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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12611-12614:2024年5月1日(水)



⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12611. 観察者としての今朝方の夢

12612. 今朝方の夢の続き

12613. 真理に根差して生きること

12614. 真理を見通す眼と智慧/ここまでの抹茶・大豆生活について


12611. 観察者としての今朝方の夢


時刻は午前6時半を迎えた。今、1羽の小鳥が庭側の木に止まって澄み渡る鳴き声を上げている。どうやら今日はキッチン側の木々には小鳥たちは止まっておらず、今のところその1羽だけが鳴き声を上げているようだ。とそのように思ったところでもう1羽庭側の木で鳴き声を始めた別の小鳥がいる。今、2羽の小鳥が奏でる歌声に耳を傾けている。


昨日に引き続き、今日も日中の気温は高くなる。今日は昨日以上で、25度まで気温が上がるようだ。それはフローニンゲンの夏日の気温と言ってもいいぐらいである。夏日の気温と言っても、日本のように蒸し暑さはなく、風はひんやりとして過ごすにはちょうどいいぐらいの気温である。今日もそのような気候の中で自らの取り組みを前に進めたいと思う。

今朝方の夢についていつものように振り返っている。夢の中で私は、夢を観察する者として存在していた。何を観察していたかというと、2人の若い日本人男性が語り合うのを観察していたのである。2人は親友のようであり、片方がもう片方に悩みを打ち明けていた。そこでは真剣に話をし、真剣に話を聞くという空間が醸成されていて、不思議な輝きを放っていた。話も佳境に差し掛かった頃に、話を親身になって聞いていた男性がふと、「僕たちは「神友」だから」と述べた。「神友」という言葉が美しい響きと共に強い言葉の力を放っていた。私たちはそれぞれが神の化身であり、それぞれが結ばれる形で「神友」となるという意味のようだった。その言葉の余韻がずっと自分の中に広がっていて、もう少しそれを味わっておきたいと思っていると、ゆっくりと場面が変わった。


次に覚えている場面として、怪しげな瑜伽師の男性が女性たちを誘惑している場面があった。その男性はインド人のようにも見えるし、日本人と中東系のハーフのようにも見えた。その男性は言葉巧みに女性を誘惑し、自らの怪しげな瑜伽の世界に彼女たちを引き込もうとしていた。実際にすでに何人かの女性が被害に遭っているようであり、それは見過ごせないと思いながらも、自分は夢を観察する者としてそこにいたので何もすることができなかった。そんな自分にできたのは、ただただその瑜伽師が消えてくれることであり、女性が解放されることであった。そのような夢を見ていた。


今朝方の2つの夢は、どちらも共に自分が観察者として存在していたことが興味深い。観察者としての自己が現れる頻度が増えていけばいくだけ、ひょっとしたら夢の中でも第六織を保った状態が実現されるかもしれない。それはチベットのドリームヨーガの実践で実現される状態であるし、明晰夢の状態であるとも言える。唯識学を通じた日々の観法行はひょっとしたら、今着実に夢の中の自分をも変革しようとしているのではないかと思う。そんな実感のある夢だった。フローニンゲン:2024/5/1(水)06:47


12612. 今朝方の夢の続き      


日々の唯識学の研究は着実に進んでいる。唯識学と出会ったばかりの数ヶ月前の自分と今の自分を比較してみると、定着した知識がまるっきり異なるし、研究アイデアの数もまるっきり異なる。そして何よりも、唯識学の知識を通じた日々の観法行の質が飛躍的に高まっているのを実感する。今朝方の夢における観察者としての自分の現れもまたその1つの成果たり得ると言えるだろう。ここからさらに精進をして唯識学の研究と実践に打ち込んでいけば、さらなる自己変革が期待される。そして、変革した自己を通じて利他行に励む自分がますます現れてくるだろう。それを楽しみにしながら、今日もまた今日の自分にできる唯識学の探究と実践に精一杯従事していく。そんな気持ちで一杯である。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、もう1つ覚えている夢がある。その夢の中では観察者ではなく、実際に夢の中にいて活動をしている自分がいた。


夢の中で私は、見慣れない学校の教室にいた。そこは中学校か高校の教室のように思えたが、そこにいる学生はみんな立派な大人だった。しかも社会人経験がそれなりに長い人たちだけがそこにいた。授業は会計の授業のようで、教壇に立っている眼鏡をかけた先生はどこかで見たことのある人のように思えたが、先生が誰だかはすぐに思い出せなかった。先生は授業を進めながら、ある男性を指名して、日本の親会社とアメリカの子会社において会計報告をする際に考えられる困難性について質問をした。指名された人はどうやら会計士のようで、大手会計事務所のマネージャーのようだった。その人にとってみれば、その質問は簡単のように思えたが、先生はその男性に英語で回答することを要求した。するとその男性は口をつむってしまい、言葉がほとんど出てこないようで、とてもたどたどしい英語で一言だけ述べて回答を終えた。すると先生は、その男性の回答に不満のようにで、教室を見渡した。私は会計士ではなかったが、日米両会社における会計報告の困難性についてすぐさまいくつかの考えが浮かんだので、自分を指名してくれればすぐに回答できると思って先生の方を見た。すると先生と目が合い、指名され、立ち上がって自分なりの回答を英語で述べ始めた。私の言葉は澱みなく流れていき、教室にいる生徒全員と先生が自分の言葉に聞き入っていた。自分が答えた内容を日本語にするとありきたりの回答かと思うが、日米の会計期間のズレや勘定科目の多さによる日英の翻訳コスト、さらには国際会計基準の遵守などの3点を主に挙げて具体例を交えながら回答した。先生は自分の英語が想像以上に流暢なものだったので驚いていたし、自分の回答が重要なポイントを突いていたことにも驚いていた。クラスにいた生徒たちもどこか尊敬の眼差しで自分を見つめていた。そうした事柄に対して自分は特に浮かれることもなく、自分の意見を英語で流暢に語れるのが自分のいつもの姿であると思って席に着いた。そのような夢を見ていたのを覚えている。フローニンゲン:2024/5/1(水)07:01


12613. 真理に根差して生きること


気がつけば、今日から5月を迎えていた。時の流れはとても早く、いつの間にか4月が終わり、5月になっていたと気づく。自分にとっては時の進行は重要ではない。時と共に深まっていく事柄が重要なのだ。時そのものは、人間が生み出した有為法である。それは仮構の存在であり、実体のないものである。そんな実体のないものに私たちは右往左往してしまう。時の流れに左右されないようにどっしりと身構える自分がいる。それは真理に根差された構えである。時の流れに身を任せることを超えて、今の自分はもはや真理に身を任せる段階にやって来ている。時は有為法であり、真理は無為法である。真理は、作られる者ではなく、普遍永遠にあり続ける者なのだ。人間が拵えた有為法としての時に人生を左右されたくはない。全てを真理に捧げていくのである。そうすれば、自らを貫く真理の様相がより一層明らかになってくるだろう。それは自らの迷いに光を与え、苦悩から解放することをもたらす。自己が真理を通じて生きれば生きるほど、智慧と慈悲心を持った利他行に従事することができるようになってくるだろう。真理を通じて、真理として生きることの大切さを今ひしひしと感じる。


今日の唯識学の探究もまた『唯識三十頌』の漢訳の音読から始め、良遍の古書に取り掛かる。今現在、『覚夢鈔補闕法門』に取り掛かっている最中で、少しずつ訓読文を読み解いていく楽しみを味わっている。手持ちの仏教全書に収められている良遍の作品を一度全て読み終わったら、再読することをまずは優先させ、そこから奈良時代の善珠と護命の著作物を読み進めていきたいと思う。とりわけこの2人の学僧は、日本の法相唯識学を切り拓いた人物として重要であり、彼らの書き残した書物を時空を超えて読めることが今から楽しみで仕方ない。ここでも焦ることなく、真理に腰を据えながらじっくりと彼らの書物に向き合っていきたいと思う。真理に根差し、真理を通じて生きること。そんな日々をこれからより一層充実した形で過ごしていく。フローニンゲン:2024/5/1(水)07:50


12614. 真理を見通す眼と智慧/ここまでの抹茶・大豆生活について   


時刻はゆっくりと午前10時を迎えようとしている。早朝の時間帯には小雨が降る時間があったが、今は晴れ渡る穏やかな空が広がっていて、小鳥たちも喜びの歌を歌い続けている。

真理を見通す眼と智慧。唯識学において真理とは、識を通じては知覚されないものとして考えられている。それでは、私たちはどのようにして真理を知覚するのだろうか。識ではなく、識が清浄化された智によって真理を知覚するのである。なんと洞察の深い指摘だろうか。まさにそのように思う。唯識学が指摘する真理把握の方法に完全に同意する。私たちが真理を捉えることが難しいのは、智慧を獲得していないからである。智慧の獲得に至るためには、自らの八つの識を清浄化させていく必要がある。私たちは淀んだ識を通じて識を通じてこの世界を生きているのだ。鏡に汚れがあると、対照のありのままの姿を映せないことを考えてみると良い。それと全く同じである。唯識学においては、識を磨く道を示す。しかもそれは徹底的に詳細な形で。緻密詳細に説かれた実践道を着実に歩んでいけば、必ずや識を転じて智慧を得ることができる。そんな確信がある。そんな確信を生んでくれたのもまた、実際にその道を歩み始めて得らてつつある功徳のおかげであろう。真理の果実が今少しずつ眩い光となって自らを照らし始め、自らに養分を与えてくれている。


抹茶生活が始まってしばらく経った。コーヒーを完全に断つことによって離脱症状が出るかと思ったが、頭痛がするようなそれは現れなかった。しかし昨日、腹痛を伴わない消化不良による下痢のような症状が現れた。それは抹茶を飲み始めたことよりも、大豆や黒豆を粉状にしたものを摂取し始めたことに影響しているように思われる。それらを摂取するのを少し控えてみて様子を伺おう。とりわけ大豆に関しては黒豆を粉にしたものに比べると味が劣るので、大豆は日々やって来る小鳥の餌にするか、近所の猫の餌にしようかと思っている。黒豆については筋力トレーニングを終えた日の夕食に、納豆と和えてみることを試してみたい。その味を確認し、また消化の様子を見て今後どうするかを検討する。今後は抹茶に加えて、煎茶の茶葉を買ってきて、それを電動グラインダーで挽いて粉末茶を作ることにしてみた。特に筋力トレーニングの日にはそのお茶を飲むようにしてみる。粉末茶は栄養価が高いだけでなく、香りの広がりが良く、風味が良いのも魅力とのことであり、茶葉の種類はなんでもいいようなので、煎茶のみならず、ほうじ茶や玄米茶などでも試してみたい。飲み物としてだけではなく、納豆に加えて醤油を垂らしてもうまそうである。こうして日々自分の食実践が自分の心の成長と共に変化している様子を興味深く思う。それはとても自発的な変化発展プロセスである。フローニンゲン:2024/5/1(水)10:02

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