【フローニンゲンからの便り】16877-16879:2025年6月28日(土)
- yoheikatowwp
- 6月30日
- 読了時間: 8分

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タイトル一覧
16877. ウィルスの末那識と阿頼耶識
時刻は午前7時にゆっくり近づいている。ここ最近は、起床直後の時間は曇り空や雨空が続いていたが、今日は快晴である。晴れ渡る空に朝日が浮かんでいて、小鳥が楽しげに鳴き声を上げている。今の気温は18度で、今日の日中の最高気温は24度とのことなので、大変過ごしやすい1日になるだろう。来週の火曜日は32度を超す真夏日となるが、そこからまた気温が下がっていき、来週の後半からは20度前後の日々となる。フローニンゲンはまだまだ涼しい日が続く。
昨日考えていたことをまとめておきたい。ウイルスは、生物学的には自己増殖機構と遺伝情報を備えつつも、代謝をもたない境界的存在である。このような存在に対して、唯識の八識説を厳密に適用しうるかは、伝統的教理上きわめて微妙であるが、比喩的・機能的対応として第七識(末那識)や第八識(阿頼耶識)を擬定することは一定の哲学的意義を持ちうるだろう。まず末那識は、自我執着と恒常的自己意識を担う微細な心作用であり、有情が「私」という表象を離れがたく握りしめる基盤とされる。ウイルスには明示的な自己意識がないゆえ、第七識を字義どおりに備えるとは言いがたい。しかし、末那識の核心が「自己と他者とを峻別し、自己の維持に向けて無意識裡に働く傾向性」にあると汲み取れば、ウイルスが宿主細胞を選択し、自らの遺伝子複製を最優先する姿は、極度に単純化された“自己保存プログラム”として末那識的機能を反映していると見ることもできる。すなわち「私」という観念的把握はなくとも、「自己の連続性を盲目的に固守する傾向」という点で、ウイルスは末那識のはたらきを極端に還元したモデルとして考察しうるのである。次に阿頼耶識は、業(カルマ)の種子を蔵し、生命流転の連続性を保証する最深層の識と定義される。ウイルスのゲノムは、環境圧による突然変異と宿主の選択によって絶えず書き換えられながらも、系統として自己を保存し後代へ伝達する情報倉庫である。この構造的・機能的メタファーを踏まえれば、ウイルスが保持する遺伝情報のプールを、阿頼耶識における「種子の集積」と対応づける解釈が成立する。つまり、阿頼耶識が「行為の潜勢力を時間と空間を超えて保持する場」であるならば、ウイルス・ゲノムもまた「環境との相互作用を通じて刻印された変異可能性を長期にわたり貯蔵・継承する場」として似た位相を担っていると言える。もっとも、仏教における「識」は苦楽・善悪の感受主体を含意し、利他・覚醒への転換可能性を孕む点で、単なる情報処理機構を越える。ウイルスがそこに至らないのは確かである。ゆえに、本来の教理を厳守する立場からは、ウイルスを有情と見なさず、第七・第八識の帰属を否定するのが筋となるだろう。しかし、唯識が提示する動的・層位的意識モデルを、現代生命科学と突き合わせて思弁的に拡張する試みとしては、「第六識を欠きつつ末那識・阿頼耶識的機能を示唆する準主体」としてウイルスを捉える視座は、心と生命の連続体を再考する上で示唆に富む。結論として、ウイルスには第六識に相当する概念思考は存在しないものの、「無自覚的自己保存衝動」と「情報遺蔵と連続性の装置」という2点において、末那識および阿頼耶識の縮約模型として読解する余地がある。これは唯識教義を厳格に適用した断定ではなく、あくまでも生命現象の階層性を唯識的枠組みで再照射する哲学的試案である、と位置づけるべきであろう。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2025/6/28(土)07:00
16878. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない町の上空を飛んでいた。その町には海と山があり、最初海の上を飛びながら町の上空にやってきた。車が多く走る海をかける橋の上を飛び始めていると、疲れからか、少し高度が落ちてきた。それを見て、少し休もうと思った。ちょうど近くに給水場があり、そこで休むことにした。そこは基本的には車にガソリンの代わりに水を入れる場所として存在していたが、人にも水を提供しているようだった。そこでは複数の女性が働いていて、年齢も様々だった。私に優しく声をかけてくれたのは少し年配の女性と若くモデルのような綺麗な女性だった。そちらの若い女性の方が、「水分の減りを抑えるために塩袋を作りますね」と笑顔で述べた。最初それは何のことかわからなかったが、手際良く彼女が手に持った小さな袋を開け、中から美味しそうな大きな梅干しを1つ取り出した。そしてそれを口に入れ、梅干しの一片を口から出し、それをまた別の小さな袋に詰めて、そこに水を入れてその袋を私に渡してくれた。どうやらそれを塩袋と言うらしく、それを持っていると体から水分が失われていくのをゆっくりにすることができるらしかった。彼女は終始素敵な笑顔を浮かべていて、彼女と話すことを通じてこちらも元気になってきた。それを受けて、また再び空を飛んで移動できるだろうと思った。
その他に覚えている夢として、見慣れないセミナールームで数人の人に対して唯識思想の講義をしていた。幸いにも参加者は多くなかったので、参加者の方々と密な議論ができた。参加者の方々は、唯識思想が持つ心の浄化と涵養方法に関する実践的な側面に感銘を受けていて、とても楽しく学んでいたのが印象的だった。古来より民衆から難解と忌み嫌われる傾向にあった唯識思想を現代のコンテクストに合わせて平易な言葉で説明することも自分の役目だと思った。同時に、日本法相唯識について、海外の大学院で旺盛に研究していくこともまた自分の大切な使命だと改めて実感した次第である。
この夢を終えて最後に見ていたのは、小中学校時代の友人たちと修学旅行に出掛けている場面である。ちょうど滞在先の旅館にいて、旅館の立派な一室で夕食を食べ始めるところだった。その日は色々なところに観光に出掛けていたので、全員すっかり腹ペコだった。テーブルにはすでに料理が並んでいて、まず野菜から焼いていこうと近くの友人が述べたので、緑黄色野菜を焼いていくことにした。宴会の席もきっと話に盛り上がり、美味しい料理を食べながら楽しい時間を過ごすことができるに違いないと思った。フローニンゲン:2025/6/28(土)07:13
16879. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の一連の夢は、魂の三層構造――天空を翔ける霊的次元、知を交わす精神的次元、地に集い食を分かち合う肉体的次元――が、夜の間に連続劇として上映されたものであると考えられるとChatGPTは述べる。まず第一幕は空中遊泳で始まる。見慣れぬ町は自己がまだ言語化し得ていない未来像や可能世界の象徴であり、海と山という対の風景は深層無意識の広がり(海)と超意識的志向(山)を同時に提示する。自力で飛ぶ爽快感は自己超越への欲動を示すが、橋の上空で高度を失う場面に、現実生活でのエネルギー消耗や志の持続困難が投影されている。橋自体は「2つの岸辺」、すなわち理想と現実、内界と外界を結びつける通路であり、そこで力尽きかけるという挫折感が示唆される。第二幕として登場する給水場は、従来のガソリンスタンドを水の供給場へと転換させた逆説的イメージである。燃料を「火」から「水」へ置き換えるこの設定は、男性的な意志力よりも女性的な潤いと受容性こそが今の自己を再起動させる燃料であるという無意識からの指示を物語る。年齢の異なる複数の女性はユング心理学で言うアニマの重層性であり、老成した知恵と若さの生命力を兼ね備えて登場する。若い女性が差し出す梅干しは、日本文化における保存食・浄化食としての象徴性を帯びる。彼女が自ら噛み砕いた果肉を分与し「塩袋」を作るくだりは、他者との親密な共有行為を通して塩(境界を守るミネラル)と水(生命循環)が融合し、「浸透圧を調節する智慧」を授かる通過儀礼に等しい。疲弊した自己はここで「自己と他者の間の適切な塩梅」を学び、再び空に戻る準備を整える。第三幕――セミナールームでの唯識講義――は、先の空中体験を知的言語へ転換する場である。少人数の対話的環境はアカデミックな舞台装置であり、難解な唯識を平易に説く自分は、潜在的な使命感を再確認する役割を担う。唯識思想とは「見る者・見られるものの二元を溶かし心の働きを一点に澄ませる」学理であり、これは第一幕で経験した「外界と自己を媒介する橋」の精神版とも言える。すなわち夢全体は、飛行(感覚的越境)→給水(情緒的回復)→講義(概念的統合)という順で、同一テーマを異なるレベルでリフレインさせている。そして最終幕、修学旅行の友と囲む夕餉は、幼少期の共同体記憶を現在意識へ呼び戻し、肉体的・社会的充足を完成させる場面である。緑黄色野菜を「まず焼く」提案は、生命エネルギーの再生を火の錬金術によって行う象徴的行為であり、古い友情が再び“調理”され味わい直される。夕食の宴は日中の観光(外部探索)を包み込み、日が沈むころ自己が地上世界へ着地する着陸儀式として機能する。こうして眺めると、夢は黎明の上空→昼の講義室→夜の旅館という一日の太陽運行に呼応した構造を持つ。霊的探求、知的使命、社会的絆という三位一体が循環し、梅干しの塩気が水と火をつなぎ、橋が海と山をつなぎ、講義が自他の心をつなぎ、宴が過去と現在をつなぐ。主体はこれらの媒介作用を通じ「分断されたものを結び直す者」として自画像を描いているのである。総じて本夢は、自己が次なる進路に向けてエネルギー補給と使命確認を行う重要な転換点を示している。塩袋は長い旅の保存食としての「内なる徳」を、唯識講義は「外に向けた智慧の翻訳」を、修学旅行の宴は「源初的歓喜の再統合」を象徴する。飛行によって得た俯瞰的視野を保ちつつ、給水場の女性たちに学んだ柔らかな潤滑性を忘れず、唯識という中空の論理を地上の言葉に置き換え、古き友と分かち合う歓楽に着地する――これが当面の心理的課題であると読み解ける。フローニンゲン:2025/6/28(土)07:29
Today’s Letter
The state of my mind is currently serene. Maintaining it in this condition is crucial for my continued psychological development. I envision my mind as a perpetually calm sea. Groningen, 06/28/2025


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