【フローニンゲンからの便り】18703-18707:2026年5月18日(月)
- 5月20日
- 読了時間: 14分

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タイトル一覧
18703 | 音楽的デッサンに向けて |
18704 | 今朝方の夢 |
18705 | 今朝方の夢の振り返り |
18706 | 音楽的デッサンについてのさらなる考察 |
18707 | オブジェクト指向存在論を通じたギター演奏に関する考察 |
18703. 音楽的デッサンに向けて
最近、自分が本当にやりたい音楽とは何なのだろうかと考えていた。そして少しずつ見えてきたのは、単に自分の感情を表現するだけではなく、他者の中に流れている雰囲気や、その場の空気、木々の揺れ方、光の質感、鳥の鳴き方のようなものまで含めて、即興的に音へ変換したいという欲求である。まるで画家が風景をデッサンするように、目の前の存在をギターで描写したいのである。そう考え始めると、ギター練習そのものの意味も少し変わってきた。以前は、「上手く弾けるようになること」が中心にあった。しかし今はむしろ、「感じ取ったものを音へ変換できる身体を育てること」が重要なのではないかと思い始めている。つまり練習とは、単なる技巧獲得ではなく、「感覚と言語ならぬ、感覚と音の翻訳能力」を育てる営みなのである。そのためには、おそらくまず基礎技術を極限まで自然化する必要があるのだろう。もし右手や左手の動きに意識の大部分を取られていたら、外界を観察する余裕が消えてしまう。スポーツ選手が身体操作を無意識化することで周囲全体を見渡せるようになるように、ギターでも運指や音色形成が身体化されて初めて、「何を感じるか」に注意を向けられるようになるのだと思う。だから最近続けている左右の基礎練習は、単なるテクニック訓練ではなく、「感受性を自由に動かすための神経インフラ整備」に近いのかもしれない。そしてもう一つ必要なのは、「聴く訓練」なのだろうと思う。音楽を演奏する以前に、世界をどれだけ細かく聴けるか。雨の日の静けさにも何層もの音があり、人の話し方にも呼吸や躊躇や温度がある。最近、木々を眺めながらギターを弾いていると、自然は決して単調ではなく、常に微細に揺れ続けていることに気づく。その揺れはテンポにも似ているし、風の強弱はクレッシェンドにも似ている。つまり世界そのものが、巨大な即興演奏のようなものなのかもしれない。おそらく、そのような演奏を目指すなら、毎日の練習も少し変わってくるのだろう。スケール練習やアルペジオも、単に速さや正確性を求めるのではなく、「どんな感情の線を描けるか」を探りながら弾く必要がある。たとえば同じ音階でも、朝日を見ながら弾くのか、夜の静寂を感じながら弾くのかで、指先の重さや呼吸は変わる。その違いを観察すること自体が、即興表現の訓練になっていくのだと思う。さらに重要なのは、日常そのものを感覚訓練に変えることなのかもしれない。人と話す時、その人の言葉よりも「言葉の背後」に流れているものを感じる。街を歩く時、建物ではなく空気の密度を見る。朝のコーヒーの香りや、ギター弦に触れた瞬間の抵抗感を丁寧に味わう。そうした感覚の蓄積が、いずれ音として出てくるのだろう。結局、自分がやりたいのは、「演奏すること」ではなく、「世界と共鳴すること」なのかもしれない。そしてギターとは、その共鳴を可視化ならぬ可聴化するための媒介なのだろう。だから毎日の基礎練習も、音楽理論も、運指訓練も、最終的には「世界をどれだけ深く感じ取れるか」という一点へ収束していくような気がしている。フローニンゲン:2026/5/18(月)06:59
18704. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない大学の教室にいた。教壇には女性教授が立っており、6週間後の期末試験に向けて、過去の試験問題を学生たちに解説し始めた。解説の最中に教授がふと、「実際の試験はこれらの問題から大半が出題されるので、過去問を十分に暗記しておくように」と述べた。私はそれを聞いて勉強する気を失ってしまった。単に丸暗記をすることの不毛さを感じたのである。そもそも、そこで丸暗記したものは他に応用が効かないと思ったのである。試験のためだけに何かを丸暗記することに対して自分は強い嫌悪感を持っていることに改めて気づき、単なる暗記ではなく、今後につながる学習を自分はしたかった。そもそも出題される問題がすでに大半決まっているというのも面白みに欠け、その授業の試験を受けるのはやめようかと思った。すると、そう言えばもう自分は卒業に必要な単位を全て取得していることに気づき、この授業で無理に単位を取得する必要がないと思って安堵した。そう思った瞬間に、自分は小中高時代のある親友(NK)が運転するワゴン車の二列目の席に座っていた。彼と一緒に、現在改装中の一軒家を改装したカフェに訪れることになっていた。カフェの駐車場に到着すると、すでに数台車が止まっていて、隣の車との間がほとんどなく、隣の車に乗っている人が外に出るのが難しいような形になってしまった。するとその車に乗っていた女性が中からこちらに向かって何かを訴えかけており、それはスペースの問題なのだとすぐに察した。しかし運転していた親友の彼が述べるように、ドアを開けるスペースは十分にあるので、中から外に出てくることもできるし、車を外に出すことも可能かと思った。なのでスペースの問題はもう心配せず、車を降りてカフェに入ることにした。カフェはまだ改装中だったが、その雰囲気は少しずつできていた。そこで高校時代のサッカー部の副キャプテンの友人と出会い、彼と留学について話をした。というのも彼の方から、自分が今度中国に数ヶ月留学する話題を振ってくれたので、そのことについて話をした。彼が話題を振ってくれたおかげで、そう言えば自分は中国に留学することになっていたと思い出し、まだ中国語の勉強を全くしていなかったので、そろそろ本格的に始めるかと思った。そもそもそれは大学の単位交換留学制度の一環であったが、すでに自分は卒業に必要な単位を取得しているし、中国に行くのが面倒に思えてきた。中国に留学するぐらいなら、今いる場所でギターなどの好きなことに打ち込んだ方がいいのではないかと思い、中国に留学するのは辞める方向に心が向かった。
もう一つ覚えているのは、サッカー元日本代表のあるエースストライカーの中高時代の恩師を訪問し、彼の当時の話を伺っている場面である。その選手は当時から怪物と呼ばれており、身体能力の高さに加え、知性の高さにも目を見張るものがあったそうだ。また彼はサッカーに対しても勤勉な姿勢を持っていたが故に、世代別の代表のみならず、代表でもクラブチームでも継続して活躍できたのだと知った。彼のサッカーに取り組む姿勢は見習うものが多く、自分も学術研究やギターにおいて同様の姿勢で取り組みたいと思った次第である。フローニンゲン:2026/5/18(月)07:13
18705. 今朝方の夢の振り返り
この夢は、自分の人生が「制度によって与えられる価値」から、「自らが生命を感じる価値」へと重心を移し始めていることを象徴しているように思われる。夢の冒頭に現れた大学の教室は、社会が用意した評価装置の象徴であり、そこでは知識が本来の理解ではなく、「再生可能な正答」として扱われていたのであろう。教授が過去問の暗記を推奨した瞬間に学ぶ意欲が失われたのは、自分の内側にある知性が、単なる情報の蓄積では満足しなくなっているからではないかと思われる。まるで肥沃な土壌にプラスチックの花を植えるような感覚を覚えたのであろう。形だけは整っていても、そこには成長も呼吸も存在しないのである。しかも印象的なのは、「既に卒業単位を取得していた」と気づいた瞬間に安心感が生まれた点である。これは単なる単位取得の話ではなく、人生のある段階において、自分が既に「外部評価による通行証」を十分に獲得していることへの無意識的確認だったのかもしれない。つまり、自分はもはや他者が作ったレールの上で能力を証明し続ける必要がなくなりつつあるのである。その直後に場面が車へ移行したことは象徴的である。教室という固定空間から、移動する車内へ移ったことは、自分の人生の操縦権が「制度」から「旅」へ変わり始めたことを暗示しているように思われる。親友が運転していた点も重要である。そこには、合理性や競争ではなく、信頼関係や過去の人間的基盤が、自分の進路選択を支えている構図がある。そして改装中のカフェは、まだ完成していない未来の自己像の比喩なのであろう。壁も配置も未完成でありながら、既に雰囲気が立ち上がっているという描写は、自分の人生が「未完成でありながら方向性だけは確かに見えている状態」にあることを示しているように感じられる。完成済みの巨大な施設ではなく、「改装中の空間」であった点に、自分の現在地がよく表れている。駐車場で女性がスペース不足を訴える場面は、自分の人生における「余白」への感受性を表しているのかもしれない。しかし親友は「十分出られる」と述べていた。これは、自分が過度に周囲への配慮や可能性の閉塞を心配している一方で、実際には既に十分な自由空間が存在していることを示唆しているように思われる。つまり、閉塞感の一部は現実そのものではなく、自分の認識の側にあるのかもしれない。中国留学の場面もまた深い。そこでは「未来のために準備すべきこと」が提示されながらも、自分の心は既に別の方向へ向いていた。興味深いのは、中国語学習への焦りよりも、「ギターに打ち込む方が本質的ではないか」という感覚が優勢になっていたことである。これは怠惰ではなく、生命エネルギーの選別作用に近いように思われる。若い頃は可能性を増やすことが重要だったが、今はどの可能性に命を注ぐかを選び始めているのであろう。無数の枝を伸ばす木から、幹を太くする木へと変化し始めているのである。最後に現れた天才ストライカーの恩師の話は、この夢全体に一本の軸を与えているように感じられる。その選手は身体能力だけでなく、知性と勤勉さを兼ね備えていたという。これは単なるスポーツ談義ではなく、「本物の才能とは、持続的な鍛錬によって形になる」という無意識からの確認であろう。しかもその姿勢を、自分は学術研究やギターに重ねていた。つまり夢全体を通して、自分は「制度的成功」ではなく、「生涯を通じて磨き続けられる技芸」へと意識を移しているのである。この夢が示す人生的意味とは、自分がいま、「他者に評価されるための学び」から、「自らの存在を深めるための修練」へと静かに航路変更し始めていることなのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/18(月)08:00
18706. 音楽的デッサンについてのさらなる考察
「音楽的デッサン」という感覚についてさらに考えている。絵画のデッサンとは、単に対象の輪郭を写すことではなく、「その存在の重力」を線によって捉える行為である。だとすれば、ギターによる即興表現もまた、単に感情を音へ変えるだけではなく、目の前の存在が発している気配や運動を、時間の中に音として描き出すことなのだろう。しかし、人を描写する場合と、自然を描写する場合では、感じ取るべきものがかなり違う気がしている。人を描写する時、まず重要になるのは内的緊張である。その人が何を話しているか以上に、どこで呼吸が浅くなるのか、どの言葉の前で一瞬間が空くのか、目線がどの方向へ流れるのか、その微細な揺らぎのほうが本質的なのかもしれない。つまり人間のデッサンとは、外形ではなく、内側の流れを描く作業に近い。例えば、穏やかに笑っている人でも、奥に強い孤独感を抱えている場合がある。その時、音楽は単純な長調だけでは嘘になるのだろう。柔らかいアルペジオの中に、わずかな不協和や解決しきらない余韻を混ぜることで、表面と深層の二重構造を表現できるかもしれない。つまり人間を音で描くためには、矛盾を同時に保持する耳が必要になるのである。一方、自然を描写する時は少し違う。自然には、人間のような心理的葛藤は必ずしも存在しない。その代わり、圧倒的な循環と変化がある。風は同じように吹いているようで、決して同じ形を繰り返さない。木々の揺れも、水面の反射も、常に微細に変化している。だから自然を音で描く時には、固定された感情を押し付けるより、変化し続ける流れを身体で追いかける必要があるのだと思う。最近、木を眺めながら即興的に単音を鳴らしてみることがある。すると不思議なことに、音を作るというより、景色の動きに指が反応する感覚になる時がある。葉が風に押される時にはテンポが少し伸び、雲が光を遮ると音色が暗くなる。そこでは、自分が演奏主体というより、自然現象の翻訳機のようになっている。おそらく、人を描写する時には「共感能力」が重要であり、自然を描写する時には「同調能力」が重要なのだろう。共感とは、相手の内面へ降りていくことである。一方、同調とは、自分と世界との境界を薄くし、変化の波へ身体を合わせることである。そのため、練習方法も少し変わってくるのかもしれない。人を描写する訓練としては、会話後に「もし今の空気を3音で表すならどうなるか」を考えながら即興するのが良さそうである。相手のテンポ、躊躇、安心感、不安感を、和声や間で再現するのである。逆に自然を描写する訓練では、一定テンポのメトロノームから少し離れ、「揺れ」を観察することが大切なのだろう。風、雨、光、鳥の動きに合わせてテンポや強弱を変化させながら弾く。すると、音楽が「構築物」ではなく、「生態系」のようになっていく。そして最終的には、人と自然の描写は再び一つへ戻っていく気がする。なぜなら人間もまた自然の一部であり、感情もまた一種の気象現象に近いからである。怒りは雷雨のようであり、静かな悲しみは冬の湖面のようであり、喜びは春の光のように広がる。だから音楽的デッサンとは、単に対象を描写することではなく、存在の運動そのものを聴き取り、それを音へ変換する行為なのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/18(月)08:31
18707. オブジェクト指向存在論を通じたギター演奏に関する考察
オブジェクト指向存在論(Object-Oriented Ontology, OOO)の観点から楽器演奏を考えると、「演奏者が主体であり、楽器は単なる道具である」という通常の理解が大きく揺らぎ始める。むしろ演奏とは、人間主体が世界を支配的に操作する行為ではなく、多様な存在者たちが一時的に関係を結びながら生成する出来事として見えてくる。OOOにおいて重要なのは、「存在者(オブジェクト)は、人間による認識を超えて独自の実在性を持つ」という立場である。ギターも単なる「物」ではなく、人間とは独立した存在論的厚みを持ったオブジェクトである。木材、弦、空気振動、湿度、爪、指先、身体姿勢、部屋の残響、それぞれが単なる背景ではなく、自律的存在として演奏に参与している。例えばクラシックギターを弾いている時、自分は「音を出している」と感じる。しかしOOO的に見ると、実際には自分が完全に音を支配しているわけではない。爪が弦をどう滑るか、弦がどの倍音を強調するか、木材がどの周波数で共鳴するか、空気がどのように振動を伝えるかは、それぞれが固有の存在論的性質を持ちながら反応している。つまり演奏とは、「主体が客体を操作する行為」というより、「複数の存在者たちの交渉」に近い。ここで非常に興味深いのは、OOOが「存在者は決して完全にはアクセスされない」と考える点である。グラハム・ハーマンが言うように、あらゆるオブジェクトには「withdrawal(退隠)」がある。つまり、ギターはどれだけ弾き込んでも、完全には理解し尽くせない。毎日同じ楽器を弾いていても、突然知らなかった響きが現れることがあるのは、ギターという存在が常に一部を隠し持っているからなのかもしれない。この観点から見ると、最近感じている「指が自然に動き始める感覚」も興味深い。通常なら、「自分が技術を習得した」と説明される。しかしOOO的には、それは「自分の身体がギターというオブジェクトとの新しい関係様式を獲得した」と言えるのだろう。つまり技術向上とは、主体の能力拡張ではなく、「存在者間の摩擦が減少すること」に近い。また、即興演奏の意味も変わって見えてくる。通常、即興とは「自己表現」と考えられがちである。しかしOOO的には、即興とは「世界内存在たちの相互作用を聴き取る行為」に近い。風景を見ながらギターを弾く時、自分が自然を表現しているというより、木々、光、空気、身体、記憶、ギター、それらが一時的ネットワークを形成し、その結果として音が立ち現れているのである。さらにOOOでは、人間中心主義を相対化するため、演奏の意味も変わる。演奏とは、人間が感情を外へ投影するだけの行為ではなく、「人間もまた一つのオブジェクトとして、他の存在者と共鳴する出来事」になる。そこでは演奏者は支配者ではなく、むしろ媒介者に近い。この観点に立つと、基礎練習の意味すら変化する。運指訓練とは単なる筋肉強化ではなく、自分というオブジェクトが、ギターや音響空間や重力との関係を微調整するプロセスになる。脱力とは、「主体の力を抜くこと」というより、「他の存在者たちが働ける余白を作ること」なのかもしれない。おそらくOOO的な楽器演奏とは、「音を出すこと」ではなく、「存在者たちが互いに現れ合う場を作ること」なのであろう。そして優れた演奏とは、演奏者が自己主張を強める時ではなく、むしろ世界の多様な存在たちが静かに響き始める瞬間に訪れるのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/18(月)09:05
Today’s Letter
I’d like to explore psychedelic experience through the lens of Yogācāra. This could become a new academic field. My study at the University of Edinburgh will play a significant role in establishing this field. Groningen, 5/18/2026
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