【フローニンゲンからの便り】17434-17439:2025年9月25日(木)
- yoheikatowwp
- 9月27日
- 読了時間: 16分

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タイトル一覧
17434. イギリスのそれぞれの大学院の魅力
時刻は午前6時にゆっくりと近づいている。秋の深まりに合わせて、最近は夏よりも起床時間が早くなっている。これは不思議なことである。本来は日の出の早い夏に朝早くに起きていいように思うのだが、そうではなく、まだ真っ暗な時間に目を覚まして活動を始めるようになった。午後9時前に就寝し、そこから一度も目覚めることなく午前5時頃に目を覚ますのがここのところの睡眠パターンである。8時間の睡眠は確保できているので、日中の活動も集中力高く従事することができている。こちらの意思で何か変更を加えることなく、体の求めに応じて睡眠を取っていきたいと思う。
昨日もまたアドバイザー候補に連絡をしていた。秋のイギリス旅行では、まずスコットランドのエディンバラに滞在する。エディンバラ大学のアビゲイル・マクベイン博士に連絡を取り、面会の機会をいただけないかを尋ねた。まだ返信をいただいていないが、エディンバラはどうやら魅力的な町のようなので、観光することが楽しみである。今回の旅程としては、エディンバラ、ロンドン、ブリストル、オックスフォードの順に訪問していく。ロンドン以外は未だかつて訪れたことがない町なので、そこでの出会いに期待がかかる。それぞれの町にある美術館・博物館には必ず足を運びたいと考えている。4つの大学院が提供している仏教研究プログラムはどれも魅力的であり、それぞれに個性がある。オックスフォード大学を除けばその他は全て1年間のプログラムである。エディンバラ大学とSOASでは、いくつかのコースワークがある一方で、ブリストルは完全に自分の研究論文の執筆だけに時間を注ぐことができる。コースワークを通じて様々な教授や学生と交流することに魅力がある一方で、自分の研究だけに集中できることも魅力的である。一方、オックスフォード大学はかなり厳格な言語トレーニングを課す。入手したコースハンドブックを眺めてみると、言語トレーニングがハードなだけではなく、今でも伝統として残るオックスフォード大学の代名詞である期末の3時間の筆記試験がかなりハードルが高そうだと思った。詳しくは知らないが、指定されたガウンを着て試験会場に入り、そこで6問ほどの記述問題から3問選んで、3時間の制限時間でペンを用いて解答するというものである。パソコンがある時代にあえて期末レポートではなく、物理的な試験会場で記述問題を解かせる理由としては、今後学者や何らかのプロフェッショナルとして活動していくにあたって、即興的に出題された事柄に即興的に知識をまとめ上げ、批判思考を発揮して自分の考えを述べられるかを鍛えるためにこのような試験が未だに残されているようだ。確かに、フローニンゲン大学でも似たような形式の試験がいくつかあったことを懐かしく思い出す。英語を手書きするのはかなり大変なのだが、それもまた良き思い出になるだろうし、良い経験になるのではないかと思う。厳格な言語トレーニングに加えて、そうした試験が残るオックスフォード大学は魅力的である。フローニンゲン:2025/9/25(木)06:05
17435. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない本屋の中にいた。そこで小中高時代のある友人(SN)がどうやら朝から晩まで毎日本を立ち読みしに来ているようだった。全ての店員はそれを知っていたが、彼に特に何も言うことはなく、彼の立ち読みを許可していた。それはおそらく、彼は漫画を立ち読みしていたわけではなく、専門書を読んでいたゆえに、彼の真面目な勉強の姿勢に対して感心したことも理由の1つなのではないかと推察された。自分は彼の近くで名画が掲載された画集をパラパラと眺めていた。その中で1つ印象的だった作品は、ピカソの見たこともない絵があったことである。画風としてそれは間違いなくピカソの作品で、実際に説明欄にもそのように書かれていた。数頭のペガサスがこちらを向いており、顔は人面だった。その幻想的な雰囲気と構図に喰い入るように魅せられていた。
次の場面では、私は小さな劇場にいた。その劇場では、自分と同世代ぐらいの男性と女性が主役として劇をやっており、2人が天井からケーブルで吊るされて振り子のように揺れるシーンは印象的だった。観客たちはまずそのように釘付けとなり、しばらくその様子を関心高く眺めていたが、最後の方はどうもその動きが単調となり、滑稽に思えてきて劇場には笑いが生まれ始めた。その笑いによって2人は振り子運動を終え、劇はまたゆっくりと新たな場面で進行し始めた。
最後に覚えているのは、見知らぬ温泉のお湯で足を温めていたことである。どうやらそのお湯には強い癒しの力があるらしく、体を内側から癒すだけではなく、外側としては垢すりの効果もあるようだった。垢すりは未だかつて体験したことがなかったので、どのようなものなのだろうと関心があり、試しに右足の膝にお湯を当てながら軽く擦ってみた。すると確かに垢がポロポロとこぼれ始め、その効果を実感した。自分が垢すりをしている様子をかつてのサッカー日本代表のある名選手が眺めていて、自分もそれにハマって定期的に垢すりをしていると述べた。どうやらその選手の長期間に渡る活躍の背景には、日頃の身体の入念なケアがあったことを改めて感じた。フローニンゲン:2025/9/25(木)06:17
17436. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の第一場面において、本屋という舞台は知識と精神的探究の象徴である。そこに登場する友人SNは、子どもの頃からの学びの姿勢や、何かを継続的に追い求める人物像の投影であると解釈できる。彼が漫画ではなく専門書を読み続けていることは、知識が単なる娯楽や逃避ではなく、自己形成と精神的成長に直結する営みであることを示している。そして本屋の店員たちが彼を咎めずに静かに見守る姿は、周囲がその求道的な態度を暗黙に認め、知識を吸収する行為が共同体においても価値あるものとされていることを表す。自らもまた画集を手にしていたという事実は、知識と芸術という2つの文化的営みの接点に身を置き、自分の精神が「学ぶ者」としてだけでなく「観じる者」として成長しようとしていることを示唆している。そこに現れた未知のピカソ作品は、歴史の中には未だ発見されていない可能性が潜んでおり、しかもそのモチーフが人面を持つペガサスであったことは、人間的理性と神話的想像力とが結合する新たな創造の局面を象徴している。つまり、知性と幻想が出会い、新しい洞察を生み出す契機が夢において具現化されたのである。第二場面の劇場は、人生そのものを舞台化した象徴である。自分と同世代の男女が主役を演じる姿は、自分自身の世代的な課題やアイデンティティを反映している。彼らがケーブルで吊られて振り子のように揺れる光景は、人生が単純な直線ではなく、常に揺れ動く運動の中に存在していることを示している。最初は観客がその動きに魅了され、やがて笑いが生まれる展開は、人間の営みが一見すると深刻で神聖に見えても、時間が経つと滑稽さや不完全さがあらわになるという逆説を映し出している。しかしその笑いは劇を壊すのではなく、むしろ次の場面へと移行させる契機となっている。この構造は、人生の諸段階における「過剰な真剣さ」がやがて相対化され、軽やかさを経由することで次の局面に至るという、人間成長のダイナミズムを象徴している。第三場面の温泉と垢すりは、身体的浄化と精神的再生を重ね合わせる象徴である。温泉は自然の母性的な力によって心身を癒す場であり、垢すりは古いものを落として新たな層へと更新する行為である。夢の中で初めて垢すりを経験し、実際に垢が落ちることを確認したことは、自己の中に沈殿していた古い習慣や不要な心的残滓が浄化されつつあることを示しているのだろう。また、そこに現れたサッカー選手が日常的にそれを実践している姿は、持続的な成果や長期的な活躍には地道で日々のケアが欠かせないことを教えている。つまり、才能や一時の努力だけではなく、身体と心の両面を整える習慣が「長寿的成功」の鍵であるという洞察が、この象徴的な場面を通して浮かび上がる。この三場面を通して一貫しているのは、知識・表現・浄化という3つの軸である。最初の本屋は「知の探求」、劇場は「人生の演技とその相対化」、温泉は「癒しと更新」を象徴しており、これらは人間が成長する過程において必要とされる三段階の通過儀礼をなしている。すなわち、知識を吸収し、人生の舞台でそれを演じ、その中で時に滑稽さを知り、最後には自らを洗い清めて再出発するという循環的構造である。この夢が人生に与える意味は、学びと創造に没頭すること、人生の滑稽さを恐れず舞台に立つこと、そして定期的に自己を浄化し刷新することが、持続的な成長と成熟をもたらすという示唆である。ペガサスの神話的な飛翔、振り子の揺れが笑いへと転じる瞬間、そして垢が落ちて新しい肌が現れる感覚――これらはすべて、人間存在が硬直することなく常に更新され得るという希望のメタファーである。したがって、この夢は「知を養い、人生を演じ、古き殻を脱ぎ捨てることによって、新しい自己へと再生する」という普遍的な成長の道筋を示しているのだろう。フローニンゲン:2025/9/25(木)06:39
17437. 古典中国語を通じた仏教研究への熱量の高まり
時刻は午前7時半を迎え、ようやく夜明けを迎えた。今日も天気が良いようで、遠くの空にうっすらと朝焼けが輝いて見える。小鳥たちもそれを喜んでいるようで、清澄な鳴き声を上げている。つい先ほど、意識探究に関してお勧めの書籍とウィルバー自身が意識そのものをどのように定義づけているのかを解説する音声ファイルを作り、ゼミのシステムにアップロードした。ちょうど先週末のクラスで、意識そのものに関心を持ってくださっている受講生の方が少なくとも2人いたので、何か参考になればと思って音声ファイルを作成した次第である。
今回のイギリスの大学院の出願に向けて、改めて自分がどれだけ仏教研究に情熱を注いでいるかを確認することになった。日々着実に良遍の思想研究を前に進めていきながら、確かに量子論に関する専門書を旺盛に読んでいる日々を過ごしている。イギリスの大学院に進学したら、基本的に量子論研究は一旦少し脇に置かないといけないであろうから、今のうちに量子論哲学の書籍を大量に読んでおき、基礎知識を獲得しながら、将来量子論と仏教思想を架橋させた思想研究に向けた着実な準備をしたい。心の世界の探究は仏教思想を通じて、ミクロな世界の探究は量子論を通じて、そのように両者の役割は明確であり、同時にそれらの接点を自分はもう明確に見出している。さらに欲張ってみると、マクロな世界の探究は宇宙論を通じて行ってみたく、量子論と宇宙論をつなぐものとしての超ひも理論に関する専門書も少しずつ読み始めているところだ。自分は残りの人生をこれら3つの領域の探究に捧げることができると確信している。また、それを行って一点の後悔もないと今の所言える。それらの探究を通じて何が発見できるのかどうかという結果は全く関係なく、それらの領域の探究に従事することそのものが大きな喜びであり、そのことに大きな意義と価値を感じている。それらの分野を本気で探求しようとなると、在野の研究者として活動するには限界があり、体系的なトレーニングと潤沢な各種リソースを持つアカデミックな世界の中で自分の探究をどこまでも洗練させていく必要がある。この7年ほど在野の研究者として活動してきた自分は、そのことを身に沁みるほど深く痛感している。
自分の知的レベルではオックスフォード大学の仏教プログラムは厳しいかもしれないと思っていたが、プログラムディレクターのケイト・クリスビー教授とのメールのやり取りを通じて、またコースハンドブックを眺めながら、自分にもできるかもしれないと思えてきたことは収穫であった。1年目で要求される仏教言語は、サンスクリット語、パーリ語、チベット語、古典中国語のいずれかを選んで言語トレーニングを受ける必要があり、最初は古典日本語をその代替言語にできないかとクリスビー教授に相談していた。しかし、よくよく考えてみると、良遍が残した文献は『法相二巻鈔』を除いて全て漢文、すなわち古典中国語なのだから、古典中国語をこの際にしっかりと学ぶことは将来の自身の仏教研究に必ず活きて来ると確信を持ったのである。もちろん漢文には返点が付されているが、最近は良遍の漢文文献を読むときには返点を用いて読解をしておらず、まさに古典中国語の文献読解の形で読解を進めていた自分がいる。クリスビー教授に紹介していただいた古典中国語および中国仏教の専門家のテッド・フゥイ教授ともすでにメールでのやり取りを始め、自分の古典中国語の読解力に言及する形で、フゥイ教授のコースで扱う文献や期末課題について相談を気が早いがさせてもらっている。オックスフォード大学の仏教プログラムの募集人数は極めて少なく、入学者は数人ほどである。その中で古典中国語を専攻するのは1人か2人、多くて3人ぐらいなのではないかと想像している。逆に言えば、教授とそれだけ密にやり取りができる機会がオックスフォード大学にはあるということだ。ただし、エディンバラ大学、SOAS、ブリストル大学にしても、仏教プログラムに入学する生徒は少なく、いずれの大学に進学しても教授とは密な交流ができるだろうと期待している。いずれにせよ、古典中国語を用いた研究に俄然やる気が湧いてきたことは大変喜ばしい。フローニンゲン:2025/9/25(木)07:49
17438. 協働論文の執筆に向けて
最も厳しい道を選び、言語的にも徹底的なトレーニングを望むのであれば、やはりオックスフォード大学の仏教プログラムが最も理想的なものになる。プログラムのいくつかのコースで課せられる伝統的な3時間の筆記試験は少したじろいでしまうが、そうした伝統に触れられるのも良い機会かもしれない。出願する4校の中で、最も厳しい知的鍛錬を課すのは間違いなくオックスフォード大学だと思う。その他の大学院では、さほど苦も無く4回目の修士論文まで執筆できてしまっている自分の姿を簡単にイメージすることができる。いずれの大学院の出願も最善を尽くすが、あとは結果は天に任せたい。合格通知を得た大学院にご縁があったということなのであり、そこに喜んで進学する。複数の大学院から合格通知を得たら、それはそのときに考えればいい。今の自分の知的な限界を突破し、知的な殻を打ち破る上では、怯んでしまうようなトレーニング内容を持つオックスフォード大学のプログラムが一番理想的なのだろう。
ケイト・クリスビー教授から紹介してもらったテッド・フゥイ教授とのやり取りを通じて、古典中国語を第一仏教言語に据えることにしたことは大きな収穫だった。その意思が明確に固まったことは有り難かった。この半年ほど、毎日良遍の漢文に触れており、1日1ページは少なくとも転写して、将来の研究論文に備えるということをしていた。気づけばもう随分と多くの良遍の著作物を転写し終えており、あとは英語に翻訳し、註釈していくだけのものが増えている。厳密には、博士論文として取り上げたい『因明大疏私鈔』以外の入手できた文献については実は全てもう転写は終えている。1日1ページは亀の歩みのように思えるかもしれないが、それを愚直に毎日続けていたら、『因明大疏私鈔』の全九巻のうち、もう六巻の終わりに来ている。自分に何か特性があるとしたら、それはこれと思ったことは愚直にやり続けるということなのだろう。仮にオックスフォード大学に進学しなくても、すでにフゥイ教授とヤン・ウェスターホフ教授からは研究のサポートをしてくれるという約束を取り付けたので、2人に共著者になってもらう形で査読付き論文を書き始めてしまおうと思った。出願の前の段階で2人の教授ともう協働を始めている状態は理想であり、それを志望動機書に盛り込めば、非常に説得力のある魅力的な内容になるだろう。まずは短い査読付き論文を執筆してみたく、それを念頭に置くと、良遍の『Matter Concerning the Middle Way (中道事)』は最善の文献かもしれない。ウェスターホフ教授は、中観思想の世界的な権威であるから、良遍のその文献にある中観思想と唯識思想の融通に関する論点に対して的確なフィードバックを下さるだろう。また、その文献は古典中国語で書かれていることもあるから、フゥイ教授に英語翻訳の箇所でフィードバックをいただきたい。役割分担として、自分が筆頭著者となり、古典中国語から英語への翻訳箇所についてフゥイ教授にレビューしていただき、註釈箇所についてウェスターホフ教授からコメントをいただければと思う。早速この協働論文に向けて執筆を開始していこう。フローニンゲン:2025/9/25(木)08:04
17439. 新たな刺激/『中道事』の註釈論文の執筆を本格的に始めて
時刻はゆっくりと午後5時に近づいている。もう夕方の太陽は秋のそれを感じさせるほどに穏やかである。午後にジムに出かけた際にも太陽の光は強くなく、とても柔らかな太陽の日差しを体に浴びた。日没もすっかり早くなり、これからますます日が暮れるのが早くなっていく。今年の冬もまた充実した日々を過ごすことができるに違いない。そうした確信がある。
今日のジムでのパーソナルトレーニングは、いつものようにいくつかの新しいメニューを取り入れてもらい、そうしたメニューに取り組むことによって脳と身体に新たな刺激が十分にもたらされた。パーソナルトレーナーのエリーザに指導をしてもらってかれこれ3年が経ち、おそらく今年は4年目となる。こうして4年間誰かの指導を通じて同じ実践に取り組み続けることで得られたものは計り知れない。自分1人では思いつかないトレーニングメニューによって、身体の様々な部位をその時の身体の状態に合わせて鍛えていくことができることにパーソナルトレーニングの意義を感じる。人は習慣の生き物であり、往々にして1人でトレーニングをしていると、メニューが固定化されてしまい、単調になりがちなところ、隔週で行うパーソナルトレーニングによって毎回新たな刺激と新たな洞察がもたらされていることは喜ばしい限りである。今日のメニューの中で印象に残っているのは、肩周りを鍛えるトレーニングで、普段のメニューでは幾分鍛えにくい部位に効かせることができ、来週の自主トレーニングでは自分でもそれを1人で行ってみようと思う。
トレーニングに行く前の午前中には、早朝の日記にあったように、ウェスターホフ教授とフゥイ教授との協働執筆を目指した論文に本格的に着手し始めた。実はすでに大まかなドラフトは完成されており、今日は最初から一行一行、引用された情報を確かめたり、文章におかしなところがないかをチェックしていった。導入の4ページのレビューは終わったので、明日からは『中道事』の漢文の英訳を確認していく。本文と一文一文照らし合わせながら翻訳を確認していく。その箇所はフゥイ教授にレビューをしていただく箇所となる。漢文を英語に翻訳することはそれほど難しくないが、意味を取り違えている箇所が最初のうちはあるかもしれないので、専門家に見てもらうのが一番である。翻訳の箇所が終われば、論文の中でも重要な要素である註釈のパートに入っていく。そこもすでにドラフトがあるが、追加で加えたい資料がいくつかある。その箇所はウェスターホフ教授にレビューをお願いする。こうしてイギリスの大学院の出願に向けて、諸々の事柄が少しずつ着実に前進していることを喜びたい。フローニンゲン:2025/9/25(木)16:58
Today’s Letter
I have a sense of fulfillment at every moment in my life. In particular, I feel it strongly now, as I devote myself to studying Buddhism. Buddhist studies are the most meaningful way for me to cultivate myself and to fully appreciate each moment of my life. Groningen, 09/25/2025


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