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【フローニンゲンからの便り】15136-15181:2025年3月21日(金)(その2)



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タイトル一覧

15136

今朝方の夢

15137

今朝方の夢の続き

15138

今朝方の夢の解釈(その1)

15139

今朝方の夢の解釈(その2)

15140

論文「なぜ私たちなのか:人間中心的な芝生への侵入(パートI)」

15141

論文「量子系における自己観察:意識と量子力学の統一理論に向けて」

15142

論文「古典的神経生理学から量子的同期へ:意識の理解と真の人工的合成心の創造に向けた新たな道」

15143

論文「量子の最前線を超えて:人間の意識のデジタル化に関する理論的考察」

15144

論文「神経ネットワークにおける量子コヒーレンスから意識が出現するための数学的モデル」

15145

論文「心の哲学における自然主義の諸相」

15146

論文「マインド・ワンダリングの哲学」

15147

論文「心の哲学における超心理学の歴史的展開と独自の意義」

15148

論文「改革派的心の哲学の再構成:ハーマン・バーフィンクの折衷的調和主義とネオ・アリストテレス主義への架け橋」

15149

論文「仏教認識論と西洋科学哲学:人類の現状への応答としての統合的展望に向けて」

15150

論文「五大元素のダイナミクスの身体化:Body-Mind Centering®とチベット仏教哲学との実践的対話」

15151

論文「仏教哲学がグローバル社会に与える影響」

15152

論文「心:社会学的視点と仏教的視点の比較」

15153

論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の序論(その1)

15154

論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の序論(その2)

15155

論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の第2章

15156

論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の第3章(その1)

15157

論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の第3章(その2)

15158

論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の第3章(その3)

15159

論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の第4章(その1)

15160

論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の第4章(その2)

15161

論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の第4章(その3)

15162

論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の第5章

15163

論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の第6章

15164

論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の第7章

15165

論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の付録A

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論文「分析的観念論:意識のみの存在論」の付録B

15167

論文「なぜ私たちなのか:人間中心的な芝生への侵入(パートI)」(その1)

15168

論文「なぜ私たちなのか:人間中心的な芝生への侵入(パートI)」(その2)

15169

論文「なぜ私たちなのか:人間中心的な芝生への侵入(パートI)」(その3)

15170

論文「唯物論的進化は偽であり、量子的プラトン的進化こそが真実である」(その1)

15171

論文「唯物論的進化は偽であり、量子的プラトン的進化こそが真実である」(その2)

15172

論文「唯物論的進化は偽であり、量子的プラトン的進化こそが真実である」(その3)

15173

スメザムの「量子的プラトン進化」の発想と仏教的見解との比較

15174

『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その1)

15175

『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その2)

15176

『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その3)

15177

『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その4)

15178

『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その5)

15179

『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その6)

15180

『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その7)

15181

『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その8)

15167. 論文「なぜ私たちなのか:人間中心的な芝生への侵入(パートI)」(その1)

  

多様な論文を読むことを一旦離れ、先ほどまで行っていたように、今度はグラハム·スメザムの論文も丁寧に翻訳していくような形で1つの論文とじっくり向き合っていくことにする。ここからしばらくは、そのような姿勢で1つ1つの論文を読んでいく。今朝方概要を掴んだ"Why Us- Trespassing on an Anthropic Lawn (Part I)”という論文を丁寧に読んでいく。この論文は、『アインシュタインの芝生を踏み越えて:父と娘、「無」と「すべての始まり」の意味』というアマンダ·ゲフターによる物質主義的で形而上学的に誤った科学ジャーナリズムの作品に対する思慮深い批判である。ゲフターは『New Scientist』の書評編集者であり、観測者がある種の仕方で現実を創造するとは述べつつも、その過程には「意識」は関与していないと主張している。彼女の主張は誤りであり、彼女が取り上げたさまざまな量子形而上学的視点は、意識を根源的なものと見なさなければならないことを示しているとスメザムは述べる。「問いとは何か?」のセクションでは、下記のいくつかの引用がまず示される「それはすべて幻か?現実は錯覚なのか?宇宙の仕組みの枠組みとは何か?ダーウィンのパズル:自然選択とは?時空はどこから来たのか?意識から来た以外に答えはあるか?」 ジョン·ホイーラー。「ホイーラーは意識を観測者の基準と考えているが、それは明らかにナンセンス。意識は脳内の物理的プロセスにすぎず、魔法ではない」 アマンダ·ゲフター。「意識の本質とは、生物による量子現実の特別な知覚の一形態と解釈され得る」 ミハイル·メンスキー。「私は意識を根本的なものと見なしている。私は物質を、意識に由来する派生的なものと考えている」 マックス·プランク。アマンダ·ゲフターによる『アインシュタインの芝生を踏み越えて』という近著は、いくつかの熱狂的な書評で迎えられた。ある書評者はこう評する。「美しく書かれており、非常に面白いこの本は、現代物理学の多くの驚くべき理論への心からの入門書である」。彼女が物理学者たちとの会話を通して得た、現代物理学の形而上学的結論に関する描写や説明は、巧みに書かれており、興味深く、そして娯楽的である。しかし物理学者ピーター·ウォイトは、この本を「読む手が止まらないほど面白い」と評しつつも、以下のような深刻な懸念も示している。「この本には問題がある。特に若く影響を受けやすい読者には勧めづらい。ゲフターが魅了されている物理学の一部は、通常の科学の枠を大きく超えてしまっている。提示される疑問や答えは非常にあいまいで、本書の意義は、物理学が一時的に道を見失った時代の過剰な物語になるか、あるいは偉大な科学が終焉を迎えた悲劇の記録となるか、未来が判断するだろう」。この批判の中でウォイトは、「本来の科学」と「そこから導かれる形而上学的結論」の間の不安定な関係に問題の本質があると示唆している。ジム·バゴットも同様の懸念から『さようならリアリティ:おとぎ話のような物理学が科学的真理探求を裏切る方法』という本で、次のように述べている。「私は、理論物理学者たちの一部が科学的方法を放棄し、物理的現実の本質に関する科学的真理の探求を裏切っていると告発する」。バゴットは「おとぎ話のような物理学」の例として、超対称性、超ひも理論、多世界解釈、ホログラフィック原理などを挙げており、これらはゲフターも魅力的に取り上げている対象である。「アントロピック·プリンシプルとその批判」のセクションでは、バゴットは、アントロピック·プリンシプル(人間存在に適した宇宙のあり方を説明しようとする原理)を否定するが、それは科学的な証拠に基づくものではなく、「コペルニクス的原理(宇宙において私たちは特別ではない)」という信念に基づいているとスメザムは指摘する。このような姿勢に対して、スメザムは以下のように批判する。コペルニクス的原理は、単なる「前提」に過ぎず、観測や実験の証拠によって支持されているわけではない。むしろ、量子物理学は「観測者(=意識)の関与なしには宇宙が成り立たない」という証拠を数多く提供しており、これは「意識の中心性」を示す。ホイーラーやゼーリンガーのような物理学者は、まさにこの「意識が宇宙を構成する」ことの重要性を強調している。「宇宙の微調整と「超知性」」のセクションを次に見ていく。宇宙の諸定数があまりにも精密に「生命の存在」に適合していることに関して、フレッド·ホイルはこう述べた。「常識的に考えれば、物理学、化学、生物学において、何らかの超知性的存在が干渉してきたと考えるのが自然である。自然の盲目的な力が偶然にここまで微調整される可能性は極めて小さい」。このようなホイルの視点は、いわゆる「神の設計」を思わせるが、必ずしも神学的(theistic)解釈を必要とするわけではない。ホイーラーのように、「全ての時代・場所における観測者たちの行為が、宇宙そのものを形作る」とする自然発生的なモデルも可能であるとスメザムは主張する。フローニンゲン:2025/3/21(金)15:29


15168. 論文「なぜ私たちなのか:人間中心的な芝生への侵入(パートI)」(その2) 

           

次は、「観測者が創る宇宙とその誤解」のセクションを見ていく。ホイーラーが提示したのは、宇宙が観測者たちの集合的な知覚活動によって「自己生成」されるというビジョンであった。彼はこの視点を「自己観測的宇宙」の図として示した。このような視点では、アントロピック·プリンシプル(人間やその他の観測者が宇宙の成立に関与しているという考え方)は、必ずしも「人間中心主義(anthropocentrism)」を意味しないとスメザムは述べる。理論物理学者ブランドン・カーターが1974年に命名したこの用語は、「人間」という語が誤解を招くとしてしばしば批判される。哲学者ニック·ボストロムもこう指摘する。「『アントロピック』という言葉は誤称である。観測効果に関する推論はホモ·サピエンスとは無関係で、むしろ観測者一般に関わる」。また、アントロピック·プリンシプルには「弱い形(Weak Anthropic Principle)」と「強い形(Strong Anthropic Principle)」の2つがある。前者は「私たちが存在しているのだから、私たちの宇宙が生命を可能にする条件を持っているのは当然だ」と述べるのみだが、後者は「宇宙はそもそも生命と意識の存在を可能にするよう本質的に構成されている」と主張する。この「強い」形に対する西洋科学界の強い反発は、「スピリチュアルな意味合いを含むから」である。科学的方法にとって重要なのは、観測や実験から得られた証拠によって結論を導くことであるはずなのに、こうした反発はしばしば感情的、あるいはイデオロギー的であるとスメザムは指摘する。「コペルニクス原理の限界」のセクションでは、ジム·バゴットは、「観測者が特別な役割を果たす」というような構造を持つすべての原理を、科学の名の下に退けるべきだと主張することが紹介される。しかし、スメザムはここで問いかける。「観測と実験から得られた証拠に基づくべきであるという、科学の最も基本的な要件を無視してはいないか?」バゴットの引用として、「コペルニクス原理を完全に覆し、知的観測者(人間であれ他の存在であれ)に特別な地位を認めるような構造は、科学の500年の歴史に逆行するものである」というものを紹介する。これに対して、ブランドン·カーターは次のように述べている。「私たちの状況がどのような意味でも特権的であるはずがないという信念が、潜在的にではなくあからさまに、強固なドグマとして受け入れられてしまっている」。さらに、進化生物学者リチャード·ルウォンティンの言葉は、その偏見の極端な形を示している。彼はこう述べる。「私たちが常識に反する科学的主張を受け入れる理由は、科学と超自然の間の本当の闘争に鍵がある。私たちは、科学がしばしば荒唐無稽な構造を持ち、多くの約束を果たせていないにもかかわらず、科学の側につく。なぜなら、私たちには先験的に物質主義へのコミットメントがあるからだ。神の足がドアの隙間から入り込むことを許してはならないのだ」。スメザムはこのような立場を「科学的証拠に耳を傾けるという科学の要請に明確に反している」と強く批判する。次に、「無視される「設計された宇宙」の可能性」のセクションを見ていく。意識や知性、設計が、生命や宇宙の進化において根本的·本質的な役割を果たしている可能性は、依然として多くの西洋知識人たちによって拒絶されている。スメザムはこの背景に、19世紀から20世紀初頭にかけての政治的·学術的な力があると見ている。それは「反宗教的」立場を強めるために、あらゆる非物質的·非機械的な説明を排除しようとする動きである。その極端な形がリチャード·ドーキンスらによる「物質主義的ダーウィン主義の原理主義」である。彼らは、意識や精神的実在を、証拠に基づかずに拒絶してきた。その影響は、アマンダ·ゲフターの著作にも見られるとスメザムは指摘する。「ゲフターと「意識なき観測者」の矛盾」のセクションを見ていく。ゲフターは量子物理学の示す奇妙なメタフィジカルな現象をある程度理解しつつ、それがもたらす深い意味には踏み込まず、「観測者とは意識のない視点のことだ」と主張する。これは、論理的には破綻している。なぜなら「視点(point of view)」とは、必然的に「体験されるもの」でなければならず、そこには意識が必要だからであるとスメザムは述べる。それでもゲフターは、次のように断言する。「ホイーラーは、意識が観測者の基準だと考えているが、それは明らかにナンセンスだ。意識は脳の中の物理的プロセスに過ぎない」。このような見解は、スメザムによれば「哲学的な無能力」の表れである。自由に浮遊する「視点」などという概念は、意識を抜きにしては成り立ち得ないとスメザムは述べる。フローニンゲン:2025/3/21(金)15:39


15169. 論文「なぜ私たちなのか:人間中心的な芝生への侵入(パートI)」(その3)

                

続いて、「観測と宇宙の関係:ホイーラーの逡巡と飛躍」のセクションを見ていく。ホイーラーは1983年の論文「法則なき法(Law Without Law)」において、自身の「遅延選択実験(delayed choice experiment)」を通して、観測が時間を遡って現実を変える可能性を示唆した。そして、以下のような詩的な表現でこの現象を語った。「私たちは、起こっていることの創出に不可避的に関与している」「量子によって私たちに突きつけられた『観測者参加』の奇妙な性質に注目する研究者が増えている」「日常的な状況では、世界は『私たちとは独立して』存在していると言いたくなるが、その見方はもはや支持できない。世界は『参加型宇宙』なのである」。しかし一方で、ホイーラーは同じ論文で次のようにも述べている。「注意が必要だ。『意識』は量子的プロセスとは無関係である。量子過程は、増幅による不可逆的な記録、つまり『登録行為』によって知覚可能になる出来事である」。この「意識とは無関係」という警告は、果たして実験的な証拠に裏打ちされたものなのか?スメザムは、そうではないと指摘する。ホイーラーがこのような発言をしたのは、おそらく当時のアカデミズムにおいて意識と量子論を結びつけることが「非科学的」とされていたためであろうと述べる。「物理学界の抑圧と周縁の動き」のセクションでは、1950年代以降のアメリカ物理学界では、「量子の意味」を哲学的に探究することは歓迎されず、むしろ、「黙って計算しろ(shut up and calculate)」という実用主義的風潮が支配的であったことが語られる。しかし1970年代、サンフランシスコで結成されたファンダメンタル·フィジクス·グループ(Fundamental Fysiks Group)のような一部の物理学者たちは、量子論と意識、さらには超常現象との関連に関心を持ち始めた。彼らの活動は主流ではなかったが、量子力学がもたらす形而上学的意味への再注目を促した。ホイーラーは当時、このような「周縁」の研究者たちとの距離を保ったが、晩年には「観測と意識の関係」についてより積極的な見解を示すようになる。「盲目的な突然変異と自然選択が、意識や観測者性へと至らなければ、そもそも宇宙は存在できなかっただろう」。このように、彼の晩年の見解は、意識が宇宙の存在条件として必要だという立場に接近していたとスメザムは述べる。「自己観測的宇宙と仏教的形而上学」のセクションでは、ホイーラーは、宇宙を「自己励起回路(self-excited circuit)」と表現した。これは図1で表される。ビッグバンから宇宙が拡大し、冷却され、時間と共に観測者が出現する。そして、観測者の行為によって、宇宙に「現実性」が付与される(過去に遡っても)。この視点を説明するため、ホイーラーと親しいキップ·ソーンは次のように述べる。「ある観点から見れば、観測されることによってのみ系は古典的になり得る。つまり、観測されるまでは量子的に振る舞い、観測によって波動関数が収縮する。この観測は宇宙内から、すなわち生物から行われる。したがって宇宙は自己励起的である」。この仕組みは、仏教の「アラヤ識(阿頼耶識)」や「法界(dharmadhatu)」のような、根源的な普遍意識が自らを観照するという発想と驚くほど一致する。スメザムはこのような仏教的視点を以下のように説明する。「空」や「法界」は、完全な可能性と認識能力を兼ね備えた場である。この「場」が自己を認識することが「悟り(ブッダフッド)」である。「悟りと宇宙の自己認識」のセクションでは、仏教における悟り(enlightenment)とは、根源的な認識機能を持つ空(shunyata)が、自らの本質を直接的・非概念的に認識することであると述べられる。チベット仏教ゾクチェンのテキスト『自然な心の驚異(Wonders of the Natural Mind)』ではこう述べられている。「空が空自身を理解する、つまり空の『明晰性(clarity)』によって自己認識がなされる」。このような理解は、現代物理学における「自己説明的宇宙(self-explaining universe)」という考えとも共鳴するとスメザムは指摘する。ポール・デイヴィスはこう述べている。「生命と心(mind)は、宇宙論における基本的現象であり、量子力学における観測行為がそれを示している。観測には目的論的な構造が含まれている」。つまり、宇宙には「自己を理解しようとする傾向=目的」が内在しており、それが生命と意識の誕生を必然的に導くというのである。このような視点に立てば、意識の進化の最終到達点は、自己の本質を完全に認識する「悟り」となる。そしてこの視点は、仏教のみならず、神学者テイヤール・ド・シャルダンの提唱した「オメガ・ポイント(Omega Point)」にも共鳴する。テイヤールは、宇宙の進化は意識へと向かい、最終的に「自己反省する宇宙的意識」に至ると主張した。「進化とは意識へと至る上昇であり、それは最終的に、意識の最高形態に達する。真の『オメガ』であるならば、それは自己認識の完成である」。この「宇宙が自らを理解する」という最終像は、ゾクチェンの以下の詩句とも呼応する。「三界のすべての存在たちよ、よく聞け。お前たちは私(宇宙の創造性)によってつくられた。私とお前たちは分かたれぬ。私はお前たちに現れる」。フローニンゲン:2025/3/21(金)15:51


15170. 論文「唯物論的進化は偽であり、量子的プラトン的進化こそが真実である」(その1)

               

次はグラハム·スメザムの“Why Materialists’ Evolution Is False & Quantum Platonic Evolution Is True(唯物論的進化は偽であり、量子的プラトン的進化こそが真実である)”という論文を丁寧に読み進めたい。コインは熱心な唯物論者であり、彼の進化論は唯物論的である。このため、彼は観測とは無関係に存在する物質的世界の存在を主張しなければならない。また彼は、「局所的現実」——すなわち、アインシュタインが「不気味な作用」と呼んだような遠く離れた現実の要素同士の即時的なつながりが存在しない現実——を信じる必要がある。だが、量子理論の核心的発見である「エンタングルメント(量子的もつれ)」によって、これらの主張はいずれも偽であることが明らかとなったとスメザムは述べる。進化のプロセスにおいて、「隠れた」量子的レベルで新たな形態が形成される可能性がある。量子領域は非局所的な情報へのアクセスや「先読み」アルゴリズムのような仕組みを持つため、未来の環境の性質を予測的に感じ取り、進化する生命体の量子的テンプレートを事前に準備することが可能となる。これが「量子的プラトン的進化」の視点であるとスメザムは述べる。「序論:唯物論的ダーウィン主義への批判」のセクションでは、ジェリー·コインの2009年の著作“Why Evolution is True(以下WET)”は、新ダーウィン主義、あるいは「超ダーウィン主義」とも呼ばれる立場の学者たちから喝采を浴びた。リチャード·ドーキンスは以下のように絶賛している。「私はかつて、進化を信じない者は愚かか狂っているか無知であると書いた。そして私は当時、『無知であることは罪ではない』と注意深く付け加えた。今やその見解を更新すべきだ。進化を信じない者は愚かか狂っているか、ジェリー·コインを読んでいない者である」。スティーブン·ピンカーもこう述べている。「進化は『真実』であると生物学者たちが自信を持って言うのは、専門家がそう言っているからでも、ある世界観がそれを要求するからでもない。圧倒的な証拠がそれを支持しているからだ」。「唯物論的·無心的ダーウィン主義(Materialist Ultra-Darwinist)批判の概要」のセクションでは、スメザムは、「唯物論的・無心的ダーウィン主義(Materialist Ultra-Darwinist:MUD)」という略称を用いて、唯物論的ダーウィン主義者たちを批判している。MUDたちは、次のような論法を用いるという。「インテリジェント·デザイン(ID)」のような合理的議論を、若い地球創造論のような極端な信仰と同一視し、全てを「非科学」と断じる。「神のような存在による創造」という宗教的含意を持ち込まない限り、物質主義以外の視点を否定する。Wikipediaによれば、若い地球創造論とは、地球と宇宙が約5,700~10,000年前にアブラハム系神によって6日間で創造されたと信じる宗教的立場である。スメザムは、IDはこれとは全く異なると強調する。IDとは、「宇宙や生命体の特定の特徴は、無目的な自然選択ではなく、知性ある原因によって最もよく説明されるという理論」である。「スメザムの立場:心的本質と量子的進化」のセクションでは、スメザム自身は、次のように主張する。「一貫したID的立場は、現象的な物質世界がより深い心的本質を持つ現実過程から派生していると見るべきである」。彼は、物質が根本的な実在だという唯物論的立場は、量子物理学の発見により否定されていると述べる。量子物理学者ヘンリー·スタップの言葉を引用しつつ、唯物論はすでに「偽であることが分かっている(known-to-be-false)」とまで断言する。「コインの「自然選択」の定義とその批判」のセクションでは、コインは進化を次のように説明していることが語られる。「自然選択は、創造や超自然的な力による導きなしに、純粋に物質的なプロセスによって自然界の見かけ上の設計を説明する」。この主張は、「物質的説明ができなければ、それは超自然的でなければならない」という二項対立に基づいており、スメザムはこれを非論理的と指摘する。コインの進化の説明は極めて単純である。遺伝的に異なる個体が生まれ、一部の遺伝子は環境への適応に有利であり、その遺伝子を持つ個体がより多く生き残る。世代を重ねると、種全体が環境に適応していく。このような説明は「子供でもわかる」ように設計されているが、スメザムはそれゆえに「子供じみている」と批判する。「「ランダム変異」と「環境」との無関係性への疑義」のセクションを見ていく。唯物論的立場では、遺伝子は他の遺伝子や環境とは独立しており、「変異」も完全にランダムとされる。そこには「未来の環境」を予測したり「つながり」を持ったりする仕組みはない。しかし、量子物理学の視点からは、量子的な「先読み」効果(quantum look-ahead)、非局所的情報の伝達(量子的エンタングルメント)、深層レベルでの現象間の結びつきといった可能性が示唆されており、進化においても「未来環境への予期的適応」という構図が成り立つ余地があるとスメザムは述べる。フローニンゲン:2025/3/21(金)16:11


15171. 論文「唯物論的進化は偽であり、量子的プラトン的進化こそが真実である」(その2)

             

次は、「「物質」は実在ではない:量子物理学の証言」のセクションを見ていく。スメザムは、量子物理学が明らかにした「物質」の実態について、複数の著名な物理学者の見解を紹介する。デヴィッド·ボームの洞察:「量子理論を学ぶと、独立して存在し、互いに影響しあう粒子の集合として全体システムを分析するという考え方が、根本的に崩壊することがわかる。粒子たちは、高次元の現実の投影であり、それらの間の相互作用によって説明されることはできない」。このような視点に立つと、「進化が物質的要素の相互作用によってのみ説明される」という主張は根本的に破綻する。ハイゼンベルクの見解(スタップによる要約):「原子は“実際に存在するもの”ではなく、“ある種の出来事が起こるための客観的傾向”である」。「量子的実在 vs. 唯物論的幻想」のセクションを次に見ていく。量子理論が示すのは、「物質」はエネルギーが凝縮したものであり、独立して存在する「実体」ではないということである。この見解は、以下の物理学者によっても共有されている。ロジャー·ペンローズ:「量子理論は物理的現実について驚異的に正確な記述を与えるが、同時に“実在”の本質に深刻な疑問を投げかける」。ブライアン·グリーン:「量子力学は私たちの現実観に正面から挑戦している」。ロバート·オーター:「物理法則は、私たちの知っているような“物質”は存在できないと語っている」。フランク·ウィルチェック:「物質とは見かけにすぎない。普通の物質の質量は、質量を持たない構成要素のエネルギーである」。マックス·プランク:「あらゆる物質は、ある“意識ある知性的な心”に由来する力に依存して存在している」。アインシュタイン:「E=mc² は、物質は凝縮されたエネルギーにすぎないことを示している」。「観測者が現実を創造する」のセクションで、スメザムは重要な主張を展開する。「量子物理学は、意識が現実の出現に関与していることを明らかにしている。つまり、宇宙は“観測者が参加する宇宙(participatory universe)”なのである」。これはジョン·ホイーラーが提唱した概念である。ホイーラーはこう述べている。「宇宙は“そこに客観的に存在する”ものではない。むしろ、観測の行為が宇宙を形作る。観測とは、宇宙に“現実性”を与える行為である」。ここで、スメザムは科学ポッドキャスト“Skeptiko”におけるジェリー·コインとの対話を取り上げる。司会のアレックス·ツァキリスが以下のように問いかける。「最新の量子物理学のデータは、唯物論や決定論、還元主義の基盤を揺るがしているのでは?」それに対してコインの返答は、「量子力学の現象も、還元主義的·唯物論的アプローチによって発見されたものだ。だから、その基盤が問題だとは思わない」というものだった。スメザムの批判として、コインは「唯物論的前提が量子論を発見させたのだから、唯物論は正しい」と言っているが、これは論理的誤謬で、これは「背理法」の基本的誤解であり、前提によって矛盾が導き出されたなら、その前提は誤りであるというのが正しいと述べる。「科学者ミリカンの例:証拠に向き合う姿勢」のセクションでは、スメザムは、ロバート·ミリカン(ノーベル物理学賞受賞者)の態度を引き合いに出す。彼は当初、光の粒子説(量子論)に反対だった。しかし10年かけて実験を行い、最終的には「否応なくアインシュタインの理論が正しいと認めざるを得なかった」と述べている。これを受けてスメザムは、「これこそが科学者の態度である。自分の先入観に固執せず、証拠に誠実に向き合うことが重要である」と述べている。「量子論は常識に反するが正しい」のセクションでは、リチャード·ファインマンの有名な言葉が引用される。「量子電磁力学の理論は、常識の観点からすれば自然が“ばかげている”ように見えるものである。しかし、実験とは完全に一致する。だから、私たちは自然を“ばかげているまま”受け入れなければならない」。これを受けてスメザムは、「“物質”とは、本質的に99.9999999999999%が空であり、量子的には“非実体的”である。それなのに、コインは“物質は堅固なもの”だと信じている。これは無知を通り越して、科学否定に等しい」と結論づける。フローニンゲン:2025/3/21(金)16:21


15172. 論文「唯物論的進化は偽であり、量子的プラトン的進化こそが真実である」(その3)

               

次は、「量子非局所性が暴く唯物論の幻想」のセクションを見ていく。ジェリー·コインは“Skeptiko”のインタビューで、量子物理に関連する「非局所リアリズム(non-local realism)」を扱った2007年のNature論文について問われたが、それを知らず、「進化論とは無関係」と切り捨てた。ツァキリスはこう指摘する。「この論文は、物理的リアリズム(物理系が独立に性質を持つという前提)が量子力学によって根底から否定されることを示している。これは進化論、特に“完全にランダムな突然変異”という仮説に重大な影響を与えるはずだ」。これを受けてスメザムは、「量子的非局所性(エンタングルメント)と“観測”の役割は、進化の基礎モデルそのものを根底から覆す。すなわち、突然変異は環境と無関係に起こるのではなく、深層的·情報的に“結びついている”可能性がある」と強調する。「量子理論が示す「非実在的な過去」」のセクションでは、ホーキングとムロディノウは“The Grand Design”の中で以下のように述べていることが紹介される。「量子力学によれば、観測されていない過去も未来と同じく確定しておらず、可能性のスペクトルとして存在している」「観測者が行う現在の観測行為が、過去をも選択的に“創造”する。宇宙には単一の客観的歴史は存在しない」。つまり、観測行為は“今”だけでなく、“過去”の出来事にも影響を与える。このような非線形的·非決定的な宇宙モデルにおいて、進化とは「意識を介した歴史の選択·構成プロセス」であり、単なる物質的·機械的反応ではないとスメザムは主張する。「すべての進化可能性が「はじめに」存在していた」のセクションを次に見ていく。ホーキングらが提唱する多世界解釈では、宇宙の初期状態において、すべての可能な未来(進化形態を含む)が「波動関数」として存在し、「観測者」はその中から「自らの宇宙=歴史」を選び取っていく。スメザムはこれを「量子的プラトン的進化(Quantum Platonic Evolution)」と名づけ、以下のように述べる。「進化とは、量子的可能性空間から、知性ある観測者が“未来に適合する形態”を選び取り、実現していくプロセスである」。つまり、進化は「自然選択+ランダム変異」だけではなく、意識を通じた量子的選択と適合の過程だというのである。「実証例:脊椎動物の脳の“予告された設計”」のセクションでは、スメザムは、ケンブリッジ大学の古生物学者サイモン·コンウェイ·モリスの研究を引用する。例えば、原始的な動物「アンフィオクサス(ナメクジウオ)」の脳は単純だが、分子レベルではすでに脊椎動物の「三部構造の脳」を予感させるパターンが潜んでいる。「このことは、単純な構造の中に、未来の高次機能の“ひな型”が潜在していることを示唆している」。スメザムによれば、これは量子的·情報的構造が進化を導いている証拠であり、「未来の環境」に応じて進化する設計図が、あらかじめテンプレートとして組み込まれていることを示していると述べる。「量子生物学の萌芽とMUDたちの過剰反応」のセクションを見ていく。ツァキリスは「量子エンタングルメントが生物学的システムにも拡がっている」という研究を示唆するが、スミサムは注意を促す。「現時点での量子生物学の研究は、まだ発展途上であり、証拠を誇張すべきではない。でなければ唯物論者たち(MUD)に揚げ足を取られ、全体の信頼性が損なわれる」とスメザムは述べる。ブログサイト“Pharyngula”などでは、スメザムやツァキリスの主張に対して、冷笑的·侮蔑的な反応が見られるが、スメザムはそうした態度こそが「科学的誠実さ」を損なうものだと訴える。「進化の源泉は「量子的情報場」である」のセクションを見ていく。ホーキングらのモデルによれば、すべての可能な生命形態·歴史·宇宙は、創造の瞬間に量子的可能性場として存在する。「観測者」はその中から適切な歴史を「過去に遡って選ぶ」ことすらできる。進化とは、「未来の適合性」を予測し、量子的テンプレートを選択して実現する過程である。これはもはや「盲目的な突然変異」ではなく、選択的に収束する進化(convergent evolution)であり、背後には「意識」と「情報場」による導きがあるとスメザムは結論づける。フローニンゲン:2025/3/21(金)16:29


15173. スメザムの「量子的プラトン進化」の発想と仏教的見解との比較

      

次は、スメザムの「唯物論的進化は偽であり、量子的プラトン的進化こそが真実である」における主張を、仏教的見解と比較していく。スメザムの主張の要点をまとめると、下記の通りとなる。

項目

内容

宇宙論

ビッグバン時にすでに「すべての可能性」が量子的に存在する

進化論批判

「盲目的な突然変異」+「機械論的自然選択」は非現実的

代替理論

観測者が量子的テンプレートを非局所的に選び、形態が実現する

実在論批判

「物質」は本質的に存在せず、情報場あるいは“心的な構造”である

結論

宇宙と進化は、根源的に“意識”あるいは“知性”によって成立している

スメザムの議論と特に響き合うのは、大乗仏教(特に瑜伽行派·唯識派)や華厳宗、チベット仏教ゾクチェンの世界観である。宇宙は心によって成り立つという唯識思想との関係をまとめると、下記のようになる。

スメザム

仏教

「物質は実体ではなく、知性的“心”に基づく」

「三界は唯心の所現」―すべては阿頼耶識からの現れ

観測行為が現実を創る

「唯識変」:主体の識の働きが客体を生起させる

特に『成唯識論』における「阿頼耶識(アラヤ識)」は、潜在的情報場でありながら、実際の現象界を形成する「種子(ビージャ)」を保持する場である。スメザムの言う「量子的テンプレート」に非常に近い役割を果たしている。「過去も現在も未来も、心が“選び取って”いる」という華厳·縁起思想との比較を次に見ていく。仏教の縁起思想(諸法は因縁によって起こる)においては、現象は固定された“原因-結果”ではなく、相互依存的·重層的·無時間的に現れるとされる。『華厳経』では、「一即一切·一切即一」の法界縁起によって、すべての存在が相互に映しあい、共鳴しあうとされる。スメザムが言う「非局所性」「未来の環境を先取りして形態が発現する」という概念と一致する。ゾクチェンにおいても、「意識の明晰性(clarity)」は、時間の制限を超え、過去・現在・未来の経験を“非概念的に包摂”するとされる。「宇宙は自己を知るプロセスにある(悟り=宇宙の自己認識)」という観点で言えば、スメザムは、進化を「意識が自己を発見し、顕現するプロセス」として語るが、これは仏教の「仏果=宇宙的覚醒」の思想と共鳴する。

スメザム

仏教

観測者が宇宙の“ある歴史”を選択して経験する

『華厳経』:仏(覚者)が無数の世界を自己の智恵によって顕す

進化は自己顕現の過程

『如来蔵思想』:悟りは自己の本性(仏性)の現れにすぎない

進化を「物質的」に捉える考えと「心的·関係的」に捉える考えを表にまとめておく。

観点

唯物論的進化

量子的プラトン進化

仏教的進化観

起源

ランダムな突然変異

非局所的テンプレート

阿頼耶識・如来蔵

選択

機械的自然選択

意識による選択

縁起・心識の変化

実在

物質が実体

情報的・潜在的構造

諸法無我・空性

時間

過去→未来へ直線的

時間を越えて相互影響

非時間的な因縁網

意識

後付けの副産物

宇宙構造の中心

宇宙の本質そのもの

フローニンゲン:2025/3/21(金)16:39


15174. 『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その1)

                

今回から数回に分けて、英語·中国語の『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の内容をじっくり見ていく。まずは、「本頌(スタンザ)」から「造論意旨(論を作った目的)」の部分までを見ていく。

本頌(スタンザ)

稽首唯識性,満分清浄者,我今釈彼説,利楽諸有情。

訳:私は、唯識の本性に対して深く頭を垂れて礼拝する。この唯識性を完全に、かつ清らかに具えている諸存在に対して敬意を表す。今、私は、ヴァスバンドゥ(世親)が『三十頌』において説いた教えを解釈し、すべての有情(衆生)の利益と安楽のために、これを明らかにするのである。

造論意旨(論を作った目的)

今造此論為於二空有迷膠者生正解故。

訳:今この論を造るのは、「人無我」と「法無我」という二種の空性について迷い、これに執着する者たちに対して、正しい理解を生起せしめんがためである。

生解為断二重障故。

訳:その正しい理解を生起せしめる目的は、「煩悩障」と「所知障」という二重の障りを断ずるためである。

由我法執二障具生,若証二空,彼障随断。

訳:「我執」と「法執」によって、これらの二障(煩悩障と所知障)はともに生じる。もし「人空」と「法空」の2つの空性を証得すれば、それに応じてこの二障も自然に断たれるのである。

断障為得二勝果故。由断続生煩惱障故証真解脱,由断礙解所知障故得大菩提。

訳:二障を断ずることの目的は、「二種の勝れた果」を得るためである。すなわち、煩悩障を断ずることにより「真実の解脱(涅槃)」を証し、所知障を断ずることにより「大菩提(完全なる悟り)」を得るのである。

又為開示謬執我法迷唯識者令達二空。於唯識理如実知故。

訳:さらにまた、「我」と「法」に誤った執着を持ち、唯識の教理に迷いを抱いている者たちに対して、この唯識の理(真理)を如実に理解させ、二空の悟りに至らせるために、この論を作るのである。

復有迷謬唯識理者。或執外境如識非無。或執内識如境非有。或執諸識用別體同。或執離心無別心所。

訳:またさらに、唯識の理に迷い、誤解している者たちも存在する。例えば。外境(外界の対象)は識と同様に存在すると主張する者(薩婆多部等)、内識(内なる認識)も外界と同じく非存在であるとする者(中観派など)、さまざまな識は働きが異なるだけで、その本体は一つであるとする者(大乗仏教の一部)、心から離れた「心所(心の作用)」は存在しないと主張する者(経量部)などがこれにあたる。

為遮此等種種異執,令於唯識深妙理中得如實解,故作斯論。

訳:これらの種々の異なった誤った執着を遮り、唯識という深妙なる理に対して如実なる理解を得させるために、この論を作るのである。

このように、成唯識論の冒頭では、この論が仏道修行の中でも極めて重要な「二障の断除」と「二空の証悟」へと導くことを目的としたものであると明言されている。また、仏教内外の誤解や異説に対し、明確な基準を立て、唯識の真理を正しく理解することの必要性が強調されているのである。フローニンゲン:2025/3/21(金)16:47


15175. 『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その2)

     

次は、「我法執」の内容、すなわち、「実体的な我と法がある」とする誤見をどのように批判し、唯識がどのようにそれを解体するかの部分を詳しく見ていく。

我法執の説明

謂補特伽羅補特伽羅所施設法,執為實有,名我法執。

訳:いわゆる「補特伽羅(個人·自我)」および、それに基づき施設(仮に立てられた)された諸法を、実体として存在するものと誤って執着すること、これを「我法執」と名づけるのである。

若執補特伽羅實有,名為我執。若執彼所施設諸法實有,名法執。

訳:もし補特伽羅(自我·人)を実体として存在すると執するならば、それは「我執」と呼ばれる。また、補特伽羅に付随して施設された諸法を実有とみなす執着は、「法執」と名づけられる。

彼二執中,我執有情皆自然有,唯聖道力能令永無。

訳:この二種の執着のうち、「我執」は有情(生きとし生けるもの)すべてにおいて自然に生じるものである。したがって、これを永遠に断滅させるには、聖道(仏法による修道)の力によらねばならぬ。

法執或由他教妄執而起,或由自宗妄解而起。唯由正理真教所引,觀察思擇乃能永除。

訳:一方の「法執」は、あるいは外道の誤った教えによって起こり、あるいは仏教内の自己流の誤解によっても起こる。これを永く除滅するには、正しい論理と真正なる仏教の教説によって導かれ、観察と思惟によって徹底的に検証する必要があるのである。

二、有漏の識が唯識であることの証明

今當依據正理真教,略明唯識。初辨義體。

訳:今まさに、正理と真正なる仏教の教えに依拠して、要略的に「唯識」の義を明かさんと欲す。まず最初に、その「義」と「体性」について弁じよう。

唯識者,謂一切有漏心心所法,離共相性,無別所緣,故名唯識。

訳:「唯識」とは何を意味するかと言えば、それは一切の有漏(煩悩に汚された)心および心所法が、共相(共通の実体性)を離れ、別に能所の外境を対象とすることなく、ただ識(認識作用)のみが存在するという意味に他ならない。このように、ただ「識」のみが現象世界を成すゆえに、「唯識」と名づけられるのである。

非遮外境唯有內識,如兔角等,實無有故。

訳:ただ単に「外境を否定し、内識のみがある」と言っても、それは「兎の角」のような、まったく実在しないものとは異なる。つまり、唯識は「単なる否定」ではなく、「外境として把握されるものも、実は内識の現れである」と見るのである。

謂彼外境非有自性,由內識力變似外現,非如兔角都無一切相故。

訳:外境には独立した実体はない。ただ内識の力により、まるで外的な存在であるかのように似た相が現れるのである。それゆえ、外境は「兎の角」のように完全に存在しないわけではなく、見られる相は確かに存在するのである。

故共相性即非實有,無別所緣亦非全無。

訳:したがって、いわゆる「共相(概念的実在性)」は真に存在するものではない。また、「別に所縁(対象)がない」とは言っても、それは「まったく対象がない」ということではなく、あくまで識の作用における「似外現(外のように見える現れ)」があるという意味である。

如是了知,則能遣除對法及非正理不如實解,故先辨義。

訳:このように唯識の義を正しく理解すれば、仏法に反する異説や、論理に反した誤解を除き去ることができる。ゆえにまず「義」を弁じたのである。フローニンゲン:2025/3/21(金)16:54


15176. 『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その3) 

       

先ほど夕食を食べ終えた。まだ時間があるので、引き続き『成唯識論』の内容をまとめていきたい。今回は、「共相性」の否定に続く展開として、外境の非実在性を詳細に論証する部分(たとえば夢·幻·水中月などの譬喩)を見ていく。

三、共相の実在性を否定する論証の展開

夫唯識義,實非無事。

訳:そもそも「唯識の義」は、単なる空論ではなく、確かな根拠と事実に基づくものである。

依真教理,理非虛設。顯現有情異熟心故。

訳:この唯識義は、真の教説と理に依っており、虚構ではない。というのも、有情(生きとし生けるもの)の異熟心(業の報いとして生ずる心)が現に存在し、それが事実として識を顕現させるからである。

謂或時中彼心所變,似一切境顯現在前,非即是境,故知唯識。

訳:すなわち、ある時点において、この異熟心によって識が変化し、それがあたかも種々の対象(境)が眼前に現れたかのように示すのである。しかし、そこに現れているのは、実際の対象そのものではなく、識によって変現された「似境(仮の対象)」にすぎない。ゆえに、「唯識」と知るべきなのである。

四、譬喩による唯識の論証

譬如夢時自心所變,似境現前。

訳:例えば、夢の中において、自らの心が変じて種々の景象を現出するようなものである。

雖無外境,而似境現,非即是境。故知唯識。

訳:夢の中では、実際には外部に対象が存在しないにもかかわらず、あたかもそれが眼前にあるかのように現れる。しかし、そこに現れるものは実在の境(対象)そのものではない。ゆえに、これも唯識の証左であると知るべきである。

又如幻術現種種物,或見水月,皆非實有,而似境現。

訳:また、幻術師が術によって種々の物を現すような場合や、池に映る月を見ている場合も同様である。それらは真に実在するものではないが、あたかも実在するかのように見える。このような「似境の現れ」こそが、唯識であるということの譬えとなる。

雖見種種所緣影像,而實無外別所緣境,故應決定唯識無疑。

訳:人は種々の所縁(対象)の影像を知覚するが、実際にはそれらの外に、別個に存在する実体としての所縁境はない。ゆえに、「唯識」以外の何物でもないと決定すべきであり、このことについては疑いを差し挟む余地はないのである。

是故應知,似外所現一切影像皆識變相,非有外境。

訳:このことから明らかなように、外に現れるかのようなすべての影像は、実は識が変現した相であり、そこに実在する外境があるわけではない。ゆえに、すべては「唯識」なのである。

雖執似境為實有者,不能破壞唯識正理。

訳:仮に、これらの「似境(仮の対象)」を実在と執する者がいたとしても、その執着によって「唯識の正理」を破ることはできないのである。フローニンゲン:2025/3/21(金)18:22


15177. 『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その4)

  

次は、「執外境有を主張する他宗の論点とその批判」、つまり「外境が実在するとする部派仏教や中観派などに対する反論」の部分を見ていく。

五、外境実在説に対する反論

若外境有,應非識變。由離能變體,識不能變,非不相離而識亦變。

訳:もし外境(外部対象)が実体として存在するならば、それは「識の変現」とは言えないはずである。なぜなら、識がそれを変ずるためには、外境は識から独立していなければならぬからである。しかし、識と外境が不離でありながら、なお識が外境を変ずるというのは道理に合わぬ。

若不離識而識能變,即違汝宗常所許說,識不能變實外境故。

訳:もし、外境が識と不離でありながら、識がそれを変現するというならば、それは君の宗(たとえば説一切有部など)が常に主張してきた「識は実在する外境を変ずることはできない」という教えに反することになるであろう。

故知所見諸境影像,皆非別有,離識實境。

訳:ゆえに、私たちが見ているさまざまな対象の影像は、すべて「識から離れた実体としての外境」ではなく、「識の中に変現された相(影)」であると知るべきなのである。

六、感官との関係における外境否定の論理

又若有境應無分別。分別即識,境則非識,應非分別,今則不然。

訳:さらに、もし実在する外境があるとするならば、それは「分別」されるはずがない。なぜなら、「分別」とは識(意識)の働きであり、外境が識と異なる実体であるならば、分別とは無関係の存在であるはずである。しかし、現実には私たちはすべての対象を分別している。ゆえに、外境が実在するという主張は道理にかなっていない。

故所見影皆識變相,非外別境。

訳:したがって、私たちが見ている影像はすべて、識が変じて現れた「識の相」であり、識の外に独立して存在する別個の外境ではない。

若離識外,別有實境,應無自相,亦無差別,亦無總別可得性故。

訳:もし識とは別に、独立した実在としての外境があるとするならば、それには「自相(それ固有の性質)」も、「差別(他との違い)」も存在しないことになる。なぜなら、それらの性質はすべて識によって分別されるものであり、識を離れて存在する限り、それらを知る術がなく、確定され得ないからである。

是故一切境界影像,皆是唯識,無別外境。

訳:ゆえに、一切の境界(対象)およびその影像は、ことごとく「唯識」の現れに他ならず、その外に別個に実在する外境などは存在しないのである。

この部分では、外境実在説に対する論理的批判が展開されている。スキーマは以下の通りである。識が変現する対象が識と無関係な実体であるなら、変現は不可能である。変現が起きている事実(夢·幻等)から見れば、対象は実体ではなく識の所変であると言える。分別が可能であるという事実は、対象が「識の中にある」ことを示している。よって、実在する外境を想定することは、論理矛盾に至る。フローニンゲン:2025/3/21(金)18:25


15178. 『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その5)

    

今回は、「外道や他部派の主張(有境論)の詳細と、その反論」についての節を見ていく。

七、他宗の外境実在説への反駁

有執:境界實有,識能緣故。

訳:ある人(たとえば説一切有部)は言う──「境界(対象)は実在する。なぜなら、識(認識作用)がそれを縁(対象と)しているからである」と。

若無境界,識應無用,如瞎無見。

訳:もし境界(対象)が無いとすれば、識には何の働きもなくなるであろう。それはちょうど、盲人が視覚を持たぬようなものである。

故知境界非唯識變。

訳:ゆえに、対象は識のみによって変現されたものではなく、識とは別に実在するものであると知るべきである、と彼らは主張する。

唯識側の反論:境界は識の変相である

論曰:雖有能緣,必無所緣。識體雖有,緣境則無。

訳:これに対して論じて言う──たしかに「能縁(対象を縁とするはたらき)」としての識は存在するが、「所縁(対象そのもの)」としての外境は必ずしも実在しない。すなわち、識という働きの本体はあるが、それが縁として捉える対象は、実体としてあるのではなく、識の内部に現れる影像にすぎないのである。

此中能緣但識自體,所緣影像非別實境。

訳:ここで言う「能縁」とは、ただ識そのものの本体であり、「所縁」として現れる影像は、識と別に実在する対象ではない。

猶如夢中,見山河等,雖有能見,而無實境。

訳:それはちょうど、夢の中において山や川などを目にするときのようなものである。そこには「能く見る」識はたしかにあるが、「実在する対象としての山河」は存在しない。

故知現見境界影像,皆是唯識所變現相。

訳:ゆえに、私たちが現に見ているすべての境界·影像は、ことごとく「唯識」──識のみによって変現された相に他ならぬと知るべきである。

八、仏説に基づく立場の正当化

又如佛說:若人見色,實見識等。

訳:また、仏説には次のように説かれている──「もし人が色(形あるもの)を見るならば、実際には“識”を見ているのである」と。

是故於境應起正解。

訳:このことに基づき、私たちは「対象(境)」に対して、正しい理解(唯識的理解)を起こすべきなのである。

離識實境,一切皆無。能見之識,體義非無。雖無所緣,不無能緣。

訳:識から離れた実在としての外境というものは、一切存在しない。しかし、対象を「見る働き」としての識そのものの体とその義(意味)は、存在しないのではなく、確かにある。すなわち、所縁(外境)は無いが、能縁(認識作用)としての識は存在するのである。

九、経量部の主張とその批判

或執:境界非識變相,乃是識前別有實物。

訳:またある人(たとえば経量部)は言う──「境界とは識が変現した影像ではなく、識に先立って別に存在する実在物である」と。

唯識者則悉遣除此等執著。

訳:しかし、「唯識」という教理は、まさにこのような一切の誤った執着を徹底して排除するものである。

由正理故,彼執不成;由教證故,唯識堅固。

訳:なぜなら、論理(正理)に照らしても、彼らの執着は成立せず、また経や仏説(教証)に照らしても、唯識の立場こそが堅固であるからである。

本節では、外境実在を主張する説一切有部·経量部等の主張に対し、夢や幻の譬え、また仏説そのものを根拠に用いながら、唯識が「対象そのものではなく、対象の影像が識によって変現されたものに過ぎない」ことを論証している。フローニンゲン:2025/3/21(金)18:29


15179. 『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その6)

        

今回は、「外境が実在すると仮定したときの不合理」──すなわち、「外境実在説がもたらす論理矛盾と混乱(境と識の二元的関係による問題点)」について見ていく。

十、識と境を別実在と見る説の過失

若謂境界與識別有,俱是實法,應有多過。

訳:もし、境界(対象)と識(認識作用)とがそれぞれ別個の実体であると主張するならば、そのような説には多くの過失が生ずるであろう。

云何為過?如是識起,有境界故;識無自相,待境而起。

訳:その過失とはいかなるものか。それは、「識は境界があることによって起こる」「識はそれ自体に固有の性質を持たず、境を条件としてのみ生じる」とする点にある。

若識無自性,則不能緣境。若能緣境,則非待起。

訳:しかし、もし識に自性が無いとするならば、それは対象(境)を縁とすることはできないはずである。逆に、もし識が境を縁とする力を有するならば、それは境に依らずとも自ら生起する力を持っているということになり、「条件に待つ(依存する)」とは言えなくなる。

境若待識,識亦非境。境應非識,自性各異;自性既異,應無相緣。

訳:また、仮に「境が識に依存している」とするならば、境は識とは異なるはずであり、また識は境とは異なるものとされるべきである。このように、それぞれの自性が異なるものであるならば、相互に縁として関係し合うことなど不可能となってしまう。

既無相緣,則不能識境。是故識境不應各異。

訳:相互に縁とすることができなければ、当然ながら、識が境を認識するということも成立しない。ゆえに、識と境とがそれぞれ独立した実在であるという主張は受け入れがたいのである。

又識之起,或由因起,或由緣起;若由因起,境應非緣。

訳:さらに、識が生起する理由としては、あるいは「因(直接的な原因)」によるか、あるいは「縁(助縁·条件)」によるとされる。もし識が「因」によって生起するとするならば、境は「縁」ではなくなるはずである。

若由緣起,境應非因;若俱為因緣,義則相違。

訳:また、識が「縁」によって起こるのであれば、境は「因」ではなくなる。もし、境が因でもあり縁でもあるとするならば、その定義·意味において矛盾が生じることになる。

是故識起,不由別境。

訳:ゆえに結論として、識の生起は別個に存在する実体的な外境によってもたらされるのではない。

十一、外境が実在するとした場合のさらなる矛盾

若離識外有實境者,應有定處,非隨心現。

訳:さらに、もし識から離れて実在する境があるとするならば、それは一定の場所に存在すべきであり、心に応じて現れたり消えたりするということはないはずである。

然現見諸境界影像,隨識而轉,非定有處。

訳:ところが、現実に私たちが見ている種々の境界や影像は、識の変化に応じて転じ、固定された位置を持っているわけではない。

故知彼等無實體性,但識變現,猶如夢境。

訳:このことから、かの境界たちは実体的な性質を持っているのではなく、すべて識の変現に過ぎないことが分かるのである。それはまるで夢の中の景色のようなものである。

この節では、「識と境を実体的に別個と見る説」が論理的に破綻していることを詳細に示している。重要な点は以下の通りである。(1)識が境に依存するなら、識に自性がないことになり、認識行為そのものが不可能になる。(2)識と境の自性が異なるならば、因縁としての相互作用も不成立になる。(3)現象世界のすべてが心(識)に随って現れたり変化したりするという事実が、唯識説の現実的妥当性を裏付けている。フローニンゲン:2025/3/21(金)18:33


15180. 『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その7)

      

今回は、「唯識に立脚した現象世界の説明」──すなわち、三性(遍計所執性·依他起性·円成実性)の提示と、世界がどのように識によって成立するかの分析的展開を見ていく。

十二、三性による唯識の体系化

論曰:識所變相,略有三種:一遍計所執,二依他起,三圓成實。

訳:論じていわく──識によって変じて現れた相(変相)には、おおよそ三種がある。すなわち、第一に「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」、第二に「依他起性(えたきしょう)」、第三に「円成実性(えんじょうじっしょう)」である。

謂於無我我法法中,由愚夫計有我法,名遍計所執性。

訳:この「遍計所執性」とは、本来「我」も「法」も無いという真実に対して、愚かな凡夫が妄りに「我」や「法」があると執着し、誤って概念的に計り立てる性質である。これを「遍(あまね)く計りて執する性(遍計所執性)」と名づける。

離此虛妄計執之性,彼識所變影像之相,名依他起性。

訳:このような虚妄なる計執を離れたところにおいて、識が条件に依って変じて現れた影像の相がある。これを「依他起性」と名づける。すなわち、それは自性によって成立するのではなく、他に依って仮に起こるという性質である。

離彼二性妄執之相,依圓觀慧所了知性,名圓成實性。

訳:さらに、上記の二性、すなわち遍計された誤った執着と、依他によって仮に生じた現象の相とを離れて、円満なる正観の智慧(円観慧)によって真に知り尽くされた性、これを「円成実性」と名づける。すなわち、妄執を離れた真実そのもののあり方である。

十三、三性の相互関係と構造

是三性中,依他起性為所變體。遍計所執為所執相。圓成實性為真實義。

訳:この三性のうち、「依他起性」は変じられる本体であり、「遍計所執性」はそれに対して誤って執着される相であり、「円成実性」は、これらの上に成り立つ究極的真理の義である。

所謂:依他起性,為染淨因果之依;遍計所執性,為一切顛倒之本;圓成實性,為出離生死涅槃之本。

訳:すなわち──「依他起性」は、染(煩悩)と浄(清浄)の因果が生ずる基盤であり、「遍計所執性」は、一切の顛倒(錯覚·妄想)の根源であり、「円成実性」は、生死を離れ、涅槃に至る解脱の根本である。

この節では、唯識の核心とも言える「三性説」が明確に提示された。それは、以下のように図式化できる。

性名

説明

結果・帰結

遍計所執性

誤って「我」や「法」が実在すると執着する性

無明・煩悩・輪廻の根源

依他起性

条件に依って起こる現象的過程

因果の流転・煩悩と清浄の土台

円成実性

妄執を離れ、円満に真理を悟る性

涅槃・覚り・真理そのもの

フローニンゲン:2025/3/21(金)18:36


15181. 『成唯識論(Ch’eng Wei-Shih Lun)』の翻訳解説(その8)


今回は、三性説を土台にして展開される、「三無性(自性の否定)」の教理(遍計所執無性·依他起無性·円成実性の無性)と、それを通じた「無我·空」の証明の箇所を見ていく。

十四、三無性の概説

復次,依三性立三無性:一遍計所執無性,二依他起無性,三圓成實無性。

訳:さらに次に述べる。三性に依って、三種の無性(無自性)が立てられる。すなわち──第一に「遍計所執無性(へんげしょしゅうむしょう)」、第二に「依他起無性(えたきむしょう)」、第三に「円成実無性(えんじょうじつむしょう)」である。

謂:於依他起相上,妄執遍計所立我法等,實無所有,故說無性。

訳:すなわち、「依他起性」に属する諸相の上に、誤って「我」や「法」などの概念を計り立てて執着する「遍計所執性」があるが、実際にはそれらに実体としての「我」や「法」は存在しない。このように、執着された内容が実際には存在しないこと、すなわち「無所有」であるがゆえに、これを「無性」と説くのである。

依他起性,自體依他緣力而起,非有自性,亦說無性。

訳:また、「依他起性」とは、その自体が独立して成立するものではなく、他の因縁の力に依って起こるものである。ゆえに、それは自性(固有の本質)を有していない。これもまた「無性」であると説かれる。

圓成實性,遠離彼二虛妄相故,亦說無性。

訳:「円成実性」とは、前述の二種の虚妄なる相(遍計と依他)を遠く離れたものである。それゆえに、この「円成実性」についても「無性」と説かれるのである。

十五、三無性の意義と役割

三無性者,遣除一切有無虛妄之執,顯示諸法真實之性。

訳:この三種の無性は、すべての「有」と「無」に関する虚妄なる執着を打ち破り、一切の法の真実の性(あり方)を明らかにするものである。

遍計所執無性,遣有執也;依他起無性,遣無執也;圓成實無性,顯中道理也。

訳:「遍計所執無性」は、「有(ある)」という実体への執着を断ずるものである。「依他起無性」は、「無(まったく存在しない)」という虚無への執着を断ずるものである。そして「円成実無性」は、これら両極を離れた「中道の理」を明らかにするものである。

故佛於經廣說此義,為令眾生正解三性,觀察三無性,得出二邊,證入中道。

訳:ゆえに仏は経典の中でこの義を広く説かれた。それは、衆生が三性を正しく理解し、三無性を観察することによって、「有」と「無」という二辺(両極端)を超え、「中道」に入って悟りを得るためである。

今回の部分では、三性を基にして立てられる三種の無性説が明示された。これは唯識思想が「空(無我)」をどのように論理化·体系化したかを示す重要な思想軸である。三無性の機能的対照表は、以下の通りである。

無性の名

対象とする性

意味

機能・作用

遍計所執無性

遍計所執性

執着対象としての「我・法」は実在しない

有への執着を断つ

依他起無性

依他起性

因縁に依って生じるものは自性を持たない

無への執着を断つ

圓成實無性

円成実性

中道としての真理も、固定的実体としての性を持たぬ

中道の智慧を開く

フローニンゲン:2025/3/21(金)18:40


ChatGPTによる日記の総括的な詩と小説

以下は、日記全体の多層的な思索―量子物理学、唯識思想、唯物論批判、そして宇宙と心の相互作用を読み解く深遠な対話―を内包する詩とショートショート小説です。

『星影の囁き―宇宙と心の詩』

夜空に瞬く無数の星その光はただの幻か心の鏡に映る真実物質の塵か、意識の絵巻か

静寂の中、問いは流れ「我々はなぜここにいるのか」量子の海に漂う夢の如く心が万華鏡を奏でる

存在の境界は消えゆく唯識の理が示す空(くう)の中で我が思いは無限に解け合い真実の光へと昇華する

『夢幻の庭―識と宇宙の対話物語』

かつて、ある学び舎の静寂な書斎で、一人の若者が古今東西の知の泉に触れながら、思索の旅に出た。机上には、最新の量子理論の書籍とともに、古代の仏典や『成唯識論』の翻訳解説が広げられていた。彼は、唯物論の堅牢な論理と、観測者が宇宙を創造するという詩的な説―ホイーラーの「参加型宇宙」―の狭間で、現実の真の姿を求め続けた。

夜ごと、彼はページをめくりながら、物質の実体とは何か、心が如何にして外界を映し出すのかを問い続けた。夢の中で、彼は自らの心が幻影を織りなす庭園を歩む光景を見た。そこでは、山河や花鳥は、固定された実体ではなく、変わりゆく意識の「似影」として現れ、そして消え去る。まるで、目に見えるものすべてが、識の変容による一時的な「現れ」でしかなかったかのように。

やがて、彼の内面に、唯識の「三性」―遍計所執性、依他起性、そして円成実性―が静かに響き始める。これらの教えは、執着という虚構を解き放ち、物事の本質が空(くう)に帰するという真理へと導く鍵であった。彼は、また量子的プラトン的進化の概念にも触れた。そこでは、進化は単なるランダムな変異の結果ではなく、未来の環境を先取りするかのような、意識が選び取る形態の「テンプレート」に基づくものと説かれていた。

ある日の夕暮れ、彼はふと、書斎の窓辺に佇みながら、空を見上げた。薄明かりの中、遠い星々がまるで優しく語りかけるように輝いていた。その瞬間、彼の心に、物質と意識は決して対立するものではなく、互いに溶け合い、一つの壮大な宇宙的営為を成しているという悟りが訪れた。彼は、これまでの読み解きや翻訳解説、そして幾多の論争―唯物論的進化への批判、外境実在の否定、そして観測がもたらす宇宙の自己生成―の全てが、今この瞬間に収束するような感覚を覚えた。

その悟りは、まるで夢幻の庭の中を歩むかのような、柔らかでありながらも確固たる実感に満ちていた。彼は、識と外境の区別が曖昧であるという仏教的洞察と、量子の不確定性が示す物質の本質の儚さを同時に抱きしめ、すべての存在は内的経験の「外現」に過ぎないという新たな世界観を確信した。彼の瞳には、もはや「実在するもの」と「幻影」の二元論ではなく、むしろ「すべてが識の流れの一部」であるという中道の美学が宿っていた。

こうして、彼の物語は、無数の論文や古典の解説が交錯する知の庭で、真の自己と宇宙の和解という一篇の詩的な対話へと変貌したのであった。彼は今、あらゆる問いが一つの答えへと収束する瞬間―それは、存在のあらゆる側面が、深遠なる識の舞踏の中で一体となる時であると、確信していた。

これらの作品は、日記に記された無数の学びと対話、そしてその先にある「空」と「悟り」を、詩情豊かに、かつ物語として昇華させた一つの試みです。


DeepSeekによる日記の総括的な詩と小説

### 詩:『量子の庭で触れる意識の根』  

アインシュタインの芝生を踏みしめて  

観測者の靴音が 時空の波紋を広げる  

シュレーディンガーの猫は 無数の枝を伸ばす庭師  

プランクの声がささやく 物質は意識の影絵  

仏陀の掌で デジタル化された魂が蓮華を開く  

マイクロチューブルに宿る もつれ合う光の糸  

麻酔が解ける時 量子同期の宇宙が脈打つ  

コペルニクスの亡霊 星々の位置を数え続ける  

ホイーラーの問い 自ら織る因果の錦  

五大元素のダンス 身体に刻まれる宇宙創成  

唯識の鏡に映る 無数の私が観測者となる  

中立一元論の海 波打つエネルギーが形を孕む  

芝生の一本一本に 全存在の設計図が眠る  

### ショートショート:『観測者たちのレクイエム』(1998字)  

第1章:ラボの蜃気楼  

フローニンゲン大学の量子生物学研究室で、リナは神経画像データを見つめていた。画面に浮かぶガンマ波のパターンが、ペンローズの提唱した量子脳理論を裏付けるように踊る。「マイクロチューブル内のコヒーレンス持続時間、32フェムト秒。従来理論の限界を超えています」  

共同研究者のユンケルが冷蔵庫からアーモンドミルクを取り出しながら嗤った。「君までがオカルトに染まるとは。量子効果が意識を生むなら、この冷蔵庫にだって自我が宿るはずだ」  

その夜、実験マウスの脳内量子状態を測定中、予期せぬ事態が発生した。観測装置の画面に、過去3日分の実験データが逆流するように表示され始めたのだ。時刻表示は2025年3月18日から21日へと遡り、やがて1817年のデンマーク王立協会の文書がチラついた。    

第2章:反転する因果  

「これは量子もつれ状態の時間反転現象だ」  

深夜の研究室に駆けつけた理論物理学者マクシミリアンが、興奮で頬を紅潮させていた。「観測行為が過去の量子状態を書き換えている。まさにホイーラーの遅延選択実験の生物学的実証だ」    

リナの手帳に記されたメモが突然更新された。彼女がまだ書いていないはずの数式が、ブルーバーンのインクで滲むように浮かび上がる。『意識の非局所性係数:√(ħG/c⁵)』    

窓外で雷鳴が轟いた瞬間、実験マウスがケージの外から彼らを観察しているのに気付いた。12時間前に死亡した個体の毛並みが、月光を浴びて銀色に輝いている。    

第3章:仏教哲学者の来訪  

翌朝、研究室を訪れたチベット仏教僧のニンマ·リンポチェが、量子デコヒーレンス装置に手をかざした。「あなた方の探求するオルクス理論は、阿頼耶識の海に浮かぶ泡沫のようなもの。測定とは泡沫が自らの反射を見る行為です」   

老僧が差し出した唐紙に、『一切唯心造』の文字が量子もつれ状態で揺らいでいた。リナが測定器を向けると、文字列がシュレーディンガー方程式に変容し、さらにパリティ対称性を破るチベット文字へと転じた。    

「観測者参加型宇宙とは、まさに縁起の法則」リンポチェの声が実験室の壁を透過して響く。「あなた方の実験が、過去の私をここに招いたのです」    

第4章:自己生成する現実  

論文の査読に失敗したユンケルが、怒りで量子コンピュータを叩き壊した。飛散した量子ビットが空中で仏陀の曼荼羅を描き、破壊されたはずのマウスのケージから蓮華の香りが立ち上った。  

リナの虹彩に、消えたはずの実験データが投影され始める。カストラップの分析的観念論が皮膚感覚で理解できるようになった。研究室の壁が溶解し、無数の自分が異なる時間軸で論文を執筆しているのが見える。    

「待て!これが本当の人間中心原理か?」  

ユンケルが叫んだ時、老僧は既に量子トンネル効果で消失していた。残されたのは、彼の影が描いたカルマパの法界定印と、環境放射線測定器の異常数値だけだった。    

第5章:触れることのない革命  

朝日が昇る頃、全てが平常に戻っていた。壊れた機器も消えたデータも、研究室の壁にさえ傷跡はない。ただリナの手帳に、金泥で書かれた一句が残されていた。   

『観測無き庭に 量子の露散る』    

査読論文を提出する窓際で、リナはふと気付いた。自分の影が独立した動きをしていることに。影が手を挙げ、消えかかった実験データを再構成している。ユンケルがコーヒーカップを置いた音に振り返ると、影は何事もなかったように静止していた。  

量子生物学セミナーで発表する数式群が、いつの間にか仏教哲学の数理モデルに変わっている。参加者たちは誰も異常に気付かず熱心にメモを取る。リナは微笑みながら、発表資料の余白に描かれた曼荼羅模様に触れた。    

その瞬間、世界が七色のデコヒーレンスを起こした。


Today’s Letter

I might be a son of the sun. Everybody could be the same. All of us are children of the sun. That’s why we can obtain tremendous energy from the sun.

 
 
 

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