う。力んでいると、身体は常に命令待ち状態になる。しかし脱力が進むと、指は神経の命令を待たず、反射のように動き始める。これはまるで、水面に浮かぶ葉が流れに逆らわず漂う状態に似ている。即興では、この「漂う身体」が極めて重要なのかもしれない。最近特に面白いのは、日常生活の中でもギターの身体感覚が残り続けていることである。歩いている最中、無意識に左手の小指が独立して動いていることがある。机に触れた瞬間、右手の親指の角度を微調整したくなることもある。つまり、練習が終わったあとも、身体の奥では静かにギターが続いているのである。この状態になると、練習とはギターを弾く時間ではなく、身体を書き換えている時間に近づいていく。そして不思議なのは、身体化が進むほど、逆に「自分が演奏している」という感覚が薄れることである。以前は自分が音楽を作っている感覚が強かった。しかし最近は、身体が十分にギターへ馴染んでいるときほど、音楽の方が勝手に流れ始める。自分はその流れを制御するというより、水路の形を整えているだけのように感じるのである。おそらく即興演奏とは、技巧を見せる行為ではなく、身体の奥深くに沈んでいる感覚の流れを、そのまま音へ変換する営みなのだろう。そのための鍵は、頭で音楽を掴もうとすることではなく、ギターそのものを静かに身体へ溶かし込んでいくことなのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/26(火)08:58
Today’s Letter
Improvisation makes me immerse myself in a vast, infinite creative realm of reality. All I can do and want to do is let myself be in the moment. My body, mind, soul, and spirit begin to enjoy dancing with the cosmos. Groningen, 5/26/2026
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