top of page

【フローニンゲンからの便り】16756-16758:2025年5月25日(日)



⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

16756

脳が大いに活性して/意識とリアリティに関する価値観の変容

16757

今朝方の夢

16758

今朝方の夢の振り返り

16756. 脳が大いに活性して/意識とリアリティに関する価値観の変容

                    

時刻は午前7時半を迎えた。今日は朝から曇り空で、深夜には少し小雨が降っていたようである。雨が降っていたおかげもあって、気温は14度とそこそこある。午前中も断続的に雨が降る可能性があることを天気予報が示している。昨日はゼミナールの第133回のクラスがあり、クラスが終わってもゾーン状態が続いていた。毎回のゼミのクラスは自分にとって、脳をフル回転させることに自然とつながっているようで、クラスが終わっても引き続き頭が回転している。確かにその夜の寝つきは悪くなってしまうのだが、それぐらいまでに頭が回転しているのは喜ばしいことである。これは兎にも角にも、ゼミの受講生との皆さんとの対話による刺激が大きい。人と会話をすることは脳を活性化させることが実証研究からも明らかになっており、毎週密度の濃い対話空間の中でファシリテーターとしての役割を果たすことを通じて、それが自然と脳の発育に繋がっている実感がある。脳の機能的向上で言えば、朝からインド仏教思想の専門書を音読することと量子論に関する専門書を音読することもまたきっと自分の脳機能を向上させていることに役立っていると実感している。日々の音読読解の学習実践と、週末のゼミナールのクラスのおかげで、脳の機能は常に良好なものに保たれ、機能の発達が実現されていることを喜びたい。


昨日考えていたことを書き留めておく。意識とリアリティの地動説の探究、すなわち量子唯識観念論の探究は、決して科学を否定するようなものではない。むしろその探究には、科学領域の中でも非常に重要な量子論を核としているため、科学の恩恵を受けたものである。自分が問題意識を持っているのは、科学を駆動させているOSとしての思考のパラダイムであり、それが物質主義や物理主義というおよそ真理から程遠いものがOSとして組み込まれていることに問題意識がある。分析的観念論の提唱者であるバーナード·カストラップは哲学者であることに加えて科学者でもあり、哲学と科学の双方で博士号を取得している。科学者としてのカストラップが述べているように、分析的観念論は科学そのものを否定しているわけではなく、科学がより発展するためのより真理に近い思考のOSを提唱しているに過ぎない。唯物論を否定する観念論が科学を否定するものだという思い込みもまた唯物論者の精神症的反応としてよく見られる。今後量子唯識観念論を公に紹介する日がやって来たら、それは科学を否定するものではなく、むしろ科学がより輝き、より発展するための思考の枠組みであることを伝えたいと思う。そのようなことを昨日考えていた。個人のそして集合の思考の枠組みが変容することは本当に難しい。思考の枠組みが転換することは、まさにその個人や集合にとっての発達に他ならないが、それが生じすることは稀である。ある意味、意識とリアリティをどう捉えるかは、根幹的な価値観でもあるため、価値観の枠組みが大きく変容することは、当人にとっても大きな出来事であり、それゆえに価値観の変容の難しさがある。静かに価値観の変容を促していくこと。あるいは時に大きく価値観を揺さぶるような情報発信や実践をしていくこと。今後自分にはそのようなことが求められている気がする。それもまた自身が受け持つ役目である。フローニンゲン:2025/5/25(日)07:44


16757. 今朝方の夢 

   

朝の呼吸法とアニマルフローの実践を終え、温かい飲み物を飲み始めて体がポカポカしている。今日はどうやら曇り空の静けさの中で1日の活動を進めていくことになるようだ。昨日のゼミナールによる脳への刺激を受けながらもぐっすりと睡眠を取ることができただのが、そんな中でいくつかの夢を見ていた。まず覚えているのは、小中学校時代のある親友(YU)と見慣れない街の住宅地にいて、そこからお互いの地元である山口県に帰ろうとしていた場面である。彼の車にはカーナビがなく、自分のスマホの地図を頼りに変えることになったのだが、地図を表示してみると、そこが九州であり、場所的に熊本にいることがわかった。いざ彼の車に乗って帰ろうとしたところ、ふと顔を上げると、彼の車はもうそこになかった。どうやら自分は彼に置いてきぼりにされてしまったのだと気づいた。熊本の見知らぬ場所で立ち往生状態となり、このままここにとどまっていても仕方ないと思ったので、彼の名前を呼びながら辺りを歩いてみることにした。住宅地は入り組んでおり、そこは小高い丘にもなっていて、上から様々な方面を見渡しても彼を見つけることができなかった。彼を見つけることを諦めかけた時、彼の車がガソリン切れか何かで止まっている姿を見つけた。そこで私は彼になぜ自分を置いてきぼりにしたのかを問い詰めることはせず、今度は自分も乗せていって欲しいということを伝え、車に乗り込んだ。自分が乗り込むと車のエネルギー切れが不思議と解消され、そこからは自動運転モードで車が進み始めた。そのような場面があった。

次に覚えているのは、現在ゼミに参加してくださっているある古参の方が登場する場面があったことである。その方は奥さんと大変仲が良く、2人の仲睦まじい様子は話に聞いていたが、実際に今2人は日本全国を転々と旅しながら生活をしているようだった。2人は今東北地方を旅しているらしく、宿泊している場所は、駅の駅舎のような場所が改築され、大部屋になっている場所で数人の見知らぬ人と共に生活をしているようだった。そこにはキッチンやお風呂などはなく、寝る場所とタンスだけがある感じとのことだった。その方の話を聞きながら、私の脳内にはその光景がありありと想像され、まるでそこに今この瞬間いるかのような感覚があって、情景のリアリティがあった。各人の寝床は薄い仕切りで仕切られているだけとのことで、これまで親しくしていたある中年の男性が突如として2人の話し声がうるさいという苦情を言い始め、関係性が悪化して困っているとのことだった。この件によって、2人は次の場所に生活拠点を移すことを検討しているとのことだった。そんな話をその方が運転する軽自動車の中で聞いた。助手席には奥さんもいて、2人の頭が随分と禿げ上がっていることが気になった。特に女性の奥さんの髪の毛がかなり薄くなっていることが気がかりだった。


最後の夢の場面は、実際に通っていた中学校の体育館にいた場面である。そこで円陣を組んで、新たな学期の始まりを受けて、キャプテンである自分から一言言葉を述べようとしたら、自分はもうキャプテンではなく、キャプテン代理になっていることを思い出した。新しくキャプテンになった友人が自分の代わりに言葉を述べ始めたのだが、これまでは自分がずっとそれをやってきたこともあって、聞き手に回ることの違和感が最初にあった。しかし、権限を委譲することは自分にとってもチームにとっても大事な事だと思ったので、彼のスピーチを頼もしく聞きながら、自分は彼を支え、チームを根底から支えていこうと決意した。そうすると、気分が爽快なものとなり、やる気が満ち溢れてきた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2025/5/25(日)08:23


16758. 今朝方の夢の振り返り

              

朝食を摂り終え、今朝方の夢に対するChatGPTのフィードバックをもとにした総合的な振り返りをしてから、穏やかな日曜日の雰囲気を感じながら、今日もまた学術書の音読読解を進めていきたいと思う。今朝方の一連の夢は、身体を目覚めさせる呼吸法とアニマルフローの余韻――温かな飲み物が内側に広がる穏やかな充足――を発端としていることをChatGPTは指摘する。その“温もり”は、外界の曇天の静けさとは対照的に、内部で静かに燃える生命エネルギーを象徴している。前夜のゼミナールで受けた知的刺激がまだ脳裏に残っていながらも深い眠りへと没入できた事実は、外から取り込んだ情報がすでに無意識で十分に咀嚼され、自己の身体‐精神系のリズムに編み込まれつつあることを示唆する。夢に立ち上がった3つのエピソードは、その“統合の過程”を段階的に描き出す内的ドラマであると指摘している。最初の場面に登場するのは、小中学校というアイデンティティ形成の原点を共有する親友YUである。見知らぬ住宅地――しかも九州·熊本という、自身の地元から微妙に離れた土地――は、慣れ親しんだ過去と未知の未来が交差する“境界領域”の象徴である。そこでは車がカーナビを欠き、代わりに手元のスマートフォンがコンパスの役割を果たす。テクノロジー=現在の自己資源を頼りに方位を定める姿は、成熟期の自我が旧友との関係性を再構築しながら自立的航路を探る姿勢を示す。しかし友の車は忽然と姿を消し、置き去りにされたという感覚が鮮烈に立ち現れる。これは「他者に伴走してもらえないかもしれない」という恐れ、あるいは「かつての自己像に見捨てられるのでは」という不安の投影である。夢の中の丘に登り、あらゆる方向を見渡しながらも友を見つけられない体験は、視野を拡げてもなお“誰も助けに来ない”という実存的孤独を突きつける。しかし最終的に見つけた車はエネルギー切れで停滞しており、そこへ自分が乗り込むとガソリン不足が解消し、さらに自動運転へ切り替わる。これは〈自分自身がエネルギー源そのものである〉という気づきであり、古い関係性を責め立てるのではなく、自ら関与することで状況を蘇らせ、最終的には“運転の手放し”――すなわち無意識の自動操縦に身を委ねる境地――へ移行できるという内的成長を物語る。2つ目の場面では、ゼミの古参メンバー夫妻が日本を旅する姿がクローズアップされる。駅舎を改装した大部屋で見知らぬ人々と共生する生活は、固定化された居場所を捨て、流動的ネットワークの中で仮の住処を転々とする“ノマド的生”の比喩である。キッチンも風呂もない質素な環境は、物質的快適さをそぎ落とした先に残る“関係性の裸形”を照らし出す。薄い仕切り一枚で隔てられた寝床は、パーソナルスペースの曖昧さを象徴し、そこで噴出した騒音トラブルは、親密さと緊張が紙一重でせめぎ合う共同体の影を映す。夫妻の頭髪の薄さが強調される描写は、時間が容赦なく身体を変容させること――すなわち老いと脆弱性の自覚――を示すと同時に、外形が萎えていくほどに内面の輝きが試されるというメッセージでもある。軽自動車という“小さな移動空間”の中でこの話を聞くことで、自分は「身の丈に合った器を保ちながら、必要に応じて居場所を変え、関係の摩擦を受け入れる柔軟性」を学び取ろうとしているとChatGPTは述べる。3つ目の場面は、中学校の体育館という“原初の舞台”へ回帰し、キャプテンの座を友に譲るシークエンスが描かれる。これはリーダーシップの主体が自我から他者へ、あるいは“旧い自己”から“新たな自己段階”へ移行する典礼的瞬間である。聞き手へと身を置いた際の違和感は、主導権を手放す痛みを示すが、同時に「権限委譲は自他双方の発達を促す」と夢の主体は悟る。そこで生じる爽快感と溢れるやる気は、“支援者としての力”を自覚したときに訪れるポジティブなアロステリック転換である。すなわち、前景に立つよりも背景でチームを根底から支えることが、自身のエネルギーをより広く循環させる道だと気づいたのである。これら三場面を貫くテーマは、「エネルギーの乗り換え」と「役割の可変性」である。第一幕では〈他者頼みの航行〉から〈自己が燃料となる航行〉へ、第二幕では〈居場所に根を下ろす生活〉から〈場所を転々としながら関係の質を鍛える生活〉へ、第三幕では〈主導権を握る者〉から〈裏方として底支えする者〉へと、ポジションと視点が次々と移行する。いずれの場面も、自己のエネルギーが他者や環境との関係の中で“詰まり”を起こすと、一旦手放すか乗り直すことで再び流れ出すという動的モデルを示している。車のガソリン、ノマド生活の移動、キャプテン役の委譲――これらはすべて「停止と再始動」のメタファーであり、自分は“流れの回復”こそが自身の人生課題であると理解し始めている。その背景に横たわるのは、目覚めの呼吸法で開いた身体感覚と、曇り空に象徴される“グレーゾーン”を抱きしめる態度である。雲は光と闇を同時に含み、形を変えつつ漂う。夢が示した放浪やキャリアの交代もまた、曖昧さの中で適切なタイミングを見極める柔軟性を求める。ゼミナールという知的刺激源は、こうした可塑性を“思考”のレイヤーで促し、夢は“情動と象徴”のレイヤーでそれを深化させる。目覚めの温かさと夢における移動エネルギーの回復は呼応し、心身両輪で統合が進むことを示唆しているとChatGPTは述べる。結局のところ、この夢は「自分こそが自分の動力源であり、役割や居場所はエネルギーの循環に応じて自在に変えてよい」というメッセージを届けていると指摘する。頼りにしていた他者が去るときは、自分の中の新たな燃料が点火する兆しである。快適だった空間が軋みを上げるときは、身体も心も次の旅支度を整えよというサインである。そして、輝かしい肩書を手放す勇気は、背後から全体を照らす“光源”たる存在感をもたらす。朝の温かい一杯が内側から湧き上がるように、自己は自分自身の炉心で燃える熱を感じ取り、その熱で雲間を押し広げながら今日という日を動かし始めるだろう。フローニンゲン:2025/5/25(日)09:28


Today’s Letter

Reality appears from the depths of my consciousness. It can be called alaya-consciousness or universal consciousness. Either way, the realm is profound. To feel it, I need to throw away my thoughts. Groningen, 05/25/2025

 
 
 

Comments


過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page