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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12760-12764:2024年5月28日(月)




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タイトル一覧

12760. 英語のスピーキング実践における目覚めと形稽古

12761. 形骸化した型に魂を吹き込むこと

12762. 今朝方の夢

12763. 話芸としての英語の発話能力

12764. 漢文を漢文のままに読むこと


12760. 英語のスピーキング実践における目覚めと形稽古 


時刻は午前4時半を迎えた。今朝も随分と気温が低くなっていて、10度を少し超えるほどの気温である。今は雨は降っていないが、どうやら夜に雨が降っていたようで、水たまりが見える。また、今日はここから夕方にかけて雨が断続的に降るようで、結構な雨量となるらしい。午後には雷を伴う雨が降るかも知れないという予報が出ている。幸いにも今日はジムや買い物に出かける予定はなく、完全に自宅で寛ぐ日である。アクティブレストの日として、毎週水曜日は午後に家の掃除をしている。今日はまさにその日であるから、午後にちょっとした運動がてら部屋の掃除をし、心を清らかにしたいと思う。


ここ最近は唯識学の研究と並行して、もっぱら英語のスピーキング能力の向上実践に精を出している。何か突然火がついたかのようにして新たな学習領域や実践領域に乗り出すことはこれまでよくあったが、まさかこのタイミングで英語のスピーキングを見つめ直し、その実践に取り掛かることになるとは思ってもみなかったことである。きっとそれは、近い将来に欧米の大学院に戻り、研究活動に励み、欧米社会で日本の法相唯識学を宣揚するためなのだろう。本当に突如として英語のスピーキング能力をネイティブレベルにすることに本気になり、特定の領域におけるスピーキングに関してはネイティブを超えていこうという意志が芽生えたのである。こうした意志が芽生えたらもうこっちのものであり、それに従って愚直に実践を重ねていけばいいのである。その実践は当然ながら日々の観察と実験を通じた創意工夫に満ちたものであり、決して惰性で機械的なものではない。惰性で行う機械的な鍛錬には成長をもたらさないし、その分野の習得を実現させてはくれない。とりわけ英語のスピーキング能力を鍛えることに関して言えば、そこには言語学や脳神経科学などの分野における科学的な知見が蓄積されているし、単に例文を暗記したり、シャドーイングをしているするだけでは決してその力は伸びていかないのである。そうした科学分野の知見を参考にしながら、特定のコンテクストを想定して自分で例文を作ってそれを何度も発声していく練習をしていくことが発話の基礎体力を形成する。そうした起訴を押さえることは、どんな実践分野でも重要である。マーシャルアーツにおいて型稽古をするように、ピアニストたちが長大な時間をかけて指の動かし方を学ぶように、いずれの分野においても基礎的な型を徹底的に習得して、それを無意識的に発揮できるようにしていく膨大な訓練が必要なのである。逆に言えば、そうした型稽古を徹底させ、型をどんなコンテクストにおいても即興的に発揮できるように鍛錬していけば、いかなる実践分野もかなり高度な次元までその力を高めることができる。英語のスピーキング能力の向上実践もまさにその例に漏れない。中学校から英語を習い始めたとすれば、そこからもう25年間は英語に何かしらの形で触れてきた形となるが、その期間においてスピーキングという技能についての鍛錬をどれだけなおざりにしていたかと反省させられる。しかしその分、リーディングやライティングなどの技能を徹底的に伸ばすことができていたことは確かであるし、自分にはスピーキングの実践に本腰を入れる目覚めが必要だったのである。まさに今回の体験はその目覚めを得たものであり、観心覚夢の体験だったと言えるかも知れない。フローニンゲン:2024/5/29(水)05:00


12761. 形骸化した型に魂を吹き込むこと


時刻は午前5時を迎え、まだこの時間帯は雨が降っておらず、小鳥たちも楽しそうに鳴き声を上げている。この声はきっとコマドリだろう。庭の木々にやって来て好きなように鳴き声を上げている彼らの在り方に心が打たれる。そして、彼らの鳴き声に心が浄化されていくかのようである。


先ほどの日記の中で英語のスピーキング能力の向上実践についてのまた新しい所感を書き綴っていたが、こうして自分が従事するいかなる学習・実践領域について文章を綴っていくことはその分野の取り組みを前に進める上で不可欠であるとつくづく思う。もう手が勝手にそれについて文章を書いているような状態で、それについて書こうと思っていないのにそれについて書いているかのような自動書記状態で文章を書くことも多い。むしろそれがほとんどかも知れない。今現在取り組んでいるものは大きく分けて、英語のスピーキング能力の向上実践、筋力トレーニング、そして唯識学の探究となる。この数年間で取り組む領域は随分と変貌を見せていたが、この3つの領域についてはここから長く探究と実践の歩みを進めていくはずである。というのもいずれの領域も無限の広さと深さを持つからであり、同時にその修養には膨大な時間が掛かるからである。おそらく一生を賭けてもその領域を完全に修め切ることはできないだろう。いずれも身体と知性が関与することではあるが、あえてそれらを切り分けて捉えると、スピーキング能力の向上実践と筋力トレーニングは自分の中では身体的な取り組みに属し、唯識学の探究は知性的な取り組みとなる。そうしたバランスが取れた実践に従事できていることが日々の幸福度を高めていることは間違いない。身体的な取り組みだけでも、知的な取り組みだけでもなく、両者を共に並行して進めていくことが、日々の生活のメリハリと充実度を高めている。


2つの身体的な取り組みに共通して言えるのは、新しい神経回路を構築していくために工夫を凝らした反復練習をしていることだろうか。そこでは単に機械的に反復することをできるだけ避け、それでいて型をしっかりと身につけるために、違う刺激を入れながら、毎回創意工夫を凝らす形で型稽古を行なっている点は共通している。筋力トレーニングというのはまさに型稽古の最たるものであり、ある特定のメニューには正しいフォームというものが存在する。そのフォームに従っていないと筋肉に効かせることができなくなり、成果をもたらさない。一方、そうしたフォームに従いながら、角度や負荷量を調節するという様々な刺激の入れ方が存在し、それが筋肉の発育をもたらす。こうした事柄は形を変えて英語のスピーキング能力の向上実践にも当てはまるし、実は知的な取り組みである唯識学の探究においても当てはまることなのだ。今は英語のスピーキング能力の向上実践に話を限定すると、表現の型というものが存在しており、それは広くは文法構造をさすが、日本の英語教育で習ったような形で文法構造を形骸化させてはならず、それを実際に活きた例文を通じて血を通わせていくという作業が大切になる。今の自分が特に注力しているのはその実践と言えるだろうか。単語に関しても同じである。これまで習得してきた文法や膨大な単語を実際に生きたコンテクストの中で活用できるようになるためのアウトプットの訓練を徹底させている。日本で習った文法教育は決して無駄ではなく、そこではもう会話に必要な項目はほぼ網羅されており、あとはその型に血を通わせて生きた形にしていく作業が必要なのである。逆に言えば、日本の文法教育は死んだ型を学ぶようなものであるから、学習者は意識的にその点を踏まえて、亡骸としての文法構造に魂を吹き込んでいく必要があるのである。今自分が毎日精を出して取り組んでいるのはその作業である。それはとても楽しい実践であるし、喜びを感じられる実践である。これまで膨大に蓄えた構文や単語のインプット項目が、徐々に実際の生きたコンテクストの中で生命感を持って躍動するようになる姿を見れることほど嬉しいことはない。今自分は、英語のスピーキング能力の向上実践を通して、そのような喜びに日々浸っている。フローニンゲン:2024/5/29(水)05:19


12762. 今朝方の夢 


時刻は午前6時を迎えた。今、空にはうっすらとした雨雲が覆っているのが見える。天気予報のように、今日は断続的に雨が降ることになるだろう。起床直後から鳴き声を上げていた小鳥たちも今少し休憩に入っているようだ。彼らが休憩しているこの瞬間に、今朝方の夢についてふと思い出した。


夢の中で私は、モンゴルの国境近くにある町にいた。そこはアジアとヨーロッパが出会う交差点のような町であり、どちらの文化の影響も受けており、アジアにいる感じとヨーロッパにいる感じの2つを味わうことができた。その町はかつて王族のお膝元だったようだ。今でもその名残として、立派な城が残っており、そこは現在観光客向けに開放されていた。私はその町を両親と訪れていて、今から城の中を見学することになっていた。その前に城の広大な敷地内を散歩することにし、東の果てまで歩いていた。するとそこから城の北側に広がる外の世界を眺めたら、そこにまた別の城があった。ベニテングタケを彷彿させ、それをさらに巨大化させた赤いキノコがたくさんその城に付着していた光景は圧巻だった。しばらくその光景を眺めた後に城の中に入ることにした。城の中に入ってみると、中には様々な展示室があり、どれも見応えがあった。どういうわけかある広い展示室には日本の文化が取り上げられていて、舞妓の人形が置かれていただけではなく、実際の生きた舞妓が数人習い事の練習をしていた。彼女たちは10代後半から20歳になるかならないかの年齢で、熱心に習い事に取り組む姿勢には心打たれるものがあった。しばらくその展示室にいると、彼女たちは習い事を終え、昼寝をし始めた。安らかに眠る彼女たちの顔を見ながら、彼女たちのこれからの活躍を祈り、部屋を後にした。そろそろどこかで両親と合流することになるかなと思っていたら、ちょうど両親と遭遇し、そこからは一緒に行動をした。しばらく行動を共にした後、再び各々が見たい展示室を回ることにした。しかし私はすでに全ての展示室を見て回っていたので、ギフトショップに行って今回の企画展のパンフレットを購入しようと思った。ギフトショップは2つあり、両親は入り口付近の小さなギフトショップですでにお土産を購入しているようだった。自分は城の奥にある大きなギフトショップに行って、そこでお土産を吟味しようと思った。いざギフトショップに到着すると、そこには入り口付近のギフトショップにはないもので溢れていた。食べ物や飲み物もコンビニと同じぐらいの品揃えで結構な数売られていたが、特にそれらは必要ではなかったので、企画展のパンフレットを求めることにした。すると目に飛び込んできたのは何種類もの折り畳みの傘だった。新しく折り畳みの傘を購入しようかと思ったが、今使っているものはまだまだ使えると思ったでの傘を購入することはしなかったが、絵柄が素敵な折り畳み傘がいくつもあった。傘売り場を離れると、どうやらこのギフトショップは6階構成になっていることに気づき、今自分がいるのは5階なのだとわかった。どうやら4階が書籍売り場になっているようで、そこでパンフレットを含め、何か面白い書籍があったらそれを購入しようと思った。するとその瞬間に、見慣れない教室に瞬間移動した。黒板の前には日本人の恰幅の良い中年の男性教授が立っていて、最近出版したエッセイ風の論文を黒板に書き写していた。それを見ながらその教授の講義が始まり、どうやら城のギフトショップではその教授とイタリア人の30歳の若い教授が協働出版した論文集が販売されているらしく、それを購入してみようと思った。そのように思わせてくれたのは、その教授の研究分野と講義が興味深かったからである。そのように思った瞬間に再びギフトショップに瞬間移動し、大型書店顔負けの品揃えを誇る書籍売り場でその論文集を求めた。気がつくと、随分と長居していることに気づき、両親を随分と待たせてしまっているように思った。ここから次の目的地である宿泊施設までの移動時間を考えるとそろそろ出発しなければならないと思ったが、自分はまだまだ書籍を吟味したいと思い、両親に先に出発してもらい、自分は近くのホテルに宿泊する形でも良いので書籍をしっかりと選び、必要な文献を購入したいと思った。旅行よりも、これからの自分の研究に活かせる書籍を吟味することの方が自分にとっては大切だったのである。ホテルを急遽予約する形でもいいので、ここに残って納得する書籍をしっかりと購入したいと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/5/29(水)06:22


12763. 話芸としての英語の発話能力


時計の針は午前7時半を迎え、シトシトとした雨が降り始めた。ここから今日はずっと雨が降るようだ。雨が降り始めた朝の世界の中で、今日もまた英語のスピーキング能力の向上実践に取り掛かっていた。最近はこの実践が新たな趣味と化し、同時にそれは自分の天命を全うするための不可欠な実践として捉えている。日々膨大な数の生きた例文に触れていると、それぞれが固有の響きを持つ音楽に見えてくる。そこには固有のメロディーとハーモニーが存在していて、1つ1つの例文が1つの曲として響き始める。今自分はまるで音楽鑑賞を楽しむかのように膨大な数の例文に触れ、それを習得して自分が生きるコンテクストの中で言えるようにしていくことに最大の関心を持っている。ここからは音楽鑑賞を楽しむかのように膨大な数の例文に触れていき、それを全て暗記してしまうぐらいに発話しながら楽しんで口に出していこう。自分の引き出しに音楽としての例文が使える形で格納されていけば行くだけに、自分の発話世界はより豊かになり、自由自在な言語表現が可能になってくるだろう。英語の発音もまた芸術活動としての意味を見出し、自分はこれから言語芸術家として英語のスピーキング能力を極限まで高めていきたいと思う。芸の次元までそれを高めていくことができたら、きっとそこに到達して初めて開かれる真理の世界がまた見えてくるだろう。それは今の自分には見えないが、きっとそうした世界が実在しているであろうという確信がある。また、自分の発話能力がそうした芸術水準まで高められたら、自らの使命である日本法相唯識学の欧米社会での宣揚活動も大きな進展を見せるだろう。


こうして英語のスピーキング能力の向上実践に新たな意味付けがもたらされたことは大変喜ばしい。それは実践への励ましとなり、新たな動機付けをもたらしている。新たな意味付けが新たな動機付けをもたらすのである。意味は活動の燃料なのであり、意味を生み出す心は活動の燃料機関なのである。これからも自分は自らの心を磨き、活動の燃料機関をより逞しく美しいものにしていく。そうすれば、そこから生み出される意味はより逞しく美しいものになっていくであろう。幸福の源泉はやはり心なのだ。心という識が全てを生み出すのである。それは幸福を司る途轍もなく大切なものなのだ。


ここから自分はどれだけ話芸としての英語の発話能力を高めていくことができるだろうか。その本格的な挑戦はまだ幕を開けたばかりである。ここからがそのスタートなのだ。幼児が新たな言語を学ぶのと同じように、何一つ失敗を恐れず、英語を発話していく楽しみの中に溺れたい。楽しみの中に溺れれば溺れるだけ、自然と自らの発話能力は高まりを見せるだろう。これからどれだけ発話能力が高まっても、芸事に終わりはないのと同じく、どこまでも英語による話芸を磨くことに専心したいと思う。そこには喜びと楽しさ、そして幸福が満ち満ちているのだから。フローニンゲン:2024/5/29(水)07:35


12764. 漢文を漢文のままに読むこと


時刻は午前10時半を迎えた。今日も早朝からここまでのところ、朝の探究・実践活動は頗る順調に進んでいる。先ほどいつものように、英語のスピーキング能力の向上実践の息抜きとして、良遍が書き残した鎌倉時代の書き下し文の読解を進めていた。今日から取り掛かり始めたのは『応理大乗伝通要録』と呼ばれる作品である。ここ最近は知らない漢字が減ってきたが、今日は読み方と意味を含めていくつからの新しい漢字と出会うことができた。このように徐々に旧字体の漢字を習得していきながら、新しい漢字に出会えることは喜び以外の何物でもない。新しい漢字と出会えることだけでも喜びなのだが、それを通じて自分の言語世界の視界がまた新たに開かれていくことが喜びなのである。


昨日ふと思ったことをきっかけにして、良遍の訓読文を白文として読むことにした。前々から漢文の語順は英語の語順とほぼ同じであることに気づいていたが、それに明瞭に気づいて以降、わざわざ日本人が日本人の感覚として文章を読みやすくした訓読法などに従わず、ネイティブの感覚そのままに読む方がより意味理解がしやすいと思えたし、長い目で見たらそのような読み方をした方が合理的だと思ったのである。そもそも返り点などを通じて前に戻ることが煩わしく、英語を頭から順に読んで行って決して返り読みしないのと同じく、漢文も頭から順番に読んでいくことにしたのである。今後もこの読みを徹底させていこうと思う。


漢文は古文よりも文法的に英語に近く、それを割り切って漢文は漢文を書いた人の感覚のままに読んでいく。英語の構文解釈と同じく、慣れないうちは白文に対して主語や動詞などを意識して読むようにしていこう。漢文においては主語が切り替わるときは必ず主語を書くのが原則であり、省略されている場合は、前の文に出てきた主語が引き継がれるという原理がある。こうしたことを知っておくだけでも読解が速やかになる。おそらく漢文における文法事項に抜け漏れがあるかと思うので、白文を白文のまま読むために、今一度網羅的かつわかりやすい文法書を購入したいと思う。次回の和書の一括注文の際に日本のアマゾンに漢文読解の書籍を購入することを忘れないようにしておきたい。漢文読解もまた英文読解と同じく1つの技能なのであり、それは修練によってここからいかようにも高めることができるだろう。英語のスピーキング能力と併せて、漢文読解力もさらなる向上を目指したい。それら2つを伸ばしていく実践を兎にも角にも楽しんでいる自分がいることは大変好ましいことである。フローニンゲン:2024/5/29(水)10:38

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