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【フローニンゲンからの便り】18607-18612:2026年5月2日(土)

  • 5月4日
  • 読了時間: 13分


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タイトル一覧

18607

ジュリオ・サグレラスの教則本 Book 1と丁寧に向き合うこと

18608

今朝方の夢

18609

今朝方の夢の振り返り

18610

方向という本質

18611

クラシックギターとフラメンコギターの統合に向けて

18612

音楽的工房としてのサグレラスの教則本

18607. ジュリオ・サグレラスの教則本 Book 1と丁寧に向き合うこと 

     

数日前から改めて原点に戻るような気持ちで、ジュリオ・サグレラスの教則本 Book 1に向き合おうと思った。長く練習を続けていると、つい難しい曲や華やかな技巧に意識が向かいがちである。しかし先日ふと感じたのは、技術の頂上は、案外もっとも低い場所に根を張っているのではないかということであった。大樹が空高く伸びるほど、地中には深い根が必要であるように、演奏もまた基礎の厚みで決まるのだろう。Book 1に並ぶ練習曲は、一見すると素朴でやさしい。音数も少なく、テンポも穏やかで、譜面だけ見ればすぐに弾けそうに思える。けれども、実際に力まず、美しい音で、拍を乱さず、左右の手を整えながら弾こうとすると急に奥行きが現れる。まるで浅瀬だと思って足を入れた水辺が、数歩先で急に深くなるような感覚である。簡単そうに見えるものほど、ごまかしが効かない。そこに基礎練習の厳しさと魅力がある。たとえば右手で一音を出すだけでも、指先の角度、爪の当たり方、弦を押し込む深さ、離れる方向、脱力の度合いで響きは変わる。左手も同じで、押さえる位置がわずかにずれるだけで音は濁り、不要な力が入れば次の動きが遅れる。こうした細部は、難曲を勢いで弾いていると見逃しやすい。しかし基礎教材は、虫眼鏡のように癖や粗さを拡大して見せてくれる。だからこそ改善点が次々と見つかるのだろう。そして面白いのは、改善点が見つかること自体が前進の証でもある点である。以前なら気づかなかった硬さ、雑音、拍の揺れ、音色の不均一さに気づけるということは、耳も感覚も育ってきたということである。未熟さの発見は、しばしば成長の別名なのかもしれない。鏡が鮮明になるほど、小さな乱れまで映るようになるのと同じである。基礎の中に音楽の深淵がある、という感覚もよくわかる。一音を丁寧に鳴らすこと、単純な旋律に呼吸を与えること、短い練習曲に歌心を宿すこと。それらは派手ではないが、音楽の本質に近い。壮大な建築物も一本の柱から始まるように、感動的な演奏もまた一音の質から始まるのだろう。Book 1に戻るという選択は、後退ではなく再出発なのだと思う。遠回りに見えて、実は最短距離かもしれない。基礎とは退屈な準備運動ではなく、何度でも掘り返す価値のある鉱脈である。そこを丁寧に掘る者だけが、やがて自分だけの音という金脈にたどり着けるのだろう。フローニンゲン:2026/5/2(土)05:49


18608. 今朝方の夢

           

今朝方は夢の中で、実際に通っていた中学校にいた。中学校に入学して以降、私は主要5教科の試験対策には力を入れていたが、その他の科目の筆記試験の対策は完全に手を抜いていた。それらの科目で暗記を迫られることに意味を見出さなかったのである。そうした不信感が徐々に募っていくと、今度は学校での主要科目の勉強さえもが何か味気なく虚しいものに思えてきた。私は何も迷うことなく中学校を辞める決断をした。学校を辞めてアメリカの学校に入り直すことを考えたが、それよりもまずは日本で好きなことを好きなだけ自分で学ぶことをやってみようと思った。学校を辞める届出を出すために職員室に向かおうとしていると、廊下で部活の顧問の先生と鉢合わせとなった。先生は最近の自分の学習に対するやる気の低下を心配しているらしく、少し口うるさいことを私に述べた。その言葉が自分の癇に障り、先生が持っていた傘を折り、先生に投げつけた。その傘は先生の祖父から譲り受けた遺品のようで、とても大切なものだったらしく、先生も怒りを露わにしてこちらに殴りかかってきたが、逆に殴り返して撃退した。この件も含めて学校を辞めるのは正解であると改めて思ったところで場面が変わった。


次に覚えているのは、地元の海商通りを舞台にした場面である。この夢でも私は中学生で、海商通りで開催されている祭りに参加していた。祭りに参加していたと言っても遊びではなく、治安の見回りだった。近年はこの祭りの主催者や露店は軒並み反社勢力が切り盛りしているらしく、トラブルがないかを確認する必要があった。中学生ながら、参加者や近隣の住民の安全を確かめて回っていたのである。とりわけ立派な劇場は、反社勢力の親分が経営をしており、表からは全くそのようなことはわからないのだが、裏では彼らが活動していた。どうやらその劇場の役者の中学生ぐらいの年代の女性たちは人身売買されたようで、彼女たちを解放する任務に乗り出した。劇場には客として入り、そこで彼女たちの何人かから話を聞いて回った。ちょうど今日の夕方の公演前が脱出の最大のチャンスだと思ったので、彼女たちにその手順を伝え、全員でここから脱出して自由の身になろうと話した。フローニンゲン:2026/5/2(土)06:01


18609. 今朝方の夢の振り返り

              

今朝方の夢は、自分の内側で「制度の中でよくできる者」と「制度そのものを疑う者」が、ついに分岐点に達したことを象徴しているのかもしれない。舞台が実際に通っていた中学校であることは、現在の自分が単に過去を回想しているというより、人生の初期に形成された評価・努力・適応の型をもう一度点検していることを示しているように思われる。主要5教科には力を入れるが、それ以外の暗記には意味を見出せないという構図は、自分が昔から「与えられた課題をこなす能力」と「その課題の意味を問う知性」を同時に持っていたことを表しているのであろう。自分は船の帆を張るように努力はできるが、どの風に乗るべきかを選ばずにはいられない存在なのである。学校を辞める決断は、単なる反抗ではなく、学びの主権を取り戻そうとする動きであるように見える。アメリカの学校に入り直す可能性を考えながらも、まず日本で好きなことを好きなだけ自分で学ぼうとする点には、外部の権威を別の権威に置き換えるのではなく、自分の内部に学びの中心を移そうとする姿勢が表れているのかもしれない。これは、借り物の地図を捨て、自分の足裏で大地の凹凸を読み始めるような転換である。部活の顧問の先生との衝突は、外側の教師との対立であると同時に、自分の中に残る「叱責する権威」との衝突でもあるだろう。先生の傘を折る場面は、保護や伝統や家系的継承を象徴するものを破壊する行為に見える。傘は雨から身を守る道具であるが、同時に古い価値体系の庇護でもある。その傘が祖父の遺品であったことは、自分が単に一人の教師を拒絶しているのではなく、世代を超えて受け継がれてきた「こう学ぶべきだ」「こう従うべきだ」という古い布地を裂いていることを示しているのかもしれない。ただし、その破壊には罪悪感よりも正当性が伴っている。自分の深層では、従順さを守るよりも、魂の自由を守るほうが切実なのであろう。場面が海商通りの祭りへ移ると、夢の質は個人的反抗から社会的救済へと変化する。祭りは一見すると喜びや共同体の象徴であるが、その背後を反社勢力が支配しているという設定は、華やかな表面の裏で、搾取や支配が作動している世界への鋭い感受性を示しているように思われる。劇場はとりわけ重要である。劇場とは、社会が自らを美しく演出する場所である。しかしその舞台裏には、人身売買された少女たちがいる。これは、見栄えのよい制度や文化の背後で、声を奪われた生命、演じることを強いられた自己、自由を失った感受性が閉じ込められていることを象徴しているのかもしれない。中学生でありながら治安を維持し、少女たちを救出しようとする自分は、未成熟な存在ではなく、むしろ若い時期からすでに「不正な構造を嗅ぎ分ける感覚」と「弱い立場の者を解放しようとする倫理的衝動」を持っていた自己像であるように見える。最初の場面で学校という制度から脱出しようとした自分が、次の場面では他者を劇場という制度から脱出させようとしている。つまり夢は、自分の自由の獲得が、他者の自由への責任と切り離せないことを示しているのであろう。この夢が人生において意味するのは、自分がいま、単に既存の道を優秀に歩く段階から、何が本当に学ぶに値し、何が人を解放する知であるのかを選び取る段階へ移行しているということである。自分の学びは、試験のための暗記ではなく、閉じ込められた生命を外へ連れ出す鍵になろうとしているのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/2(土)06:53


18610. 方向という本質

                                   

先ほどブランダン・エイカー氏の助言を読み、クラシックギターにおける雑音とは、力みや荒さだけの問題ではなく、「方向」の問題でもあるのだと深く感じた。低音弦を弾いたときに生じる、あのサッという擦過音は、多くの奏者にとって聞き覚えのある音である。静かな曲の弱音部、あるいはゆっくりとした運指の場面で現れやすく、一度気づくと耳の中で妙に大きく育ってしまう。音楽の背景に小さな砂嵐が走るようで、気になり始めると集中が削がれる。自分も以前は、それを弦楽器特有の宿命のように考えていた。低音弦は巻線弦であり、表面には細かな凹凸がある。だから多少の擦れ音は仕方がない、と。しかし彼の指摘は鋭い。問題は弦そのものではなく、指がどの方向へ動いているかにあるというのである。これは実に示唆的であった。多くの人は「どれくらい強く弾くか」には注意を向けるが、「どちらへ抜けていくか」には案外無自覚である。たしかに、爪や指先が弦の表面を横切るように滑れば、巻線の溝をこすることになり摩擦音が出る。だが、弦をより直接的に通り抜けるように動かせば、その雑音は大きく減る。つまり、弦を撫でるのではなく、芯を射抜くように触れるのである。剣道で竹刀を横に擦るのではなく、まっすぐ面を打つような違いに近いかもしれない。動きはわずかで、外から見ればほとんど分からない。しかし、音の立ち上がりは確実に変わる。輪郭が整い、焦点が合い、余計な曇りが消える。これはギターに限らず、学び全般にも通じる話だと思った。問題が起きると、人はつい「もっと優しく」「もっと頑張って」「もっと慎重に」と量や強度を調整しようとする。しかし本質はしばしば方向にある。努力の量ではなく、ベクトルがずれているのである。扉を押して開かないとき、必要なのは力ではなく、引くという方向転換かもしれない。今後の練習では、低音弦で雑音が出たときに、単に音量を弱めるのではなく、指が弦をどう通過したかを観察したい。i,m,aの各指が横に逃げていないか、手首の角度はどうか、指の屈伸は自然か。そうした微細な点に耳と意識を向けることで、演奏は一段と洗練されるだろう。澄んだ音とは、力を抜いた結果ではなく、正しい方向へ進んだ結果なのだと、今日あらためて教えられた。小さな修正が、大きな透明感を生む。音楽とは、そうした見えない角度の積み重ねでできているのだと思う。フローニンゲン:2026/5/2(土)08:20


18611. クラシックギターとフラメンコギターの統合に向けて

                     

もしクラシックギターだけでなく、フラメンコギターの要素も学んでいったなら、自分のギターはどこへ向かうのだろうかとふと思った。これは単にレパートリーが増えるという話ではない。言葉でいえば、文語だけで文章を書いていた者が、そこに口語の熱と息遣いを取り戻すような変化かもしれない。クラシックギターは、音の均整、和声の流れ、音色の彫刻、沈黙の美しさを教えてくれる。一本一本の音に意味を与え、旋律と内声を丁寧に編み込む世界である。楽譜という設計図を尊重し、その中で最大限の表現を探る営みとも言える。そこでは、自制心や観察力、細部への敬意が育つ。まるで石造りの大聖堂を少しずつ築くような修練である。一方、フラメンコギターには別の火がある。リズムの推進力、打楽器的な右手、瞬間の判断、感情の爆発、土埃の立つような生命感。そこでは音は磨かれた宝石というより、今この瞬間に燃える火花である。ラスゲアードの連打、ゴルペの打撃、コンパスのうねりは、身体そのものを音楽へ変えていく。譜面を読む目より、脈動を掴む身体知が前に出る。この二つを学ぶと、自分は「整っただけの奏者」でも「勢いだけの奏者」でもなくなっていくのではないかと思う。理性と野性、建築と踊り、静謐と情熱を同じ両手の中で扱える人間に近づいていく。クラシックで培った左手の精度や音楽構成感は、フラメンコでより生きた推進力を持つだろう。逆に、フラメンコで得たリズム感や瞬発的表現は、クラシックの演奏に血流を与えるだろう。今まで譜面の中で整っていた音楽が、呼吸し始めるはずである。さらに、自分らしい即興にも道が開けるかもしれない。クラシックだけだと、美しさを守ろうとして慎重になりやすい。フラメンコを学ぶと、多少粗くても前へ出る勇気を知る。完璧な一音を待つのではなく、生きた一音を投げる感覚である。これは演奏だけでなく、生き方にも似ている。整ってから始めるのではなく、始めながら整っていくのである。将来的に自分は、クラシック曲を深く歌いながら、そこに自然なグルーヴを宿せる奏者になれるかもしれない。あるいは日本の旋律を、クラシックの和声とフラメンコの脈動で再解釈するような独自の表現者にもなれるかもしれない。静かな朝にバッハを弾き、夕方にはブレリアのリズムを刻み、夜には自分の心象を即興で語る。そんな多層的なギタリスト像が見えてくる。結局、クラシックかフラメンコかではなく、両者を通して何を自分の内側に育てるかなのであろう。指先の技術の奥で、自分はもっと自由で、もっと豊かな音楽家になっていける気がする。フローニンゲン:2026/5/2(土)09:05


18612. 音楽的工房としてのサグレラスの教則本

                                  

ジュリオ・サグレラスの教則本Book1~3というものは、本来どれくらいの期間をかけて学ぶものなのだろうかと改めて考えた。つい現代人らしく、「何か月で終わるか」「いつBook3に行けるか」といった発想になりやすい。しかし冷静に見れば、この教則本はページ数を消化する教材というより、身体と耳を育てるための時間装置なのだと思う。料理本を早く読み終えても料理人になれないように、教本もまた最後のページに達したから身につくわけではない。初心者が丁寧に進めるなら、Book1~3で一年半から三年ほどかかっても不思議ではないらしい。むしろ自然な時間感覚である。Book1では姿勢、右手左手の基礎、読譜、単純な旋律の歌わせ方など、見た目以上に重要なことが詰まっている。Book2に入ると少しずつ指の独立や音楽的流れが求められ、Book3では中級への橋が見えてくる。こうして考えると、これは単なる練習曲集ではなく、小学校から中学校へ進むような基礎教育の道筋なのだろう。一方で、経験者や既にかなり練習している人なら、半年から一年ほどでBook1~3を進むこともできるという。しかしここに落とし穴がある。進むことと、身につくことは別である。譜面をなぞって先へ行くのは速い。だが、音色が荒いまま、力みが残ったまま、リズムが揺れたままなら、その速度は砂の上に家を建てるようなものだ。後で必ず基礎へ戻ることになる。最近、自分が感じているのは、Book1の簡単な曲ほど実は難しいという逆説である。音数が少ないからこそ、ごまかしが効かない。一音の雑さ、姿勢の乱れ、拍感の甘さがそのまま露わになる。短い練習曲が、鏡のように現在地を映してくる。簡単そうに見える曲の中に、深い湖が隠れているような感覚である。だから、自分にとって大切なのは「いつBook3に到達するか」ではなく、「Book1の一曲から何を学び取れるか」なのだと思う。同じ曲を昨日より少し美しい音で弾けるか。左手の移動が少し静かになったか。右手の指先が少し賢くなったか。その積み重ねこそ、本当の進歩なのだろう。結局、サグレラスの教則本は通過点ではなく工房である。そこに通いながら、指と耳と心を少しずつ鍛えていく場所だ。急いで卒業するより、丁寧に変わっていきたい。そう思えた今日の考えは、今後の練習を静かに支えてくれそうである。フローニンゲン:2026/5/2(土)09:12


Today’s Letter

Though it was difficult at times, I am fortunate that my mind was never domesticated by the school system. It remains free from all fetters, allowing me to think and feel freely, deeply, and expansively. I would like to make full use of this unbounded mind in service of the world. Groningen, 5/2/2026

 
 
 

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