
・カリンバ即興演奏曲はこちらからご視聴いただけます。
・8617個のピアノ曲・箏曲の全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。
・アートギャラリーはこちらからご覧いただけます。
成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスやその他のテーマについてお話しさせていただくチャンネル「インテグラル・サイケデリックラジオ」はこちらからご視聴いただけます。
タイトル一覧
11714. 今朝方の夢
11715. あの感覚/天と地の双方と繋がったサイケデリック研究/間柄の存在
11716. 今朝方の夢の続き
11717. 欧米の大学での担当コースについて/知りたいという思い/超越一元的汎心・汎神論者として
11718. 意識が物理宇宙を生み出したという発想/火としてのサイケデリクス
11719. サイケデリック父権主義を越えて/一如であること
11720. シロシビンが含まれるヒカゲタケ属とシビレタケ属の栽培比較に向けて
11714. 今朝方の夢
時刻は午前5時を迎えた。ここ2日は強風の日が続いていて、今日もまた少し風が強い。ここ2日ほどではないが、それでも今はビュービューと音を立てて風が吹いている。風速31kmほどの風が吹いていて、午後に向けてゆっくりと風速は弱まっていき、午後に散歩がてら書籍の受け取りをしに外出する際には時速27kmほどの風速になるとのことである。幸いにも今日は雨が降らないようなので、それは救いである。
たった今鼻水をかんだ時に、そう言えば今朝方の夢の中でも鼻水をかむ場面があったことを思い出した。そこではフロアに自分でない誰かが鼻水をかんだティッシュが大量に捨てられていて、自分はそれを見て掃除をしなければならないと思った。それらの鼻水はどうやら中学校時代の部活のメンバーたちのもののようで、私は彼らに注意をする形で、彼らにちゃんとゴミ箱かトイレにそれを捨てるように指示をした。そこから練習に移ろうと思ったら、大事な大会がもう目前にもかかわらず、メンバーたちはやる気がなく、だらりとしていた。部室で寛ぎながらゲームをしている彼らを見て、もう怒る気はせず、部活をやめようかと思った。3年の最後の年の最後の大会を目前にして、これまでキャプテンとしてチームを引っ張ってきたが、メンバーたちの様子を見て、自分のこれまでのマネジメントに問題があったのかもしれないと反省させられた。しかし、問題はそれだけではないように思え、とにかく部活はもうやめて、自分1人で心底打ち込めることに従事しようと思った。すると、自分はもう高校に通っていることに気づき、高校の勉強のレベルがすこぶる低く、また周りの生徒の学力も低いということに愕然とし、高校もやめようと思った。そこで私は、とにかくもうこれからの人生でレベルの低い環境に身を置くことだけは絶対にやめようと思った。自分の能力が花開くのも開かないのも、土壌である環境が極めて大事な鍵を握り、自助努力だけでは限界があると思った。そのような場面があった。
その他には、海沿いの見慣れない民家の中で、両親と話をしている場面があったのを覚えている。そこはどうやら私たちの家のようで、その1階のリビングで3人で団欒を楽しんでいた。私は一時帰国をして両親のところを訪れていた。土産話もたくさんあるが、今自分が毎日7時間から8時間ほどの勉強をずっと継続させていると述べると、2人は驚いて、相変わらずの勉強量だねと述べた。しかし私は、かつてはそれこそ平均12時間ぐらい勉強していたので、今の7-8時間の勉強は勉強でもなんでもなく、高い集中力で勉強するためにこれでも勉強時間を抑えていると述べた。すると父が、自分の勉強に毎日それだけの時間を充てられる人は世の中ほんの一握りで、多くの人には仕事もあるし、仕事以外にもしなければならないことがあるから、勉強にそれだけの時間を充てられることは幸運だと述べた。しかしその発言に対して私は、自分はこれまでこうした勉強時間を確保するための努力や取り組みを色々としてきたと述べた。働くことを言い訳にして勉強時間を確保できないことを防ぐために、31歳の段階で仕事をしなくて済むように投資で資産を作るように努力したし、飲み会や食事に関する煩わしい誘いが自分に来ないようにするために物理的に日本から離れることをしたりするなどの努力をしてきた結果、静かな環境で自分の勉強に打ち込める十分な時間を確保できたのだと述べた。私のメッセージは、時間を作る努力をすれば、誰でも毎日それくらいの勉強時間は確保できるというものだった。フローニンゲン:2023/12/29(金)05:17
11715. あの感覚/天と地の双方と繋がったサイケデリック研究/間柄の存在
昨夜もまたあの感覚があった。自己が自己ではない何者かとして知覚されるあの感覚である。別の表現で言えば、この世界にプカリと浮かんでいる孤島としての自己の全てをありありと客体化し、それを不思議な眼差しで眺めている感覚である。この感覚はこの12年間の中で時折やって来る。最初に経験したのは、確かジョン・エフ・ケネディ大学に留学にしていた時だろうか。それはある種の究極的な目撃者の意識状態の際に生じる知覚体験と似ている。それがふとやって来ることがある。ここにこうして自分だと思っている自分が佇んでいることをおかしく思ってしまうような感覚である。自己は100%の純度で客体化している感覚。そうした感覚が昨夜到来した。
サイケデリクスの窓を通じて意識と宇宙について探究をしていく読書を進めていくことに加えて、とりわけサイケデリクスを取り巻く規制についての学術書を読んでいるのは、前者が天を志向する研究で、後者が地に足の着いた研究だからなのだと思う。片方だけでは均衡が取れず、自分にとっては両者の研究が必要なのであり、両者に関する実践が必要なのだ。天に繋がりながら地に足を着け、地に足を着けながら天と繋がることがとにかく自分にとって大切なことなのだ。今日の読書もまた、地に足を着けながら天と繋がり、天と繋がりながら地に足が着いた読書になるだろう。昨日受け取った10冊ほどの書籍はいずれも宇宙に関するもので、現代宇宙物理学の理論的な最先端内容を紹介しているケンブリッジ大学出版から出版された論文集や仏教のコスモロジーに関する数冊の書籍がとりわけ楽しみである。後者に関しては、仏教と量子物理学を関連づけた書籍がいくつかあり、それらはまさに意識と宇宙を架橋させる研究をしていく際に鍵を握るだろう。
人間は間柄の存在であり、“Human Being”の“being”の後にはいかなる形容詞も取れることから、人間は少なくともいかなる存在様式にも非二元的に同一化できるのではないかということを昨日考えていた。もちろん詩的表現や比喩的表現において、“being”の後に一般名詞も取ることができるが、いずれにせよ、無数の形容詞をその後に続ける形で、様々な存在状態になれることは認識論的にも存在論的にも非常に面白い人間特性なのではないかと思ったのである。私たちは何にでもなれるというのはこうしたところに由来するのかもしれないし、それを実際に文法構造的に体現している点が言語の面白さと不思議さでもある。“I am blissful”と述べると、私は至福と化しているのである。一般動詞ではなく、be動詞の持つ不思議な力。その背後に人間本質が隠れているような気がする。これについてもさらに考察を深めていこう。フローニンゲン:2023/12/29(金)05:59
11716. 今朝方の夢の続き
朝の読書を本格的に始める前に、今朝方の夢の続きを振り返っておきたい。夢の世界で起きたことを振り返ることは、サイケデリック・セッションに向けた最良の準備の1つになる。それはシャドー領域の掃除を意味するだけではなく、無意識のメッセージを題材にしてサイケデリック・セッションを進めていくことも促してくれる。
夢の中で私は、幼少期に生活していた地元の海岸沿いの道路を歩いていた。海岸沿いには松がたくさん植えられていて、松林が影を作ってくれていたので太陽の直射日光を防ぐことができ、涼しさを感じて歩くことができていた。祖父母の邸宅がその松林沿いの道路の一角にあり、私はそこに向かっていた。すると、元テニスプレイヤーのロジャー・フェデラーが祖父母の家の近くに別荘を構えていて、ご近所さんであることを知って驚いた。今はもうフェデラーはその別荘を売り出してしまい、別荘自体も取り壊されて、跡地には何も残っておらず、雑草が生えていた。かつてフェデラーは、きっとオフの期間にここにやって来て、穏やかな瀬戸内海を眺めながらゆったりとした時間を過ごしていたのだろうと想像された。
気がつくと私は祖父母の邸宅に到着していた。祖父母は不在で、2人の老人の女中さんが迎え出てくれた。今はもうその邸宅は祖父母の家としてだけではなく、旅館としても使われていて、1階と2階のいくつかの部屋が一般客にも利用できるようになっていた。私は小さなスーツケースを引いて到着し、玄関で2人の女中さんからお疲れ様でしたと挨拶され、私も挨拶を返した。2階に自分専用の部屋があったので、スーツケースを2階に持って上がることにした。その時に、この家の作りは不思議なものになっていることを思い出した。階段らしい階段はなく、玄関からまるでボルダリングをするかのように壁を這い上がって2階にいく必要があったのである。スーツケースを持っていたこともあり、これは厄介だぞと思いながら、工夫をしながら壁を這い上がって行った。その時に、2人の女中さんは私を地上から見守ってくれていて、応援の声を絶えずかけ続けてくれていた。その励ましの声に後押しされ、なんとか2階に到着した。そして目の前の自分の部屋に入った時に、部屋に充満する宗教的に厳かな雰囲気に英気を養われる感じがした。部屋に入ってすぐに思い出したのは、この旅館の全ての部屋には立派な神棚があるということだった。私の部屋にも立派な神棚があって、祖父母は神道を熱心に信奉していたのだと気付かされたのである。幼少時代はそのようなことに気づきもしなかったが、今であればそれが十分に理解された。
部屋で寛ごうとしている矢先に、宿泊客の1人であった小中高時代の親友(NK)が自分の部屋にやって来て、今から勉強を教えてくれないかと申し訳なさそうに述べた。別に申し訳なさそうに述べる必要もないことだったが、彼は相手を思いやる人間だと思い出し、彼の申し出にすぐさま快諾した。しかし、あと20分後に映画館に行って映画を見る約束を別の友人(KF)としていることを伝えると、それでは映画を見た後に勉強を見て欲しいとのことだったので、それなら何も問題ないと伝えた。こちらからも彼には申し訳ないが、映画館まで車で送って欲しいと伝えると、彼は笑顔で快諾してくれた。車中で勉強についての話をしようということになり、すぐさま支度して出発しようとした。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/12/29(金)06:53
11717. 欧米の大学での担当コースについて/知りたいという思い/
超越一元的汎心・汎神論者として
いつか欧米の大学でサイケデリクスに関するコースを受け持って授業をしている自分がありありと想像される。それに加えて、西田幾多郎先生と井筒俊彦先生の思想についてもコースを受け持ちたいと思っている自分がいる。2人の碩学の思想をサイケデリック体験と絡めたコースにするか、あるいはサイケデリクスの話題とは切り離して純粋に2人の思想を教えるようなコースを欧米の大学で受け持ちたい。とりわけ2人の思想は心の哲学との相性が良く、井筒先生に関しては扱っている領域が広いので、特に井筒先生の意識論に注目をしたいと思う。今読み返している"Toward a philosophy of Zen Buddhism”という書籍は本当に傑作であり、サイケデリクスと絡めるとすこぶる面白いし、絡めなくてもすこぶる面白い作品である。京都学派の中でも一際エコロジカルな思想を持っていた西谷啓治先生の思想も深く学んでいきたい。西谷先生の“Religion and nothingness”は本日再読する予定だ。西田先生の思想と西谷先生の思想を合わせて、京都学派の思想について欧米の大学で教えることも選択肢に入れておきたいと思う。サイケデリクスに関するコースと日本思想に関するコースを受け持つことに非常に積極的な自分がいる。学術機関に窮屈さを感じ、学術機関での学術研究に退屈さを感じていた自分はもう存在せず、今は再び学術機関に戻って、そこでしかできない幅と深さの研究に全身全霊をかけて没頭したいと思う自分がいる。来たる2024年がその始まりの年になってくれればと静かに祈りを捧げる。
知りたい。知りたい。とにかく知りたいという子供のような好奇心が発露する形で生まれる知りたいという欲求。自分という人間存在と、それが立脚する今この瞬間における場所を通じた宇宙について、とにかく知りたい。知れば知るだけ未知なものが自然発生的に生じるそれらの対象に完全に魅了され、取り憑かれている。自己について、そしてこの奇妙・神妙なる人間存在について広く深く知りたい。さらには、人間としての自己を取り巻く宇宙について広く深く知りたい。自己を知ることは宇宙を知ること。宇宙を知ることは自己を知ること。両者は単に相似形を成しているだけではなく、両者は本来1つである。自己は宇宙なのであり、宇宙は自己なのだ。
昨日ジムに向かって近所のノーダープラントソン公園を歩いている最中に、自分は「超越一元的汎心論者(transcendental monistic panpsychist)」なのだと思った。同時に、「超越一元的汎神論者(transcendental monistic pantheist)」でもあると思った。すなわち、自分は心(主観性・主観領域)と物質(客観性・客観領域)の双方の存在を認めながらも、究極的には両者は共に1つの超越的意識によって生み出されているという立場を取りながら、全ての存在に心のような性質と神性を見出す発想を見出す在り方を持っていると思ったのである。物理宇宙が意識を生み出したのではなく、超越的意識が物理宇宙を生み出したという以前とは逆の発想をしている自分がここにいて、そうした発想を持ったのは紛れもなく、サイケデリック・セッションを真剣に実施し始めたことが影響している。この思想的立場がこれからどのような深まりを見せるのか、そして別の立場を採用する日が来るのかどうかも楽しみにしながら日々の研究と実践を進めていく。フローニンゲン:2023/12/29(金)07:36
11718. 意識が物理宇宙を生み出したという発想/火としてのサイケデリクス
自らのサイケデリック体験という直接体験データと照らし合わせると、物質が意識を生み出すというのはどうも解せない。これはまさに意識のハードプロブレムで議論されることなのだが、意識がどのように物質から生み出されるかという議論の仕方そのものがやはりおかしいのであって、意識が物質を生み出しているというように考える方がより妥当なのではないかと思う。これは素朴な観念論的な発想ではなく、個人の意識が物質を生み出しているとは自分も考えておらず、超越意識という存在者を立て、それが個人の意識と物質の双方を生み出していると考える立場を自分は採用している。こうした立場ゆえに、物理宇宙が意識を生み出したという発想にも大変違和感があり、その発想は意識のハードプロブレムと同じ考え方に基づいて生み出されたものかと思う。物質が先ではなく、意識が先であるというのが自分の思想の立場のようなのだ。意識のハードプロブレムの問題の立案の仕方は、どうも物質が先に来るという発想から生み出されているようにしか思えない。この問題についても学術書や論文を参照しながら、それに加えてサイケデリック体験を十分に積んでいきながら取り組んでいきたいと思う。
「サイケデリクスは火のようなものである」という考えが降って来た。私たちは火の使用をどのようして学んできただろうか。火にはもちろん危険性が存在しているが、それらに触れ、それらを使ってみなければ、それらをうまく活用できるようには一生ならない。とりわけ人類は火を通じて進化して来た歴史があり、火を避けていては進化はなかったはずなのである。命を脅かすほどの強さと危険性を持っている火とうまく付き合いながら人間は進化・発展して来た。現代は、子供も大人もとにかく危険なものから避けようとするような風潮がある。とりわけ子供たちにおいては、公園での遊びや自然の中での遊びにおいて、危険を通じて学ぶことが骨抜きにされているような状態である。幼少期に育んでおくべき健全な危険意識のないままに大人になることの怖さを思う。そうした弊害はすでに子供たちや青年の中に見られ、若い成人にも見られ始めている。
サイケデリクスというのもまたとりわけ火のような存在として、太古の人類から活用されて来たという歴史があり、それに内包される良薬と毒薬の両側面を含めて人類は賢くサイケデリクスと付き合って来た歴史があるのである。だが現代社会においては、毒薬の側面を過度に強調し、それを曲解する形で危険を誇張する形でサイケデリクスから私たちを遠ざけようとする。そうした状態が続く限り、いつまで経っても私たちは火のような可能性に満ちたサイケデリクスを有効に活用することなどできないだろう。プロメティウスの神話にあるように、火は最古のテクノロジーであった。サイケデリクスはそうした火とおそらくほぼ同じ時期に人類によって発見されたであろうサイコスピリチャルテクノロジーである。火の取り扱い方がますます下手になっている現代人が、どのようにすればサイケデリクスの取り扱い方を賢明かつ意義あるものにできるかについて、これから考察をより深めていきたいと思う。フローニンゲン:2023/12/29(金)09:10
11719. サイケデリック父権主義を越えて/一如であること
現在の歪んだサイケデリクス法規制を脱却し、健全なサイケデリクス法規制を立案していくにあたっては、これまでのサイケデリックパターナリズム(サイケデリック父権主義)的な法規制ではうまくいかないことがすでに明らかであるし、全てを市場原理に委ねるような新自由主義的なサイケデリクス法規制もまたうまくいかないだろう。サイケデリクスの健全な法規制の立案の困難さは、政治経済の健全な運営の困難さと同じなのかもしれない。そんな困難な事柄に対して、現代社会の今と照らし合わせた時に最も望ましいであろう政治経済思想をうまく活用しながらサイケデリクス法規制を立案していくことが大切なように思えてくる。時代に適合した政治経済思想が発展・変遷していくように、本来であればサイケデリクス法規制も時代に合致したものにしていくべきなのである。現状、それが全くうまくいっておらず、いまだ旧態依然としたサイケデリックパターナリズムとでも形容するべき機能不全な法規制を採用しているのが日本の現状である。
日本ではかつて「剣禅一如」と呼ばれ、剣術修行と座禅修行は一体のものとして進められていた。自分の場合、サイケデリック実践と学問研究が一如であることと似ている。そうした一如の精神を持ってサイケデリック実践と学問研究に励んでいかなければならない。両者の一如を通じて、それぞれを深めることに邁進していく。
心身一如であること。自己と宇宙は一如であること。自宇一如の精神と在り方を体現していくこと。それを深めるための努力を厭わないこと。全てはそのための学びであり、修行である。
時刻は午前11時に近づいている。空は青く輝いており、久しぶりに青空を見た気がする。やはり青空はいいものだ。そのシンプルな美しさにただただ心が癒される。風は相変わらず強いが、ぼんやりと青空を眺め、うっすらとした雲の進行を眺めているだけで至福である。午後もまたこうした至福さの中で時間が過ぎていくだろう。自分は空と一如である空(くう)なる存在であり、絶えず新たなものが自分の奥底の絶対無から生まれてくる。フローニンゲン:2023/12/29(金)10:41
11720. シロシビンが含まれるヒカゲタケ属とシビレタケ属の栽培比較に向けて
時刻は午後4時半に近づいている。今、暮れゆく夕方の美しい空を眺めている。先ほど、年内最後の書籍の受け取りをして来た。ジョギングがてらまずは書籍の受け取り指定先であるいつもの玩具屋に向かい、そこでプリンストン大学出版から出版された量子論の哲学に関する書籍を受け取った。その足でイギリスから届けられた7冊ほどの書籍を受け取りに近所のコピー屋に立ち寄った。これにて2023年の書籍の受け取りは無事に完了である。先日注文した書籍のうち、まだ受け取っていない書籍が数冊あるが、それは2024年の頭に受け取ることになっている。それらの受け取りを楽しみにしながら、年末年始は受け取った書籍の初読を楽しもうと思う。
育てているシロシビン・マッシュルームの“Golden Teacher”の栽培4周目もすこぶる順調である。すでに随分の数の頭を出しており、この様子だとさらに1回分は英雄の服用量ほどの収穫が可能そうである。栽培できるところまで栽培したら、冷蔵庫に保存している全てのマッシュルームを使い切ることをまず行う。それが完了しそうな頃に、今度は別の品種を栽培してみようと思った。今注目しているのは、オランダで販売されている栽培キットの中で最も強力な “Hawaiian”(学名:“Copelandia Cyanescens” あるいは“Panaeolus cyanescens”)と呼ばれるものだ。これは日本語では「アイゾメヒカゲタケ」と呼ばれ、沖縄にも自生している。本マッシュルームはヒカゲタケ属であり、その大半は草食動物の糞に生育するとのことであり、とりわけ牛の糞に生育するという特徴がある。先日、「インテグラル・サイケデリックラジオ」のリスナーの方がタイで摂取したと教えてくれたのはこのヒカゲタケ属に属する何らかのマッシュルームだろう。
どうやらGolden Teacherとは少し育て方が違うようなので、また新たな学びが得られるだろう。前回の品種はシビレタケ属に属し、属も異なる。服用量についてもシビレタケ属の場合は、完全乾燥させたものが5gの場合を「英雄の服用量」と呼ぶが、ヒカゲタケ属の場合はその1/5の1gで「英雄の服用量」と呼ばれる。実際に摂取する場合には、この服用量の違いに注意しなければならない。
愛称として「ハワイアン」という名前が付けられているのは、1800年代のどこかでフィリピンからハワイに牛を輸入した際に、この品種が広くハワイに生息され始めたことに由来するらしい。日本の沖縄には、実はこの「アイゾメヒカゲタケ」だけではなく、シロシビンが含まれるシビレタケ属も結構自生しているらしく、沖縄のシャーマニズムの伝統でもしかしたら活用されて来た歴史が存在しているかもしれない。その辺りにも関心を持ってさらに調査をしてみよう。フローニンゲン:2023/12/29(金)16:33
Comments