【フローニンゲンからの便り】16824-16826:2025年6月14日(土)
- yoheikatowwp
- 6月16日
- 読了時間: 9分

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
16824 | 依詮観と廃詮観について |
16825 | 今朝方の夢 |
16826 | 今朝方の夢の振り返り |
16824. 依詮観と廃詮観について
時刻は午前7時を迎えた。昨日は結局30度まで気温が上がっていて、夏日だった。しかし午前中はとても過ごしやすく、午後から確かに夏日となったが、それでも室内で暑さを感じることはなかった。そもそも冷房などないのがオランダのほぼ全ての家庭であり、昨日も冷房いらずで過ごすことができた。起床してみると、やはり室温が上がっていて、25.5度ほどだったので、2階の両側の窓を開け、冷たい空気を部屋に取り入れている。今の外気は18度なので、もうしばらく窓を開けていると部屋の温度も下がるだろう。明日からはまた涼しくなるが、今日もまた30度に達する予報が出ている。今はほのかな朝日が地上に降り注いでいるが、どうやら今日はうっすらとした雲がかかっている時間帯が多いようで、それでも30度ほどの気温に到達するようだ。
昨日、貞慶と良遍が考案したとされる依詮観と廃詮観について調べていた。両者は、唯識思想における言語および概念の位置づけに関する二重の視座であり、心の現象的構造と究極的真理との関係性を明らかにする枠組みである。まず依詮観とは、「詮(せん)」すなわち言語·概念的表現を仮の媒体として依り所とし、仮名·仮法を通して真理を指し示すという理解である。これは、仏教的教説や唯識の学理が、たとえ相対的·概念的構築物であったとしても、それらが衆生を導く方便(upāya)として有効であり、仮に立てられたもの(假立)であるがゆえに却って真理に至る道標となるという視点である。この観点においては、唯識の教理は真理に至るための不可欠な梯子であり、それ自体が真理を体現するものではないが、真理に近づくための媒介となる。これに対し廃詮観とは、あらゆる言語的表現や概念的構築を最終的には「廃すべきもの」として捉える見解である。すなわち、「詮」は方便であり、究極的には心の投影に過ぎず、真実在をそのまま表現することはできない。ゆえに真理に到達した者にとっては、もはや言語的教説や論理的体系は意味をなさず、捨て去るべき仮構であるという理解がここにある。この観点は、『金剛般若経』における「法すら尚捨つ、いわんや非法をや」という句に象徴されるように、あらゆる法(dharma)すら究極的には空であるという中観的洞察とも響き合うものである。このように、依詮観と廃詮観は一見すると矛盾する立場に見えるが、実際には相補的関係にある。前者は修行の階梯における導きの役割を強調し、後者は到達点としての言語超越を説くものである。依詮の立場においては教学と論理が重んじられ、体系的な唯識学が展開されるのに対し、廃詮の立場においては、いかなる体系もまた「識の所変」に過ぎず、最終的には沈黙と直観の境地へと開かれていく。ゆえに唯識における真の智慧とは、この両者の緊張関係を内包しながら、方便としての言語と、真実の不可説性との間を往還し続ける動的な意識の働きそのものに見出されるのである。これら2つの観法は大変興味深く、それについての言及のある良遍の漢文文献を註釈していきたいと思う。日々少しずつ新たな発見をし、発見を真理への方便としながら、発見そのものを手放していく。フローニンゲン:2025/6/14(土)07:30
16825. 今朝方の夢
今朝方の夢として覚えているのは、見慣れない旅館に大学時代のゼミのメンバーと宿泊していたことである。ちょうど昼食を摂り終え、メンバーの数人と取り掛かっていた英語の課題の進捗についての話となった。私がリーダーとしてその課題の最終的な取りまとめをしており、自分が最初の章を担当し、残りの4人にそれぞれの章を担当してもらっていた。課題レポートの分量は英語で15ページほどであり、ちょうど自分は3ページぐらい執筆していて、それくらいの分量を目安にしてもらうと良いかと思った。事前に課題を出した女性の教授に確認したところ、自分のパートでは英語だけではなく、漢文も混じっていて、漢文を翻訳し、それを解説するという註釈形式を取っていた。教授はどうやら英語も漢文も堪能らしく、大丈夫だと言ってくれた。それぞれのメンバーから書き終えたドラフトを見せてもらったところ、その杜撰さに驚いてしまった。彼らは能力的に高いはずで、英語を執筆することもそれほど苦労なくできるはずなのに、なぜこのような質のドラフト何か気になった。私は幾分怒りの感情を持ちながら、彼らに叱咤した。それは単に怒りの感情を吐き出すというよりも、彼らを激励する意味があった。そこでふと、彼らがなぜこのような質のドラフトを書いて来たのかと考えてみると、彼らに渡したクリアファイルの中に、自分がメモ書きとして手書きで書いていた1枚の用紙があり、彼らはそれを基準にしてドラフトを書いたのだと思った。そう思うと、余計なメモを渡してしまった自分にも非があると思い、幾分反省した。彼らには、正式に自分が執筆したドラフトを見せることにした。ちょうどゼミのある友人がメモリースティックを持っていて、そこに自分のドラフトを保存してくれいたので、彼から全員にデータを転送してもらい、同時に私は取り急ぎドラフトをプリントアウトして来て、彼らに手渡すことにした。正式なドラフトのデータと紙の現物を見せれば、彼らもどれくらいの質が要求されているのかの基準がわかり、きっと期待に応えくれるだろうと思った。締切は来週の月曜なので、日曜日に自分が全て取りまとめ、編集するとして、土曜日までに彼らからドラフトをもらうことにした。その約束をしたところで、宴会会場に多くの人が集まり、ゼミの先生や先輩たちもやってきて、自分たちが執筆した論文レポートの発表をすることになった。他のメンバーは発表できるような状態ではなかったので、自分の方で今回のレポートの問題意識や背景を説明し、どのような内容のものなのかを解説することにした。自分が話をする姿はとても堂々としていて、的確に言葉を紡ぎ出しているのが印象的だった。もう1つ微かに覚えている夢の場面として、動物か恐竜の子供が成長していく姿を見守っている場面があったように思う。結局それは人間の子供ということがわかり、その子が立派な大人に成長していく姿を見守っている自分の心はとても温かく、喜びに満ちていた。フローニンゲン:2025/6/14(土)07:43
16826. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、2つの主要な場面を中心に据えながら、自己発展の異なる位相を連鎖的に映し出す構造を持っているとChatGPTは指摘する。第一の場面は、見慣れぬ旅館という一時的かつ外部と隔絶された空間で展開する大学の課題進行であり、第二の場面は、原初的な動物の子が人間の子へと進化し成長していく過程を静かに見守る情景である。両者を貫く軸は「成熟への導き」であり、それは知的営為の完成と生命の成長という、表裏一体のテーマとして統合されている。旅館は「仮の宿」としての潜在意識の内奥を示し、日常の時間軸から切り離された“臨界空間”として機能している。そこに招集されたゼミ仲間たちは、自分の内部に潜む多様な側面――批判精神、創造力、実務能力、感受性――を擬人化した存在である。大学時代という設定は、知的アイデンティティが形成された原点への回帰を示し、そこでリーダーシップを担う自分の姿は、現在の自己が当時の資質を総括し再編成しようとしていることを暗示している。課題が英語と漢文の併用である点は、西洋的論理と東洋的象徴思考という二系統の精神文化を統合せんとする深層の欲求を示す。翻訳と註釈という形式は、外部世界の情報を取り込みつつ内的文脈へ置き換え、さらに解説として再外化する「往還運動」の象徴である。この運動を統括する教授は、自我の背後に立つ賢者的アニマ像であり、言語の壁を軽々と越える彼女の姿は、分断を超えた全人性への信頼を保証している。ところが仲間たちのドラフトは杜撰であった。これは、自身が認めるべき未熟なインナーパーソナリティが、まだ思考と言語化の洗練に至っていないことを映す。怒りに似た叱咤は、怠惰な側面への健全な張力であると同時に、彼らを奮起させたいという育成衝動でもある。自分が誤って渡した手書きメモが誤導の原因であったと気づく場面には、「指示系の曖昧さが成果の質を左右する」という自己省察が示され、リーダーとしての成熟が一段深まる契機が刻まれている。メモリースティックに保存された正式ドラフトの共有と、紙へのプリントアウトは、抽象的アイデアを具体的成果物へ定着させるプロセスを象徴する。締切という時間制約は、潜在的可能性を現実化するためのリズムを与え、土曜日という“安息日の前日”を区切りにした配分は、完成前の静かな熟成期間を確保する意図の現れである。続く宴会会場は、自他の視線が交錯する公的舞台であり、そこに集う先生や先輩たちは、過去から未来へと連なる学知の系譜を示す。仲間が準備不足のままに立たされる一方、自分が堂々と問題意識と背景を説明する光景は、「集団を代表しつつ個として突出する」という葛藤を含みながらも、統率力と表現力の成熟を告げている。スピーチが的確に流れ出る手応えは、内的秩序の構築が外的コミュニケーションへ滑らかに接続された証左である。そして第二の場面――動物あるいは恐竜の幼子が人間の子として成長するイメージ――は、原初的衝動(本能的生命)が文化的自我へと進化していく長大な時間軸を圧縮した寓話である。自分が温かく喜びを覚えるのは、自己の中の未分化な部分が言語的·倫理的主体へ統合されつつあるプロセスを確信するからであり、その感覚は第一の場面で示された知的統合の努力と鏡像的に呼応している。総じてこの夢は、知と生命、個と集団、東と西、原始と文明といった二項を横断しながら、それらを包含するより高い秩序を希求する精神の動きを示しているとChatGPTは述べる。リーダーとしての苛烈さと育成者としての慈愛、精緻な構想と暫定的な混沌、過去への回帰と未来への眼差し――その全てが宿泊という一時的停泊点で交差し、やがて旅立ちの朝を迎える準備として結晶しているのである。夢の終わりに射す温もりは、未完のプロジェクトがいずれ豊かな収穫となって帰還するという、深層からの確信の灯火である。フローニンゲン:2025/6/14(土)08:06
Today’s Letter
Why does consciousness exist? It is probably because the universe requires it to exist. Consciousness exists so that the universe can evolve. Consciousness cannot be an illusion; it is the fundamental and essential nature of the universe. Perhaps consciousness is like the life of the universe. Groningen, 06/14/2025
Comments