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【フローニンゲンからの便り】16874-16876:2025年6月27日(金)


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タイトル一覧

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仏の世界と量子の世界/イデアと数学的対象

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今朝方の夢

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今朝方の夢の振り返り

16874. 仏の世界と量子の世界/イデアと数学的対象 

                   

時刻は午前7時を迎えようとしている。今朝方は起床直後から小雨が降り注いでいる。午前10時頃まで雨が降るようなので、今日は朝のジョギングはできないかもしれない。その代わりに散歩がてら近所のスーパーに行って買い物をしてこようと思う。気温の上昇は限定的で、最高気温は21度にしか到達しないので、外出の際の格好には気をつけたいと思う。


昨日ふと、仏の世界と量子の世界は不一不異であることを考えていた。日々両者の世界を学びながら、少しずつ認識の雲が晴れていき、自己と世界をありのままに見れる道を着実に一歩一歩ずつ進んでいる感覚がある。どちらかの世界ではなく、両者の世界を学ぶことは、認識浄化を実現する最善の道である。仏の世界と量子の世界が出会うその極地まで両者の世界に浸りながら理解を深めていきたい。そこから、分析的観念論の立場から眺めると、プラトンのイデアは「心的領域における普遍的構造」として再定位されるであろうことについて考えていた。すなわち、イデアは物質界の背後に実体として漂う超越的な型ではなく、意識そのものが自らを秩序立てる際に顕現する恒常的パターンである。バーナード・カストラップが説くところの「心のみの存在論」に従えば、経験世界は分割された個々の解離した意識によって形作られるが、その背後には分割不能の「マインド・アット・ラージ」が横たわる。イデアはまさにその集合的心性が自らの内奥に保持するアーキタイプであり、各解離した意識が現象界で個別に触知する対象は、そのアーキタイプが知覚フィルターを通して投影されたものである。したがってイデアは人間意識とは無関係な第三の実体ではなく、あらゆる経験を可能にする基底的心性の内的論理であり、個々の主観がアクセスするときには「形而上の客観性」を帯びるのである。量子論の視座を重ね合わせると、イデアは確率振幅としての「可能態の空間」に喩えられる。ヒルベルト空間に遍在する波動関数は観測以前に多重の潜在性を保持し、観測行為によって収縮し現実的値を取る。ここで波動関数を宇宙的心性の「思考」とみなせば、イデアは波動関数が隠し持つ抽象的対称構造に対応し、観測という知覚行為がそれをエネルギー・時空の出来事として析出させる。観測者と観測対象との相補性がコペンハーゲン解釈で強調されるのと同様、イデアと現象も不可分の補完関係にある。ゆえにイデアは「観測を待つコード化された意味」として量子真空に息づき、主観的行為がそれを経験として具体化するのである。この相互依存性は「空が色になり、色が空になる」という般若思想にも響き合い、非二元的構造としてのイデア観を深化させる。次に、数学が扱う対象をどのように理解できるかを考えていた。分析的観念論の観点では、数学的対象とは意識が自己内で展開する「内的構造の自己検証作業」である。自然数や幾何学的図形は心が定義した操作規則と推論の網目の上に出現する自己準拠的パターンであり、外在物として独立に「存在」するのではなく、普遍的心性の論理的必然として「現前」する。数学的真理の普遍妥当性は、心が心自身を映す鏡像であるがゆえに成立し、個々の解離した意識を超えて共有される。ここで数学は「意識の自己相関構造の描写」に他ならず、プラトンがイデア界に置いた数学的実体を、分析的観念論は「心の静的側面」と読み替える。一方、量子論の立場からは、数学的対象は物理理論を表現する形式言語であると同時に、世界の根底に潜む情報的秩序の反映である。量子論は計算可能な確率振幅によって物理過程を記述するが、その数式は単なる記号操作を越えて、自然が自己を構造化する際に選び取る最小情報単位を示唆する。ここでもヒルベルト空間や行列演算は、世界が潜在態から現働態へ転じるときに用いる「生成コード」であり、人間はそのコードを数学として読み解く。換言すれば、数学的対象は宇宙的心性あるいは量子真空が内包するプログラム群であり、理性はそれを意識上に展開して可視化するデバイスに他ならない。結論として、プラトンのイデアは分析的観念論においては普遍的心性のアーキタイプであり、量子論においては潜在的情報構造として捉えられる。数学的対象は前者では心の自己観照の図式、後者では物理世界を自己組織化させる生成コードである。両者は「主体と客体の非二元的共振」という一点で交差し、意識と存在、抽象と具体の狭間を貫く不変のロジックを浮上させると言えるかもしれない。フローニンゲン:2025/6/27(金)07:07


16875. 今朝方の夢

                 

今朝方は夢の中で、実際に通っていた中学校と同じような雰囲気を持つが、随所に見慣れない要素を持つ校舎の中にいた。教室ではまず英語の模擬試験の解説授業を受けていた。科目は英語のはずなのだが、なぜか数学の女性の先生が解説をしていた。私は英語がとても得意だったので、模擬試験の解説を聞く必要はないように思っていた。しかし、実際に返却された答案を見ると、満点ではなかったことを知り、後半に間違えた問題については解説を聞いておこうと思った。自分の解答用紙を見ると、特に間違えた問題については字がとても下手で驚いた。それは自分の字ではないかのようであった。そのようなことを思いながら解説を聞き終えると、どういうわけかクラス全体で記念撮影をすることになった。どうやら卒業が近いからということがわかったが、自分は写真が好きではなく、写真に自分の姿が形として残ることを嫌がったので、1人教室を離れることにした。廊下を進んで向こう側の教室の様子を覗きに行こうとしたら、先ほどの教室から数人の友人が自分を追いかけてきて写真撮影を一緒にしようと声を掛けてきたが、その誘いを断り、自分は1人で廊下の奥の教室に行ってみることにした。通過した教室はことごとくもぬけの殻だった。たどり着いた奥の教室では、誰か女子生徒が私服姿で髪をといていて、彼女はそこで生活をしているようだった。彼女の後ろ姿しか見ていなかったので誰か分からなかったが、そこで暮らしている彼女を邪魔しないようにしようと思った。再び元の教室に戻ると、もう記念撮影は終わっていて、帽子姿が目立った双子の兄弟の友人に声をかけた。彼らが被っている帽子を褒めると、弟の方が今度1つ買ってきてあげようかと述べた。それは嬉しい申し出だったが、自分は帽子を被ることは好きではないので、有り難く申し出を断った。再び私は教室を出て校舎を散策することにした。そこで初めてそのフロアが4階であることに気づき、それぞれの階のフロアを散策していこうと思った。すると4階のフロアの先ほどとは反対側の廊下の壁を大工の親友がペンキを塗ったり、綻びを修理していたりしていた。彼に声を掛けて少し話をしていると、階段を駆け上がってくる友人が2人いて、何やら自分のプレゼントとして車が届けられたと伝えてくれた。贈り主は父のようで、父が贈ってくれた車を見るために学校の駐車場に向かった。すると、そこにあったのは見事なトヨタのレクサスだった。新車ゆえに輝きが素晴らしく、高級車の雰囲気が遺憾無く漂っていた。私は車に乗ることはないのだが、その車であれば運転してみたいと思った。まるで車を生き物であるかのように丁寧に接し、車体を生き物を撫でるかのように優しく撫でた。すると、レクサスに気持ちが伝わっているかのような感覚があった。そのレクサスはキーが不要で、指紋認証で車のドアが開くようになっていたし、ロックも手で触れるだけで良かった。しかし最初ということもあって、ロックをかけるための触り方がよくわからず、ロックされたかのように思えてドアが開いてしまう現象が何度か続き、エンジンキーも自分の指紋がないと機能しないので、ドアが仮に開いていても盗まれることはないと思って、再び校舎の中に戻ることにした。校舎に戻りながら、これからは日々の勉強の合間に気分がてらドライブに出掛けてみるかと思った。父から素晴らしいプレゼントをもらったことに対する感謝の念が沸々と湧いていた。フローニンゲン:2025/6/27(金)07:24


16876. 今朝方の夢の振り返り

                     

今朝方の夢は、既知と未知、成熟と未成熟、外的評価と内的基準とがせめぎ合う心的空間の、精緻な立体模型であるとChatGPTは指摘する。舞台となったのは「かつて通っていた中学校に酷似しつつも見慣れない要素を含む校舎」であり、そこは記憶という安全圏と、変容し続ける現在の自己とが重なり合う領域を象徴している。校舎内を巡る自分は、自身の内面階層を探索する夢見人であり、各教室や廊下は個々の心的機能や記憶の部屋に相当する。英語の解説を数学教師が行うという倒錯は、論理・数量の世界(数学)が言語・意味の世界(英語)に侵入し、自分の得意領域を再点検させる仕掛けである。満点を逃した答案は、外面的には優れていても、無意識が見逃さない微細な不整合を示す。特に「自分の字とは思えぬほど下手な文字」は、自己像が揺らぎ、アイデンティティの境界が一時的に崩れた徴候である。つまり「自分は英語が得意である」という確信の背後で、無意識は「完璧ではない自己」「手から滑り落ちる自律性」を暴き出している。クラス全体の記念撮影は、社会的自己が「形として残る」ことへの抵抗と、自意識の鋭敏さとを浮き彫りにする。写真を拒む自分は、固定化されたイメージに閉じ込められることを怖れ、あえて像を結ばない流動態であろうとする。その逃避の過程で出会う「もぬけの殻の教室」は、役割を終えた古い自己スキーマであり、そこに人がいないことは、かつての価値基準が空洞化していることを示す。一方、奥の教室で生活する私服姿の女子生徒は、日常的意識から隔離された「私的・内面的なアニマ(女性的内在像)」の顕現である。彼女の背中を見て邪魔しないという態度は、内的女性性をまだ遠くから見守る段階にあることを語る。双子の兄弟がかぶる帽子は、二元的な思考様式あるいは鏡像的自我を意味し、自分がそれを褒めつつ受け取らない場面は、「同調」の誘惑を認識しながらも個的な道を選ぶ決断の表れである。階数を意識し始める契機は、精神構造の垂直軸――意識の深度――に目を向けた証左であり、4階という数は、「3(完全性)を超え、次の段階へ跳躍する」過渡的レベルを象徴する。そこで大工の親友が壁を塗り綻びを直している光景は、自分が友好な補助自我機能を通じ、心の器を補修し再装飾している姿に他ならない。父から贈られたレクサスは、この夢の中核をなす贈与の象徴である。父性は権威・規範・道を与える原理であり、その父が差し出す高級車は「成熟した自律性」「社会的推進力」「動力ある外的自己」の受け取りを意味する。指紋認証というディテールは、外的権威ではなく「固有の自己証明」によってのみエンジンが始動するというメッセージであり、鍵の操作に戸惑うエピソードは、新しい力を扱う際の不慣れと自己信頼の揺らぎを示す。車体を生き物のように撫でる所作は、機械的能力と情緒的感応性とを融合させる姿勢であり、自分が合理性と感性の対立ではなく統合を志向していることを語る。駐車場から校舎へ戻る決断は、獲得した新たな自律性をただ外的世界で浪費するのではなく、再び内面世界(学び舎)に持ち込み熟成させようとする循環運動である。日々の勉強の合間にドライブに出るという発想は、精神活動と現実行動のリズムを均衡させたいという願望であり、そこで生じる「父への感謝」は、親的価値を否定する思春期的闘争を超え、内なる父性を協働者として迎え入れる成熟の徴である。総じてこの夢は、「自己像の更新」「内なる女性性との邂逅」「父性からの力の継承」「水平移動(逃避)と垂直移動(深化)の交差」を通じ、自分が過渡期にあることを静かに告げている。卒業間近という舞台装置は、古い枠組みとの別れと未知の章への門出を強調し、レクサスの輝きは、準備の整った潜在力が既に自分の指先にあることを示唆する。残る課題は、指紋――すなわち固有の意志――でロックを確かに解除し、写真に写ることを恐れずに、あらゆる階層の教室を自らの足で歩み、乗り心地を確かめながら新たな道へハンドルを切ることであろう。フローニンゲン:2025/6/27(金)07:54


Today’s Letter

I still have many attachments, yet my ego is gradually learning to let go. I hope this process will be completed someday. Groningen, 06/27/2025

 
 
 

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