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タイトル一覧
12559. 第31回シロシビン・セッション後の翌朝の考え事
12560. 声を発し続けること/今朝方の夢
12561. シンプルな生活に向かって
12562. 唯識学の古書と向き合う生き甲斐/唯識学の教えを通じて生きること
12563. 昨日のシロシビン・セッションで得られた一如の体験について
12564. 昨日の宇宙との一如体験/訓読文への開眼
12565. 幸せに溢れる人々の様子を眺めて
12559. 第31回シロシビン・セッション後の翌朝の考え事
生まれ変わりを遂げた朝。シロシビン・セッションの翌日の朝はいつもそれを感じる。時刻はまもなく午前5時半を迎えるのだが、ちょうど今1羽の小鳥がキッチン側の木にやって来て鳴き声を上げ始めた。辺りは真っ暗で世界はまだ目覚めていないのにも関わらず、こうして小鳥と自分が目覚める形で自己の声を表明している。自分以外の全ての人間が眠っていたとしても、自分はこの眠りの世界からますます覚めていく。観心覚夢の貫徹である。
今の気温は3度と低く、今日は晴れるようだが日中の最高気温も9度までしか上がらない。今夜に関しては0度まで気温が下がる。それはもはや冬の気温である。明日の朝に目覚めた時には0度の気温を感じられるだろう。
昨日のセッションを終えて改めて昨日のセッションを通じて得られたことについて考えている。1つには、細胞1つ1つの声が聞こえるところまで内聴能力を高めたいという思いが芽生えたのを覚えている。細胞1つ1つと対話ができるところまでその能力を高め、彼らの声と音楽に耳を傾ける力を獲得していくこと。それを通じて自分の身体機能をさらに健全なものにしていきたい。彼らの声を聞くためにには静寂さが重要である。そして、言葉を乗り越えていくことが必要だ。思考空間の中に言葉を浮かべてしまうと、彼らの声は聞こえなくなってしまう。昨日のセッションの最中に体験したように、完全に言葉が消え失せて、白板の状態になる頻度を高めていきたい。そうした言葉の手放し体験を積めば積むだけ、自分の五感はさらに目覚め、これまで知覚できなかったことが知覚できるだろう。
それともう1つ、人は誰しもかつての学校教育によって心が傷つけられているという気づきもあった。それは教師の責任というよりも、耐用年数が切れて老朽化した近代学校制度によるものである。そうした形骸化した学校制度によって人は大なり小なり心に傷を負った状態で社会に出ていく。基本的にほぼ全ての人がそうした心の傷に無自覚であり、記憶に蓋をしてしまっている状態であるがゆえに、その傷が日常の中で思わぬ形で顔をもたげて悪き働きをする。それは煩悩や執着を巨大化させる方向で働くこともあれば、他人を傷つける方向に働くこともあるといったように、社会の乱れを生んでいる。こうした心の傷の所在の特定と治癒に向けて唯識学はどのような貢献ができるだろうか。その点についても考えていきたいと思う。フローニンゲン:2024/4/22(月)05:35
12560. 声を発し続けること/今朝方の夢
もう1羽小鳥が増えただろうか。先ほどまで1羽で鳴き声を上げ続けていた小鳥に続く形で、どうやらもう1羽小鳥がやって来たようである。鳴き声を発し続けることの意味。誰も聞いていなかったとしても、後に続く者やその声を受け取ってくれる者の存在を信じて声を発し続けること。その大切さを小鳥たちから教えてもらっているような気がする。自分もまた、この瞬間に誰も聞いていなかったとしても、自らの声がいつか誰かに届くことを信じて声を発し続けていこう。そのような気持ちにさせてくれる。
シロシビン・セッションを終えた夜に次のような夢を見ていた。夢の中で私は、大学1年生の時にサークルで知り合った友人と一緒に見知らぬ町を歩いていた。そこは近代化された町で、見慣れないのだが母校がその町にあったり、自分が生活している学生マンションなどがあった。そんな町を2人で散策していると、昼食時となったので何か食事を購入したいと思った。サラダを食べたいと友人に伝えたところ、今通った道にサラダ専門の大型スーパーがあると教えてくれた。私たちは来た道を少しばかり引き返し、そのスーパーに向かった。緑色の看板を掲げているそのスーパーは、一目でサラダを扱っていることが分かるような作りになっていた。友人の彼は別の店で昼食を購入しようと思っているとのことで、スーパーの前で待っておいてくれるとのことだた。彼をあまり待たせてはいけないと思ったので、早速スーパーの中に入った。すると入り口で、8個入りの納豆が売られていたので早速それを購入することにした。パックに入っておらず、8個が塊として分けられて袋の中に入っている変わった作りの納豆だった。価格がとても良心的だったのでそれを購入することにし、だだっ広いスーパーの奥に入っていくと、なんと突然そこからは母校の研究室棟に繋がっていた。そこは教授たちの研究室がある棟で、階段を登っていくと、ちょうど特別展示を行なっているようだったのでそれを見にいくことにした。その展示は、サンスクリット語の研究に明け暮れたかつての偉大な教授たちを取り上げるもので、仏典研究に関心を持つ自分にとってうってつけの展示だった。展示に目を奪われていると、時があっという間に経ち、なんともう時刻は夕方であった。彼をスーパーの前に立たせたまま3時間半が過ぎてしまったと反省し、ようやく携帯を確認したところ、彼から不在着信やメッセージが届いていた。すぐさまメッセージを送り、彼に謝った。彼は性格が優しいこともあって、私の謝罪をすぐに受け入れてくれた。サラダを購入して大学に行こうとしたところ、今日はこれから地理の授業の試験があることを思い出し、全く対策をしていないと思った。それに対して少し焦りはあったが、今ある知識でなんとか論述問題に回答していけるだろうとたかを括った。試験会場に到着し、学籍番号によって指定された席に座って問題用紙を眺めたところ、大問1つにぶら下がっている少数の問題の全てが先ほど展示会場にあった資料に記載されているものと全く同じで幸運だと思った。それらの問題についてはある程度回答ができるだろうと思ったので、残り2つの大問にぶら下がっている論述問題にどれだけ回答できるかが鍵だと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/4/22(月)05:54
12561. シンプルな生活に向かって
時刻は午前6時半を迎え、早朝に引き続き小鳥たちが清澄な鳴き声を上げている。彼らの鳴き声に支えられながら、今日もまた唯識学の研究に励んでいこうと思う。毎朝の習慣になった『唯識三十頌』の漢文の音読から始まり、そこからはすでに生き甲斐になりつつある鎌倉時代の学僧良遍が残した書物の訓読文の解読をしていく。そこでも音読と共に一言一句味わう形で文章を読み進めていく。自分の探究もようやくシンプルなものになってきた。真理に触れないものを対象とせず、真理から自分を遠ざけていくようなものと触れないようにする形で、自分にとって本当に大事なものだけを焦らずじっくりと向き合っていくことがようやく実現されつつある。シンプルになっていくことについては、まさに昨日のシロシビン・セッションがその大切さを教えてくれたことでもある。そこで得られたシンプルさに関する真理をもとに今日からまた気持ちを新たに探究活動に励んでいこう。
昨日、大豆抹茶を作って飲んでみたのだ、コーヒーミルで煎り大豆を挽くのは少々面倒であり、抹茶は抹茶としての味を純粋に楽しみたいと思ったので、煎り大豆も逆にそのまま食べることにした。先ほど試しに煎り大豆をそのまま食べてみたところ、大して味がなく、そしてとても固かったので、それであればコーヒーミルでやはり挽いて抹茶に加えた方が美味しくいただけるように思った。コーヒーミルで大豆を細かくし、お湯を注ぎ、そこに抹茶を加えることによって大豆のまろやかな味が生まれるということが分かったのである。抹茶は抹茶のまま楽しむということも捨てがたいが、大豆抹茶の味も昨日分かったので、諸々のことを考慮に入れると、今後はやはり大豆抹茶を朝の時間の飲み物にしたい。大豆抹茶を飲むのは朝だけにし、身体の浄化を促し、身体に最も良い飲み物はやはりシンプルに水なのではないかという結論に昨日落ち着いた。朝だけ抹茶を楽しみ、やはり午後からは以前と同様に水だけを飲むようにする。そんなシンプルな生活を送っていきたい。フローニンゲン:2024/4/22(月)06:44
12562. 唯識学の古書と向き合う生き甲斐/唯識学の教えを通じて生きること
小鳥たちの美しい鳴き声に支えられながら、良遍の『唯識般若不異事』の訓読文の一言一句の解読を終え、その調子で今度は『自行思惟』の解読に取り掛かった。毎日この解読実践がとても楽しい。それはもはや読解行とも言っていいぐらいだ。時空を超えて良遍と対話をしている感じが味わえる最良の実践である。誰から何を聞くのかということも真理の到達において非常に重要であり、自分はもう真理に触れていない人の話には耳を傾けず、真理に触れた人の声にだけ虚心坦懐に耳を傾ける。それが正聞薫習の要諦である。『自行思惟』の訓読文の半分に対して一言一句漢字の読みと意味を調べていく作業を続けていると、ここ数日間ですでに見てきた漢字が繰り返し登場し、それらの漢字の意味がもう調べなくても分かるものも出てきた。もちろん一度調べただけでは忘れてしまっているものもあるが、何度も意味を確認しながら同じ漢字に触れていると、自然とその漢字の意味を習得できるだろう。同じ日本語であっても訓読文は外国語だと思って向き合った方がきっと身になるはずだ。同じ日本語だからと言って適当にそれに触れていても読解力は身に付かず、深層的な意味は見えてこない。そのことを肝に銘じながら毎日少しずつこの読解作業を進めていこうと思う。こうして新しい生き甲斐を唯識学研究の中で持てたことは本当に幸運であり、幸せなことである。絶えず感謝の念を持ちながら良遍の書き残した書物と向き合っていきたい。
こうして古文書と向き合ってその解読作業を日々小さく進めていくことは、どこか彫刻に似ている。自分は彫刻師として古書の解読を楽しみながら毎日行なっていこうと思うが、ここで忘れてはならないのは、単なる文献解釈学的な研究に留まってはならないということである。文献解釈学的な研究の重要性は確かにあるが、唯識学は本来極めて実践的なものなのである。それは実践を示唆し、実践を後押しするものなのだ。そうした性質を持つ唯識学を単に字面を追って解釈研究に留まってしまうのは本当に勿体無いことなのだ。自分は必ず唯識学の研究を通じて生きる。すなわち、絶えず実践を指向し、唯識学の研究を即実戦に転化させる形で唯識学を通じて生きていくのである。自分の細胞の1つ1つに、血液の全てに唯識学の教えが流れ込んでいくようにするのである。自らの存在の隅々にまで行き渡った唯識学の教えを体現させる形で自分はこれからも研究と実践の双方を同時並行に進めていく。フローニンゲン:2024/4/22(月)08:28
12563. 昨日のシロシビン・セッションで得られた一如の体験について
物質というのはやはり実有ではないという確信。それを示す体験が昨日のセッションの中にあった。その体験は、「物質の宇宙への折り畳まれ現象」あるいは「物質の宇宙への溶解現象」のような形で昨日のセッションの振り返りで記していたかと思う。唯識学の瑜伽師たちが実践体験を持って示した通り、私たちが日頃触れる物質というのは究極的には実有ではなく、識に映る影像としての仮有としての存在なのである。この点については現代物理学における素粒子の性質についての議論が示しているのと全く同じである。物質は本質的に意識体であるということ。物質の極小単位は決して物質ではなく、意識体であり、それを煎じ詰めると宇宙空間に溶けていくこと。それをありありと知覚させてくれる体験があった。その体験が示唆していることとして、自分の肉体もまた究極的には物質ではなく、意識体であり、宇宙の膜と同一化しているものだということである。これは自分にとって途轍もなく大きな直接体験であった。毎回のシロシビン・セッションからの学びは汲み尽くすことは決してできない。いつも特大級の学びがもたらされることに驚く。宇宙の進化は宇宙の学習なのである。学習する宇宙は、即学習する自己ともつながる。宇宙と自己は上述のように、無始以来一度たりとも分裂したことはないのだから。
そのようなことを考えて再び唯識学の文献読解を進め、再度上記の事柄について考えを巡らせてみると、結局その体験は一如の体験だと言えるであろう。全ては宇宙と常に1つなのである。個物を通じて宇宙へ。個物は無始以来宇宙と常に不可分不離なのだが、人間の認識作用がそれを分離させてしまうだけなのだ。そして私たちは、個物を宇宙から分離させ、実体のあるものだと錯覚してしまう。その夢から覚めることが何よりの悟りである。空というのも詰まるとこの万物宇宙との一如を示すものに他ならないだろう。昨日のあの直接体験は、自分という存在が宇宙と一ミリも離れずに宇宙と一如であることを感じさせてくれる非常に重要な体験であったことを改めてここに記しておきたい。フローニンゲン:2024/4/22(月)10:24
12564. 昨日の宇宙との一如体験/訓読文への開眼
今日は午前中から天気に恵まれ、午後1時半を迎えた今も雲ひとつない青空が顔を覗かせている。気温に関しては9度と低いが、もう少ししたら日光を浴びながらジムに向かおうと思う。シロシビン・セッションを終えた翌日のジムでのトレーニングになるので無理をせず、体の状態と相談しながら負荷量を決めていきたい。とは言え、今日も爽快な汗を流したいという気持ちで一杯である。
なるほど、昨日の宇宙との一如体験は、さらに説明を追加すると、末那識が識に転じた後の平等性智を示唆するものだったのではないかということが見えてくる。平等性智とは、自我の固執から解放され、万物を全て分け隔てなく平等に捉えられる智のことを指すが、まさに全ての個物が宇宙と一如であるがゆえに万物は全て平等なのである。そのことに気づかせてくれるのが昨日の一如体験であった。昨日のその体験では平等性智を体感させてくれるものだったが、万物全てを一挙に見晴らし、それらを全てあるがままに映すような大円鏡智を思わせる体験ではなかった点についても言及しておきたい。こうしてシロシビン・セッションから得られた叡智が体現された体験を1つ1つ唯識学の教えを通じて紐解いていくと、シロシビン・マッシュルームと唯識学の双方に深い感謝の念が醸成されてくる。それらは真理が詰まった宝石箱のような存在である。
午前中に、佐伯定胤氏の『新導成唯識論』を読んでいたのだが、訓読文が染み渡ってくるような感覚があった。それはここ最近毎朝の日課として良遍の古文書を読んでいることによってもたらされた感覚のように思う。こうして『成唯識論』という日本の法相唯識学を理解する上での最重要テキストが訓読文のまま読めることは有り難く、訓読文の読解力が増せば増すだけ、さらに理解が深まり、紐解かれる真理の絶対量が増すであろう。『成唯識論』の英語翻訳である“On realizing there is only the virtual nature of consciousness: An English translation of Xuánzàng's Vijñapti Matratā Siddhi”よりも圧倒的に分かりやすいのが『新導成唯識論』であり、ここからも漢字という象形文字の力を思うし、漢字に慣れ親しんだ日本人であることの恩恵を思う。訓読文への開眼が今起きようとしているという実感。自分の言語阿頼耶識はここから大いに変貌を遂げるだろう。フローニンゲン:2024/4/22(月)13:46
12565. 幸せに溢れる人々の様子を眺めて
時刻は間もなく午後5時を迎える。今、優しい夕日がフローニンゲンの町に降り注いでいる。今日は晴天のおかげもあり、確かに空気はとても冷たかったが、太陽光の温もりを感じることができた。フローニンゲンの冬は長く厳しいが、こうして雲ひとつない空を久しぶりに眺めることができると、冬の長さと厳しさの反動的感動のように思えてくる。置かれた環境が厳しければ厳しいほど、その環境条件とは真逆の景色を眺めた時の感動はひとしおなのだと思う。そのようなことを感じながらジムの往復の散歩を楽しんでいた。途中に横切ったノーダープラントソン公園に行き交う人たちの表情は明るく、皆一様に幸せそうだった。屋外のバスケットコートで汗を流す若者たちや犬の散歩をしている人たちはとても幸せそうだったし、ベンチでマリファナをふかしている男性もまた幸せそうな表情をしていた。こうして街の人々たちの幸せな様子を眺められるほどに幸福なことはない。確かに自分1人で幸福を感じられる時間を過ごすことも至福感があるが、他者が幸せを感じている様子を見て感じる幸せもひとしおである。
ジムに到着すると、受付にエリーザが座っていて驚いた。てっきりまだニューヨークにいるものだと思っていたが、もう帰って来ていたようだった。早速ニューヨーク旅行の土産話を聞かせてもらい、何やら9/11の記念館がとても印象的でぜひ足を運んでみるべきだとお勧めしてくれた。自分がニューヨーク郊外に住んでいた時にはこの記念館に訪れたことはないので、今度ニューヨークに行く機会があればぜひ足を運んでみたいと思う。当分ニューヨークには用事はないが、今日のエリーザの土産話を記憶に留めておき、いつかのニューヨーク訪問の際の参考にしたいと思う。
今日のジムでのトレーニングは、昨日のシロシビン・セッションを受けて負荷量を気持ち抑えたが、最後の有酸素運動はいつも以上に体を動かした。シロシビン・セッションの後は本当に極度な集中状態に入りやすく、有酸素運動のようなリズミカルな運動に従事しているとすぐさまゾーンの状態に入り、気がつけば時間が経っていたという状態になる。そもそもシロシビン・セッション翌日の筋力トレーニングの負荷量を気持ち抑えているのは、セッション中は6時間近く横になるため、筋肉を完全に休めていることと関係している。翌日にすぐさま負荷量を上げてしまうと、筋肉が驚いてしまうことを懸念して負荷量を調節している。有酸素運動に関しては上述のように、高度な集中力のおかげで自然と体がどこまでも動けてしまうという状況になるから不思議である。今日もまた爽快な汗を流し自宅に戻ってきた。今から準備する夕食はさぞかし美味しくいただけるだろう。こうして体を整え、また明日からの唯識学の研究に高い集中力を持って取り組みたい。休息・鍛錬・集中の三位一体が何事においても鍵である。フローニンゲン:2024/4/22(月)17:03
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