【フローニンゲンからの便り】17444-17448:2025年9月27日(土)
- yoheikatowwp
- 9月29日
- 読了時間: 15分

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
17444. 人生の新たな幕開けの予感
時刻は間もなく午前6時を迎える。辺りは真っ暗だが、内側からはエネルギーが溢れて来ている。その輝きを自分は知覚している。今日もまたいつものように朝の冷水シャワーを浴びた。最近は気温が随分と下がって来ているので、朝に半身浴をして、その後に冷水シャワーを浴びている。こうして一度体を温めてから冷水シャワーを浴びるのは何の苦でもない。確かに冷水シャワーは身体の内側からのエネルギーの活性化に貢献しているだろうが、それよりも重要なのは心理的な要因である。今の自分は学術研究上の明確な目標が見つかり、それに向けて日々邁進している。その充実感が内的エネルギーの汪溢の最大の要因である。とりわけ最近は、仏教研究の査読付き論文の投稿に向けて実際に動き出しており、それが日々の活動の充実さを倍加させていることは間違い無いだろう。昨日は、良遍の『中道事』に関する論文のドラフトの加筆修正を終えたので、早速第二、第三の著者になってもらえるようにテッド・フゥイ教授とヤン・ウェスターホフ教授に連絡をし、そのメールにドラフトを添付した。まだ返事はもらえていないが、2人から仮に肯定的な返事がもらえたら、実際にこの論文が何らかのジャーナルに掲載される日がやって来るかもしれない。それを思うと非常に楽しみである。良遍の一連の漢文文献を英語に翻訳し、それに註釈を加えていくのは自分の天命の1つである。この世界にそれをやろうと思う人、そしてできる人は限られている。ひょっとしたら自分だけかもしれず、それを考えると、この取り組みを全うしていくことが天命に従った生き方となる。
今日からは昨夜考えていたように、『唯識空観』の漢文文献に対する註釈論文を同様に執筆していきたい。こちらの漢文の分量も『中道事』と同じぐらいの分量でそれほど多くなく、小さな査読付き論文として投稿するに相応しい分量である。近い将来良遍の漢文の長編作に対して博士論文を執筆することと、それを元にした英文書籍の執筆を計画している。英文書籍に関しては、修士論文のものも拡張させることで書籍化したいと思っている。論文ジャーナルの紹介だけではなく、自分の研究内容を英文書籍として出版してくれそうな出版社の紹介も教授陣にはお願いしたいところである。ようやくである。辻邦生先生が処女作の小説作品を出版したのと同じような人生のタイミングで、自分もようやく本格的に英語の論文の投稿と英文書籍の出版が実現しそうであることを思うと、嬉しくてしょうがない。ここから本当の意味で、読みに読み、書きに書く人生の新たな幕が開く。フローニンゲン:2025/9/27(土)06:10
17445. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、サッカー元日本代表で今はもう引退したかつての名選手と話をしていた場面があった。その方は引退後は指導者として活動を始めており、チームの練習が無いには時々近くのサッカーグラウンドでサッカーの練習をしているらしかった。しかし、自主練を少々やり過ぎてしまう癖があるらしく、足に炎症を起こしてしまい、その回復は現役時代に比べて随分遅いと述べた。なのでその方は念入りに足のケアをしているとのことだった。その話を聞いて、自分の身体のケアを日々大切にしていきたいと改めて思った。
次の場面では、実際に通っていた中学校の教室にいた。そこは3年生の時に使っていた教室で、自分は左端の窓際の席に座っていた。授業が始まると、先生はロボットの製造工程に関するフローチャートを黒板に示してくれた。数学の授業のはずが、ロボットの製造過程に関する話なのだなと興味深く思ったが、自分はその工程を最初から最後まですでに頭に入れていたので、授業を聞くことをせず、ある友人(HY)と一緒に外に出て、グラウンドでサッカーをすることにした。しばらく2人でサッカーに興じた後に、良い汗をかいたのでシャワーを浴びることにした。シャワーを浴びてさっぱりしてもまだ時刻は午前11時半であり、授業が行われている最中だった。教室に戻って授業の続きを聞くか、それともこのまま授業をサボるかを迷ったが、やはり一度教室に戻ろうと思った。先生は当然ながら、私たちが教室を抜け出してサッカーをしていたことに少し怒っているようだった。しかし自分は、これからも退屈な授業がある都度教室を抜け出して、こまめに運動しようと思った。実際に、ちょっとした運動をすると脳の回転が良くなり、教室に残ってずっと座っている生徒よりも頭の回転が速く、結局それによって効率的な学習が実現されていた。教室の椅子にずっと座らせられている生徒たちはある意味奴隷であり、21世紀にもなってこのような教育がなされていることに自分は問題意識を持っていた。座りっぱなしは寿命を縮め、脳の働きも悪くするのである。そうした科学的発見事項があるにもかかわらず、生徒たちを座りっぱなしにすることは、ある種の人権侵害のように思えてきた。自分は自らが正しいと思ったことは断固として貫く覚悟を持っており、先生になんと言われようが、どのような処罰を受けようが、全くお構いなしに自分が決めたことをやり遂げていこうと思った。
最後に覚えている場面として、小中高時代のある友人(TK)と和菓子屋がたくさん並ぶデパートの食品売り場のような場所で会話をしていた場面があった。彼の家業は饅頭屋ということになっていて、家業を継ぐか、研究者になるか彼は迷っているようだった。今の彼は研究にのめり込んでおり、それをできるところまで続けてみてから判断したらいいのでは無いかと私は述べた。彼と私の間には、自分で書物を購入し、自分で研究を進めていく自律的な姿勢を持つ人は研究者に向いており、逆にそうではない人は研究者にはなれないという共通の信念を持っていた。その基準で言えば、私たちは間違いなく研究者気質であり、実際にお互いに自分の研究に日々嬉々として取り組んでいた。研究がどこかのタイミングで面白くなくなったり、義務感が出た時には家業を継ぐタイミングなのかもしれない。そのようなことを彼に伝えた。フローニンゲン:2025/9/27(土)06:26
17446. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の第一場面に現れたのは、現役を退いたサッカー選手であり、かつては華やかな舞台で活躍した人物である。彼は今なお練習を欠かさず、自らを鍛え続けているが、同時に身体の衰えや回復の遅さを自覚し、念入りにケアを施していた。この光景は「時間の流れが必ずしも情熱を奪わないが、方法を変えることを要求する」という象徴を示しているかのようだ。現役時代と同じ負荷をかければ炎症を起こし、むしろ逆効果となる。すなわち、人は成熟の段階に応じて「継続」と「節制」の均衡を見出す必要があるということである。夢の中でその姿を見た自分が「自分も身体を大切にしよう」と思ったのは、単なる健康意識ではなく、成長の段階における自己の持ち方を直感的に掴んだことを意味する。次の場面では中学校の教室が舞台となる。授業は数学であるはずが、黒板にはロボット製造のフローチャートが描かれていた。ここにすでに「形式的な教育」と「創造的な学び」の対比が示されている。教師は決められた知識を伝達するが、自分はその工程をすでに知っており、退屈を覚えて外に出る。友人とサッカーに打ち込み、運動によって脳の回転が良くなることを体感する。そして自分は「教室に閉じ込める教育は奴隷制に似ている」と感じる。これは現代教育が「受動的な知識の詰め込み」に囚われていることへの批判であり、身体と精神の連動を無視することの危うさを訴える象徴である。夢の中の決意「処罰されようが構わず、自分の正しいと思う学びを貫く」という姿勢は、個人の自由を守る強固な意志の現れである。ここには「制度に従属するのではなく、制度を逆手に取って自らの器を拡張する」という主体性の芽が宿っている。さらに最後の場面では、かつての友人TKと和菓子屋が並ぶ食品売り場で出会う。和菓子屋という舞台は伝統や家業の象徴であり、彼が研究と家業の間で揺れていることは「個人の創造」と「共同体の継承」の間での葛藤を意味する。自分が彼に「研究にのめり込める間は続ければよい」と語るのは、自己の情熱と義務感の境界を見極めることの重要性を伝えている。研究は義務になった途端に輝きを失い、そのとき家業へと回帰するのが自然であるという含意は、人生における方向転換の正当性を肯定するものである。さらに「自分で本を買い、自分で研究を進める人こそ研究者だ」という共通認識は、真の探求者は外的制度や肩書きではなく、内的な駆動力によって形づくられるという哲学的信念を映し出している。これら3つの場面を統合すると、夢は「成熟した自己の在り方」を重層的に示していると言える。第一場面では身体をケアしつつ情熱を維持する知恵、第二場面では制度に抗して自らの学びを貫く主体性、第三場面では情熱と義務のバランスを見極める人生の転換点、これらが1つの流れとして繋がっているのである。いずれも根底には「自律」という主題が潜んでいる。身体の自律的管理、学びの自律的選択、人生の方向の自律的決断――これらはすべて外的権威や慣習に依存するのではなく、自らの内なる声に従うことを意味している。人生における意味として、この夢は「自己の歩みにおける主導権を常に自らが握れ」という呼びかけである。外部の制度や他者の期待に迎合するのではなく、身体の声を聴き、学びの自由を守り、情熱の火が灯る方向に進むことが、人の器を真に拡張させる道であると夢は告げているのである。フローニンゲン:2025/9/27(土)06:47
17447. ゼミナールの第151回のクラスの予習(その1)
今日は午後にゼミナールの第151回のクラスがある。クラスの予習として課題論文の該当箇所を読むだけではなく、事前に受講生に提示した5つの問いを見ていきたい。まずは最初の3つの理論的な問いから見ていく。1つ目の問いは、「LAS(Lectical™ Assessment System)が発達評価の対象とするのはどのようなデータであり、それをどのように収集するのかを説明してください」というものだ。LASが発達評価の対象とするのは、被験者の自発的な言語的パフォーマンスである。具体的には、臨床面接法に基づくインタビューにおいて、研究者が特定の質問を提示し、被験者がそれに応答する際の言語データを収集する。このデータは、4歳の子どもから成人まで幅広い年齢層を対象にして蓄積される。発話は自然で自発的な文脈で行われ、被験者は自分の言葉で思考を展開するため、その言語表現には発達段階が如実に反映される。例えば「良いリーダーとは何か」という問いに対して、幼児は「前に立つ人」といった単純で具体的な答えを返すのに対し、成人は「価値観を統合し多様な利害を調整できる人物」といった抽象的で複雑な表現を用いる。LASはこのような応答を素材として、その抽象度や論理構造の複雑性を分析することで、被験者の発達水準を測定するのである。したがってLASのデータ収集の核心は、日常的言語行為を科学的評価の対象に転換する点にある。2つ目の問いは、「LASが従来の評価法と異なるのは「表層構造」ではなく「深層構造」を評価する点にあるとされています。この「表層構造」と「深層構造」の違いを具体例を挙げて説明してください」というものだ。LASが従来の評価法と異なるのは、「表層構造」ではなく「深層構造」を測定する点にある。表層構造とは、道徳・美学・科学など特定の領域に依存した評価基準であり、例えばコールバーグの道徳判断テストは「前慣習的」「慣習的」「後慣習的」といった道徳領域固有のカテゴリーで発達段階を評価する。ここで重要なのは、これらの評価基準は領域に特化しており、他の領域にはそのまま適用できない点である。すなわち、道徳的に「成熟した」発言と、科学的に「成熟した」発言とは異なる基準に基づいて判定されるため、比較が困難になる。これに対してLASが狙うのは深層構造であり、それは抽象度と複雑性といった普遍的な指標に基づいて評価することである。例えば「リーダーとは前に立つ人」という具体的発言と、「リーダーとは社会的目標を調整し、多様な視点を統合する存在である」という抽象的発言とを比べると、内容領域を超えて後者の方が高い抽象度と複雑性を持つと判定できる。したがってLASは領域依存的な表層構造を越えて、普遍的に適用可能な深層構造に基づいて発達を測定する点で革新性を有しているのである。3つ目の問いは、「LASは「直感的に誰もが感じる発達の高さ」を、抽象度と複雑性を基準とする客観的評価に翻訳する試みである。あなたはこの翻訳がどのような理論的正当性と限界を持つと考えるか。発達構造主義(ボールドウィン、フィッシャーなど)の系譜に言及して論じてください」というものだ。LASが行う「直感的に誰もが感じる発達の高さ」の翻訳には、理論的正当性と限界が併存している。正当性の基盤は発達構造主義の系譜にある。ボールドウィンは「統制係数」という概念を用い、異なる思考様式がそれぞれ固有の内容を持ちながらも、発達には普遍的な論理的形態が存在すると主張した。さらにワーナーは「定向進化の原理」を提示し、発達が未分化な全体性から分化と統合へと進む普遍的傾向を示した。フィッシャーのスキル理論はこの系譜を継承し、すべてのスキルが「分化と統合」という階層的複雑性に基づいて構築されると論じた。LASはまさにこの理論的背景を受け継ぎ、抽象度と複雑性を普遍的指標として客観的測定に転換する試みである。したがって、LASの翻訳は発達構造主義の蓄積に裏づけられた正当性を持つと言える。しかし同時に、LASには明確な限界がある。第一に、言語依存性の問題である。LASは言語的パフォーマンスに焦点を当てるため、非言語的スキルや暗黙的知識は測定の対象から漏れる。第二に、領域固有性の切り捨ての問題である。道徳や芸術、科学にはそれぞれ独自の成熟基準が存在するが、LASはそれを測定基準から外すことで客観性を確保する一方、領域特性を十分に反映しないという弱点を抱える。第三に、直感から形式的測定への翻訳そのものが過剰に単純化される危険がある。人間の直感的判断には文脈的ニュアンスや非形式的理解(論理的・形式的に体系化された知識や明示的なルールに従うのではなく、経験・直感・文脈的手がかりなどに基づいて物事を理解するあり方)が含まれるが、LASの数値化過程ではこれらが十分に保存されない可能性がある。以上のように、LASは発達構造主義の理論的正統性を受け継ぎつつ、抽象度と複雑性という普遍的指標で直感を形式化することに成功しているが、その適用範囲には言語依存性や領域固有性の欠落といった限界が残る。この緊張関係を自覚的に扱うことが、LASを批判的かつ建設的に用いるための鍵となるのである。フローニンゲン:2025/9/27(土)07:07
17448. ゼミナールの第151回のクラスの予習(その2)
残る2つの問いは実践的な内容である。4つ目の問いは、「あなたが面接官としてリーダーシップ発達を評価する際に、LASの枠組みを応用するとしたら、発言のどの要素(例:概念の抽象度、論理の複雑性)に着目しますか。具体的な問いかけと、それに対する想定される応答の違いを挙げて説明してください」というものである。LASの枠組みを応用してリーダーシップ発達を評価する際、面接官として注目すべきは、第一に発言に含まれる概念の抽象度、第二にその概念がどのように論理的に統合されているかという複雑性である。抽象度とは、発話が具体的行動や個別事例に留まるのか、あるいは一般化や普遍化に及んでいるのかを測る指標である。複雑性とは、発話が単一の観点に基づくのか、複数の視点や要素を関係づけて構造化しているのかを測る指標である。例えば、問いかけとして「良いリーダーとはどのような人物だと思いますか」を設定した場合、低次の応答は「怒鳴らない人」「約束を守る人」といった具体的行動に着目し、抽象度も低く論理関係も単純である。中程度の応答は「人々を公平に扱い、全員が進む方向を理解できるようにする人」といった具合に、集団規範や協調性といった一段抽象的なカテゴリーを用い、複数要素を関係づけている。さらに高次の応答では「リーダーとは個人の利害を超えて共通の目的を再構築し、人々をそのプロセスに参加させる存在である」といった形で、抽象度が高く、目的論的・システム的観点を組み込み、複雑性の高い構造を示す。このように、問いかけへの応答の差異を抽象度と複雑性の両面から分析することで、リーダーシップ発達をLASの観点から評価できるのである。5つ目の問いは、「LASは「抽象度」と「複雑性」という普遍的基準に基づいて発達を測定します。あなたが組織研修にLASを応用して「リーダーシップ発達」を評価するとしたら、参加者の応答をどのように分析し、どの段階をもって「より高度」と判断しますか。さらに、分析過程で直面するであろう課題(例:文化による発話スタイルの差異、専門知識と抽象度の混同)を2点以上挙げ、その克服方法を説明してください」というものである。組織研修においてLASを応用してリーダーシップ発達を評価する場合、参加者の応答を分析する基準は概念の抽象度と論理構造の複雑性である。分析の手順としては、まず発話から中心的な概念要素を抽出し、それが具体的行動水準にとどまるのか、より抽象的な原則や価値観に及んでいるのかを判定する。次に、その概念同士が単純な並列関係にあるのか、因果関係・条件分岐・システム的統合といった複雑な関係づけを持つのかを分析する。例えば、「リーダーは部下に優しい人」という発言は具体的で単一要素に基づく低次レベルと見なされるが、「リーダーは部下に優しく接することで信頼を形成し、その信頼を基盤に組織目標を達成する存在である」という発言は複数要素を統合しており、より高次の段階に属する。さらに「リーダーは個別の役割や目標を越えて共通の意味枠を構築し、人々をその枠組みの共同創発者とする存在である」という発言は、抽象度と複雑性の両面で最も高次と判定される。しかし、この分析にはいくつかの課題が存在する。第一に、文化による発話スタイルの差異である。ある文化では控えめで簡潔な表現が好まれるため、発話の抽象度や複雑性が低く見える場合がある。この問題に対しては、補助的な問いかけを追加し、暗黙の理解を引き出すことで本来の能力を測定する方法が有効である。第二に、専門知識と抽象度の混同である。専門用語を多用する応答が高度に見えても、それが単なる知識の羅列にとどまる場合、真の抽象度や複雑性は低い。これを克服するには、発言の背後にある構造的統合性を重視し、概念間の関係づけが妥当かどうかを精査する必要がある。以上のように、LASを組織研修で応用する際には、抽象度と複雑性を基準に応答を分析することでリーダーシップ発達を測定できるが、その評価の信頼性を担保するには文化的差異と知識・構造の混同に細心の注意を払い、補助的質問や構造分析を併用することが求められるのである。フローニンゲン:2025/9/27(土)07:36


コメント